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2012年3月

2012年3月20日 (火)

主題 <新しい天と新しい地>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 21章 (2012年 2月17日)

今日のみことば「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(1)

「また私は、見た」(1)という。
ヨハネは、長い神様の審判の歴史の展開に続いて、ついに新しい天と新しい地を見たのです。この新天新地は、聖なる都と呼ばれ、新しいエルサレムとも表現されているすばらしい世界です。
 第1に、この新天新地は天から下ってくるものです。この新天新地は地上からわき出たもの、人間の生み出したものではありません。神様が設計し、神様が用意された御国です。地上のものでは類推できないほどのものです。
 第2に、古いもの、罪、悪、汚れたものは過ぎ去ったことの宣言です。海(1)は悪の出てくる場という意味でしょう。神は「すべてを新しくする」方です。8節、27節にある罪人は、入ることができない。しかし主への信仰を持つ者は、いっさいの罪と罪過から救われ、御国の民の特権を得ることになります。勝利を得る者とは主イエス・キリストを神の子と信じる人です。
 第3に、永遠に神の幕屋が人とともにあり、神が人とともに住み、主を信じる者は神による豊かな慰めを受けつつ、至福の中に生きるのです。悲しみ、苦しみ、涙がない御国である。
 すばらしい神のつくられた天国への希望を、いつも見続けていたい。
<祈り>主よ。いつも御国をのぞみ見て、歩ませてください。

主題 <千年王国と悪魔の滅び>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 20章(2012年 2月16日)

今日のみことば「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(6)

千年王国の預言が記されている。この期間、サタンは底しれぬ所に閉じこめられ、 封印されてしまい、人々を惑わすことができません。
 この千年の間は、殉教した人々や群像を拝まなかった人々、サタンの刻印を押されなかった人々が生き返るのです。この人々は、13:16~17にある、サタンに従って経済的な特権を手にして貪った人々と違って、おわりまで忠実に耐え忍んだ人々(2:10)であって、命の冠をいただいた人々です。
 この第1の復活にあずかることのできる者は幸いな人(16)で、もはや第2の死は何の力も持っていないのです。
 千年王国後の一時期、サタンは解放され、最後の戦いにおもむき、ついに火の池に投げ込まれます。サタンはにせ預言者とともに、永遠に昼も夜も苦しみを受けることになります。
 また、死んだ人々が神のみ座に立ち、一人一人の行いに応じた裁きがなされます。地上において行ったすべての行為が、数々の書物に記録されています。
 やがての日に、恥ずかしい多くの罪と失敗が明るみに出されます。
 しかし、子羊の命の書に名の記された者は、このときに第2の死から救われます。永遠の御国に安息するのです。
<祈り>主よ。戦いの多いこの世に、あなたへの信仰によって勝利させてください。

主題 <子羊の宴会に招かれた者は幸い> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録 19章(2012年 2月15日)

今日のみことば「御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。」(9)

人間は、正しいよい人間関係を持つことによって幸福になり、悪い者との関係によって破滅に向かっていくのです。結婚による祝福された幸せに反して、悪い交わりが大きな恥をもたらすことをも見るのです。
 天にある御国に召された兄弟たちの大群衆の賛美は、ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わるすばらしいものです。
 その賛美の中に、神への賛美と悪魔とその手下たちへの報復をアーメン(正しい)と告白しています。この地上のきわまった悪は、人間が裁くことではありません(ローマ12:19「報復はわたしのすること」)。けれども必ず神は生きておられ、正しい審判が行われることを、今覚えましょう。
 一方、主キリストと主を信じた弟子との関係は、花婿と花嫁のようにすばらしい幸福な結婚生活に当てはめられています。すばらしい純白な装いをもって、子羊なるキリストの前に立つのです。
 終末の悲劇の裁きに目を奪われがちな私たちに、最も聖なる婚宴への招きを見ることは、大きな慰めであり、驚きです。
 エペソ書5章の夫と妻の結婚がキリストと教会の姿です。地上の夫婦は、いつもこうして天の御国をモデルにしながら、幸いな歩みをすることができます。
<祈り>主よ。御国の婚礼に向けて、清められた歩みをさせてください。

