2014年6月11日 (水)

主題 <神を待てと大胆に信じよう> 

聖書箇所  ヨブ記 35章     (2013年6月 6日)

今日のみことば「しかも、あなたは神を見ることができないと言っている。訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」(14)

エリフの勧めには、ヨブをして神に導く役割が与えられている。その中でも優れた言葉がこれである。
 ヨブとしては、「神の前に自分は正しい」と言わなくては生きていけないと思っている。たしかに、ここに立つ以外には、ヨブは生きられない。
 ただエリフの言葉によって、ヨブの心が神の前における自分を見いだすような意味を与えている。ヨブがどれほど自己の義を主張したとしても、それが何であろうか。1-8節に見るように、ほんとうのところは意味をなさないことなのである。
 そして、ヨブのなすべきことは、「神を待つこと」なのである。
神を待つとは、ヨブが正しいにもかかわらず苦難に直面して、徹底的に砕かれている中で、神に主権を明け渡していくことにほかならない。この心を開いて神に向かう決意は並々ならない。しかし、ここにおいてヨブの将来が開かれるのだ。
 現実はきわめて困難のただ中にいる。自分の苦悩だけではない。周囲から徹底的にやっつけられているのである。かつてのヨブの繁栄と幸福はすっかり影を潜めたように思える。しかし、決して彼の幸福は失われてはいない。神にあって生きる世界がある。訴えは神の前にあることをしっかりと覚えることこそ、突き抜けて生きる秘訣なのだ。
 以前の栄光にしばられることなく、神にあって心の安んじたヨブの方がずっと素晴らしいのだ。あなたの苦悩もここで抜け出るだろう。

主題 <自我の主張>

聖書箇所  ヨブ記 34章     (2013年6月 5日)

今日のみことば「ヨブはかつてこう言った。「私は正しい。神が私の正義を取り去った。私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は直らない。」(5)
 
自分は正しいとするヨブの主張をまとめたものである(33;9-11)。この正しい人間が、このような試練に立たされるのは、神が間違えているのではないか、ということを思うことをエリフがとがめているのである。
人間の自我の主張の根源にふれている。そして今日は、私たちがどこまでもこの点で自分に偽りを言っていることがないだろうか。
ヨハネの第一の手紙1章に、「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1;10)と言われている。
エリフのついてきたこの肝心なポイントを自分について掘り下げてみよう。自分を義とする人を主が指摘されている場面がある。ルカの福音書18;10-14に出てくる。パリサイ人の姿勢である。かれは他の人、ことに取税人のようでないことを感謝し、自己のしてきた事柄に自信を深めている。一方の取税人の祈りは、神の前に砕かれたたましいからの叫びであり、神のあわれみを求めたものである。
自己をたのまないで、神にのみ自分の根拠を置くことを主題にしたい。ヨブの苦しみ方が、ちょうど私たち自身を鏡に映しているように思える。神にすべてをゆだねることこそ、実は神の義なのである。そして苦しみが私たちを純化し、神にのみ立つことに移ろう。

主題 <神の前における高ぶり> 

聖書箇所  ヨブ記 33章     (2013年6月 4日)

今日のみことば「聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。」(12)

 ヨブの持つ罪の本質をエリフは見抜いていたので述べるのである。それは神の前における高ぶりである。ヨブであっても罪がある。それは貧しい人々をしいたげたり、不従順であったわけではない。しかし、神の前においても、義であると主張したことによる。
「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(14)
神はいろいろな方法で、手段で私たちに語りかけてくださる。時には、夢の中で語られたことがある。ヤコブは天から掛けられたはしごによって、ここに神がいますのに知らなかったと告白している(創世記28章)。イザヤが天の御座の聖なる場を見て、自己の罪の自覚を覚醒させられた(イザヤ書6章1節)。使徒パウロはマケドニヤの叫びを幻で聞いたのである。(使徒16章)
そして最も重要なことは、人が神の前において高慢に陥らない経験である。しばしば、人間の中心的な問題は高慢という課題だからである。しばしば、自己の罪について問いつつも、そして神の豊かな赦しと恵みを経験したその場でさえ、高慢になることがある。こんな小さな罪人をこんなにも愛されているのかと驚きますが、ほかの人よりも優れているというとんでもない間違いをしてしまうのである。
エリフのヨブへの忠告を聞きつつ、神を正しいとすることによって人生の心棒が納められてくるのである。

主題 <どこまでも人の言葉だ>

聖書箇所  ヨブ記 32章     (2013年6月 3日)

今日のみことば「私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。」(18)

