2013年7月 3日 (水)

主題 <伝統の知恵は人を救えない>

聖書箇所  ヨブ記 25章     (2013年5月27日)

今日のみことば「ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。」(5)

 ビルダデの最後の論争である。ここで三人の友人たちの主張が終わる。
2節の主張「主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。」は、きわめて優れた忠告である。神の存在を知っている者の言葉と思う。神の絶対的な主権が理解されているが、現実の悪の問題を解決していない。
 彼の主張はエリファズの主張をなぞっているだけのようだ。(4;17。15;14-16)
 こうした考え方が私たちの人生を苦しめてしまう。社会通念や育てられた時代の教育をそのまま信頼して生きることで、自分を規制するだけでなく、他者を規制してゆくからである。
 神への古くから言われてきた考え方では、悪の問題を解決できないとすれば、神ご自身が出ていただかなければなりません。
人間は虫けらのようだと主張されている。人間の尊厳についてこんなに言い放っていていいのだろうか。神がどれほどに愛されているかを見失ってはいけない。
 これまで主張されてきた考え方をもってしても、ヨブの思いを翻すことができない。ヨブの自我は人の考え方では決して砕くことができない。
 あるいは、私たちも自我の問題に苦しみ、悩んだとしても、決して人間的な理解の仕方では乗り越えることはできない。神によって手を触れていただく以外にないのである。

主題 <神がもっと正確に正義と悪をさばいてくれたなら>

聖書箇所 ヨブ記  24章     (2013年5月26日)

今日のみことば「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。」 (1)  

 ヨブは、なぜ神がはっきりと出てきて、黒白をつけてくださらないのだろうか。正しい者と悪人をさばく時期を定めておられるはずではないか。神を知るものたちがその日を見ないのか(1)というヨブの疑問は、私たちに共通する問いかけではないか。
 悪者が横暴に動き回っている。地境を移すとは、土地管理が十分でなかった昔の時代に、境界は石塚であった。だから容易に移動させることができた。申命記19;14などを読んでください。悪者は貧しい者を踏みつけて、羊の群れを奪い取っている。苦しみながら日々の暮らしを立てているのに、弱者の問題を平気で踏みにじる。こうした悪を神がすぐに裁いてほしいと思う。だが、神はかえってそうした悪を働く存在を繁栄させているかに思えて、ヨブは苦しむのだ。(22-23節)
 しかし、ヨブは神を信じる。彼らはしばらく繁栄しているが、まもなく正しい者への審判がなされることを伝統的な考え方から引き出している(24-25節)。こうしてヨブの苦闘を読み進むうちに、私たち自身の問題を浮き彫りにする。神を信じているが、現実の不条理に苦しむ日々において、もっと明確に神が出てくださったらいいのにと焦る。
しかし、神の時は必ずやってくる。救い主が来られた時もまた、どんなに待たされたとさえ思うが、最善の神の時であった。(ガラテヤ4;4)。
 神を知る者たちは、神の御手に信頼することを学び取る必要がある。最善な時とは、神が立ち上がられるときであるから。

主題 <一つのまっすぐな信頼を> 

聖書箇所 ヨブ記 23章      (2013年5月25日)

今日のみことば「神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。」(6)