主題 <わが民よ。この女から離れなさい> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録 18章 (2012年 2月14日)

今日のみことば「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」(4)
天からの声が聞こえますか(4節)。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」という天の声です。朝日新聞の一面に「天声人語」という欄がありますが、本当の天声は聖書にあります。天の声とは、私たちの幸いのためのメッセージです。
 「わが民よ。」と呼びかけられている私たちは、神に選ばれ愛されていることをよく啓示しています。聖書を朗読し、心に留める人は幸い(1:3)なのは、神から受け入れられており、決して見捨てられないことを知っているからです。 「わが民よ。」「私の愛するものよ、さあ顔を見せておくれ、声を聞かせておくれ」と語りかけます(雅歌2章)。
 「この女から離れなさい」という。この女は魅力的な存在です。ありとあらゆる快楽があり、しかも豊富な資金力によって金持ちになれるのです。
 快楽と富という2つの魔力によって、どんなに多くの人は人生を台無しにし、一番大切な愛を忘れたり、悪を行うことを正当化したりします。
 罪のそうくつのようなバビロン、それは大きな魅力あふれた都市でした。そこには音楽が、芸術があり、あらゆる技術があり、収穫物をこなす臼がありました。このバビロンはいったい何をさすのでしょう。実際にあった都市というよりも罪に誘うこの世のことでしょう。
 主イエス様も公の奉仕に立たれるときに、荒野でサタンの攻撃を受けました。サタンはこの世の栄華を見せて、私を拝めば全部あげようとうそぶくのです。それは夢、幻にすぎません(マタイ4:9)。
 日本も世界一繁栄した国になったと錯覚した瞬間に、大不況になり、うめいております。資金の増加や株の収益は、あぶく銭だったのです。バブルがはじけた銀行も企業も、そして国民もみな空しさを今、味わっております。
 「金銭を愛することがすべての悪の根である」(Ⅰテモテ6:6~10)。「しかし神の人よ。あなたはこれらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」(同6:11)とすすめられている。すべての国々の民がトリックにだまされている時に、私たちは目をさまし、聖書に生き、恵みによって生きよう。

主題 <宗教的権力の堕落> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録 17章(2012年 2月13日)

今日のみことば「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」(1)
「ここに来なさい。裁きを見せましょう。」(1)とある。主は私たちに大切な終末と神の裁判を啓示されて、今を正しく生きるように導いてくださいます。
大淫婦とある女は、宗教的堕落をした象徴とされます。宗教が地の王たちと不品行を行うとは、政治と絡んでこの世の政治を操り、権益を得ようとすることです。外面的な飾り、形をこれみよがしに見せつけます。
それはキリスト教会の歴史にも見られるものであり、中世の暗黒時代、ローマ皇帝の支配権を得ています。また今日も大組織をもって人々をブドウ酒で酔わせてしまう。終末の大混乱はこうした形で人々の心を蝕んでいくのです。
獣については、緋色のどぎつい派手な色調であり、血に飢え、貧欲な、飽くことをしらない怪物です。この獣について昔いたが今いない、やがて底知れぬ地から上ってくるといいます。これが当時暴君ネロが死んだ後にネロの再来が現れる意味でもあります。しかし、こうした激しい迫害の中でこそ、キリスト教は破竹の勢いで成長したのです。
偽宗教団体が滅び行く姿を見るに、聖書の成就を見て驚くほどです。
第1に、獣は子羊と戦うが勝てない(14)。子羊は王の王、主の主ですから迫害のただ中でも決して悲鳴を上げなくてよいのです。 キリストに頼りきるときに、どんな苦しみも一時的なものにすぎなくなってくる。彼と 共にいるものは召された選ばれた忠実なものであるという。召されたもの、すなわち教会こそ最後的な勝利を収めるのです。
第2に、獣は淫婦を滅ぼしてしまう(16)。淫婦、すなわち宗教的に堕落した集団は、政治的な力を持って世界を支配しようとするが、結局目的に届かず滅ぼされるのです。彼等二組は真の結婚ではなく、不品行、すなわち利害が一致しなくなると互いにかみ合い、殺し合うようになる。悪魔は巧妙に人々をだまし、結局人々を滅ぼしていく。
第3に、神のみことばの成就までの間、悪のあがく働きが許されている(17)。神のみ心の中にある預言ことごとく成就するまでの間、クリスチャンが多くの試練に直 面するときです。今忍耐を働かせて、神のみ心の時まで祈り、教会生活を全うしよう。