 エリフの論述が始まる。三人の友人たちの傍らに立っていたエリフは一部始終を見て、聞いていたのである。それからヨブの独白を聞いた。
その最中に、年が若く、賢く、冷静で理知的なエリフには、これまでの論争に耐えられなかったのだ。
 その理由は、第一にヨブが「それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。」(1)。また神よりも自分を正しいとしていると思えたからである(2)。 一方で三人の友人が徹底してヨブには罪があるとしつつも、ヨブを降参させられないからであった。このためにエリフは怒りを燃やしたのである。彼は年が若いが、情熱があり、論理性に富み、人にへつらうことをしない。彼にまさる人を見いだすのは困難だ。
 彼の論述には目を見張るものがある。三人の理を尽くした論陣を張っても、ヨブを落城させることができない。彼はその論議のかたわらで自分の言いたいことを蓄えていたのである。
 しかし、結局のところ、彼もまたヨブを悔い改めさせることはできないのである。人の中に宿る能力、圧迫されるほどのエリフの霊の力が動いている。
 人にはおのおの、与えられたたましいの叫びがある。私たちはそうした魂の叫びを耳を傾けて聞く用意があるだろうか。ただしどこまでも人の声なのであります。「神の声」ではない。朝日新聞の一面に「天声人語」のコラムがありますが、思いの丈を尽くして語っても、どこまでも人に過ぎないことを心に刻んでおきたい。謙虚に神を信頼して待つものでありたい。

2013年7月 3日 (水)

主題 <神よ。公正にさばいてください>

聖書箇所 ヨブ記  31章     (2013年6月 2日)

今日のみことば「だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば、私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ」 (35~36)  

これまでヨブは、自己の主張をどこまでも述べてきたが、最後はやはり神の公正なさばきを仰ぎ求めるしかないのである。
 ダビデもまた、神に訴えている。詩篇26;1-2「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」 なんという切実な訴えであろうか。最後はただ神のみが、この私の弁護者、支え手となってくださることを知っているのは何という幸いだろうか。何もかも知っている神だからこそ、この私の弱さや問題、罪を見抜いておられる。自分のずるさやエゴを知り抜いておられる。だが、そうした神に対して自己の保護を求めるのである。
 私たちの安心の土台はここしかないことである。そして神は私たちの保護者、弁護人として支えてくださるのだ。
第一ヨハネの手紙2;1「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」
 だれかが、どんなにひどい言葉や態度で扱っても、主イエス・キリストだけは私たちの弁護者であることを覚えたい。

主題 <ヨブの立たされた苦悩の率直な激白> 

聖書箇所 ヨブ記 30章      (2013年6月 1日)

今日のみことば「私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。」(26)

ヨブの置かれた立場がどれほどに困難であったかを想起しよう。29章にあったすべてが幸せであった頃とは全く反対の立場である。
どうしてこのような状況で嘆かずにいられようか。叫ばずにいられようか。しかし、ヨブの周囲の人々はただ眺めるだけだ。苦難の叫びを見て見ぬふりをするだけだ。いや、苦しむ人間にはとても人々は冷酷なのだ。見下げ(1)、かつての使用人とその子供らがあざけるのだ。
前任地に一人の信徒がいた。富豪だった家族が戦後の農地解放によって小作人たちが手のひらを返したようにふんぞり返り、攻撃された。息子が不良になり荒れていたときに、息子の大学の教授がアララギ派の歌人でキリスト者であったので、聖書に導かれ洗礼を受けた。そこから本当の希望に変えられたのだ。
ヨブの苦悩をほんの一部だがわかる。しかもこうしたときに、神がヨブの訴えを少しも顧みてくださっていないと思えるのだ。こうしたときにこそ、神だけは見捨てないと言ってほしい。光を望み、幸福を期待したのに、悪が来たのだ(26)。
ヨブの心は少しも休みがないだけではない。はらわたが煮えかえる日々だったのだ。もう外に出ることもできない。うちに閉じこもり、うめくのみだ。まるで動物のように成り下がっている。
竪琴は楽しく、暖かであったのに、いまや悲しみの音しか出さない。そのようにしか聞こえてこない。ああ、この章を何度も読み返したい。

主題 <ヨブの過去を回想する言葉>

聖書箇所  ヨブ記 29章     (2013年5月31日)

今日のみことば「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。」(2)

ヨブの過去を回想する言葉である。試練に会う前の家庭と生活の充実ぶりを思い返すことも許されるだろう。過去の幸福な日々の回想である。
ここに記されたヨブの全盛期は、なんという素晴らしいものであったろうか。ヨブにとって人生は心地よく、周囲の人々は彼の威光を受けて、ヨブを快活なものにしていたのだ。
第一に、神にある祝福を受けていたことを実感させてくれる。2-5節には、日常生活の中に神との親しい交わりがあったことがわかる。私たちの生活は、神によって支えられ、祝福されることによりのである。
第二に、ヨブの仕事や社会的な立場がしっかりと確かに与えられていたことである。ヨブは人々に一目も二目もおかれた立場だった。
第三に、弱者を顧みて、惜しみなく援助をしたのだ。15-16節には、私が盲人の目となったという。足の不自由な者の足をなったという。これほどに東方一の富める人物が、貧しい、どん底にいる人々の友となったのである。
しかし、今は、貧しく、病み、衰えている。しかし、しかしである。だからこそ、人生を深く潜るようにして浅瀬の川の流れと違い、川音を立てないが、深く深く流れる川となっているのだ。華やかではないが、それだけに深淵の豊かな人格が培われているのだ。花咲く春と違い、秋の結実を待つ果樹の時なのだ。人々が忘れているように見えるが、神はそばにいる。

