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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <ネヘミヤの改革> 

聖書箇所 ネヘミヤ記 13章    (2013年4月23日)

今日のみことば「私はレビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせた。私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。」(22)

 13章にはネヘミヤの行った改革について記されている。
 まず、ネヘミヤは礼拝者としての資格について明確にされた。この時、アモン人、モアブ人との混血の者がいて、これを取り分けている(3)。主の律法に聞き従う民として明確にし、これを重要視していたことが分かる。
 また、主の宮に仕える者についても明確にし、その待遇も考慮するようにされた。それはいつまでも主を礼拝して行く上で重要だったからである。
 また、安息日を厳守するようにされた。この時、安息日であっても経済活動が優先される向きがあった。ネヘミヤは、安息日の前にエルサレムに入る門を閉じさせ、安息日が終わるまで開かせなかった(19)。安息日の翌日の商売のために、城壁の外で夜を過ごす商人もいた。しかし、彼が「あなたがたに手を下す」と警告すると、彼らはもう、安息日には来なくなった(21)。さらに彼は、安息日にはレビ人を門の守りにつかせた(22)。
 現代においても日々の生活、また経済活動が優先されている時代と言える。このような中で安息日を第一とすることの難しさがあることを思う。そのような中で、22節にあるように、「覚えてください。あわれんでください。」の祈りの姿勢を忘れることなく、主の安息日を喜びとして備えられるように求めて行く姿勢を実践する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <城壁の完成を喜ぶ民>

聖書箇所 ネヘミヤ記 12章    (2013年4月22日)

今日のみことば「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」(43)

 城壁の修復が完成し、感謝をもって神にささげる奉献式が行われた。まず、レビ人と歌うたいが、各地から、またエルサレム周辺からも集められた(28、29)。シンバルと琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びを表すためであった(27)。祭司とレビ人は、自分たちの身をきよめ、民と門と城壁をきよめた(30)。神にささげられるものにはきよめが必要であった。これは、儀式であるが、もしも内面に神と向き合う心がないならば、やがては単なる形式に終わってしまう。
 二つの大聖歌隊が編成され、(恐らく、南西の谷の門から)時計の針と反対の方向に城壁の上を回るエズラの一隊と、それとは逆方向に回るネヘミヤの一隊が、神の宮で合流した(31-40)。そこで、聖歌隊は神を賛美し(42)、祭司は多くのいけにえをささげ、民も心を共にして喜び歌ったので、はるか遠くでもその声が聞こえた。ここでは、喜びが神から来ていることが強調されている(43)。度重なる困難を乗り越えて、そして、失われていた城壁が再建されたことは、神のあわれみなくしてはなかったことを思うとその喜びがおおきなものとなったことは当然と言える。
 私たちも、苦難と戦い、先の見えないような歩みも、主の導きの中にあるならば、必ず神が喜ばせてくださる日が来ると、信じたい。

主題 <エルサレムに民が戻ってきた>

聖書箇所 ネヘミヤ記  11章   (2013年4月21日)

今日のみことば「すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。」 (2)  

エルサレムは、城壁の修復が終わるまでは「住民は少なく、家も十分に建てられていなかった」(7:4)。また修復がなされても、一般の民が生活の拠点を市内に移すことは、困難を伴うことであった。しかし、イスラエルの霊的物質的復興を確かなものとするためには、神殿のある地エルサレムの活性化は重要なことであった。そこで、すでに市内に住んでいた民のつかさたちとは別に、くじで民の十分の一を、市内に住む者として選抜した(1)。このことを機会に、自分の意思でエルサレムに住む者も起こされ、皆から祝福を受けた(2)。次に、エルサレム居住者のリストが、ユダ族の指導者から始まって(4-6)、ベニヤミン族の指導者(7-9)、神殿で仕える祭司(10-14)、神の宮のつかさ=大祭司(11)、レビ人(15-18)、門衛(19)、宮に仕えるしもべたち(21)と述べられていく。町と神殿の機能が、これらの人々によって回復されるのである。一方で、祭司、レビ人たちの中でも、エルサレムには住まず、先祖が与えられた所に留まる者もいた(20)。
 カナン征服時に、ユダ族とベニヤミン族が獲得した村落の名称が、25-36節に記され、この時点でそれらの所に住みついたと記されている。エルサレムより北はベニヤミン、南はユダが住みついた。ユダの一部は、カレブに与えられたキルヤテ・アルバ(ヘブロン)にも住みついた(25)。神が再度、この地を与えられたとの、民の意識を読み取ることができる。また、レビ人が各地に散らばるように、ベニヤミンに加わった者もあった(36)。
 かつてのようなエルサレムが再建していく様を確かに見させてくださったのである。主は民を顧み事を行ってくださったのである。