主題 <7つの鉢によるさばき>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 16章 (2012年 2月12日)

今日のみことば「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」」 (1)

聖所から出た7人の御使いは、各々7回にわたって裁きを行うように遣わされたのです。地上に悪が満ちたときに、神はノアの時のように全地球的な審判をすべてのところで行われるのです。
 第1の鉢………悪性の腫物(1)
 第2の鉢………血の海(3)
 第3の鉢………水の異変(4~7)
 第4の鉢………太陽の異変(8~9)
  第5の鉢………暗黒の苦痛(10~11)
  第6の鉢………悪霊の働き(12~16)
 第7の鉢………地震の災害(17~21)
人間の手から1つ1つ大切なものを奪い取ってしまう災害があることを、神のメッセージとして、また預言者のことばとして明らかにしています。
 大きいというメガスという語が11回も出てきます。大規模な裁きには人は耐えられません。それゆえに何の不安もない気持ちで、物質や力に頼ろうとするが、私たちは弱さを持つ土器であることを覚えて、主に一層より頼むようにしたいものです。

<祈り>主よ。弱いものです。あなたの力で私を日々支えてください。

主題<天にもう一つの巨大なしるし>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 15章(2012年 2月11日)

今日のみことば「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。」(1)

 ヨハネは、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見ました。これから始まる最終的な災害が地上に下る七つのさばきの具体的なものは16章にでてきます。この災害は「ここにきわまる」とある徹底的なものです。
 ところが、このような中でヨハネが見た光景には、悪にうち勝った人々のすばらしい姿でした。大きな患難の中にも勝利した人々は、自分の力が優れ、かんばったからではありませんでした。神のみ技は偉大で、すべてを支配し、その道は真実であると賛美しているのです。時代がさばきを前にする中で、救われた者たちの賛美は一層高く響き、礼拝は研ぎ澄まされていきます。今という時に、時を知る者らしく、私たちの目を天に上げ、天にてなされ、用意されつつあるこうした群れに目を留めましょう。決して紙に描いたものではなく、現実なのです。神に信頼して生きる私たちは、栄光を神にのみ帰する生き方を、天国にいってからではなく、今なし得るのです。神のみが正しく、さばきを行えることを告白していきましょう。
 もう一つのしるしとして「天にあるあかしの幕屋の聖所」を見ています。聖所は神の居ますところ(出エジプト40:34~38)であり、神の栄光に満ち、栄光の雲が覆っている。ところがこの聖所より、7人の御使いが神の怒りの鉢をたずさえて、この地への裁きを行うべく備えています。神の聖と人の汚れが対立し、永遠に生きている聖なる神が全地を正しく裁かれる。また聖所は祈りがささげられ場でもある。
<祈り>主よ。一日もはやく御国が来ますように。

主題 <かまを入れる時>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 14章 (2012年 2月10日)

