2013年7月 3日 (水)

主題 <他者へのまなざし>

聖書箇所  ヨブ記 15章     (2013年5月17日)

今日のみことば「ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。」(4)
 再びエリファズがヨブを責め立てる。彼の言葉は、痛み苦しむヨブへの思いやりのかけらも感じられないのである。時々、牧師と言われる人の中にも、この思いを感じない人を見ることがある。宗教家だからだろうか、律法にはきわめて厳格そうだが、そこに流れる神のいつくしみにふれられないのがひどく寂しい思いがすることがある。激しい苦難、子ども10人を一夜にして失い、全財産を失い、健康がすっかり失われている。そのヨブを見てギスギスした論理だけがまかり通ってはばからないのだ。信仰を捨て、祈ることをやめていると。
人はそんなに強いのだろうか。人は小さな出来事に直面して震え上がり、人々のうわさに心が冷え切ってしまうことがしばしばあるのだ。その彼を囲んであれこれ弱さと痛みに塩をすり込むようなことをしている。そうした宗教家を私は嫌う。主が関わられた人々を取り囲み、罪をさばき、自己を高揚している群れがあった。一般の人々を平民として見下げ、律法を知らないただの人と扱っていた。だが新約時代の律法学者、パリサイ派の人々をはるかに超えるキリストがおられる。主は傷ついた婦人、取税人、罪人をきわめて大切に扱っている。
実際にはヨブは祈りをやめてはいない。これまでの3人への反論の中にさえ神への祈りの中にあったことがわかる。ただ、人を簡単に切り捨ててその人をわかったような取り扱い方をされることがある。
ヨブ記を読みつつ自分の襟を正していかなくては、と思う。5-6節を見ると、「それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。」決めてかかっているのだ。他山の石としたい。

主題 <人生とは何ぞや>

聖書箇所  ヨブ記 14章     (2013年5月16日)

今日のみことば「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。」(1)

 <人間と何ぞや>と問うことほど意味のある時間はない。なぜなら、順調な日々を過ごしていては、真実に人間とは何かを問うことはほとんどないからである。試練に直面し、前に進めないと絶望的な状況に立ってはじめて考えるのである。まことに賢いようで人間は愚かだ。しかし、与えられた試練の日々こそ、心がかき乱される時間こそ大切なのではないか。
 今、人一倍に大きな試練に直面している方には辛いようですが、深く立ち止まり思考する時間と変えられていくのである。人間の苦悩する姿に比べて自然界、木には望みがある。切られても再び芽を出すからだという(7節)。
 しかし、人は死ねば再び問うことすらなくなるのだ。こう考えることから神を真剣に求めるのである。それが『人間』である。
神の国には、神が選んだ人間ならぬ兵士がいる。神の国のために生きる兵士、戦う兵士、そしてやがて戦いを終えて戦場から引き揚げる時が来る。それが戦闘途中での引き上げか、戦争が終結して帰還する兵士なのだろうか。その時に忠実に戦った兵士には豊かな報酬が待っている。人生の戦場という召された場で、いかに深く戦ったか。この戦いは自分の生を問うことにほかならない。短い人生で、心がかき乱される日々の中で、神を熱心に追い求める者でありたい。やがて、神から栄光の冠という報酬を受け取ることになるのです。
人生で悩むことをやめないでください。短いことを強く意識して、大切な苦しみを土台として歩んでください。やがて栄光のキリストに会い、同じように栄光の冠を受賞する日が来るのですから。

主題 <神への絶対の信仰>

聖書箇所  ヨブ記 13章     (2013年5月15日)

今日のみことば「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。」(15~16)

