2013年7月 3日 (水)

主題 <あなた自身でこれを知れ、とは>

聖書箇所  ヨブ記  5章     (2013年5月 7日)

今日のみことば「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。」(27)

 エリファズは、なおもヨブを責め立てる。
1節の言葉には、神と仲介してくれる聖者(天使のこと)は不信仰な者に対して取りなすことをしないと。そして2節に愚か者(決して知恵のないものを言うのでなく、不信仰者をさしている)は、自分の憤りで殺しているようなものだと。ヨブの苦しみから発せられた嘆きを受け入れず、かえって否定している。ヨブには神に責められる大きな理由、すなわち罪があるのだ。神に懲らしめられることには、きちんとした理由があるのだ。神に苦しめられるヨブよ。今、苦難を幸いなものとし、悔い改めをしなさい、と忠告する。
 6節にある「なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ。」と。神の支配には決して偶然はなく、苦しみに遭わせて、苦しみが襲い来るのは神によるのだという。
 たしかに、神を信じる者には、神が働かれる摂理の中で神の御手を信頼するほかはないのだ。詩篇91;14-15節を読んでみよう。神を愛する心を注ぐゆえにと。神は助けるのだと。試練の中で、神を疑わないで乗り越える道があるとすれば、Ⅰコリント人への手紙10;13にある試練とともに逃れる道を用意する神を信じるべきだ。
 エリファズの考え方がヨブを苦しめる。彼らは、この調べ上げた真理はここにある正しいものだ。あなた自身でこれを知れ。知るべきことだ。すなわち自分自身に語りかけて、罪があることを認識して悔い改めよ、と言うのである。
 神の真理を知ることができない人間に、他者をさばく力はない。神にゆだねる心が絶対に必要だ。高慢な言葉は心に届かず、無益である。

主題 <理解を欠いた忠告>

聖書箇所  ヨブ記  4章     (2013年5月 6日)

今日のみことば「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」(7)
 ヨブ記の中で、ヨブの最初の率直な叫びが3章に記されていた。三人の友人が7日間何も言葉にできない状況の後のことである。これまで内側に潜んでいた思いがあふれ出た。<友遠方より来たる。また楽しからずや>である。友には自分の率直な思いを吐露できるからです。
ところが、3人の中の長老格のエリファズは、ヨブのあまりの試練を見、自分の生まれた日をのろう姿に、一つの確信を持つのです。それは、神を本当に信じ、おそれている人には決してこんな苦しみは来ないだろうと確信したことによります。この言葉には、一つの人類に共通する問題が浮き彫りになる。正しい人には苦難がないとする思想です。罪があるから苦難がある。苦難への理解を欠くのである。
エリファズは黙って沈黙し、ヨブと苦難を分け合うことができない。苦難の深みに届くことができない。自分を抑えることができない。
そして苦しむヨブを責める思いに立つのである。2節に「もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。」と口を開くのです。
 エリファズを始め3人の友人には、ヨブへの友情があった。しかし、彼らにはヨブが苦難の中にいる意味を理解することができなかったのである。これがこれから激しい議論を展開する原因である。
 理解を欠いた者の言葉に耳を傾けることは、どんなにつらいことだろう。しかし、この忠告を読み進むうちに、同じことを自分もしていることに気付くのです。何か、過去の優れた言葉や自分の経験に照らして、人を教え、戒め、さばき、否定することをしてしまうのだ。
 他者の苦難や問題に、一歩、身を引いて神から聞く知恵を求めたい。

主題 <最も恐れたものとは>

聖書箇所 ヨブ記  3章     (2013年5月 5日)

今日のみことば「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」 (25)  

東方一の大富豪で、神を信じるヨブが、大きな試練に直面した。その告白を読んでみると、彼の悲しみと絶望、恐れが表れている。
ヨブは10人の子供を失い、全財産を失い、健康を失い、妻からは不信仰の言葉を受ける。そこに3人の友人がはるばる訪ねて来て1週間沈黙する。だからまず、ヨブは自分のことを語り始める。
この時にヨブは自分の生まれた日をのろったのである。同様な独白を預言者エレミヤもしている(エレミヤ書20;14-15)。
自分が生まれてこなかったことを願うが、生まれてしまったからには、母親のひざの上でなぜ育ったのかと悔いるのだ(11、12節)。
死ねば、力のなえた者が天の御国で憩こうているではないかと。
そして成人した今、もっと早く死ねば良かったのにと生きて苦しむ自分を恨むのである。「死を待ち望んでも死は来ない」(20節)は、何というつらい思いだろう。
そして、ヨブは25節に「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」という。そこにあるのは人間に共通した弱さであり、迷いである。私の最も恐れていたこと、と今の幸福な状態がいつ失われるかも知れないという漠たる不安である。神への深い信頼、神が愛であることを疑う人間的な弱さが見られる。人間はなんと弱く、もろい存在だろう。
私には、少しも安らぎがなく、休みも、いこいもなく、心はかき乱されているのだ(26節)。
本当の休みは、主イエス・キリストのもとにある。マタイの福音書11;28-30を読んで、改めて神は愛であることを確信しよう。

