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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <ソロモンの知恵>

聖書箇所 歴代誌第二   9章   (2013年3月 4日)

今日のみことば「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。」(7)

シェバの女王にとってはイスラエルとの通商を開く目的もあったようだが、ここでは明確に「難問をもってソロモンをためそうとし」だとある(1)。
 女王の難問が実際にどのようなものだったのかはわからないが、この聖書のことばからわかることは、ソロモンがどんな質問、難問にも答えたということ、またそれに対してシェバの女王はソロモンの知恵に驚嘆したということである(3、4)。7~8節を読むと、シェバの女王は、それらが主である神からのものであると理解している。
 箴言1章7節では、知恵とは一般的な知識や知能のことを言っているのではなく、「神を恐れ、神を第一として生きる信仰の姿勢・態度」を示している。現代の信仰者も、天地万物を造られ、それを今もご自身の手のうちに治めておられる方を拝することや、救い主イエスの恵みを感謝する心を持つこと、約束の聖霊が絶えず自分を導いてくださっている確信を持つことによって、自らの信仰が外側に表われてくることがある。ソロモンのことばや行ないは、その信仰によるものであると、シェバの女王にはよくわかったのであろう。別の言い方をすれば、ソロモンは主なる神をあかしし、彼の神殿も王宮も、神の素晴らしさを示したのである。
 9章の後半では、ソロモン王の栄華を極めた記録が記されているが、一つだけ、ソロモンの王座(17~19)が違和感を感じるのではないだろうか。極みまで達した富みは晩年のソロモンの人生を狂わせていくことになりました。主の知恵を頂きつつ謙遜に歩む者でありたいと思います。

主題 <完成を目指して必要なこと>

聖書箇所 歴代誌第二   8章   (2013年3月 3日)

今日のみことば「このように、ソロモンの工事は、主の宮の礎を据える日まで、また、その完成まで、すべてが整えられていた。主の宮は完全であった。」 (16)  
神殿建設の後にソロモン王が行なったのは、領土の周辺整備と言えるような作業であった(1-6)。彼は王国の周辺を整えるために、軍事的拠点としての町々を建設し、また通商貿易のために、倉庫の町々も建設した。彼は信仰をもって王国を治めるために、周辺の状況を具体的に整えた。
 7節からしばらく、異邦人に対する王の対応が記録されている(7-11)。異邦人を滅ぼし尽くさなかったり、自分の妻としたことは(7、8、11)、ソロモンの、主に対する不忠実さを示すことでもある。列王記によれば、パロの娘等の他国の妻によって、ソロモンは堕落した(I列王11章)。しかし、少なくともこの時点では、パロの娘を聖なる契約の箱の周辺に近寄らせないという一線を守ったことが、注目される。その後にも、ソロモンの信仰の姿勢が記されている。彼は絶えずいけにえをささげたが、それはモーセの命令に従う結果であった(12、13)。また祭司やレビ人たちの礼拝への奉仕体制を整えた。それはダビデの定めに従ったものだった(14、15)。
 それらの後に、主の宮が整えられ、主の宮は完全であったといわれている(16)。ここで「完成した」のは、建造物としての主の宮が完成したということだけではない。ソロモン王の治世の体制だけでなく、祭司やレビ人の奉仕体制も整い、イスラエルの民を含めての礼拝の体制が整って、初めて「主の宮の完成」と言われているのであろう。今日、主の教会も、これまで主の導かれてきた歴史を覚え、主に従い続けていくことから受け継がれてきた信仰的遺産を大切に、さらに主の前に整えられた教会を建て上げていくことができるように祈りましょう。

主題 <祈りに応えられる神>

聖書箇所 歴代誌第二   7章   (2013年3月 2日)

今日のみことば「わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(14)