 この聖句はヨブの信仰の核を表している。神への絶対的な信仰は、たとえ神が私を殺しても、神が救いとなることを確信している。
 神が世界を支配し、正しい者に幸いを、悪の人に災いを報われるという伝統的な神学も心得ている。それで私の苦悩を解決できると思っているのか。私にとっては神と直接に論じ合いたいと言うことだ(1-3節)。そこで神のみこころが何処にあるのかをはっきりとさせたいと願っている。
 神は私を殺すかも知れない。しかし、私はなおも神を待ち望むというのである。以前の口語訳聖書では、『絶望だ』と訳したが、新改訳聖書のほうが適訳である。昔の文語訳聖書は『彼われを殺すとも我は彼に依頼まん。』であり、ヨブの信頼をよく表している。
 神を敬わない者は神の前に出ることができないからだという。それは神との距離を置こうとする人間の姿勢である。しかし、神の救いと祝福にあずかれるのは、求めて始めてやってくるものだ。神を自分の直接の相手として私の道、歩み、すべてを主張しよう。人が私を正しいと言おうが、悪いと言われようが、神の前における生活こそ、神の国がやってくるのだ。神の国は激しく攻める者が奪うのだ。
「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイの福音書11;12)。神が自分を殺すようなことがあっても神を信じることを貫くという力強い告白をすることができる。

主題 <私にも悟りがある>

聖書箇所  ヨブ記 12章     (2013年5月14日)

今日のみことば「私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」(3)

 ヨブがツオファルに対して応答しているが、いつしかヨブの苦難のことよりも議論の内容が中心に移ってしまったようだ。私たちも、時として議論のための議論に精神をすり減らして時間を使うことがある。
 ヨブを責める友のことばには、すっかりヨブが嫌気をさしている。だから、2節にある「確かにあなたは人だ。」、3節の「私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」と応答したのである。そして、自分が友の思いやりあるいやしの言葉よりも、ヨブを責める正当性に傾いていることを悲しんでいる。その上で、だからこそ自分が友の物笑いとなっていることに痛みをもっているのだ。
 その痛みと悲しみを持つ友に対しては、ま心を置きたいのである。教える教師はいらない。正しいことで簡単に仕切る職員はいらない。
 なぜヨブは一層苦しみを深めるのか。正しい人が栄えることよりも、神を怒らせる者のほうが安らかなのだ。荒らす者の天幕は栄えていると見えることだ。こうした中で傷を負った戦士の訴えを聞いてほしいのだ。傷ついているヨブの痛みにいっしょに立ってほしいだけなのだ。
 かつては神を呼び、こたえられた聖徒が、今や自分より以下と思える人々に物笑いとなっていることに傷ついていたのだ。安らかそうな人間が衰えている者を踏みつけてとくとくとしている。だんだんヨブは獣のように陥り、人間的な思考を失っていく。
 感情で説き伏せようとする者へのヨブの応答に圧倒される。ここから他者への配慮、苦しむ者へのいたわりが大事かを学び取りたい。

主題 <あなたは自分の悪を改めれば>

聖書箇所  ヨブ記 11章     (2013年5月13日)

今日のみことば「あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。」(14)

 ヨブの三人の友人のうちでツオファルは感情的に走る人物である。エリファズは教条主義者、ビルダテは建前主義者、そしてツオファルは感情露出家で、もうヨブへの同情心などはないのである。そして二人の友人の言葉とヨブの応答を聞いていて我慢ができなかった。すぐに出てきた言葉が、2節の「ことば数が多ければ、言い返しがないであろうか。舌の人が義とされるのだろうか。」と。別訳には口が達者なら正しいとされるかと。
 友人達の言葉には正しいことがほとんどである。ただ、彼らに欠けていたものは何かと言えば、深い思いやり、苦難のただ中にいるヨブへの同情を土台とすることである。教会でも、議論に陥るケースは、一人一人への思いをくみ取ろうとしないで、一般社会のように問題に関わろうとすることがある。たしかに、正しいと思えるが、相手に対して何とかして教えよう。何とかして説得しよう。間違いを探して正しい道へと導けるぞ、と思ってしまうことである。
 ヨブはとてつもない苦難に置かれているのである。しかも、そこにあるいは神から打たれているのではと言う不安もあるのだ。
 このヨブに追い打ちをかけるようにして「あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。」(14節)と訴えかける。ほんとうに必要なのは、たとえどんなに罪を犯し、社会的に失敗しているとしても、さばきの目や解答を与えることではなく、そこに置かれている兄弟の苦悩に対して思いやる心だ。あとでどんなに正統なことを言っても、心に届かないのである。届かない正統的なものはかえって悲しみを増すことを心に刻もう。