主題 <主の民としての盟約>

聖書箇所 ネヘミヤ記  10章   (2013年4月20日)

今日のみことば「彼らの親類のすぐれた人々にたより、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めとおきてを守り行なうための、のろいと誓いとに加わった。」(29)

 民は盟約を結ぶこととなり(9:28)、ネヘミヤは盟約の第一の署名者となった(1)。続いて、民の代表者たちが署名した。一般の者は、この盟約に、ことばの同意をもって加わった(28、29)。この盟約は、「神の律法に従って歩む」ことを決意し、歩むときには祝福を、歩まないときにはのろいを受け取る誓いであった(29)。このとき、民は経済的危機の続く中にいた。それゆえ、律法に従って歩むことの困難は、三つの点に集約されていたと思われる。第一は、この地の民との結婚である(30)。経済的に安定している異邦の民との結婚は、イスラエルにとって魅力的であった。しかし、それは同時に、次世代以降の者に、神との契約の民である意識を失わせるものであった。第二は、労働(経済活動)が礼拝より重要であるという意識である(31)。安息日も働くことは、礼拝をないがしろにし、神の民の意識を失うことであり、神の与える安息を失うことであった。第三には、神の宮をなおざりにすることである。当時は宮を忘れ、「自分の家のために走り回る」現実があった(ハガイ1:9)。これは礼拝の意味が失われつつある状況の表れであった。そのために、礼拝のためのシェケルの供え物(32)、たきぎのささげ物が定められ(34)、初物が主のものとされ、宮に仕えるレビ人に収穫の十分の一がささげられるようにした(36、37)。すなわち、彼らは、経済的祝福を求める民である前に、礼拝の民であることを告白したのである。

主題 <悔い改めから始まること>

聖書箇所 ネヘミヤ記   9章  (2013年4月19日)

今日のみことば「そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。」(2) 
その月の二十四日に、民は集まった。「断食をし、荒布を着け、土をかぶった」のは(1)、深い悲しみや悔改めの表現である。これが、律法を聞いたイスラエルの応答であった。彼らは「すべての外国人と縁を断った」(2)。この応答は、神の民としていのちを失っていた者が、契約の民に戻ろうとしたことを示している。それは、多くの痛みや、悲しみを伴ったに違いない。しかし、ここから神の民としての回復が始まったと言える。
 まず、神が天地万物の創造主であることが告白されている(6)。さらにその神は、アブラハムの心の真実をご覧になり、彼と契約を結ばれ、その子孫に約束の地を与えられたことが確認されている(8)。創造主は、また、歴史を導かれるお方なのである。出エジプトに際しては、パロにしるしと不思議を行われ(10)、海を分けられた(11)。神はその民のために、歴史に介入され、ご自身の力を現された。荒野においては、雲の柱、火の柱で民を導き(12)、パンと水を与え(15)、民の導き手であったことを明らかにされた。それと共に、シナイ山では彼らに律法を与えられた(13)。そして、聖なる安息を教えられた(14)。神の交わりが回復されるということは、同時に安息に入ることとして教えられているように記されている。
 しかし、16節以降では、神から離れていく民の姿が示され、しかし、神はあわれみをもって臨まれ続けていたことが記されている。神との交わりに入れられることをまず第一に求めていくところから始める信仰者でありたいと思います。

主題 <主を喜ぶこと>

聖書箇所 ネヘミヤ記  8章   (2013年4月18日)

