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2011年9月 1日 (木)

主題 <主イエスを知ること> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 17章  (2011年8月21日)

今日のみことば「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(3)

 1節に「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。」とあり、17章全体が、天の父なる神に対してイエスが語りかけていく、祈りの章と言えるものとなっています。
 イエスの語られたことばはご自身が神の御心によって、この地に遣わされてきたこと、その目的、そしてとりなしについて語られています。
 イエスはこの地に来られた目的について、「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため」(2)、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(3)と語られました。イエスの来臨こそが、永遠のいのちに至るためであり、イエスを知ることが永遠のいのちに至るために必要であることを示されていました。当時のパリサイ人、律法学者たちは救いを得るために、自らの努力、実践によって得るものと考えていました。そこには、自らの経験や価値観があって、律法を解釈し、実践することに終始していたと言えます。そこに、本当にメシヤ(救い主)を待望する姿勢があったのであろうかと考えさせられます。人が本当に救いを得、永遠のいのちを得るには、それを与えてくださるお方を知らなくてはならないことを今日みことばははっきりと示し、教えてくださっていると思います。
 今日、主イエスを知るということを切に求めてきるでしょうか。どこか主イエスが遠い存在のように思い、イエスを知り求めていくことにあきらめを感じているということはないでしょうか。確かに、今日私たちは天におられるゆえに主イエスを見ることはかなわずにおりますが、実は、主イエスは私たちにそば近くにおられるお方であるということを覚えたいのです。もう一言加えれば、私たちと一緒にいたいと願われておられるお方であるということを銘記したいと思うのです(21、24、26)。そして、今日もみことばに聞き、なお主を知ることができるように祈っていきたいと思います。

主題 <悲しみから喜びへ>

聖書箇所 ヨハネの福音書 16章  (2011年8月20日)
主題 <悲しみから喜びへ>
今日のみことば「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(13)

 イエスは再び、「もう一人の助け主」なる聖霊の働きについて教えられました。聖霊の働きについて教えられる複線に、弟子たちを襲う「悲しみ」について触れられています(6、20、22)。この悲しみは、イエスの十字架の死と復活、昇天によって、この地上をイエスが離れて行かれることによる悲しみであり、そして、イエスの弟子として生きていくという中で、迫害、試練、困難を経験していくということが暗示されていました。イエスが「もう一人の助け主」なる聖霊を遣わしてくださること、その働きによって導かれ生きていくことを教えられるということの中に、その原点に、残された弟子たちを思い、その悲しみを伴う経験からの助け、手だてを残されるところに始まっていることを確認したいと思います。
 もう一人の助け主なる聖霊はこの地上を歩む私たちに以下のことを示され導いて下さいます。
1.    罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさ  
せる(8)
2.    すべての真理に導き入れられる(13)
3.    主の栄光を現わされる(14)
4.    喜びに満たされる(22、24)
5.    平安を保つ(33)
これらの約束は、今日も続く主からの約束であることを覚えたいと思います。私たちは、この地上における歩みで、悲しみを経験するがありますが、この時こそ、その真の意味と神のみこころをお示しくださる聖霊の助けを頂き、導いて頂けるように祈っていきましょう。そして、さまざまな患難の中にも平安を与えてくださる主に信頼して、今日も一歩、前進させて頂きましょう。

主題 <実を結ぶ人生2> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 15章  (2011年8月19日)

今日のみことば「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(4)

 ぶどう園のぶどうの木と農夫のたとえをもって、イエスは再び「実を結ぶ」人生について教えられた。
 イエスは御自身はぶどの木であり、私たちはその枝であると語り、しっかりとぶどうの木なるイエスにつながっていることが、枝である私たちが枝先に実を結ぶために必要であることを教えられました。そして、木であるイエスにつながっていることは、同時にぶどう園を守る農夫なる父なる神のもとにあることも約束されていました。
 ここで、注目したいことは、良い実を結ぶために農夫によって「刈り込み」(2)がなされるということです。今で言う「剪定」のことで、特に果実などの木々は質の良い実をならせるためにある程度、多く茂っている枝、葉を切り落とし、整えて、十分に栄養が行きわたるようにして、良い実をつけることができるようにするために行われます。イエスはこのことを父なる神がなされることとして教えられました。枝、葉を切ることは植物にとって痛みが伴うように、人間にとってみれば、枝、葉を切ることは、しばしば試練という痛みを通して経験することが多いと思います。しかし、一時の痛みでありますが、それはやがて良質の実を結ぶために、大きな祝福が備えられていることを覚えて、試練も主による整えであるということを受け止めていくことができたらと願います。
 そして、枝である私たちはぶどうの木である主イエスにしっかりとつながり続け、木から栄養を十分に受けて成長し、実を結ぶことができること、この奥義をしっかりと覚えていきたいと思います。実を結ぶための栄養分はイエスにあるように、イエスのうちにいのちがあります。そして、その栄養分をしかりと受けていくということは、今日、日々のみことばに聞くと言うことからなるということを覚え、少しずつ主のみことばによって成長させて頂けるように祈りましょう。