主題 <本当の知恵を追求したい>

聖書箇所  ヨブ記 28章     (2013年5月30日)

今日のみことば「こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(28)

 ヨブは自分の格言を述べる。この世の人々は金銀や宝石を求めている。このために深い鉱山に分け入り、さらに深い地底に潜るのである。自分が追求したい富や成功を夢見て継続して働き続ける。やがてその取り出された金や銀の鉱石を製錬して高価な金属を取り出す。それが楽しみであり、目的となっている
 しかし、「さんごも水晶も言うに足りない。知恵を獲得するのは真珠にまさる。」(18節)というのです。珊瑚も水晶も、当時の最高の価値あるものだ。だが、神の知恵がどれほどに優れたものであるかを比較するのである。ヨブにとってもそうだが、私たちにとって人生を生きる上でのほんとうの知恵を追求するものでありたいのです。
ではその知恵を何処で探り出せるのだろうか。
「しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか。」(12節)知恵は何処にでも見いだせる。私たちの世界には知恵が満ちている。しかし、その本当の知恵は、主イエス・キリストである。この方に知恵と恵みの霊が満ちているからです。イザヤ書11;1-2
 ふつう、人間は知恵のすばらしさを知ることは少ない。時には高価であると思っていた宝物は実はただの石ころや絵画に過ぎないこともある。
ヨブは再び、三度「では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。」と問うのである。知恵のすばらしさを熱心に求めることを教えたヤコブの手紙1;5に「とがめず、惜しむことなく与える神に求めよ」と。

主題 <自我の主張>

聖書箇所  ヨブ記 27章     (2013年5月29日)

今日のみことば「あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(5)

  ヨブはここで自分の主張の中心主題を述べるのである。
その第一は、自分の苦難の源は神にあることを2節で述べる。
「私の権利を取り去った神、私のたましいを苦しめた全能者」と言うのである。私たちは、正義がこの世界に行われていないことを見受けるが、それはまだ未完成であるからだ。必ず神は天から降りてきて、私たちの疑問にほんとうに答える用意があるのだ。詩篇の中のダビデは、詩篇27;13-14で「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」と勧めている。
第二に、自分を罪に定めようとして友人たちを義とすることはしない。
自我によってしては、自分を苦しめ続ける友人でさえ、義とすることができないのである。それはとりもなおさず、ヨブの有罪であることを承認することにつながるからである。宗教改革者のルターは、清い良心をもっていた。ウオルムスの議会で立ち、「私は常に良心とともにここに立っている。ほかにすることを知らない。神よ、助けたまえ。アーメン。」と祈ったのだ。ヨハネもまた、「心に責められることがない」(第一ヨハネ3;21/22)と語っている。
第三に、自分に敵意をもっている者たちへの神の裁きがあることを考えている。そういう人々がどんなに蓄えることができても、結局誰かを益するためにほかならないのであって、正しい人のために準備されているに過ぎないのだという。(箴言13;22)神への誠実、ここに人の救いがある。

主題 <力ある神の声を聞きたい>

聖書箇所  ヨブ記 26章     (2013年5月28日)

今日のみことば「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。」(14)

 ヨブの訴えは、人間的な知恵では、解決できないことを述べるのである。
 ビルダデへの反論の中心は、人間の力は限界があることである。そして私たちも誰かを懸命に説得しようとして言葉の限りをつくしてしまう。そのあとの寒々しさを実感することがある。
 言葉というものには、想像できない力があることを知っています。しかし、言葉には限界があることを深く自覚した上で人に関わり、人の痛みについて考えたいものです。思考が浅く、ことばが先走るということをヨブ記から考え直してみたい。確からしい言葉にしても、ただ神の道の外周を触れているに過ぎないことを思う。
 1-3節のヨブの言葉には、その率直な返答が記される。自分が深く体験してはじめて教え諭すことができる。ヤコブは多くの者が教師とならないように。教師は格別厳しい裁きを受けることとなると教えた。(ヤコブの手紙3;1) 主も「医者よ。自分で自分をいやせ」(ルカ4;23)と教えたのも、自分でできないことを人に教えていなかったか。
 ヨブは、自然の周辺の出来事に満足しないで、神から答えを聞きたいのである。神の雷、すなわち直接的な応答を期待しているのだ。
 神は雷もあれば、静かな細いみ声をもって語られることもある。神は私たちに深い関心を持っておられる。一人一人に神は語られる。無神論者もすさまじい稲妻に、「神よ、助けて」と叫んだのは有名である。