ヨブの心がひがまずに答えた言葉に心を動かされる。この古い時代に、福音の中心、神の変らない愛、あわれみを深く受けとめていたことに驚くのである。神は、むしろ私と争うことよりも、心を留めてくださっていることを確信した信仰表明であるからだ。
 そこにおいて神は私を正しい者として扱ってくださる。つまらない存在、正しくない者、訴えられた者としてなど決して扱おうとされていないのだ。
 神の前に私たちが立つときに、はたしてこんな信仰が見られるだろうか。多くの恥ずべき存在であることを思わないで、神の慈しみを信じることである。その唯一の根拠が、救い主イエス・キリストの十字架の贖いにあることをしっかりと覚えよう。
 ヨブの、こうした福音理解に立って自己を見つめる視点を示してくれる。同じ時代と言われるアブラハムもまた、『神を信じた。神はこれを義とされた』と信じたようにである。(創世記15;6)
 神に会えるなら、御座にまで行きたい(3)。2節の通りに神こそ、ヨブにとっての真実の友となっている。地上の頼る存在を神は砕かれていくのだろうか。また人からあれこれをさばかれることなど、みじんも心を動かされないパウロのようにさえ変る(Ⅰコリント4;3-5)。
 神の心の広さを自覚しようと思う。人間の世界の狭い了見から解放されよう。神は私たちよりはるかに心の広いお方なのだ。一つの真っ直ぐな信頼を神の上に置くことを決意しよう。神は心の欲するところを行われるからである(13節)。

主題 <他者の罪をさばく心得>

聖書箇所  ヨブ記 22章     (2013年5月24日)

今日のみことば「いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないか。」(5)

エリファズの3回目の論告である。これまでよりも一層激しいさばきのことばが繰返される。
 まず、3度も同じ内容を言葉を換えて何の役に立つか、何の益があるかと。ヨブの歩みもまた少しの正しさを主張しているが、無駄なことだ。
 さらにヨブが犯していない罪まであれこれと取り上げるのである。(5-14)このような始末に負えない人間がいる。彼の語ることばには、正しいことが含まれている。いや、とっても大事な信仰の原理さえ述べられているのである。
 21-30節を読んでみれば、とても福音的な内容が取り上げられているのである。『さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。』(21節)このメッセージは、いつの時代、だれにでも当てはめられる。優れた福音的なことばでさえある。だから、この言葉に逆らえる人はいない。エリファズはたしかに優れた人物として評価されよう。23節にあるとおり、『あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。』は、重要な神からのことばでさえある。
 さて、ではこういう言葉をそのまま受け入れていいだろうか。最初にしっかりと理解しておかなければならないことがある。主も当時のパリサイ派の言うことを聞け。しかし、することはするなと教えられた。自己を義として、裁こうとする人間を徹底していかに言葉数や正しい意見も神の光の下で、愛の律法の下で読まないととんでもないことになる実例である。他者への関わりを深く学べる章であろう。

主題 <人の苦悩を理解する道>

聖書箇所  ヨブ記 21章     (2013年5月23日)

今日のみことば「あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ。」(2)

 ツオファルの罪人の運命について語ったことには真実が含まれている。だがそれがすべてなのではない。この世には罪を犯す悪人があらゆる幸福を手にしているのを見ることがしばしばあるからだ。
ヨブにとっての論点は、神はなぜ、悪人の繁栄を許しているのかである。それをただ悪人の上には災いが下るといい、そのヨブが悪人であることを責め立てていても、愛がなければ、正義の言葉も救いや希望の道筋さえつけることはできないのだ。
 地上の生活には、神がおられるならもっと明確な線引きがあり、悪を行う者がさばかれていいのではないか。それなのに、かえってすることなすことが成功しているように見える。神を侮りつつ、子孫が繁栄し、事業はうまくいっているように見える。健康でつまづきがない。
 ただそうした世界に映るのは一面からの見方であって、真実から別な見方もある。主がルカ16;19-25にはこの地上で豊かな報いを受けた者は御国では失われることを語っているのである。
 ヨブが苦悩するのは、なぜ苦悩があるのか、この苦しみなどない方がいいと叫んでいるのではない。そうではなく、この苦しんでいるヨブそのものの叫びを受け止めてほしいのだ。苦しみを人が解決することがほとんどできないとしても、深い共感していただけたという実感が重要なのである。
 ヨブ記を読む上で、私はとても深くこのことを考えさせられている。人を簡単にレッテルを貼り、わかったような考えでいるということがないか。人生はもっと深く、豊かで、味わい深いものなのだ。そのことを自分自身だけでなく、他者の苦悩と関わることに意味があるのだ。