主題 <イエスの模範にならって> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 13章  (2011年8月17日)

今日のみことば「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」 (14)

 イエスは過ぎ越しの祭りを前に、自ら給仕するしもべの姿となって、弟子たち一人一人の足を洗われる洗足をしてくださった。師であるイエスが弟子たちの足を洗われたのだから、弟子たちも互いに足を洗い合うべきであると言って、その模範をしめされました(15)。実際に、イエスがその模範を示され行われたということに、今日の私たちは注目しなくてはならない。おそらく、この洗足の場面に至るまでの弟子たちは、良く議論していました。その議論の多くは「だれが一番偉いか」というもので、仕えるどころか、人を従わせようとしてばかりであったことを思わされる。そのような弟子たちの議論、話題をイエスは良く知っておられたのでしょう。かれらの無用な議論をイエスのしもべの姿となって洗足をなされたことは、彼らの議論の余地をなくし、明快に説得していく模範となることを意図されていたと言ってよいでしょう。そして、真のイエスの弟子となるために、人に仕えるということを実践していくことが不可欠であったことも意味していたことが伺えるのです。そして、この洗足の模範は、34節「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」との新しい戒め、弟子としての歩みを示されていました。
 お互いを思いやり、赦し合い、受け入れ合い、へりくだって互いに仕え合うという生き方の重要性を弟子たちは随分後になってから悟っていくことになります。しかし、このように生きていくことが、後の弟子集団、教会が多くの迫害を経験しても、教会が存続していく力となり、宣教の前進となってきたことを思うのです。真の弟子となって生きていくこと、福音を宣教していく働きは、イエスの模範に倣い、従っていくところから始まっていくということを覚えたいと思います。

主題 <実を結ぶ人生1>

聖書箇所 ヨハネの福音書 12章  (2011年8月16日)

今日のみことば「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(24~25)

 イエスは一粒の麦が死に実を結ぶという比喩を用いて、これから御自身が十字架において死に、三日の後によみがえられることを意味して語られたことであったが、直接的に語ったことでなかったため、この時点では多くの人々は理解できなかった。しかし、ここで語られた「実を結ぶ」ということから、この地上にあって「実を結ぶ」人生を歩むために必要なことを示されていたことは大変重要であると考えさせられる。
 一粒の麦が地に蒔かれ、死ぬと新たな芽が出て、やがて実りを見るようになる。この死ぬという比喩を25節では「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」と言って、この地上における「いのち」をどう用いて、生かして生きるかに例えられている。「自分のいのちを愛する」者は、自己中心、自己満足となり、他者への愛と、神への愛をおろそかにし、自分自身のいのちと生活は、価値も喜びも失ってしまい、地上だけで終わる。しかし、地上において自分のいのちを愛することをやめ、自己中心的な生き方を憎んで、「いのち」と生き方を保つなら、主にあって永遠のいのちに至ることを教えてくださっていることを改めて覚えたいと思います。
 自己中心的な生き方から解放され、いかにして生きるかが問われ、これは非常に難しい課題であると思わされる。自分を無くして、他者のために、そして神のために仕えて生きていくという方の実践は、神の栄光を現す生き方に通じていることをより一層、身に染みて教えられていかなくてはならないことを思わされる。そして、今日、自分を無くして、他者のために、神のために仕えて生きていく人を必要としている時代はこれまでなかったのではないでしょうか。今年、日本は大きな震災に経験しました。瓦礫と荒れ地となった多くの地に、やがて実を結ぶために、仕えていくことが求められていることを覚え、実を結ぶ人生にわたしたちもささげて生きていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の栄光を信じて> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 11章  (2011年8月15日)

今日のみことば「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(40)