主題 <神よ。教えてください。>

聖書箇所 ヨブ記  10章     (2013年5月12日)

今日のみことば「私は神に言おう。「私を罪ある者となさらないように。なぜ私と争われるかを、知らせてください。」 (2)  

 不平をぶちまけ、私のたましいの苦しみを語ろう。」ヨブはこれ以上生きていたくないほどだと。そして自分の不平をぶちまけるのは神さまに対してだと。そして神よ。知らせてほしいと。
 私は牧師として多くの方々に苦難の意味を教えてほしいと求められる。それが人間的に絶望的と見える問題であったりする。だが、私たちに残されている力、道がある。神への祈りである。その中心は「神よ。なぜですか。なぜ、この私と争われているのですか。知らせてください。」と。今、あなたにとっても、どうしても了解のできない問題に取り囲まれているかも知れない。
あなたはだれかにその問題を話し、わかってほしいと訴えたことも何度もあるでしょう。誠実に応答してくれる人もいたでしょうが、たいていは耳を貸すことさえいやがる人もいるのです。そして社会や周囲に嫌気がさしてしまう。人は信じられないと。そうです。だからこそ、これからの神の出番を待たなくてはなりません。神こそ、あなたの苦難をだれよりも理解し、支え、苦しみに変えて祝福と繁栄を回復される方です。
 今は、忍耐をもって許される限り祈ろう。「神よ。教えてください」と。神は生きた神、人間を、あなたを愛されている神である。こたえないはずはないのです。そしてこれまでの余分と見える事柄を脱ぎ捨ててシンプルに生き始めてみようではないか。
 神は必ず天を裂き、あなたの所に帰ってくださる。それまで祈り続けようではないか。「主よ。来てください。」とは聖書の最後の祈りだ。

主題 <自分には問題があるが言わなければ気が済まない> 

聖書箇所 ヨブ記  9章   (2013年5月11日)

今日のみことば「神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。」(4)

 ヨブと友人の信頼関係は崩れました。ヨブの苦悩と絶望感はいっそう深くなるばかりです。2節の「まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」のように、正統的な神学もヨブの一切の問題を救うことができない。ことに信仰の問題は人格的なものだからである。
 ヨブはビルダテに対しても反論する。たしかに、君の言っていることは正しいのだろう。その通りだ。だから自分の正しさを振りかざして反論できるわけではない。そのうえ神に対してはなおさらだ。神に身をこわくして強がっても、反抗してもどうにもならないのだ。こうして自分を懸命に主張しても、それが無駄であることを知りつつも主張せざるを得ないのだ。これがヨブの苦悩なのである。
 ヨブの自分を正当化する言葉をたくさん見る。17-18節「神は理由もなくあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに私の傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。」と。
 そして、21―22節には「私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。」と悲鳴を上げているのだ。だれがこのヨブの悲しみの告白の深い嘆きを知るだろうか。みんな友人の側に立っているようなものだ。ヨブの嘆きに心を一つにする人々がいないばかりか、苦しめるのだ。
 だからこそ、ヨブは自分を主張しないわけにはいかない。自分には人間であるゆえに、完全でもなく、問題がないわけではない。だが、自分を自分で支えなくてだれが支えてくれようか。これが叫びだ。

主題 <もし、あなたが純粋で正しいなら>

聖書箇所 ヨブ記   8章     (2013年5月10日)

今日のみことば「もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。」(6)

