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2012年3月

2012年3月20日 (火)

主題 <祭壇を築いて>

聖書箇所 創世記 8章      (2012年 2月27日)

今日のみことば「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」(20)

 洪水が始まったのはノアが六百歳の時で(創世記7:6)、地上がかわき始めたのがノアが六百一歳(創世記8:13)となっていたとあり、おおよそ1年もの間、洪水が続き、ノアの家族は箱舟の中に留まっていたことが分かる。1年もの間、洪水の恐ろしさをまざまざと見させられ、この先どのようになるか不安を感じていたかもしれない。
 箱舟にて過ごした1年はノアの家族にとって必要な時でもあったように思わされる。この地上が洪水によってさばかれなくてはならなくなるほどに地上は悪に満ちていたこと。そして、ノアの家族が箱舟によって助かったということは、今後、ノアの家族が、この地上を生きていかなくてはならないこと。さまざまなことを思いめぐらし、より一層、神がすべてをご支配されておられるお方であることを知らされていく機会となったと思うのです。
 神の主権、ご支配を覚えたノアの家族は箱舟から出て、地上に立った時、まず初めに何をしたのか。それは「主のために祭壇を築き、・・・全焼のいけにえをささげた。」(20)ことでした。ノアは神の御業を見させられ、神の主権を覚えさせられた時、人がまず何をすべきかを教えてくれている。それは、これまでの歩みに感謝し、罪を悔い改め、新たに与えられる歩みを神にあって歩む、献身の生涯としてスタートしていくことであったということが分かります。
 このノアの姿勢は、今日の私たちも同様に問われているのではないでしょうか。この地上に生かされていることを覚え、神の前に赦されて与えられている歩みを神に感謝し、神を第一として歩む者とならせて頂きたいと願います。

主題 <ノアの家族の救い>

聖書箇所 創世記 7章      (2012年 2月26日)

今日のみことば「こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」 (23)

 いよいよノアは箱舟を完成し、箱舟に入るように命じられた。箱舟にノアの家族をはじめ、あらゆる動物たちが箱舟に入って7日が過ぎ、40日間雨が降り続き、いよいよ地に洪水がおこった。時間を追うごとに、またたくまに地上は水で覆われて言ったことが記されている。そして、動物たちをはじめ、他の人間もみな死に絶えた(21)と記され、確かにすべてのものを一掃されるように死に絶えていったという恐ろしい様が描かれている。
 大洪水の中で、「ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」 (23) とあり、7章の中で「消し去る」(4)、「死に絶えた」(21)、「死んだ」(22)などのことばが数多く出てくる中で、箱舟にいたものたちが「残った」(23)とあることばは、意図的に非常に強調して語られているととることができる。
 神はノアに箱舟の建造を命じられた時に、ノアと契約を結ばれていた(6:18)。この神とノアとの契約の故に、これ以降、ノアの家族は生かされていく。箱舟は多くのものを消し去られる中で、唯一の救いとなった。
 このノアの箱舟の出来事は、神の救いの御業の一端を象徴的に示している。それは、神の契約のうちに、神の方法で、唯一の救いの手段として与えられ、明確な救いであったことを示している。それは、今日、主イエス・キリストによる神のみこころのうちに、唯一の救い主として来られたお方による救いを予表していたと言える。
 神の救いの契約に入れられている恵みを深く感謝しよう。

主題<ノアの箱舟>

聖書箇所 創世記 6章      (2012年 2月25日)

今日のみことば「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」(22)

