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2012年7月

2012年7月 2日 (月)

主題 <ひとりひとり数えて、登記した>

聖書箇所 民数記  1章     (2012年 6月19日)

今日のみことば「そこで民族ごとに、父祖の家ごとに20才以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した。」(18)

 民数記は、その名の示す通り、神の民の数を記録した書であるといっていい。出エジプトののち、イスラエルが荒野を放浪した状況を記録している。
 民数とあるように民の数を数えたのは、シナイ山(1章)とモアブの草原(26章)の二回ありました。
 この民の数を数えることは神の前に、ひとりひとりが覚えられ、その手に刻まれていることを意味するのである。
 イスラエル人は血すじを大切にした。なぜだろうか。その血統が自分たちは神の選びの民であることをあかしするしるしであったからです。中には血筋をいい加減にしたために神の民の中に入ることができないことになったことがあるのです(エズラ記)。
 私どもにとってはこれは何を意味するのでしょうか。ヨハネの福音書1章には、主イエスさまを信じて受け入れたものが神の子供となると記されています。信じた私たちには、神の子として生まれたことを登録し、自覚し、周囲の人々に神のいのちの書に名前が書き込まれていることを明かにできるのです。
 この神の民のしるしをいい加減に扱ってはなりません。黙示録21:27を見てください。神の国には小羊のいのちの書に名の記された者だけが入る、とあります。

<祈り>主よ。私をあなたの民に、選び入れてくださり感謝します。

主題 <ささげ物の評価> 

聖書箇所 レビ記  27章    (2012年 6月18日)

今日のみことば「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」(30)
 律法の中には、誓願のささげ物についてや、進んでささげるささげ物についての規定があった(7:116、23:38)。すなわち、あるときには、主に誓願をした時にささげ物をし、あるときには何らかの理由で、進んでささげたのである。ささげ物は、ここに書かれている人身評価に従ってささげた。
 「銀」の場合には、評価額は、年齢、性別によって定められていた。その人が貧しい場合は、祭司が事情を調べて、その額を決定した(3~8)。
 家畜のささげ物の場合には(9~13)、ささげた物は、「聖なるもの」とみなされた。汚れている家畜、すなわち供え物とすることのできない家畜の場合は、祭司が評価額を決めた(11~12)。
 家、土地の場合は(14~25)、聖別するという語が用いられている(14、16)。自分の家を売却して、その代金を献金する場合には、祭司が家の評価額を決めた(14、15)。土地(畑)の場合、その評価は、その畑に蒔く種の量によって決められた(16)。もしもそれがヨベルの年の後ならば、残っている年数によってその評価が決定された(18)。
 ささげてはならない物もあった。「初子」は、主のものであるので、誓願のささげ物とすることはできなかった(26、27)。
 また、聖絶するべきもの(28、29)は、主のものであるので、売ったり、買い戻すことはできなかった。地の産物、家畜の十分の一は、主のものであった(30-32)。
 主にささげる姿勢を確認し、より良いものを主にささげ感謝しましょう。

主題 <神の祝福の約束と警告>

聖書箇所 レビ記 26章     (2012年 6月17日)

今日のみことば「わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」 (12)

 本章には、契約の民が神に従った場合の祝福と、神に従わない場合に被る災難についての警告が描かれている。祝福よりも、警告の方がはるかに書かれている量が多いのは、人間がすぐに堕落しやすいからであろう。
 もしもイスラエルが神の命令を守り行なうならば、約束されている祝福は、驚くべきものであった(3~13)。豊かな収穫が与えられるので、食糧に困ることはない。平和が与えられ、悪い獣は除かれる。もし敵と戦っても、圧倒的な勝利が与えられる。子孫が増える。そして何よりも、主がイスラエルの中にご臨在くださり、契約関係が継続するのである(12)。
 その逆に、もしも神の命令に背き、神との契約を破棄するならば、彼らは全く逆の状態に陥ることになる。多くの病に襲われ、収穫は減り、敵によって侵略され、打ち負かされる。野の獣に襲われ、子孫は減る。やがては敵に取り囲まれ、自分の子どもたちを食さざるを得なくなる(29)。聖所は滅ぼされ(31)、敵の捕囚となる(33)。
 イスラエル人は、このような警告をはっきりと与えられていたにもかかわらず、やがて約束の地において偶像の神を拝み、それに伴って不道徳な儀式を行なうようになる。民の指導者たちも堕落した。そしてここに書かれているすべての災いが彼らを襲い、わずかな者を残して、他の者はバビロンに捕囚となって連れて行かれるのである。しかしそのようなイスラエルに対しても、神の恵みは尽きることがない。42節以下には、神がイスラエルとの契約を思い起こし、再び祝福を与えることが約束されている。