主題 <悪意ある証言に直面する>

聖書箇所  ヨブ記 20章     (2013年5月22日)

今日のみことば「これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。」(29)

 2-3節のツオファルのはじめの反論には驚くほどだ。もっとも19;28-29で苦難の中にいるヨブから警告されたことにいらだち、逆ギレしたのである。このような口論や議論では人を説得したり、心の痛みを和らげることは不可能だ。かえって悲しみが増す一方になるのである。
ヨブの苦難は、苦難そのものよりも周囲のいたわりのない言動からもたらされたものであった。あなたも同じような試練に直面して同じような悲しみを増した経験があるでしょう。彼のヨブへの言葉は、でっちあげたような罪を次々とあげつらうのである。責める友人達が一緒になっている。その集団に忠告やいさめる人物がいればよいが、ますますエスカレートしてゆくのである。
 19―21節には、ヨブが踏みにじり、かすめ奪い、むさぼっていると非難する。富んだ者へのねたみやあらぬ訴えをねつ造する。
 22-26節には、満ち足りていても貧しくなり、若くして健康だった者が戦いで生命を落としてしまうという。なんというひどい非難の言葉だろう。その極めつけが、「これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。」(29節)と言うのだ。
 今日は、悪意あるグループにいることがどんなに問題かを見極めていこう。そして悪を語る人間にだけはなるまいと決心しよう。
 こうした非難に立たされた痛みを持つヨブを推察し、一緒に悲しむ人の場に立てるようになりたいと自己訓練をしたい。悪意ある人たちのいる場に立つこともあるでしょう。でも主にゆだね、他者が立っているときには精一杯に弱い者の側、支える者の側に立とうではないか。

主題 <私を完全にあがなう方がいる>

聖書箇所  ヨブ記 19章     (2013年5月21日)

今日のみことば「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25)
 この聖句はヨブ記の中心である。苦難の中で「私を贖う方は生きておられる」と確信している。私を贖う方は親族の立場の者である。だから神はヨブにとって家族でもあるという意味だ。苦難に遭わせることを許した神だが、そこに家族よりの深いいたわりがあることを。
13―14節にある神の取り扱いは、「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。」と嘆くが、それはヨブをして神への信頼へと道を開いてゆくための道具立てだったのだ。ヨブにとっての頼りとした家族や親族の支えを神は砕かれてしまった。
 同じ出来事ではないが、神は私たちにも同様な取り扱い方をなさるのです。人間的な頼りとするものを神は砕かれてしまう。だが、そこで親族よりも深くて強い確かな神の存在を見いだすためであるのだ。
 ヨブは新しく神を発見する。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)と。私を贖う方がいる。私に味方し、私を愛し、完全な救いをもたらし、いっさいを成し遂げてくださる。完全な状態にまで神は変えてくださるのだ。「後の日」とは、この世の終わりの時を指している。自分のちりのような者を引き上げ、喜んでくださることを言い表した。今現在の状況などに、関心を向け、心を奪われている時間はないのだ。
 試練に持つ意味は、地上の事柄に心を奪われないで、神の国への確かな希望を抱くためである。そうして心がきよめられ、人格が神に似た性格が形造られてくる。でも消して地上を無視しない。なぜなら、「ヨブの最後を見よ」、とヤコブは語っている(ヤコブの手紙5;11)。

主題 <いつ、けりをつけるのか>

聖書箇所  ヨブ記 18章     (2013年5月20日)

今日のみことば「不正をする者の住みかは、まことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(21)