 ソロモンが祈りをささげ終えると、天より火が下り、いけにえを焼き尽くした(1)。聖なる神の臨在は、祭司たちさえも近づくことの許されないものだった。おびただしいいけにえは(5)、畏れと同時に、聖なるお方との交わりに生きる喜びによって、惜しげなくささげられた。何万頭もの牛や羊は、神の民全体が、神のためにささげたものの集計であろう。
 主は、ソロモンの祈りに対する応答として、彼に語りかけられた(12)。そこで、この神殿のことを「いけにえをささげる宮」と、いけにえをたずさえての礼拝がなされる場として意識した表現がされている。臨在を約束される神は、神の民を寄せつけないのではなく、むしろ罪の問題が解決され、共に交わりを持つためにそこにおられることを宣言する(14-16)。
 主の応答は、ソロモンの奉献の祈りに対するものである。特に14節で言われていることは、神の、王、そして民に対する応答の中心である。この主の応答は、まさに罪人の祈りを聞いてくださるという内容である。実際にはイスラエルは何度も背いてきた民だった。背いたから、それで神の民としての資格が失われた、ということではない。そのような過ちを犯したとしても、御前にへりくだり、祈り、神を求め、そして悪い道から立ち返るなら、その祈りを聞いて神は赦すと言われている。
 主が民の祈りを聞いてくださった後は、赦してくださることだけで終わらない。主は「彼らの地をいやす」と言われる(14後半)。すなわち、神に背いた民の生活する場である地をいやされた。主なる神は、その地で信仰者が生きるように求めておられ、また信仰によって神の民として歩むことができるように、顧みてくださるのである。

主題 <罪の赦しを求めて>

聖書箇所 歴代誌第二   6章   (2013年3月 1日)

今日のみことば「そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」(20)  

 6章はソロモンの神殿奉献礼拝における祈りが中心的に記されている。最初に、王がどのような行動をもって祈ったのかについて記されている。王は民を代表しているかのように、祭壇と民の間で、神と民との仲介者のように祈った。また、13節では、足台の上でひざまずいて祈る姿がある。ソロモンは王でありながらも、非常に謙遜な態度で祈った。6章全体にわたる、ソロモン王の、ひざまずく態度をもって祈る姿から、礼拝者の態度について教えられる。彼は、神が私たちの祈りを聞いてくださるように、まさにこの宮で聞いてくださり、そして天で聞いてくださるようにと祈っている(19-21)。ソロモンの祈りは、赦しを求める祈りである。後半を読んでわかることは(22以降)、既に犯したことではなく、これから人間として地上で犯してしまうかもしれない罪についても、赦しを願っている。
 神殿での祈りは、聖さを求める祈りである。聖さにあずかることに神の民の喜びがある。また、具体的に宮で祈ることが大切にされている。
現代の信仰者も、ソロモンの謙遜さ、主の御前における罪人であるという自覚、聖さを求めていくことは今も変わらないことである。私たちは主を恐れつつ、しかし、私たちの祈りにこたえてくださるお方であもあることを覚え、主の御前に進み出ていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <主を喜ぶ>

聖書箇所 歴代誌第二  5章    (2013年2月28日)

今日のみことば「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。」(13)

契約の箱を運ぶ役目は、その他の器具も一緒に運び入れることを含め、レビ入が負った(4、5)。
契約の箱の中には「二枚の板」があった(10)。それは、かつてモーセが神から授けられた、十戒が記された板である(出エジプト31:18)。神から直接的に与えられた板であり、そこには、神を愛し、人を愛することを求める内容が記されている。イスラエルの民は、主との交わりに積極的に応答した。全イスラエルは、羊や牛の群れを、数え切れないほど多くささげた(6)。彼らは自分たちと共にいてくださる神に対して、自発的に喜びをもってささげたのだった。
契約の箱を設置した際には、レビ人たちが賛美した。かなり多くの歌うたいたちが、「まるでひとりででもあるかのように」賛美した(13)。この箱の設置は指導者たちが導いてはいるが、彼らだけの働きではなく、イスラエル全体の働きだった。イスラエル全体が一致して箱を運び、賛美していた。彼らは、聖なるお方なのに、白分たちと交わりを豊かに持ってくださる神に対する感謝で満ち、一致して賛美した。その一致した賛美の後に、宮は主の栄光で満ちた。ここから、主の臨在とそれを喜ぶ民との関係の豊かさを知らされる。
主の臨在は、信仰者にとって大きな慰めであり、力である。礼拝においても、そこには主の臨在があり、また主と、主を喜ぶ信仰者との力強い関係があることを覚え、礼拝における主との交わりを意識し、主の教えに聞き、主に従う者とならせて頂きたいと思います。