主題<安息の年、ヨベルの年> 

聖書箇所 レビ記 25章     (2012年 6月16日)

今日のみことば「あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。」(8)

 25章では7年ごとに訪れる安息の年の規定と50年ごとに訪れるヨベルの年について書かれている。
安息の年(1~7)とは、七年目に、畑を「休耕地」とする規定である。七年目は、「全き休みの安息」、「主の安息」、「地の全き休みの年」と呼ばれた(4、5)。人類は、「地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である」(23)というみことばに、しっかりと目を留めなければならない。土地は本来、主のものである。土地を大切に、どのように用いるかは、主の教えに従わねばならない。七年目に作物が実れば、それは社会的に弱い立場の人々や、動物たちの食糧となった(6、7)。
ヨベルの年(8-22)は、五十年目ごとに訪れた。この年には、やはりすべての耕作は禁じられ(11~12)。国中のすべての住民に開放が宣言され、イスラエル人は、自分の所有地と家族の元に帰ることができた(10)。ヨベルの年には、土地は本来の所有者に戻されるので、土地売買の時にはヨベルの年から逆算して、その収穫の回数に応じて地価が決定された(13-17)。また、主は六年目を祝福して、三年分の収穫を与えると約束されたのである(18-22)。
また、ヨベルの年における土地売却の規定(23-28)、家屋売却の規定(29~34)、貧しい同胞への配慮(35~38)、奴隷に関する規定(39~46)、外国人に身売りした場合の規定(47~55)などが定められていた。
 安息を守ることは民における祝福にもなっていたが、この規定はいつしか守られなくなっていきました。この地に生きる私たちはいつも主からのもので生かされていることを覚えなくてはならない。

主題 <会見の天幕における務め>

聖書箇所 レビ記 24章     (2012年 6月15日)

今日のみことば「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。」(2)  
まず祭司によって聖所内で守られた、日ごとの礼拝の儀式について書かれている(1-9)。1~4節は、幕屋の聖所内の、ともしびについての教えである。民はオリーブ油の上質のものをささげ、燭台のともしびは、消えないように保たれた(2)。幕屋には窓がなかったが、この光が暗やみの中で輝いていたのである。主イエスは「私は世の光です」と言われた(ヨハネ8:12)。信仰者は、主イエスの光を反映する「世界の光」であり、罪の蔓延する暗やみの世界の中で、神の光を輝かせるのである(マタイ5:14~16)。また、安息日ごとに新しいパンが供えられ、古くなったパンは、最も聖なるものとして、アロンとその子らのものとなった(9)。主イエスは、ご自身を天からの「まことのパン」と言われた(ヨハネ6:33)。このように聖所の礼拝においてパンがささげられたことは、主イエスが、人のためにご自身をささげられたことを象徴している。私たちが主イエスを、自分の罪のためにささげられたお方だと信じるならば、主イエスは、私たちの「いのちのパン」となる。このパンを食べる者(すなわち信じる者)は永遠に生きるのである(ヨハネ6:35、47~51)。
 本章の後半は、人間の醜い罪の実情を、礼拝に生きる祭司の姿と対比するように記している。エジプト人を父としていた者が、イスラエル人と争いを起こした(10)。詳細については記されていないが、この争いを起こした者は、主の御名を冒涜してのろったのである(11)。律法の与えられた直後の罪であり、彼は死刑となった(23)。
17~21節は、償いの義務について教えている。
 世の光、いのちのパンとして来られた主イエスを覚え、主のすばらしさを語り継ぐ証し人として生きていきましょう。