主題 <幸いも災いも神から受ける> 

聖書箇所 ヨブ記  2章      (2013年5月 4日)

今日のみことば「しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(10)
 ヨブについては、神が信頼する人物であったことを語る。神を信じる人物よりも、神に信頼される人物になりたいと思う。彼の信仰的な姿勢は、天上の会議の評価でもあったのです。(3節)
 さて、サタンがヨブを試練に遭わせることを願う。サタンはいつも人間の中に失望や高慢を起こそうと働いている。その上で、神は試練に遭うことを許しているのである。ただきわめて大事な事実を覚えなくてはなりません。それはいずれも制限を付けたもの、すなわち神が試練において垣根を巡らしていることです。これ以上の耐えられない試練に遭わせないばかりか、逃れる道を用意しているのである。6節(Ⅰコリント人への手紙10;13もよく読んでみよう)。
 さすがに妻はヨブの試練を見て悲しみ、「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(9節)とヨブに訴えたのです。この時にも、ヨブは今日の聖句のように驚く言葉を語って妻をいさめている。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」何という深い信仰であろうか。
幸福の日には楽しみ、不幸と思える日には考えよ、この二つを相共に交えて与えると伝道者の書7;14にある。どちらも愛に満ちた神が備えているので、感謝して受け取るのである。
ヨブの言葉に妻は率直に語るが、たぶん納得はできなかったろう。だからこれから始まる三人の友人を挟んだヨブの叫びを整理し、書き留めたのだろう。私はヨブ記の著者は、ヨブの妻であると考えている。

主題 <試練にあって罪を犯さない秘訣>

聖書箇所 ヨブ記   1章     (2013年5月 3日)

今日のみことば「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」(22)
 いよいよヨブ記を通読します。これまで人類に与えられた書の中で最も強い影響を与え、人生に強い光を投げかける書物です。私は、牧会の中で毎日のようにこの書についての問いかけを聞く思いである。
 私たちの日々は、ヨブ記によって、正しい人がなぜ苦しむのか、苦しみには何の意味があるのか、神は苦しみにどのように関係しているのかを考え、深めるのである。
 ヨブの人としての歩みが、まず紹介される。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(1節)
地上にこれ以上の人物を捜すことができない。人格、信仰、家族、聖潔において、神にとってこれほど自慢の息子はいないのである。
 しかし、ある日ヨブの生涯に突然のように嵐が吹き荒れるのである。しかも、この試練の背後には天上での会議の模様が紹介される。神はヨブを自慢する。いかに優れた者かと。そこでサタンはヨブを苦難にあわせることの許可を得ている。なぜ、神は許されたのだろうか。
 私たちの理解を超えた神の摂理を思う。その神への信仰をヨブは精一杯の言葉で告白とした。それがすばらしい21節の言葉です。
「そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』自分を生かし、ヨブを豊かに祝福を与えられた神。その神が与え、取り上げられた。この地上の生涯を閉じたら、私は裸でかしこに帰ろうと言う。主の御名は、「ほむべきかな」と賛美している。
 神への信仰こそ、罪を犯さず、神に対して愚痴をこぼさない秘訣がある。神は変らずにヨブを愛していることを信じる告白である。

主題 <プリムの祝日> 

聖書箇所 エステル記  9章   (2013年5月 2日)

今日のみことば「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、…貧しい者のに贈り物をする日と定めるためであった。」(22)

 驚くべき救いの日を、ユダヤ人はプリムの祝日として今日まで守り続けるようになりました。現代でもこの日を国家の祝日として守っています。この日は互いに御馳走をし、ハマンの耳という食べ物を食べて貧しい人に贈り物をする休日です。(イスラエル大使館に聞きました。)
 悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わったという民族としての体験は、1つの原点、出発点なのです。
 この日をプリムと名付けます。プリムとは、プルというくじを意味する語の複数形の言葉です。人はくじを投げますが、そのくじの結末は神の御手の中に握られております。この世界の目に見えない事の背後に、神が働かれ、神がすべての事をよきに変えて下さるという信仰告白がプリムの日の本当の意義なのです。
 ユダヤ人ばかりでなく私たちの日々の生活の中に、思いがけない場面に立たされて、悲嘆にくれる日々を送るような時、このプリムという日を思い出したい。いや、今日もまたその一日であることに思いを向けておきたい。見よ。今は恵みの時、救いの日です。

<祈りの課題>現実に埋没せず、主の御手の中にある確信を     

主題 <光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった>

聖書箇所 エステル記  8章    (2013年5月 1日)

今日のみことば「ユダヤ人にとって、それは光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった。」(16)

