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2012年5月

2012年5月22日 (火)

主題 <わたしは彼らの中に住む>

聖書箇所 出エジプト記 25章  (2012年 5月 7日)

今日のみことば「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」(22)

 神様がイスラエルの中に住むと約束され、事実歩まれたのです。そのための聖所をつくる方法を示されます。この聖所は細部にわたり神様の指示どおりであることが求められている(9)。
 人間はしばしば自分好みの聖所を造り上げ、小さな神、いびつな神、自己の思いどうりの神を求めてしまう。そのような自分の造り上げた偶像には、どんなに呼び求めても真の神に出会えない。
 神が住まわれる聖所とは、
第1に、すべて心から捧げられる人からのものによつて造り上げられる。
第2に、神のためのみに向けられた聖所であって人間の好みの宗教生活ではない。
第3に、神の示す通りの材料と方法である。
 22節は『わたしはそこであなたと会い、あなたに語る。』と約束している。神さまと出会う祝福と神からのメッセ-ジを耳にする。それこそ日々の礼拝です。デボ-ションの中にこの約束は実現する。

<祈り>神さま、今日も聖書を通して私に語り、神ご自身を明かに示し、あ なたの側から近ずいてくださることを感謝します。続いてこのデボ-ショ ンの時を祝福して下さりあなたと出会う最高の時として下さい。ア-メン

2012年5月10日 (木)

主題 <神を見、飲み食いした>

<きょうの課題>
聖書箇所 出エジプト記 24章  (2012年 5月 6日)

今日のみことば「神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。」 (11)

 モ-セや民の長老たちは神様を直接見たと記されている。その場面には、神さまの姿と、み足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであったという。
 神を見ることは心の清い人に約束されており、幸福な場である(マタイ5章8節)。
 ヨハネは、『キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならその時、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』(ヨハネ第1書3章2節)と約束しています。キリストに似るという驚くべき出会いを体験し続けたい。
 3~8節に、和解のいけにえをささげ、その血を取って祭壇に注ぎ、半分は民に注ぎかけたという。この契約の血により、神を見る道が開かれたのです。注ぎの血が人々の罪ととがを赦し、清め、神に近づかせるのである。
 み子イエスの血はすべての罪をきよめます。昔の人々は、主の流された血潮を『ご宝血』と表現して、恵みの信仰を告白した。神を見る最高の経験を今、祈りの中にさせていただこうではないか。
<祈り>主よ。たえず心をイエス様の血で清められて神様を見つつ歩ませてください。そしてイエス様に似る者として下さいように。アーメン。
<きょうの課題>

主題<起こしてやりたくなくても> 

聖書箇所 出エジプト記 23章  (2012年 5月 5日)

今日のみことば「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」(5)

 1~9節は約束の地に入った後に、どのような生き方をして主をよろこばすべきかが記されている。むかしの生活をそっくり再現して生きるわけではないが、その原則、方法を学ぶことが大切である。
 人間はどうしても中立でいられないし、権力者に傾いたり、逆に弱者の側ばかりについてしまう。どんな状況の時にも神を第一として問題に対処するようにと考える、ということをいつも生きていきたい。
 ところで4~5節には敵であっても困った状況を見た時には助けにゆく、援護していくことを命じている。『なければならない。』というのです。とてもおもしろい真実に迫った表現ですね。『あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼と一緒におこしてやらなければならない。』とある。起こしてやりたくない、という表現を聖書の中に残しておられる。
 第1に神様は人の心の思いを見通す方であるとともに、深い同情を持っておられることがわかるだろうか。
 第2に、敵や憎しみあう相手に対して、憎しみではなくして、愛によって勝てと命じている。それでこそ神の子である。
 第3に神様の恵みが底流にしっかりと流れていて、もろい私たちをカバ-してくださることを言外に読み取れる。
<祈り>主よ。私の弱さを深く理解し助けてくださること感謝します。憎しみに生きるのではなく愛によって生きられるように今日も導いてください。アーメン

主題 <牛一頭を牛五頭で贖え>

聖書箇所 出エジプト記 22章  (2012年 5月 4日)

今日のみことば「牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。」(1)  