主題 <祭りの意味から考える>

聖書箇所 レビ記  23章    (2012年 6月14日)

今日のみことば「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。」(2)

 神は、イスラエル人のために、年に数回の祭りを定められた。
●安息日(3) 神が天地創造の最後の七日目に休まれたことに起因している(創世2:2~3)。また、神がイスラエルを、エジプトから連れ出されたことを覚える日でもあった(申命5:15)。
●過越の祭り、種を入れないパンの祭り(4-14) 過越は、ニサンの月(当時の宗教暦の一月)の十四日に行なわれた。エジプトから脱出する際の最後の奇蹟、すなわちエジプトの初子が殺されたときに、いけにえの血によって、イスラエルを神のさばきが過越したことを記念するもの。その後の七日間は種を入れないパンを食べた。初日と七日目に聖なる会合を待った(7、8)。約束の地においては、収穫の初穂の束を祭司の元に持って行った(9-14)。
●七週の祭り(五旬節)(15-21) ニサンの十六日から数えて七週後に持たれた。小麦の刈り入れの、初穂の祭りであった(出エジプト34:22)。
●新年の祭り(ラッパを吹き鴫らす日)(24、25) ニサンの月から数えて、第七月目の第一日。一般の暦では、新年の一月であった。この月は、年に一度の贖いの日がある大切な時である。最初の日にラッパを吹いたが、それは間もなくやって来る大切な日の予告でもあった。
●蹟罪の日(26-32) 年に一度第七月の十日に、大祭司によってイスラエルの罪が聖められた二六章)。皆が「身を戒め」、罪を悲しむ時であった。
●仮庵の祭り(33~43) 七月十五日より始まった。収穫を大いに喜び、神に感謝をささげる時であった。
 以上の祭礼について、明確な目的が示され行うように命じられていた。今日、私たちが、神の御前にささげられる礼拝の意味を改めて考え、豊かなものとなるように備えていきましょう。

主題 <聖なる祭司として(2)>

聖書箇所 レビ記  22章    (2012年 6月13日)

今日のみことば「あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行なえ。わたしは主である。」(31)

 21章に引き続き、祭司とその家族に関する規定が書かれている。その中心的な教えは、主が聖なるお方であり、イスラエルを聖別されたお方であるということである(2、15、16、32)。祭司は、聖なるものを、神のために聖別しなければならなかった。また、自らが、神の聖なる名を汚すことのないように、注意しなければならなかった(2)。また、一般のイスラエル人が、主に奉納する聖なる物を汚し、聖なる物を食べて罪を犯すことのないように、指導する必要があった(15、16)。
 1~9節には、聖なる者とされた祭司が、どのような場合に、職務についてはならないか(3)、また聖なる物を食べてはならないかが書かれている(4-9)。
 10~16節は、祭司以外の関係者が、祭司が食する聖い食物を、どのような時に食することが許されたかが、書かれている。それらを、食することができなかったのは、祭司と同居している者と雇い人で(10)、祭司に買われた者と、その家で生まれたしもべは許された(11)。
 身体的に欠陥のある者は、祭司の職に就くことができなかったが(21:17~23)、ここでは傷のある動物が、主に対するいけにえには、なりえなかったことが書かれている(18-25)。欠陥のない祭司も、傷のない動物も、共に、罪のない主イエスの型(タイプ)をしめしていたものと考えられる。
 今日、神と人との間の大祭司として来られた主イエス・キリストを覚え、完全ないけにえとしていのちをささげて下さったことを心から感謝しよう。

主題 <聖なる祭司として(1)> 

聖書箇所 レビ記  21章    (2012年 6月12日)