今日のみことば「きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」」(10)
 城壁の完成を見た民たちは次に何をしたのか。それは神の民として再び整えられるために歩み始めたと言える。
 その第一歩は、律法(みことば)を聞くことから始まった。この段階に至り、実務の中心であったネヘミヤに代わり、エズラが登場する(1)。城壁完成の翌月(七月)の一日、律法を聞いて理解できる者が広場に集まった(2)。そこで、エズラは律法を朗読した(3)。十三人の補佐する者も律法を解き明かし(7)、民はそれを理解した(8)。内容の中心は、イスラエルの不信に勝る主のあわれみであり、また彼らが神の民として歩むことを通し、世界が主を知ることであった。不従順な者たちを導かれた神のあわれみに触れたとき、彼らは感動し、民の中に悔改めが起こり、「みな泣いていた」(9)。この月の十日は贖罪の日、十五日からは仮庵の祭りが続く重要な祭りの月であった(14)。民は、ネヘミヤによって、自分の罪に心を向けた悔改めの涙を、神のあわれみによって罪を赦された喜びに転換するように勧められた(11)。彼らのあふれる喜びは、「行き、食べたり飲んだり、ごちそうを送ったり」することによって示された(12)。
 次に民たちは、約束の地に定着以来、忘れられていた仮庵の祭りを再興することにあった(14-18)。祭りを共にするのは、神が導かれた荒野の旅というイスラエルの先祖の経験を自分たちのものとし、また同じ祭りを祝う同時代を生きる者に、共同体としての意識を与えるためであった。
 罪の悔い改めと神が困難な中にも共に歩まれたお方であることを経験的にも回復することが民の整えとなったことが分かります。私たちも主が共におられ、導いてくださえるお方であることを確認し、共有する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <民に働かれる主>

聖書箇所 ネヘミヤ記  7章   (2013年4月17日)

今日のみことば「私の神は、私の心を動かして、私がおもだった人々や、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載するようにされた。」(5)
 エルサレムの城壁が再建され、城門が取り付けられるとともに、町の防衛と治安に当たるハナニとハナヌヤが任命された(2)。城門は、通常より遅く開かれ、閉門も門衛の勤務中になされるようになった(3)。また、自警団も選ばれ、見張り所と自分の家の警護が命じられた(3)。敵に内通する者が多い中で、敵の攻撃やかく乱されることに対して、なお用心が必要だったのである。城壁内に住む者はまだ多くなく(4)、これから家々が建築され、エルサレムの町の再建がなされていくことになる。
 市内への移住を推進する段階になって、捕囚からの一次帰還者の名簿が発見された(5)。エズラ記2章のものとほぼ同じである。民の代表としてゼルバべル、ヨシュアなど「十二人」が記されている(7)。帰還した民は、ユダ族、ベニヤミン族、レビ族が主であったが、「十二」という数字によって(7)、三部族で成立していた南の王国だけではなく、十二部族で成立していたイスラエル全体の再興が意識されていると考えたい。「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、『破れを繕う者、市外を住めるように回復する者』と呼ばれよう」と言われていた預言がここに成就した(イザヤ58:2)。もちろん、「破れを繕う」とは、城壁と共に、霊的な城壁の修復をも意味すると言えるだろう。
今も神は、人々の「破れ」(神との関係において修復の必要な部分)を見いだして、それを繕う者、とりなす者を求めておられる。最終的な「破れを繕う者」として、キリストが十字架につかれ、よみがえられて新しいイスラエル(教会)をお建てになったことを覚え、主あって歩む者とならせて頂きたい。

主題 <私を力づけてください>

聖書箇所 ネヘミヤ記 6章    (2013年4月16日)

今日のみことば「事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。」(9)

 サヌバラテ、トビヤ、ゲショムらは(1)、城壁の完成が近づいたことを知ると、策略を巡らし、ネヘミヤの暗殺を企てた。彼らと利害を同じくするユダヤ人も同様であった。暴力による恐怖によって、ネヘミヤを脅した。さらには、ペルシャ王に、「ユダヤの反逆、独立」という偽りの情報を流すと脅した(6、7)。情報には力があり、王が誤った情報を信じれば、ネヘミヤとの信頼関係に亀裂が生じる。サタンによるエバに対する誘惑も、誤った情報を信じさせることから始まった(創世記3:17参照)。暴力による脅しや、偽りの情報操作の背後にいつも存在しているのはサタンである。
一方ネヘミヤは、敵に内通する者とも対決しなければならなかった。彼らは、異邦人との協調という、一見平和的解決を掲げていたのかもしれない。シェマヤは、ネヘミヤの身の安全を考え、神の宮の本堂にかくまうと言う(10)。しかし、そのことばにネヘミヤが乗せられれば、祭司しか入れない領域に足を踏み入れることになり、罪を犯すことになる(13)。買収されたり、預言という名で人を惑わすことは、神の方法ではありえない。にもかかわらず、トビヤと姻戚関係にあり、利害を同じくするユダヤ人は、トビヤの善行を語った(19)。このような困難な状況とあらゆる妨害の中で、城壁は52日という短期間に完成し、国内外のすべての者が、「神によってなされた」奇蹟であることを認めざるをえなかった(15、16)。
 私たちもあらゆる困難の中にも動じることのない信仰と主の守りに期待することが出来るように祈りましょう。

