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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <勇気を出して実行しなさい>

聖書箇所 歴代誌第一   28章  (2013年2月22日)

今日のみことば「今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」(9)  

 本章の多くは、王からソロモンヘのことばだが、最初にダビデは、指導者たちを召集した(1)。勧めの内容は「主の命令をことごとく守り、求め」よということであった(8)。命じる理由も加えられている。「あなたがたがこの良い地を所有し、あなたがたの後、とこしえまでもあなたがたの子たちにゆずりとして与えるため」である(8後半)。彼は、神の民の次世代を見据えて、彼らが主の恵みの豊かさに生きるために命じている。
王からソロモンヘのことばの中心は9節にある。王は「あなたの父の神を知りなさい」と言う。ここでは、父が神に信頼し、従い、仕えたということも強調されている。息子が知るべき神は、父が知っている神である。父もまた、神の恵みによって王とされ、その生涯で、主の聖さ、正しさ、あわれみの豊かさを知った。父は、被造物である人間が、主を信じ従うことこそ何よりの幸いだと知るから、このように言うのである。9節以外では、繰り返し、息子が「選ばれた」ことが強調されている。王は息子に、選びの恵みを受けている者として、その恵みに応えることを勧めている(10)。
また、本章ではダビデが主役であり、またソロモンも重要な位置を占めている。しかし、このことばは、最終的には神の民全体に語りかけられている。神の民は、最初は聞くだけだった。しかし、ここではソロモンと共に神殿建設の実行者とされている(21)。

主題 <神の民としての自覚>

聖書箇所 歴代誌第一  27章  (2013年2月21日)

今日のみことば「土地を耕して畑仕事をする者たちをつかさどったのは、ケルブの子エズリ。」(26)

軍の分団長の多くはダビデの30人の勇士である。この軍の各分団の編成がくじ引きでないこと、30人の勇士が積極的にこの分団の長になる点などを見ると、この軍の働きは志願制であった可能性もある。彼らはこの奉仕を、使命感をもって果たしていた。
ここで12部族としてはほかの書にはない名前がある。17節のアロンがそうである。またガドとアシェルは本章では除外されている。歴代誌では、神の民イスラエルは第一に礼拝する民だという点が強く意識されている。最初の系図でも、レビ族やアロンの家系が大きく取り上げられている。各部族長のリストにおいても、自分たちは礼拝の民であるという自覚が表されている。
あまり目立たない場で奉仕しているとしても、彼らもまたイスラエルの民である。この25~31節までに挙がっている人名は12名である。恐らく、長であるこの12名を挙げることで王の領地で働いている人々を代表としている、という意味があろう。
本章のリストの最後に、ダビデ王の側近たちについて記されている。しかし、これらの側近中、アヒトフェル、エブヤタル、ヨアブは、後にダビデ王から離れていく(Ⅱサムエル15章)。
神殿外で仕えていく人々にも配慮され、その働きを担うように任命されていたように、今日の私たちも主の奉仕の全体を覚えつつ、その中の一つの奉仕を担う一人として主に仕えていきましょう。

主題 <辺境にあっても主に仕えた人々>

聖書箇所 歴代誌第一   26章  (2013年2月20日)

今日のみことば「ダビデは、「ヘブロン人のうち、ハシャブヤとその同族の者は勇者であり、千七百人いたが、ヨルダン川を渡った所から西方に至る地域のイスラエルの管理に当たり、すべての主の仕事、王への奉仕に当たった。」(30)

門衛は、門を持ち場として、敵の侵入などを防ぐ働きをした。て12節を見ると、門を守るだけでなく、主の宮に関連する働きをしていたことがわかる。
神殿の中には宝物倉があった。その宝物は26~28節にあるように、荘厳な輝きを放つ宝物というよりは、神の民の先祖たちが戦いにおいて得たもの、あるいは預言者や王たちのささげ物だった。彼らは、主の宮の修理のために、分捕り物を聖別してささげた(27)。主の宮の必要のために、また、神の民が絶えず神殿を中心とした礼拝の民としてのあり方を継続していくために、ささげられた。
最後に、門衛や宝物倉の管理以外の奉仕を負う人々のリストがある。ヘブロン入について総括的に言うと、彼らは辺境の民であり、そしてまた、辺境の部族に対する働き全般のために、ダビデによって、彼の晩年に任命された人々であった。彼らは重要でない地域の、重要でない奉仕のために、ダビデ王の最盛期を過ぎた時期に任命された。働きとしては重要でないように見えるが、何よりも主が彼らの奉仕をご覧になっていた、ということに注意しなければならない。人には重要でないかのように見える働きかもしれないが、主なる神はそれを明確に主の奉仕としてご覧になっておられるのである。
どのような奉仕でも喜んで主に仕える者となりましょう。