 三人の友人の一人ビルダテは、エリファズの言葉へのヨブの反論を聞いていてはじめからヨブを責め立てるのである。
 2節に見る「いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。」とヨブが罪を犯しているからであると断定して次の内容を語る。
第一に、神は正しいお方であることが前提である(3節)。
第二に、ヨブには罪があるから災禍が来たと事実認識をする(4節)。
第三に、ヨブが純粋で正しいとするのは間違いだ判断する(5節)。
 そして8節から19節までに、伝統的な考え方を通してヨブを説得するのである。「さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探求したことを確かめよ。」と語る姿勢には、毅然とした思いが伝わる。なぜなら人間の生涯は短いから究極の知恵を探れないので、先祖達の知恵からわきまえなくてはならないと言う(9-10節)。その上で、ヨブに対して「すべて神を忘れる者の道はこのようだ」と断定する(13節)。そのうえ自然界、植物の比喩を用いて、ヨブのかつての繁栄と現在の苦難とを言い当てているのである(16-19節)。
 20―22節で、神は信仰において正しい潔白な者を助けるが、悪を行う者の働きには助けることをしないと明言する。
 だからこそ、21節のようについにはヨブが悔い改めに進み、将来に繁栄を取り戻す期待が込められている。伝統的な神学に立脚し、内容には問題がないが、独善的な態度なので、ヨブを慰め、信仰を燃やしていくことができないのである。同じことをしていないだろうか。

主題 <神に心底から訴えたい> 

聖書箇所  ヨブ記  7章    (2013年5月 9日)

今日のみことば「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」(17)

 この章は、二つの部分に分けられる。前半の1-6節は、友人へ自己の主張を述べるのでなく、自分自身に内なる独白を言い立てるのである。後半の7節以降は、友への反論ではなく、神への祈りに向かうのである。このように、私たちは苦悶する現実に立ちつつ、自らに語りかけ、そして神に語りかけているのである。苦悩の極限状態となっていることを現している。
 前半の独白には、むなしい月々、苦しみの夜があること、むなしい日々が過ぎ去ると苦悩があふれ出てくるのである。苦しみには少しも目的もなく、充実した時間を過ごす意味もないと思うものだと。
 一方、神に訴える道をもっている。私は、もし神を知らなかったら、そう思うとぞっとするのだ。神がおられることを信頼するので、奥底からの嘆きを訴えることができる幸福があるからだ。11節にあるとおり、「それゆえ、私も自分の口を制することをせず、私の霊の苦しみの中から語り、私のたましいの苦悩の中から嘆きます。」と素直に自分に語りかけ、神に語りかける。自分の口を押さえ込まないで、ありのままに神に語れるのだ。詩篇の叫びに通じるものがある。
 だから、私は自分のいのちをいとうと言い、いつまでも生きたくありませんとだだをこねられる。私はここにヨブの自由な霊性を見る。
 17節の今日の言葉には、とても皮肉な表現をしている。言葉そのものには信仰ある言葉であり、詩篇8;4や144;3には、神への信頼を表明されているす。だがここでのヨブが表白しているつぶやきは、深い神への信仰を見いだせるのではないか。偽善的な祈りもできよう。しかし、真実の叫びを上げ得たのだ。ここに真実を見る思いだ。

主題 <何を責めたてているのか>

聖書箇所  ヨブ記  6章 (2013年5月 8日)

今日のみことば「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。」(25)

 ヨブは、エリファズの愛と理解がないことにひどく失望した。
だから、2-4節にあるように、ヨブの苦難の重さがどれほどであることかを知らない友のひどさを訴える。その悩みは海の全部の砂よりもはるかに重いだろうと。その中心が、神から見放され、神に責められているのだと断定されていることだ。友人の残酷な言葉にヨブは黙って引き下がることができないのだ。
 8-10節で、神が私を絶つことが御思いだったら、喜んで死んでゆけるのだと。私はこおどりしてそれを喜ぼうと。なぜなら、私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ、とヨブの激しい思いを見せられる。ここにヨブの生きる根拠があったからである。
 12節のように、苦難を忍び、乗り越えるには、石の力、青銅の強固さが必要だ。だが、忍耐には限度があるのだ。
 14節にあるように、今、友人の友情こそ、最も必要としているのだ。ヨブは切に友の力を必要としていることを力説する。
 そして、24~25節に見られる、苦しみに遭っていない君たちこそが、ほんとうの意味でのヨブを教えるべきなのだ。どんな過ちが自分の中にあるかを理解した上で。
 そして痛烈な言葉を返すのです。「まっすぐなことばはなんと痛いことか。」と。正しく見える言葉でも、いや正しいと見えるからこそ、その言葉に深く傷つくのである。
29節に記されるように「どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。」というのだ。今日、日常の言葉に、愛と平和な豊かさを持ちたい。