 再びビルダデがヨブに託宣する。いつまで自我を主張して自分を正しいとし、忠告を受け入れないのか。明らかにヨブが間違えており、試練に遭うのはヨブに問題があったからなのだ。「いつ、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。」と。友らの考えを受け入れれば、話し合ってもいいという高飛車な態度を感じるのだ。ヨブの反論から、より激しい反論となっている。
 5節の「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。」は、新共同訳聖書の訳のように『神に逆らう者の灯はやがて消え/その火の炎はもはや輝かず』という意味である。悪者とは罪や悪を行うという意味ではない。神を信じていない人間のことである。ヨブが神を信じていないと断定するのである。
 7-8節には、「彼の力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが彼を投げ倒す。彼は自分の足で網にかかる。落とし穴の上を歩むからだ。」と悪しき者には必ず危険と不幸があり、ヨブがそうなのだと決めつける。自分で自分を正しいとして落とし穴を作り、自分で落ち込んだようだといさめる。19節には「彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかにはひとりの生存者もなくなる。」とまで決めつけられる。極めつきは、「不正をする者の住みかは、まことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(21節)とまで言われた。
 ヨブへの最後通告のような言葉だ。友人だからと言いたい放題ではないか。こうした取り扱いをされた経験を持つ方もいると思う。そこにヨブ記を読む深み方とその真実が読み取れよう。

主題 <神のみが信頼し得るお方だ>

聖書箇所 ヨブ記  17章     (2013年5月19日)

今日のみことば「どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。」 (3)  

 1節で、ヨブの深い決定的な失望と失意を告白する。「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。」
 2節で友人のあざけりの中で眠ることができない。「しかも、あざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。」
 3節で神以外には信頼できる方がいないと。神だけがヨブの保証をしてくれ、支持してくれる方は神のみなのだ。16;19の「このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。」(新共同訳聖書)という確信をいっそう深めるのである。
 苦悩と孤独、友人からの拒絶を通してヨブはさらに一歩高くされてゆく。さらに強くなってゆく。さらに天に確信を深める。
 現実の試練とその試練に対する友人の取り扱いの中で、さらにさらに惨めな気持ちになってゆく(5-18節)のだが、だからこそ、天に望みを託せるようになるのである。この地上での人間的な希望がくじけ、失われ、かえってダメージを与えるのみだ。だから天に望みを一層向けるようになってきたのだ。やがて、19;25「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」と突き抜けるのだが、それはさらにもう一つの訓練の段階が必要なのかも知れない。
 こうしてヨブにとっての試練はより一層完全な者へと変えられる契機となってきた。人生の試練は思いもかけない祝福へと導こうとしているのに気付かないことが多い。実は、隠れたところで神は働かれていた。あなたを聖化し、主のみ形にまで成長させる道具だったと。

主題 <保証してくださる方に祈ろう>

聖書箇所 ヨブ記 16章   (2013年5月18日)

今日のみことば「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(19)

 ヨブの悲しみとそこからくる応答を読み、心が砕かれてくる。エリファズの正統的な、しかも自意識過剰な扱い方(15;11「神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。」)に対する真っ向からの反論である。
 3節を読むと、冷静と見えたエリファズさえ声を荒げて迫っていたのかも知れない。ヨブは、もしも立場が逆転したら、彼のような慰めの仕方をしていたろうと嘆くのである(1-6節)。
 それにしても、神に打たれ、打ち砕かれ、破れに破かれ、徹底的に責め立てられていることをこんなにも深く表現している言葉を読んだことがない。(7-16節)
救い主イエス・キリストが神に見捨てられた悲しみを十字架の上で告白し祈っているが、それにほんとうに近い思いがする。
 その上での友人達からの徹底したさばきの言葉だ。ヨブは耐えられるのだろうか。もう数年もすれば私は帰らぬ旅路につくからです、と決意する。(22節)
 しかしここでこそ、ヨブにとって天に保証してくださる方がいることを知っていたのだ。友が私をあざけるが、私の目はただ神に向かって涙を流すのみですと。(19-20節)
 ヨブの真実の保証人となってくださる方をのみ信頼するのである。究極の信仰の根拠を思わせる。天において保証してくださる方、救済してくださる方がいる。苦悩のただ中にあってこそ、天に目を向け、そこに支えと希望を向けるのである。ここに、主イエス・キリストの大祭司として私たちを弁護してくださる姿をはっきりと感じ取れる。