主題 <歌うたいたち>

聖書箇所 歴代誌第一  25章   (2013年2月19日)

今日のみことば「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。」(1)
 1節の「アサフ、ヘマン、エドトン」とは、賛美する4000人のリーダーであった(23:5)。
 彼らは賛美しながら「預言」をしたと記されている(1-3)。預言とは、主からのことばを預かり、人々に伝えることである。彼らが歌っていたものは、恐らくほとんどが詩篇であった。詩篇を通して、神がどのようなお方であるか、神の民に対してあわれみ深いかが、わかるのである。詩篇を歌うことは、神を知り、神を告げ知らせるという意味で、預言的な面がある。
 5節の「先見者」とは「(幻を)見る者」という意味がある。つまり、みことばから、民がどうあるべきかを明確にする人たちである。これも、詩篇を歌うことによってなされたのだろう。また、彼らは「王の指揮の下に」奉仕をした(6)。賛美の奉仕も、主に仕える民全体の中での調和のもとに行なわれた。また、歌うたいたちは「達人」であると書かれている(7、8)。「達人」とは、もともと「良く訓練された」という意味がある(雅歌3:8の「練達」と同じ)。歌うたいたちが「達人」と呼ばれているのは、彼らが充分な訓練を積み、よく練習をして備えていた、ということを意味している。主に、より用いられるために継続して訓練を受けることは大切であり、主に対する奉仕への忠実さは、訓練によって整えられると言える。
 今日、教会における賛美が神をたたえると共に、賛美する会衆がより神を知り、互いにおしえられていくものとなっているだろうか。また、豊かな賛美がささげられていくためにも訓練を重ねていくことは、より主に従っていくことを学んでいくことに通じることを覚えたい。

主題 <アロンの子らたち>

聖書箇所 歴代誌第一   24章  (2013年2月18日)

今日のみことば「これは主の宮に入る彼らの奉仕のために登録された者たちで、彼らの先祖アロンがイスラエルの神、主の彼に命じられたところによって、定めたとおりである。」(19)

 23章から26章までは、神殿に仕える人々の任命について記録されており、24章は、特にアロンの家系が中心である。アロンの子らは、宮の奉仕の中で「とこしえまでも主の前に香をたき……」とあるように(23:13)、祭司の働きを負っていた。その後、大祭司はこの家系より選ばれた。
 アロンの四人の息子たちは、祭司として選ばれた。しかし、神の召しにどう応えていったかという点で、神の前に取り扱われた。息子たちのうち、ナダブとアビフは、自分たちの勝手な方法で香をたいた結果、主のさばきによって死んだ(2)。
 アロンの家系は、ナダブとアビフを失うという辛い体験をしたが、彼らの子孫は二十四組に分けられ、奉仕に当たるようになった(4~19)。それぞれの組に分かれて行う奉仕は、その後ずっと、主イエスがお生まれになる時にいたるまで、守られ継続されていた。
 歴代誌の記されたこの時代から数百年後、神殿はバビロンによって破壊された。しかし、神殿のない空白時代があっても、主イエスの時代にいたる千年近くの長い間、この働きは守られたのである。
アロンの家系には、尊い働きに選ばれたことを軽んじる者もいたが、忠実に与えられた務めを大切に果たした者もいた。主に選ばれた者として誠実に、忠実に歩むことが、現代に生きる神の民として期待されていることではないだろうか。

主題 <主の宮に仕えるレビ人>

聖書箇所 歴代誌第一   23章  (2013年2月17日)