今日のみことば「すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」」(15)
 子羊なるキリストがシオンの山に立ち(1)、御座の前で(3)賛美する144000人の人々は、地上で起こる出来事のようであり、天国で起こる情景のようです。地上で神をほめたたえ、天上でほめたたえる聖徒たちの大合唱が一つにされているようでもあります。
 この人々は、神と子羊にささげられる初穂である(4)。贖われた人でしか歌うことができない新しい歌なのです。イエス・キリストの十字架の贖いが私たちに希望と愛を生み出しました。愛されたものだけが歌えるのです。
 主にあるこの幸いについて、13節では死を迎えるときでも平安があり、おびただしい苦しみからの解放が与えられると述べているのです。目立たぬ小さな信仰のようですが、主を信じたものが受けている命は限りない力をもたらすのです。大きな苦難の最中にもかかわらず、神の教えを心から愛して守り抜き、主イエス様への信頼を最後まで持ち続ける忍耐が生まれていたのです。
神のさばきにあたって、人の子すなわち主イエス様が大きな役割を果たします。白い雲に乗ってこられる方は、かつて二千年前、人々の見ている前で昇天したように、再びこられるのです。(使徒1:9)主の頭に金の冠をかぶっているのは、いばらの冠に変わって栄光のものに変わっており、手には葦の杖ではなく、さばきのかまをもっているのです。15節の「もう一人のみ使い」とはよくわかりませんが、「地にかまを入れてください。取り入れるときが来ました。」と叫んでいたといいます。この地の「時」を見つめているみ使いがいることを改めて気づかされます。時の中に私たちは生かされており、今がどのような時かわきまえているつもりです。でも、この世界の動向を正しく認識しているお方がおられることを覚えて、今を動揺せずに、大切に生きましょう。社会が動揺する中に、「動かぬ御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。」(ヘブル12:28)。天の神は焼き尽くす火でもあります。やがて、この地の罪と悪の熟した収穫物であるブドウの房が神様のさばきの火に加えられて、神の怒りを執行される日が来ようとしています。神の正しさは人の怒りに遠く及ばない真実なさばきなのです。未来の神の審判の時が必ずくることを予想しつつ、矛盾した今の時を正しく生きる一日としましょう。

主題 <その数は人間をさしている>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 13章(2012年 2月 9日)

今日のみことば「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」(18)

恐ろしい宗教的、政治的存在が壊滅的な打撃を受けた。にもかかわらず、立ち直った反キリストのトップであるサタンに深く関わる獣がいた。獣であり、666という数字で表される人間のことである。
  この悪魔の手先となって働く人間は、人々の前で奇蹟を行い、地上にいる人々に偶像を拝ませることを強制する。サタンの働きを代理して執行し、火を降らせるしるしをもって獣の像を拝ませ、拝まぬ者たちを迫害し、殺していく。この恐怖から逃れる悪の名の刻印を、手か額に受けさせたのです。しかもこの刻印のない者には者を買うことのできない経済システムを築き上げたのです。
 「ここに知恵がある」(18)とはサタンやその手下たちの巧妙な手段、説得、横暴な働きがあることを感じさせます。彼らの論理や知恵は、祝福のためではなく、自己正当化、地からわき出したもの、肉的な者、悪霊に属するもの(ヤコブ3:15)です。
 「ここに知恵がある。」一方では、主の弟子の中にある上からの知恵(ヤコブ3:17~18)は純真であり、平和、寛容などの良い実に満ち、悪の働く力を見抜くことができるのです。多くの人々がしるしに惑わされて悪のグループに荷担するときに、主に従う堅い決意をしなくては敗北してしまいます。「人間をさしている」ことを覚えて目を開いてきょうも歩もう。

<祈り>主よ。時代の嵐の中に動かぬ心理を悟らせてください。

主題 <> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録 12章(2012年 2月 8日)

今日のみことば「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」(7~8)

天上に展開される激しい戦いです。それは、サタンが滅亡する壮絶な戦いであり、結局は神と主イエス・キリストに勝つことが出来ない。
 10―12節には二つの生き方がはっきりと浮き彫りになります。第一にサタンの働きです。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」(10)サタンは日夜私たちを非難し続け、告発するのです。人間の弱さにつけ込み、訴え、倒そうとします。ヨブを訴え苦難を強いたサタンを想起させます。
第二にクリスチャンの働きです。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」激しい戦いに勝利する力は、主の十字架の血潮であり、主をあかしすることばでした。キリスト教の殉教の信仰なのです。その結果が12節に記されている。
困難な戦いが、3年半という7年の半分の不完全な時間として終結してゆく。サタンのどれほど激しい迫害や怒りも終わりの時が来ます。
 彼ら悪の存在は聖徒をいっそう形造る役割を果たしたに過ぎないのです。