主題 <権利を主張するのではなく愛をもって>

聖書箇所 ネヘミヤ記 5章     (2013年4月15日)

今日のみことば「それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した。それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。」(18)

 ユダヤ人の中には、食料を手に入れるため(2、3)、また、城壁修復を含む税金のために(4)、家や畑を抵当に入れ、同胞から借金をし、さらに、自分の息子や娘を奴隷として売らなければならない者もいた(5)。問題は、富裕層が貸付金の利息を取り、担保の土地を手に入れ、同胞を奴隷としても、これらを「合法的」と思っていたことであった。申命記23章19~20節には、同胞から利息を取ることが、レビ記25章39~43節には、同胞を奴隷とすることが禁止されている。いずれもこの時代には、忘れ去られていた規定であった。
 ネヘミヤは、そのような教えの精神を回復しようとする。異邦人に売られた同胞の買い戻し(8)、貧しい者に貸した金、穀物の帳消し(10)、総督手当ての辞退(14)、農地の不買(16)などを行った。彼は、ペルシャ高官として蓄えた財を、すべて使い果たしてもよいと覚悟しているようにも思えるほどに自らの財産に関わる決断を民のために行った。
 ネヘミヤの行動は決して一時の思い、情熱ではなく、絶えず主のためであり、同胞の民のためにどのように仕えていくべきかを自らがその姿勢を示した行動であったと言えよう。
 私たちは、神の家族に、兄弟姉妹に対して、自らささげ仕えているだろうか。主イエスは仕えられるのではなく、人に仕えるためにこの地に来られ、共に歩んでくださったということを覚え、私たちも主にあって仕える者とならせて頂きたいと思います。

主題 <主が戦ってくださる>

聖書箇所 ネヘミヤ記   4章   (2013年4月14日)

今日のみことば「どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」」 (20)  
ネヘミヤによる城壁再建の働きは、ユダが捕囚になっている間に、その地において様々な権益を獲得した者たちにとっては、脅威となった。ネヘミヤは、城壁再建と外敵からの防衛という二つの戦いに向き合わされた。異邦の民の代表たちは、再建を中断させるために、神の民を気落ちさせることばを語った(1-3)。ネヘミヤは、このような嘲笑を買うたびに、短く祈った(4、5)。彼らのことばは、無防備に聞くならば、イスラエルの民を無気力に追いやり、働きを放棄させる力となってしまう。私たちは、人の嘲笑や課題に直面するとき、ため息に代えて、主に祈る者とされたい。ため息をついてばかりいると、無気力が民の心を支配するようになるだろう(10)。
その後、敵によることばでの嘲笑は、やがて武力行使へとエスカレートするだろう(11)。敵のことばは、城壁再建の主たる担い手である壮年男子が、その家族と離れて作業をしていることに注目し、家族の不安をかきたて、浮き足立たせることを計算していた。イスラエルの民は、働き手が家にいて、自分たちを守ることを求めた(12)。そこでネヘミヤは、まず「彼らを恐れてはならない」と語り(14)、次に具体的な対応策を示した。城壁の完成までの短い期間、家族ごとに城壁に移り、防衛に携わり(13)、彼の直属の部下は、半分は工事に、半分は防衛に当たった(16)。城壁を築く者は、武器と工具を持ち、状況に対応する。夜も武装した者がエルサレムに滞在し、敵の動きに備えた(22)。
 敵の攻撃に際し、「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」(21)と告白し、主にの助けに期待している。困難がかえって主への全幅に信頼へと成長する機会となった。