今日のみことば「立って朝ごとに主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。」 (30)  
 ダビデによる神殿建設の準備が記録されている。最初に、レビ人たちが数えられている(3)。列王記には、レビ人による準備の記録がないが、歴代誌は礼拝が重視されているがゆえに詳述されている。30才以上のレビ人が数えられた。務めのために必要な、具体的な条件を考慮しながら、彼らが整えられたことがわかる。
 レビ人たちの奉仕内容については4~5節にあるように、その全体は「主の宮の奉仕」と言える。そして28節から、彼らの役目についてさらに詳述されている。その役目は、包括的には「いけにえをささげる」ということである。神殿は本来、いけにえをささげる祭壇が中心だったことは、神殿が建てられる根拠となった経緯からも思い起こされる(21:22~28)。神殿では最初からいけにえがささげられ、特に神殿建設の準備としての使命を託されるレビ人も、いけにえをささげることが、おもな役目だった。
 レビ人たちに「主が民に安息を与えられた」とダビデは語る(25)。その表現は、カナンの地にイスラエルの民が入った後にも言われていた(ヨシュア21:44)。主はご自身の民を、約束どおり、敵を退けてカナンの地に導き入れ、とこしえまでも続く安息を与えてくださった。ダビデには臨在の神が、とこしえに神の民に安息を与えるお方であるという感謝があった。
 信仰者は救われてもなお、罪の課題を抜きに、主の御前に出ることはできない。それゆえに私たちは、礼拝者として、主イエスの犠牲を常に感謝することが大切である。この救い主への信仰と感謝が、私たちを礼拝の豊かな恵みへと導く。賛美も、みことばも、聖なるお方との交わりに私たちを導くものであることを感謝し、心からの礼拝を絶えずささげよう。

主題 <神殿建設の継承> 

聖書箇所 歴代誌第一  22章   (2013年2月16日)

今日のみことば「そこで今、わが子よ、主があなたとともにおられ、主があなたについて語られたとおり、あなたが、あなたの神、主の宮をりっぱに建て上げることができるように。」(11)

 17章においてすでに、ダビデには神殿建設が許されないことが言われていた(17:4)。本章ではその理由について、ダビデは多くの血を流したからと記している(7-9)。対照的に、息子の「ソロモン」という名は、「平和」を意味する。主はソロモンの治世に「安息を与え」、「平和と平穏(静けさ)」を与えられる(9、18)。
 このことは、主の御前にある王たちの役割が、それぞれ違うことを示しているのではないか。ダビデには戦いの人としての役割があり、戦いにおいて主による勝利がもたらされ、敵から攻められなくなった。与えられた安息の中で、ソロモンには神殿を建設する役割が与えられた。
 ダビデには、神殿建設が許されなかったが、それで彼は何もしなかったのではない。彼は建設に必要な資材を準備した。「おびただしく」ということばが繰り返されているが(3、4)、彼は、神殿建設を主の命令として息子へ託し、自らは準備に関してできうる限りのことをした。そして、ソロモンヘの祈りの中で、主が共におられるがゆえになされるよう願っている(11)。
 神殿建設の継承は、ダビデとソロモンの間でなされた。それはイスラエルの王と王の間のことであるが、最終的には神の民に関わることである。ダビデは最後につかさたちに、ソロモンを助けるように命じている(17~19)。ダビデは神殿建設を、王だけの事業とせず、神の民全体のものとしている。
今日、私たちも福音宣教と主の教会の建て上げの働きを共に継承していく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <ダビデの高ぶりと悔い改めの祈り>

聖書箇所 歴代誌第一   21章  (2013年2月15日)

今日のみことば「ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。」(17)  