主題 <罪人であるという自覚>

聖書箇所 歴代誌第二   4章   (2013年2月27日)

今日のみことば「さらに、金の燭台十個を、規格どおりに作って、本堂の中に置き、五個を右側に、五個を左側に置いた。」(7)

4章には、主に神殿の内装について記録されている。ソロモンによって主導的に神殿は建設されたが、それは彼の個人的意向がすべて反映したものではない。その建設場所は、父ダビデの指定した場所であり(3:1)、神殿の内部に置かれる品々も「規格どおりに」作られた(7、20)。「規格」は、「基準」という意味も持つことばである。ソロモンは、モーセを通して定められていた規格であり、イスラエルの民すべての生きる指針、基準である、「神の教え」に従った。彼は祖先が、主に従ってきたときの態度と全く同じ態度で、神殿建設に臨んだ。
神殿内に設置される品々について記されている(1-22)。それらは、フラム、及び王によって作られた。神殿の内部に置かれる物品は、単なる家具やインテリア用品ではなく、神の臨在の場に必要な物として備えられた。6節には、洗盤や円形の「鋳物の海」の使用目的が書いてある。洗盤はいけにえを洗うため、「海」は、祭司たち自身がそこに入り、身を洗い清めるためのものだった。つまり、いけにえも、いけにえをささげる祭司も、臨在される主の御前に、聖さを求めて、整えられる必要があったのである。
私たちも礼拝をささげるということは、おのずと自らの罪を自覚させられるのが必然である。だからこそ臨在の主に対し、自らをささげ、聖なる神のご性質にあずかれるように、私たちもまた聖さを求め続けていきたいと願います。

主題 <時を待つ> 

聖書箇所 歴代誌第二  3章    (2013年2月26日)

今日のみことば「彼が建設に取りかかったのは、その治世の第四年、第二の月の二日であった。」(2)

ソロモンがいよいよ神殿建設に着手し、建設の場となるのが、「モリヤ山」だった。「モリヤ山」は、アブラハムが息子イサクをささげた場所であり(創世22章)、また、そこは「エブス人オルナンの打ち場」でもある(1)。そこはかつて父ダビデが、神の御前での人口調査による思い上がりの罪を悔い改めて、祭壇を築いた場所だった(I歴代21:26)。これら二つの出来事の共通点は、祭壇が築かれたことである。祭壇は、神殿における大切な場所である。祭壇において、神の民は献身を問われ、悔改めを迫られた。同時に神は、民に対する限りない愛を、その祭壇の場で示してこられた。
 ソロモンが神殿建設に取りかかったのは、彼が王になってから4年後である(2)。神殿建設着手から完成に至るまでの期間が7年であり(I列王6:38)、着手にいたるまでに4年間を費やしているということは、決して短い時間ではない。なぜ、ソロモンは建設前に4年間も時間をかけたのか。恐らく彼は、神殿建設という重大な主のみわざのために、充分に待って備える姿勢をもっていたのだろう。信仰者が、主に試みられて養われる徳の一つに、待ち望む態度がある。自らの判断に頼るのではなく、主のみこころを求めるとき、信仰者は「待つ」姿勢について訓練させられる。ソロモンのここまでの生涯について、多くは記されていないが、主が召された王としての働きのためにふさわしい、「待つ」姿勢をもっていたと理解できる。
 私たちも主の前にみこころを求め、時には待つために忍耐を要することを覚え、その忍耐をも与えて頂けるように祈ろう。

主題 <謙遜に主に仕える者として>

聖書箇所 歴代誌第二   2章   (2013年2月25日)