 イスラエル人における民事が、細かく規定された。盗みに対する教えが1-6節に記されている。牛や羊を盗むことがあったなら、五倍にして償わなくてはいけない(1節)。こうして神の民の中から、不道徳を除き、愛の生活をさせようとしている。五倍という罰則が犯罪を防ぐ目安となるのであろう。もっとも羊の場合は、四頭と規定されている。なぜだろうか。同じ盗みでも償いにの中に違がある。興味が湧くところです。
 間違って、隣人の家畜を死なせた場合など、丁寧である。神は心を見ておられるということだろう。
21-27節では、弱者に対して親切でなくてはならないのです。その理由が27節に記されている。「彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。」私たちの生活と性格は、神に似る者でありたい。神がいつくしみ深いのであるから、私たちも慈しみ深くあるべきですが、またいつくしみ深くなれるのです。それはこの神を深く交わり、神に学び、神にならうからです。
<祈り>主よ。あなたの前に、真実な生活によって恵みを示すことができますように。ア-メン。
<祈りの課題>                     

主題 <必ず殺されなければならない> 

聖書箇所 出エジプト記 21章  (2012年 5月 3日)

今日のみことば「自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。」(15)

 イスラエルの民の生き方がこまかく記されている。奴隷への取扱いや、死刑についての問題、償いをすることなどである。
 イスラエルの民にとっては、神のめぐみをあかしするために一つは悪の生き方は取り除かれなくてはいけないと命じているのです。
決して罪を犯した人間がさばかれることを主が望んでいるわけではない。主はひとりも滅びることを望まず、救われることをみこころとしている(Ⅱペテロの手紙3;9)。
 なぜ、こんなに厳しいと見える戒めを与えているのだろうか。それはより優れた生活を、ご自分の民に期待しているということだろう。奴隷へのいたわりある取扱いには、当時の世界では想像できない寛容さがある。出エジプトの経験が、新しい生き方を形造っていく現実があるのです。
 恵みの信仰生活を新しいかたちにしてゆくために、生活から汚れを、罪を取り除いてゆくことです。
 悔い改めの道こそ、求められている。励んで悔い改める。清いこころと生活をとおして神をあかししたい。
<祈り>主よ。わたしの今日一日のあゆみが神様のまえに真実な歩みとして整えてください。アーメン。
<祈りの課題>

主題 <わたしはあなたの神、主である>

聖書箇所 出エジプト記 20章  (2012年 5月 2日)

今日のみことばわたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。()

 

 宝の民としての生き方がここにあります。この生き方こそ十戒として知られている。前半は神に対する在り方、後半は、隣人との在り方が明瞭に示されています。

 2節が、この戒めの中核をなしております。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」という事実の上に立って、神の教えがあり、教えに生きる道が開かれるのです。神の律法に喜んで従えるのです。この救いの愛を見失っては、霊的な生活も、道徳や倫理も成り立たないのです。信仰者もまた絶えずこの事実を忘れてはならない。そうしないと、信仰の喜びをたちまち失ったり、他の人をさばく危険に陥ってしまう。

 十戒は、ただひとりの神があなたに語っている契約である。毎日、心に刻んで生活したい。神さまが私の生活に目を注いでいてくださるのですから。世界中の人々から、特別に選び出してクリスチャンにしてくださったのですから。

 大きな愛に対して、愛をもって応答したい。打てば響く太鼓のように、神の愛への愛の生活をわたしの目標とさせていただこう。

<祈り>神様、今日も神様が最善な道を用意しておられることを信じ、感謝をもって誠実な一日を歩ませてください。アーメン。

<祈りの課題>

 

主題 <祭司の王国、聖なる国民>

聖書箇所 出エジプト記19章   (2012年 5月 1日)

今日のみことば「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。」(4)

 出エジプトをして、すでに2か月がすぎる。シナイの荒野でモーセは神から民へ語るべきみことばを与えられる。4~6節は聖書の中で最重要な聖句の一つである。エジプトの苦難からの救いは、最高の奉仕に召されていたのです。
 「あなたがたは、エジプトにしたこと、わしの翼に載せ、わたしのもとに連れてきたことを見た。」4節、このすばらしい救いに対する意味を考えてみよう。自分の安楽のためでなく、優れた目的のために召されている。
 神さまの声に聞き従う、契約を守ることによって神さまの宝とさえなる。神様にとって、あなたが何にもまさった楽しみとなっているということばにどのくらい感動を覚えるだろうか。それが、信仰をためすリトマス試験紙となるだろう。神が暗黒の罪と不安と恐れの生涯から救い出されたのは、わずかばかりの喜びのためではない。
 祭司の王国、聖なる国民とは、神のための奉仕のためなのです。どこの国のためでしょうか。イスラエルのためではなく、世界の救いのためです。全世界の中に、神をあかしし、神の恵みを立証するつとめに召されたのだ。暗黒の中において無力を知り、神の力によって救われた事実と、神の恵みを語り続けることにおいて祭司の国となるという。
<祈り>主よ。このような貧しく、弱い者を選ばれたのは、あなたの素晴らしさをあかしする祭司となるためと感謝します。アーメン
<きょうの課題>