 ベタニヤに住む兄弟ラザロが病気であるという知らせがイエスのもとに届いた。この時、イエスは、「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(4)と言われた。ラザロの病は神の栄光があらわされる機会となることが暗示されていたことが言われていました。ラザロの二人姉妹マルタとマリヤはこの時点でイエスの言われたことが何を意味しているかわかりませんでした。しばしば私たちにとって不測の事態は神の許しの下にあり、神はご計画を持って、御業をあらわされるということを忘れてはならないと思わされる。
 イエスがベタニアに着いた時には、ラザロは亡くなっていて、すでに四日の日が過ぎていました。姉のマルタはイエスに会い、「主よ。もしここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21)と言っています。そこにはイエスに対する期待と信頼を持っていたことが伺えます。ラザロが死に、墓に葬られて、イエスの到着が遅かったということであきらめの心境にあったマルタに対して、イエスは「あなたの兄弟はよみがえります。」(23)と言われました。マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることは知っています。」(24)と言い、マルタが終わりの日に神の民のよみがえりの信仰をもっていたことが伺われ、しっかりとした信仰を持っていたことが伺えます。そして、「あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」との告白は、素晴らしい告白であったが、イエスが何をなさろうとされているか十分に理解できないでいました。ついに、イエスはラザロを墓から出てくるように命じられ、ラザロはよみがえりました。40節に「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」とあり、すでにラザロが病の時から求められていたことは「信じる」ということであったことが分かります。
神のみこころと御業がなされることを信じる信仰をもって今日も歩んでいきたいと思います。

主題 <わたしは、良い牧者です> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 10章  (2011年8月14日)

今日のみことば「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(11)

 イエスは「わたしは羊の門です。」と言われました。羊は放牧していたところから帰ってきて、門を通り、小屋に向かいます。門を出て放牧地にいるときは場合によっては狼などに襲われる危険があるのですが、一度、戻ってきて門をくぐるということは安全な場所に入り安心する場に入ったこととなります。そこで、イエスはご自身が「羊の門」と言われたのは、そこに安心、救いを与えられるお方であることを意味していました。
 また、「わたしは、良い牧者です。」と言われました。羊飼いは羊をさまざまな危険から守り、時にはいのちをもかけて守られます。羊飼いにとって羊は大切な財産であり、すべてでもあるのです。そして、イエスはご自身がその羊飼いであると言われ、羊はイスラエルの民をさしていました。イエスはイスラエルの民のためにいのちをかけて守られ、救われると言われたのです。
17~18節で言われていることは、イエスの十字架による贖いと復活について触れられて語られていたことが分かります。いのちをかけて守られ救われるとはまさに十字架による贖いと復活によるみわざによってでした。しかし、これらのイエスの語られたことについて、十分に理解することができなかったと言われています(6)
 しかし、良い牧者なる主イエスは、今日、「囲いに属さないほかの羊」つまりは異邦人にも福音をもたらせ救われ導かれるお方であることをも示されていました。主イエスはすでに異邦人である私たちをも導かれようとされていた主のあわれみに感謝したいと思います。
そして、「彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」(16)と言われて、主イエスのみことばに聞き従うという一つの群れが意識されており、それは今日の教会という群れをさしていたことが分かります。ですから、教会という群れの在り方の原則は、牧者なるイエスを知り、主の声に聞き従うということが根底にあることを確認したいと思います。
 羊飼いと羊のように互いを知り見極め深い信頼関係があったように、私たちも主イエスとの交わり、導きを大切にしていきたいと思います。

主題 <神の栄光のために>

聖書箇所 ヨハネの福音書 9章   (2011年8月13日)
主題 <神の栄光のために>
今日のみことば「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(3)