今日のみことば「あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。」(8)
 祭司は民の代表者として、特別に神に近づくために選ばれた者である。21~22章では、聖別された祭司が、日常生活において、どのようなことに注意を払わなければならないかが書かれている。
 彼らは近親の者は例外として、基本的には死人と接触することにより、身を汚してはならなかった(1~4)。
 5節は、喪に服するに当たっては、当時の周辺国の偶像礼拝者の行いをまねしないようにということであろう。特に主から与えられたからだに、自らが傷つけることは禁じられた。
 6~7節においては、祭司が、特に神に対して聖でなければならないことが強調されている。祭司は、結婚相手を選ぶときにも、注意をしなければならなかった(7)。
 また祭司の娘も、性的な罪を犯さないように気をつけねばならなかった(9)。異教社会においては、神殿娼婦が存在するのが普通だったので、ここでは特に祭司の娘がそうならないようにということが、意図されているのであろう。
 10~15節は、特に大祭司に関する教えである。彼の頭には、油が注がれていたので、その頭髪を乱してはならなかった。また、特別の装束を身に着けていたので、一般の民のように、装束を裂くことによって、悲しみを表現することも許されなかった(10)。両親の死体によってさえ、身を汚すことが許されず(11)、結婚をするときも、注意を払わねばならなかった(13、14)。
 今日、私たち一人一人も家族や隣人に対して祭司としての務めを担う者とされていることを覚え、戒めなくてはならない。

主題 <聖なる者とする主>

聖書箇所 レビ記  20章    (2012年 6月11日)

今日のみことば「あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行なうであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。」(8)
 アモン人の神であるモレク礼拝には、子どもをささげるという恐ろしい儀式が伴った。その行為をする者だけではなく、その罪に対して目をつぶる者も、罪を問われた(2~5)。信仰は個人としての信仰告白は重要であるが、もう一つの視点として、家族が、一つの群れとしての集団としての信仰の土台をいつも確認していくことも重要である。信仰継承を考えていく上で、信仰の黙認は注意しなくてはならないことを警告している。
 イスラエル人は、自分の身を聖別し、聖なる者となることが求められた。しかし、聖なる者としてくださるお方は、主である(7、8)。聖さを求めていくときに、自らの自己達成ではないことを知らなくてはならない。そして、常に主の前にへりくだった者でなくてはならない。
 霊媒や口寄せに頼るのは罪であり(6)、それらを行なう者も、死刑に処せられた(27)。それらの罪には、死者を呼び出し助言を仰ぐという習慣があった(Iサムエル28:8)。恐らく、悪霊の働きと関係していたと思われる。今日も注意しなくてはならない。
 親には、神の代理として子どもを育て、神のみことばを教える務めが与えられている。それ故に子どもは、両親を敬い、恐れなければならない(19:3)。神の代理人である両親をのろうことは、神をのろうことに等しい(9)。しかし、親も、主の教育と訓戒によって子どもを育てることが必要である(エペソ6:4)。
22~27節は、神のおきてと定めとを守るようにとの勧めである。そうすれば、彼らが住む土地が、彼らを吐き出すことがない。神はイスラエルを、国々の民からえり分けられた(24、26)。彼らは「聖なるもの」であり、神のものであった(26)。

主題 <神が聖であるから>

聖書箇所 レビ記 19章     (2012年 6月10日)

今日のみことば「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」」 (2)

 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」という教えはレビ記の中心聖句である(2)。神ご自身が聖であるが故に、人間にも聖を求められていることを銘記したい。
 18章に続き、社会生活における戒めが続いている。今日の箇所には、父母を敬うことと、安息日を守ること、偶像を拝んだり造ったりしないこと、また和解のいけにえに関する教えについて書かれている(3~8)。さらには、貧しい人への配慮(9、10)、盗みと欺きの禁止(11、12)、弱い者への配慮(13、14)、不正、中傷の禁止(15、16)、愛することについて(17、18)教えられており、これらは、主イエスが教えられていたことに似ている。聖さを求めて生きることは、神の完全さを求めて生きることと言える(マタイ5:48)。
30~37節では、安息日を守ることについて教えられている。安息日を厳守することは、3節でも命じられているが、ここでは聖所を恐れることと合わせて、再度命じられている。
 神の聖さを覚え、私たちの日常生活がるということを覚えて、生きていかなくてはならない。神の聖さを覚え、その民としてある私たちの歩みが神の栄光を証し、聖なる民としての歩みを全うすることができるように祈り、整えて頂きたいと思います。