 ダビデは人口調査を、神の民を整えるために行なったのではなく、国の軍事力を把握するために行ない、軍事力によってさらに国が栄えることを望んでいたのではないか。20章に書かれていた連続する戦いの勝利に、そのような誘惑のきっかけが含まれていたと考えられよう。ダビデの心の中に、高ぶりの罪が大きく入り込んできたのである。
自らの罪について、ダビデはイスラエルが打たれることで気づいた。人口調査は、ダビデの命令によって始められたが、イスラエル全体の関心事でもあっただろう。その意味では、主がダビデにだけ責任を問われたことは厳しいことのように感じる。しかし、王という立場のゆえに、そのさばきは厳しいものであった。
 主は三つのわざわいの中から、ダビデに選ばせた。ダビデにとっては、イスラエルの民と共に受けるべき厳しいさばきだが、ダビデは、主の御手に陥ることを選択した。それは、さばきを受けることをはっきりと自覚しているとともに、神のあわれみの豊かさにもしっかりと目を向けていたからである(13、「主のあわれみは深いからです」)。
 ダビデと民のうちに主のさばきが臨んだとき、ダビデは民のためにとりなして祈りました。私たちは真実な悔い改めをもって主に祈ったダビデの姿に学ばなくてはなりません。

主題 <慢心のきざし>

聖書箇所 歴代誌第一  20章  (2013年2月14日)

今日のみことば「ダビデが、彼らの王の冠をその頭から取ったとき、それは金一タラントの重さがあり、それには宝石がはめ込まれているのがわかった。その冠はダビデの頭に置かれた。」(2)

サムエル記第二、10~11章に、きょうの箇所と同じ内容について記されている。しかし、歴代誌には、サムエル記にある有名な大事件については何も書かれていない。それはダビデのバテ・シェバとの姦淫事件である。「歴代誌ではダビデを美化している」と言う人がいる。しかし、それは正しくないだろう。なぜなら、この歴代誌は、サムエル記をすでに知っている人たちを対象に書かれたからである。歴代誌に記されていなくても、この頃にバテ・シェバ事件があったと、読む者は皆わかっていた。しかし、21章には、ダビデが人口調査をした罪については記されている(21:1)。
歴代誌においては、むしろ、このダビデの人口調査の罪の方が、ダビデの姦淫よりも強調され、姦淫の罪が軽視されているのではない。歴代誌は、彼の罪の根本が、神の御前での高ぶりであったことに注意を向けているのである。歴代誌は、サムエル記の記録を重視しつつも、礼拝者としてのダビデを強調し、ダビデやソロモンを中心として、礼拝を学ぶことに強訓点がある。歴代誌が、「礼拝を教える書物」と言われる理由の一つは、このような記録の仕方にある。アモン人との戦い(1-3)、ペリシテ人、ガテ人との戦い(4-8)における勝利の連続の記録も、礼拝者ダビデとイスラエルの日常の歩みの記録であり、主にへりくだり、主から勝利を与えられた民の記録なのである。
私たちもまた、恵みに慣れ、勝利を自らのもののように慢心することのないよう注意しよう。

主題 <誠実を尽くすダビデ>

聖書箇所 歴代誌第一   19章  (2013年2月13日)

今日のみことば「ダビデは、「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたのだから」と考えた。」(2)

きょうの箇所では、アモン人と戦い(6-15)、そしてアラム人と戦っている(16-19)。敵の軍勢はかなり大きく、恐らく数の面では、敵軍がイスラエルを圧倒していた(6、7、18)。勝利することが難しいそれぞれの戦いに、彼らが臨んだのはなぜか。それは神の約束を信頼する民として、神を第一として
歩む自覚が、明確にあったからである。
 16~17章に、戦いに臨む以前のダビデが詳しく記されていた。それは、礼拝者ダビデの姿である。彼は礼拝式においてのみ整えられていたのではない。礼拝において整えられるとともに、礼拝後においても、主なる神を第一とし、臨在の神が共におられると約束してくださったことへの、率直な信頼があった。その信頼があったからこそ、ダビデとイスラエルの民は、これらの戦いに臨むことができた。
 ダビデは神を拝し愛すると同時に、人をも愛する信仰者であった。それは、最初のアモン人との関わりの経緯の中に見ることができる。2節で、ダビデはアモン人の王ナハシュに良くしてもらったことがあったので、「真実を尽くそう」と言っている。
 しかし、ダビデの好意はハヌンに受け入れられなかった。ダビデの使者たちは侮辱を受けるが(3)、ダビデは侮辱を受けた彼らをいたわった(5)。ダビデ白身は、異邦人の王に対しても礼儀をわきまえていた。また、部下に対し、暖かい配慮をした。彼の基本的な姿勢は、主を愛するとともに、人を愛することで一貫していた。