 イエスと弟子たちは生まれつきの盲人と出会ったことにより、一つの質問が出てきます。「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか、この人ですか。その両親ですか。」(2)。障害をもって生まれてきた理由をだれかの罪によるという考え方は、現代の私たちも同様に考える風潮があることを思い、因果応報的考え方が非常に根強いものであることを感じさせられます。誰かに責任を転嫁していくという考え方は非常に悲観的とも言えます。
 イエスは「「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(3)と言われました。この生まれつきの盲人に関して言えば、「神のわざが現れるため」という神の目的、みわざが明らかにされるためであると言われました。イエスとの出会いにより神のわざが現されるという救いのご計画があったことを示されています。
 生まれつきの盲人はイエスの言われる通りに、シロアムの池へ行き目を洗うことによって、目が見えるようになりました(7)。イエスのことばに従って行ったこの盲人はすっかり見えるようになりました。明らかにイエスの奇蹟による癒しを経験したのでした。
 イエスと出会い、イエスのことばに従って行った行為は盲人の目が開かれるということだけでなく、このことを見た人々は非常に驚き、騒動になります。この目が開かれた盲人にしてみれば、人々の騒動の的にされ、困惑していきますが、しかし、これらの経験により、より一層、イエスを救い主と信じるに至りました(36~38)。
 生まれつき盲人として生まれた彼の人生は不運とされるようなレッテルを貼るような見方がありますが、むしろイエスとの出会いにより一変し、より確かな生涯を見出すことになったことは神のあわれみとみわざのほかにはないことを思わされます。今日も主は働かれ、みわざを現されようと導かれるお方であることを覚えたいと思います。今日の絶望的、悲観的な風潮から解放され、神のみわざに期待する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <世の光、いのちの光> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 8章   (2011年8月12日)
主題 <世の光、いのちの光> 
今日のみことば「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」(12)

 イエスはご自身について重大な宣言をされる。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(12)。イエスご自身が世を照らす光であり、いのちの光であると言われた。
8章の前半は姦淫の現場で捕えられた女性が今にも石打ちの刑に処せられようとしている時、イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われ、それを聞いた者たちは一人一人去っていき、だれもいなくなりました。だれも罪に定める者はいなくなり、イエスはもう罪を犯してはなりませんと言ってその女性を去らせたことが記されています。この女性はどうして姦淫の罪を犯したのか。詳しくは記されていない。そこには暗い闇の部分、罪を犯した事実がありました。現代においても、罪を犯し、誰にも照らされることのない闇の部分があることを否定できないのではないでしょうか。
しかし、この姦淫の罪を犯した女性にとってイエスとの出会いはまさに救いでした。石打ちの石を投げる者はありませんでしたが、誰もが罪があるという意識を共通に持つ出来事となりました。主イエスとの出会いは罪がしめされるという痛みが伴うものです。しかし、その罪を赦すという救いが同時にイエスにあって与えられること、この恵みに感謝したいと思います。
この出来事に引き続き、イエスは語られたのです。「わたしが世の光です。・・・いのちの光を持つのです。」イエスにあって、本当の自分を照らされ、罪の悔い改めに導かれ、同時に永遠のいのちの救いを頂く恵みにあずからせてくださる。今日、私たちの光、いのちの光なるお方であるイエスの導きを頂いて歩ませて頂きたいと思います。

主題 <イエスの招きに対して> 

聖書箇所 ヨハネの福音書  7章  (2011年8月11日)

今日のみことば「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」(36~37)

 主イエスは、仮庵の祭りの終わりの日に群衆を前に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言って招かれました。仮庵の祭りの最終日には神殿の祭壇に水を注ぐ習慣があり、おそらくイエスは注がれる水を意識して、「生ける水」について話し出されたと思われる。
 主イエスの招きのことばは実に明快であった。「わたしのもとに来て・・・」、「わたしを信じる者は・・・」と言って、明らかに主イエスのもとに来て信じるように促されていました。この招きに人々の反応はさまざまであったことが記されています。
 ある者は「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」という者。おそらくモーセ、イザヤのような預言者を指して言っていたのかもしれない。
ある者は「この方はキリストだ。」という者。ある者は「まさか、キリストはガリラヤから出ない・・・ベツレヘムの村から出る。」という者。これらは、キリストの来臨を聞き待ち望んでいたことが伺えるが、今、目の前にしているイエスがキリストであるということをはっきりとした確信をもって見ていないことが伺える。それぞれの人々の見解が、憶測を呼び、さらには混乱となって分裂していきました(43)。
さらにパリサイ人たちは一切、イエスの言われることに耳を傾けるのでもなく、イエスの話されていることに群衆は惑わされ、のろわれているとまで言いました(49)。
これほどはっきりとしたイエスの招きのことばに応じていく者が少なかったことは悲しむべきことである。現代においても、主イエスは招き続けておられる。私たちはどのように主の招きに応えるべきか。それは人々の論争で終始してしまうのではなく、一人一人が主イエスの前に行き、心の奥底から満たしてくださる主に出会うことが必要なことをまず覚えたいと思います。