 6章からはノアの歴史が記されている。このノアの歴史が記される前に、1~7節までに、地上の悪が増大し、神は悔やまれ、この地上のすべての生き物を、それは人間を含めて消し去ろうと決断されたことが記されている。かつて、アダム、エバ、カインと罪を犯した者たちに対して、神は彼らを生かされ、大きな憐れみのうちに守ってもいてくださったが、しかし、人間は罪を繰り返し続けてきたという現実を前に、この地上のものを一掃されることを決断される。
 そこで、8節以降に記されているノアの歴史は興味深いものがある。神は地上のすべてを一掃されようと決断されながら、しかし、ノアに目を留められ、神は「ノアは神とともに歩んだ」(9)と言われ、ノアの家族を守られようとされることが記されている。改めて、ここでも神のあわれみは尽きないことを感じさせられる。
 神はノアに対して箱舟の建造を命じられる。非常におおきな建造物となる箱舟を建造することは簡単なことではなかったであろう。しかし、「ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」(22)とあるように、忠実に実行していった。
 ノアの箱舟の建造から教えられることは、地上に悪が増大し、つまりは神を恐れることさえなくなっている地上の人々の中にあって、ノアは神のみこころに従い、忠実に生きようとしている点にある。そして、ノアにとっては大事業と共に、それは危機から脱出という緊迫感のあるものだったと言える。この状況にあって、「神とともに歩む」ことを全うしようとしたノアの信仰に私たちもならう者とさせて頂きたいと思います。

主題 <神と共に歩んだエノク>

聖書箇所 創世記 5章      (2012年 2月24日)

今日のみことば「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。」(22)

 5章はアダムの系譜が記されている。5章6節「セツ」の名があり、アダムから生まれたセツの系譜を通して、神の御業は進められていくことが記されている。
 このセツの系譜は単純な名前の羅列、どれほど生きたかと言う遍歴をたどっているが、唯一、エノクのみが一言加えて語られている。それは「メトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ」(22)ということばである。そして、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(24)ともあり、聖書の中で、地上の死を見ることなく、天にあげられていった人として、エノク、エリヤといるが、数少ない死を見ずして天にあげられた人として紹介されている。
 注目したいことは、第一に、三百年、神と共に歩んだということは、その半生を神との深い交わりの中に生きた人であったということw示している点である。そして、それは地上の生涯の最後の時まで続き、ついに神によって彼はとられ天へとあげられたということは何と幸いな人生だったのではないかと思う。
 第二、神はエノクが神と共に歩んだと言われているように、神の関心事は、神と共にあるかということが分かる。アダムとエバは神の御前から身を隠した時から、神から離れていく人間に対して、しかし、神の御前に求めて生きていくいかということに深く関心が向けられていると言えよう。
 第三に、神は共に歩むという人間の人生に同行されるように、歩んでくださるお方であるということも暗に言っているということに気付きたい。神は、今も、私たちの人生の同行者となってくださり、導いてくださるお方であることを覚えたいと思います。

主題 <人類最初の殺人> 

聖書箇所 創世記 4章      (2012年 2月23日)

今日のみことば「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」(5)

 アダムとエバとの間に2人の息子カインとアベルが与えられた。兄カインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者となった。ある時、それぞれが神へのささげものを持ってやってきたが、アベルは羊の初子の中から「最上のもの」をささげた。神はアベルのささげものに目を留められた。神はささげものが「最上のもの」であったという以上に、最上のものをささげようと感謝をもって主の御前にやって来たアベルに目を留められた。
 一方、兄カインは「ひどく怒り、顔を伏せた。」(5)とあり、非常に不愉快に思い、神に怒りを燃やしている。自分にとって不都合な結果を怒りに変えて、ついには理不尽な肉親である弟を殺してしまうという人類最初の殺人へと発展してしまった。さらに恐ろしいことは、カインは自分の犯した罪をしらを切って悔い改めることをしなかったという一面は、今日の人間のうちにも見る恐ろしさを感じさせられる。
 しかし、罪を指摘されたカインは慌てて主の守りを求めていく(13~14)。そのようなカインに対して、神はエデンの東に住まわせられるようにされた。私は、聖書を何度読んでもこの箇所を読むたびに、神のあわれみの深さを感じさせられる。
 「神のかかち」の崩壊してしまっている人間は、その人間関係を歪め、人を傷つけていく恐ろしさを持っていることを証明している出来事だったと言える。しかし、そのような人間の罪の現実に際しても神のあわれみは尽きていない。そして、後に、この罪の解決のために御子イエスを遣わして下さり、解決を与えて下さった福音のすばらしさを一層感謝する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <罪に堕ちた人間> 