 人生に起こる1つ1つの出来事が神の働かれる場にすぎないことを徹底して悟りたい。神は人をして、ご自分の栄光と力を現わそうとしておられる。それだけに人間の側に誇り得る何ものかがあれば、神は働くことができないのです。ちょうど生まれつき目の不自由な人を、主が「この人に上に神の栄光が現われるために」とご覧になり、目を開くみわざで栄光を示したようにです。
 ユダヤ人にとって決定的敗北の状況が、王の命令によってひっくり返ってしまいましたが、この状況をまのあたりにし、「光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった」とは、想像のつかない勝利に満たされた感動が伝わる。人生、捨てたものではありません。敗残者のように下向きの目を、天に向け神に向けて歩みましょう。神は光であって少しも暗いところがないのです。神はその光をご自分の民に照らし、輝やかされる。どんなに落ち込んでいても、最終的には天の御国でその顔を輝かされるからです。それなら、天にいく前に信仰をもって賛美しはじめようではないですか。

<祈りの課題>現実を見て落ち込まず、信じて感謝する信徒に。

主題 <エステルの賢さ>

聖書箇所 エステル記  7章    (2013年4月30日)

今日のみことば「王妃エステルは答えて言った。「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしければ、私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にもいのちを与えてください。」(3)

 ついにエステルは自らの身分を明かしたのです。たとえ王妃であっても、王の好意を得なくては一切の特権は失われることは明らかでした。エステルの出身、ユダヤ人であることを明らかにし、ユダヤ人の絶滅の危機を王に訴えて、民族の命を王に求めたのです。「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(4;16)という告白表明の通り、文字通り生命をかけたとりなしでした。この王への願い事を言える時をどれだけ待ったことでしょうか。このとりなしを願うために、王に対し心くばりをし、「王国の半分でも、それをかなえてやろう」といわしめるための尽力は、並々ならぬ努力だったでしょう。
 栄光が一転して挫折に変わったハマンは、エステルに命乞いをし、それがまた悪印象となってモルデカイのために用意した柱に自分自らがつけられたのです。それで、王の憤りはおさまった(10節)という。激しい野望は王の怒りとなり、さばきとして終了したのです。
 それにしてもエステルの賢さはどこからくるのでしょうか。神の知恵と献身は祈り求める者に授けられるのです。

<祈りの課題>自己保身でなく、自己献身の生活を

主題 <一夜のことが>

聖書箇所 エステル記  6章    (2013年4月29日)

今日のみことば「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」(1)

 モルデカイが木につるされようとする前夜、思いもかけない出来事が王の寝室で起こったのである。眠れぬ夜を過ごすのは誰でもよくあることです。でも、この1つの部屋で起こった不眠が、歴史を変えていくことになったのです。辱かしめの当日に、栄光の冠と一変したこの息もつけない一日を忘れることができない。
 13節のハマンの妻ゼレシュと知恵者の言葉は印象的です。「あなたはモルデカイに負けておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう。」。彼らがまだ話しているうちに、人々がやってきて急がせ、連れていったのでした。栄光が一転して屈辱に、全滅の危機が栄光へと変えられるのは、一夜のこと、その道は急がれています。焦らず、怒らず、くさらずに祈りに専念したいものです。
 すっかり忘れられていた国王暗殺計画を未然に防いだモルデカイの功績は、最もふさわしいときに報われたのでした。人の知恵の及びもつかない世界で神は働かれているのです。

<祈りの課題>急ぐ自己から、ゆだねる自己へ 

主題 <神に委ねる祈り>

聖書箇所 エステル記  5章    (2013年4月28日)

今日のみことば「ハマンはその日、喜び、上きげんで出て行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、自分を少しも恐れていないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。」 (9)  

 成功と失敗はどのようにして決まるだろうか。全ユダヤ人が滅亡する危機に立った時、エステルは侍女たちと共に断食して祈っている。そして、全ユダヤ人も共に3日間の断食をして神を仰いでいた。
 エステル記には、神や信仰、祈りという言葉は出てこないのは、異教の大国の中で記録文書という形で残さないためといわれている。そこで祈りを「断食」と表わしたのです。ハマンの計略はみごとに成功し、予定通りに着々と進行していきます。しかも、常々目ざわりとなっていたモルデカイを地上高くつるし上げることができるのです。王妃招待の晩餐会への期待は、ハマンにとって立身出世とユダヤ人撲滅による莫大な物となって報われるのです。彼のモルデカイへの激しい憤りがこうして静められようとしています。ここで1つの大成功が進むと思えるのです。
 一方、静かに、沈潜するように祈りが続けられていました。政治家を動かし、多勢の力を頼み、論理の力を頼みとしてくつがえそうとするのではありません。祈りが働き、神のみ手が動き始めるのある。

<祈り>主よ。自分で復讐しないで、神に委ねきる祈りをさせて下さい。