主題 <民の中から力ある人を選ぶ> 

聖書箇所 出エジプト記 18章  (2012年 4月30日)

今日のみことば「イテロは言った。「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。」(10)

 前半は、妻の父イテロの訪問が記されている。義父はどんなにかモーセの優れた業績を耳にして喜んだことであろう。イテロの言葉の10節を見ると、「今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。」とあかしし、力ある主の御名を賛美したことだろうか。
 後半は、モーセの指導に関する義父のすすめである。忙しく立ち働き、そのために人々の不満を見た義父のイテロは、責任ある人々を立てるようにアドバイスしたのです。
 34節を見るときに、「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われる通りにした」という。人々の問題は、だれよりも自分がわきまえていると誇り、また責任ある自分がけなされたような惨めな感情になってしまう人がいる。偉大な指導者はここが違うのである。彼は、民の中から力ある人を選んだのです。それぞれの人数と責任を明示します。
 今も、あなたが教会生活を重んじる中で、どんな奉仕と恵みのわざがあるかを考えたい。いや、その指揮の任にあたる牧師のために祈ろう。全会衆がみことばと奉仕に喜びをもって、責任ある奉仕者になることを始めよう。
<祈り>主よ、小さなことでも、神様と人々、ことにキリスト教会のつとめに私もなすべきことを教えてください。ア-メン 
<きょうの課題>

主題 <代々にわたりアマレクと戦う>

聖書箇所 出エジプト記 17章  (2012年 4月29日)

今日のみことば「「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。」 (16)

 民は旅を重ねてレフィデムに来たとある。そこに水がなかった。どんなに喉がかわき、あそこまで行けば水があると期待して励んできたのに、そこでは水のない失望に陥った。期待が大きい時にそれに反する失望を黙想したい。 民は主を試みて、水のしるしを求めたのです。そこで人々はモーセの生命さえ奪おうとする。それほどの激しい失望であった。だがここでも主は岩から水を湧き出したのです。たえず奇跡をもって導いている。
 ところが、このように水がなく、失望している最中にもっと恐ろしい困難がやってきたのです。アマレクからの攻撃です。
 『泣きっ面に蜂』という言葉があるが、弱りきっていたとき、内側では人々と指導者モーセとの間の確執があるとき、そういう最もみじめな時に、アマレクが攻撃をしかけます。忘れることのできない苦難でした。
 モーセが山上で手を挙げて祈り続けます。もはや祈りしかないのです。いや、祈りという最良の道が授けられていた。モーセでも腕は疲れる。祈りの手がたれることもある。アロンとフル。主はこうしたアマレクの無情な敵対行為を覚え続けている。やがて、納得のいく救いがくることを信頼しよう。<祈り>主よ。今私のうちにある敵意を清めてください。ただあなただけが、私の問題を除き去り、祝福に変えられるのですから。アーメン。
<きょうの課題>

主題<シンの荒野に入った> 

聖書箇所 出エジプト記 16章  (2012年 4月28日)

今日のみことば「ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。」(1)
 出エジプトの旅路は、ついにシナイ半島の中頃にさしかかったのです。別地図のあとをたどってみよう。
 エリムは荒野にあるオアシスである。砂漠のただ中にある緑の感動を想像して見たい。しかし、いつまでもエリムにとどまっていられない。
 こうして遂に、シンの荒野にはいった、と言う。荒野は文字通りの何もない地域である。砂漠のど真ん中に入っていったのです。小さな道のあとをたどって幾万の民が旅をする。荒野は何もない。緑も家も、変化もない。食料もないし、安息する場所もない。「シンの荒野にはいった」と何気なく記されているけれども、そこには人々の必死の思いを読み取ることができる。
 シンの荒野は、パンがないのです。水がないのです。こここそ、神さまの恵みを経験させていただくべく神の用意した場所でした。しかし、イスラエルの民はここでつぶやき、失敗してしまう。そこの場所に立って見て始めてその気持ち、失望とやりきれなさを想像できた。
 ですが、イスラエルの民にとってこの荒野は最高の場所であるはずです。ここは約束の地、乳と蜜の流れる地へのどうしても通過しなければならないポイントでした。それは約束の地への通過点であることです。
<祈り>主よ。あなたを荒野で信頼して知るのは難しいのですが、昔の人々の歩みの中から、私を訓練して成長させてください。アーメン
<きょうの課題>