聖書箇所 創世記 3章      (2012年 2月22日)

今日のみことば「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(8)

3章では、人間(女)が蛇(サタン)の巧みな問答による会話の中で罪を犯していく姿が描かれている。
特に、エバが蛇(サタン)に「神のようになる」(5)とのことばは非常に魅力的な誘惑となったことが良く分かる。主イエスも公生涯に入られる前に40日間荒野における誘惑を受けられたが、その時もサタンはことば巧みに魅力的なこと事を見せては誘惑してきた。時代を越えて、サタンは人間の深みの欲望を引き出すようなささやき声をもって語ってくることに注意しなくてはならない。
エバとアダムは罪を犯した結果は、一言で言えば「神のかたち」の崩壊であったということが出来る。
第一に、神との交わりの断絶であった(8)。本来、神のかたちに似せて造られた人間は神との交わりを持つ存在として創造されたはずであったが、神に背を向けていくようになってしまった。
第二に、人間関係の崩壊である(12)。エバとアダムとの間に、罪を犯させた責任のなすり合いをしていく姿に見られるように、責任転嫁、自らの正当性の主張は自己保身ということだけでなく、決定的な独善的な人間関係の崩壊となってしまった。
第三に、被造世界との関係の崩壊である(17)。土地はのろわれ、人にとって働くことは苦役となり、ついには地のちりに帰るという死ななくてはならなくなってしまった。
人間が罪を犯し堕落してしまったこの恐ろしさを自覚しなくてはならない。私たちのうちにある罪の現実を自覚しているだろうか。

主題 <人の創造> 

聖書箇所 創世記 2章      (2012年 2月21日)

今日のみことば「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(7)

 創世記2章では、人間の創造に焦点が向けられている。天地万物の創造の御業は人間の創造でクライマックスを迎えるように書き記され、神の視点はたった一人の人間の創造に向けられているように、今も一人の人間、魂に深く関心を表わされるお方であることを思い起こさせてくださるよううである。
 神の創造の御業において、人間の創造は特別であった。1章27節「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とあったように、人間だけが神のかたちに似せられて造られたという点で他の被造物とはまるで違う特別な存在として創造されている。
 その人間の創造について、さらに2章7節「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」と言われ、「いのちの息」が吹き込まれて生きる者となったと言われている。この「息」という言葉は、聖書の他の箇所では「霊」と訳されている。つまり、人間はこの息(霊)を持つ存在であり、これは主である神に起因していることを明確に語られている。そういう意味では他の被造物に比べて人間は神にあって生きる存在であると言うことが出来るであろう。
 神は人間にこの被造世界を治めていくように命じられ、これを行う者として創造された(1:28)はずが、いつしか人間自らが神のように命令の主体となって、人間の思うがままの支配権を行使するようになり、現代はその極みに達してしまった時代にあるとも言えるだろう。
 改めて、本来の人間の創造のすばらしさとその尊い使命を確認していかなくてはならない。生きる者とされたことも目的を改めてみことばから確認したいと思います。

主題 <神の創造の御業> 

聖書箇所 創世記 1章      (2012年 2月20日)

今日のみことば「そのとき、神が、「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神は、この光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(3~4)