今日のみことば「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。また、主のために宮を建てるというこの私は、いったい何者でしょう。ただ主の前に香をたくためだけの者です。」(6)
 ダビデによって神殿建設の準備はほとんど用意され、その周到な準備に乗りさえすれば、もう建設が始まるかのような印象がある。しかし、ソロモンもまた神殿建設準備のため、木材などをツロの王フラムに求めた(3)。
 ソロモンはフラムヘの要請の中で、建設の目的ゆえに資材を求めていることと、自分が神の御前にどのような存在であるのかを述べている(4、6)。「私は、いったい何者でしょう」という問いを、父も同じように繰り返していた(I歴代17:16)。彼は、神の御前での小さい存在である自分を自覚し、恵みにより建設準備をするにすぎないことを告白した。ソロモンも自分が小さな者であることを覚え、謙遜な礼拝者だった。
 しかし、そのソロモンが謙遜さと同時に、宮の建設については「私が建てる」と繰り返している(4、5、9)。なぜ、主の御前に謙遜をわきまえたソロモンが、神殿建設に対しては自らを強く主張しているのだろうか。それは神殿建設を主からの任務として自覚するゆえの主張であろう。父にではなく、ソロモンに与えられた責務ゆえに、自らが主への仕え人として神殿建設を全うしようとする態度の表れなのである。
 礼拝者ソロモンは主の宮を建設し、そこで主を礼拝することを切に願った。主の御前にある自分を知り、主との交わりの確かさのうちに平安を覚える者の姿がそこにある。主との親しい交わりを前提に、主から自分へ与えられた任務を理解しているからこそ、「私が建てる」と語っているのである。
 今日の私たちも主の前に謙遜に歩み、主からの使命を自学して歩む一日としたいと願います。

主題 <主を恐れる知恵>

聖書箇所 歴代誌第二   1章   (2013年2月24日)

今日のみことば「今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」 (10)  

ソロモンの具体的な歩みについて、歴代誌では、彼がギブオンにある高き所に行ったことから始まる。「高き所」は、聖書の中で、偶像礼拝の場として登場することもあるが、この「ギブオンの高き所」は、3節にあるように、モーセが造った天幕のある場所であり、真の神の礼拝場であった。列王記では、ソロモンの名前だけが礼拝者として書かれているが(I列王3:4)、歴代誌では、イスラエルの「全集団」が一緒にギブオンで礼拝するために出かけたとある(3)。民は、ダビデから、そのような信仰をしっかりと受け継いでいたのであろう。
 ギブオンで礼拝した日に、神はソロモンに、願うものを与えると言われた(7)。王としての実力もまだないし、経験も財力も持っていないソロモンは、何を一番先に願うか迷ってしまうくらい、何も持っていなかったのだろう。そのような状況下、ソロモンは「知恵と知識」を求めた(10)。蔵言1章7節には「主を恐れることは知識の初め」とある。ここにおける知識とは、主を恐れることであり、主に信頼し、主を第一にする生き方、態度だと言えるだろう。ソロモンは、主を恐れる生き方をもって、民をさばくことを願った。これは、ソロモンが王として神に政治力を特に求めた、ということでは決してない。ソロモンは民全体の整えのために、自分の任務に徹することができるように、自分自身が信仰者として整えられていくことを願っていた。
 信仰の指導者に最も必要なことの一つは、神を恐れる態度であろう。信仰者すべてにとって、「主を恐れる態度」は最も重要なものであることを覚えたい。

主題 <主に心を向けて>

聖書箇所 歴代誌第一  29章   (2013年2月23日)

今日のみことば「私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。」(18)

 29章はダビデの最後のことばと祈りが記されている。
ダビデは神にいけにえをささげ、神を礼拝するための神殿を「城」と表現している(1)。神殿は、神を平安のうちに礼拝するだけでなく、戦いながら礼拝する場でもあるという意味が込められている。
その手にあふれるほど「ささげる」という表現は(5)、通常、(祭司を)神様に仕えるために「任職する」という意味にも訳される(出エジプト28:41)。ここでダビデは、イスラエル全体が主なる神に仕えるように、民に自から進んで仕えるように、勧めている。ダビデのことばに応答した指導者たちは、進んでささげたことを喜んだ(9)。
「私たちは、すべての父祖たちのように」とあるように、ダビデはイスラエルの民全体が異国人であり、居留者であると考えた(15)。主に選ばれた民だが、彼らは主のあわれみなしには、「影」のように実質がなく、「希望」のない者である。主がおられるからこそ、彼らは生かされており、様々な戦いを経験して主の約束に従う。ダビデは主が、心を試されることを知っていた(17)。彼は主が「直ぐな心」を知ってくださることを認め、そして自らを主にささげてきた。18節には、「御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください」とある。私たちは主のことばを求めなければ、心に計る思いが悪ばかりになることかありうるのである。
 神の御前に一番大切なことは、主に心を向けて生きていくことであることを覚えたい。