 創世記1章は天地万物の創造の御業が語られている。すべての創造の御業は神のことばにはじまっている。この神の創造について以下の事を覚えたい。
 第一に、神のことばの力である。神の一声によって万物は創造された。この神のみことばは、今、聖書として書き記され、私たちはまさに、神のみことばに触れさせて頂いているということは何にも増して驚くべきことであるということを確認したい。
 第二に、神は光を創造され、やみに区別を与えられたということである。神の創造のはじめが「光」であったということは、非常に象徴的である。「光」について言えば、ヨハネ8章12節「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」とあり、新約聖書では「光」は主イエスを指しており、ヨハネ1章5節「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」とも言われ、やみを一掃される光のように主イエスが輝き、勝利を与えられる方として言われていることを考える時、神の創造のはじめはあらゆることに対する神の支配、そして、神の導きの中に被造物はあるということを覚えなくてはならない。
 現代社会に生きる私たちは、この世のやみを見て恐ろしさを覚えることがあるが、しかし、光を備えられたという事実を覚え、神の導きに希望をおく者とさせて頂きたい。そして、詩篇119篇105節「あなたのみことばは、わたしの足のともしび、私の道の光です。」との告白のように、主のみことばの導きを求めていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <預言のことばを封じない>

聖書箇所ヨハネの黙示録22章6~21節(2012年 2月19日)

今日のみことば「また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」 (10)

神のご計画とその成就のすべてが、全聖書に啓示されています。ことに黙示録は「すぐに起こるべきこと」が示され、「見よ。わたしはすぐに来る。」(6~7)ことが予告されているのです。神のなさることは、時として人間には不可解のように思われます。ですから聖書もわかりにくい書であります。
 だからといって、人々の気に入るように作りかえて、その時代時代に変更していたなら、きっと聖書は今頃存在していなかったに違いない。時代は気ままに動きます。その時代に生きる、人間が動きやすい、振り回されやすいものだからです。
 しかし神のことばは不動であり、碑に刻まれた文字のように立ち続けます。時代にそぐわぬようにみえた神のことばがある日、光を放ち、輝きはじめ、語り出すのです。天と地が崩れ去る日が来たときも、神のことばは生きており、一点一画も落ちない。
 この聖書に付け加えても、削除してもいけない。それは神のみ業に対して人間が付け加えることであり、人の知恵が神の働きを制限することだからです。
 聖書の預言のことばを封じてはいけない(10)のです。まだ今開かれるときでないと勝手に判断して、神の時を人が決められると高ぶる人を神は嫌われます。ことに、「時が近づいているからである」(10)。人々の悪さは甚だしくなり、良い人は一層清くなっている今の時を、私たちはしっかり見据えて生きよう。
<祈り>主よ。終わりの時が近づいています。みことばを大切に生きられるように。

主題<もはや夜がない> 

聖書箇所ヨハネの黙示録22章1~5節(2012年 2月18日)

今日のみことば「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(5)

 夜、それは暗黒と不安と孤独の象徴でしょう。新しい御国は「もはや夜がない」のです。
 御使いはヨハネにすばらしい新天新地を見せました。ヨハネは小躍りするようにして、つぶさに見たことを書き記します。それは後代の私たちへの希望と力と喜びのためでした。今聖書を読み終える最後の章において、どれほどヨハネに感謝し、また主イエス様に感謝したらよいでしょう。
 聖書の長い長い啓示もみなここにたどり着くための歴史でした。私たちの人生も、その長い歩みも、苦難の数々も、行き着く永遠の住まいは天の御国です。あの嵐吹き、地震えるような終末の激しい出来事も、このすばらしい都の中央を流れる命の川とその岸辺に実る命の木の実を食したときに癒されるのです。
 激しかった呪いが一切見られません。都の中央に神と子羊がいます。人間社会の中心には権力者が幅を利かせ、弱者を痛め尽くしていたのとくらべて、何という平和でしょう。人々はみな神に仕え、神のみ顔を見ているのです。平和と愛の神のみ顔をいつも見ているのです。主のみ顔を見て満ち足りているのです(詩篇)。
 神が光であって神の光が照りわたっているところには、回転のかげりさえない(ヤコブ1:17)。灯火の光も太陽の光さえも、もはや必要がないのです。彼等は永遠に王であると言われるように、神を信じた者が世界を治め、神の統治に生きるのです。そこは乱れも、争いもない世界です。
<祈り>主よ。御国のすばらしさを黙想しつつ、今日を歩ませてください。