2013年1月16日 (水)

主題 <自己保身の戦いの末>

聖書箇所 士師記 9章      (2012年 9月29日)

今日のみことば「こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行なった悪を、彼に報いられた。」(56)

ギデオンの後、70人の息子の中からアビメレクがイスラエルの王として立った。かつて父ギデオンでさえ、王にはならなかったがそれだけにアビメレクは野心家であったと言える。アビメレクは自らの野心に基づいてシェケム人を利用するが、人間的な思い出の同盟は、結果的には裏切られることになり、その霊を送られた神によってであった(23)。
アビメレクは、シェケムでの戦いに勝利を続けることになるが、その勝利そのものが、最後には彼にとっての落とし穴となる。彼は、戦略においては優れていたかもしれない。しかし、主の御前に、肝心な点が欠けていた。それは、主のみこころに従って戦いを進めていくということである。彼は、王としてはふさわしくない器であった。アビメレクは、主の戦いをせずに、自分の義(自己保身)のために戦ったのである。そのようなときには、たとえ戦いに勝利しても、やがては不名誉な結果を招くことになる。ギデオンの、「主の戦い」を思い起こそう。ギデオンは、自分の弱さを自覚し、徹頭徹尾、主に信頼するために、主が勝利を保証してくださるかどうかを、戦う前に確かめた(6章参照)。しかしこの箇所には、主を求めず、主に信頼しないで戦いを進めた場合の実例が、鮮やかに示されている。
 彼の最後は、一人の女性によって死に追い込まれることになった(53、54)。その結末は、カナンの将軍シセラが、ヤエルによって殺されたことに似ている(4:21)。当時の男にとっては、女によって殺されることは不名誉なことであっただろう。しかし自分が死んだ後まで、恥を隠そうとした彼の生き方は(54)、愚かとしか言えない。

主題 <謙遜さを失わせてしまう弱さ>

聖書箇所 士師記 8章      (2012年 9月28日)

今日のみことば「ついで、ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。」――殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである――」(24)  

 イスラエルは、ギデオンに王になることを求めたが(22)、彼は、「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます」と(23)、一見、最もなことを言って辞退している。しかし、ギデオンは、戦利品の金の耳輪を集め、1700シェケル(約20㎏)もの金で、元来は大祭司の式服であるエポデを作って、個人崇拝を励行し、主に栄光を帰さなかった。その背後には、大祭司の存在を軽んじる罪が隠れている。また、自分の家に戻ったギデオンは、当時の王たちのように大勢の妻をめとり、七十人の息子を得るようになった。正しく主を恐れず、頭では理解していても、実際にはなかなか主に栄光を帰せない、人の弱さが反映されている。
 この結果、最初はオフラの町で、バアル崇拝を取り除くことから始まったギデオンの時代は、より全面的な偶像崇拝へと堕落してしまうこととなった(27、33、34)。ギデオンの場合、それは戦利品の耳輪を求めたところから始まった。いつしか、自分の手柄として報酬を求めたところに、弱さがあったのである。
私たちも最終的に主の前に従順に、謙遜に歩んでいるかが問われるのである。

主題 <自分の力ではなくて、主の方法で> 

聖書箇所 士師記 7章      (2012年 9月27日)

今日のみことば「そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(2)

 ミデヤン人との戦いを前にして、神はギデオンの指揮する兵をごくわずかな小隊に縮小させた。戦うために、味方が敵よりもすぐれた火力を持ち、兵員も多く、よりすぐれた科学技術を持つことを求めるものである。
しかし、神はギデオンの軍の兵力を物笑いの種になるほど縮小され、全く何もすることができないようにされる。神は、弱く無力な者たちを喜んでお用いになる。神は彼らを選んで、彼らから何かを造り出すことがおできになる。だから私たちにはみな希望があるのである。
 キリスト者も、主のために働く時に、時には、神は人間の力を通しては働かれないということを忘れることがある。私たちは、自分の能力や技術や訓練に頼ることを好むが、成功は、実は神が私たちを通して行おうとしておられることにかかっているのである。
 私たちが何か新しい冒険的な事業にとりかかる時には、いつも二つのことが重要である。
 第一に、私たちはそれを神の方法によって行う。
 第二に、私たちはそれを神の御力によって行う。
 このことをギデオンとその兵たちは知らされたのではなかと思う。私たちも主の方法と御力による御業に期待する者とならせて頂きたい。

主題 <恐れと疑いからの解放>

聖書箇所 士師記 6章      (2012年 9月26日)

今日のみことば「すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」」(23)

 6章からは、さばきつかさとしてギデオンが登場する。しかし、ギデオンは最初、恐れと疑いに満ちていた人であった。
 小麦の脱穀には、もみがらを吹き散らす風が必要である。酒ぶねのなかでは、あまり風はない。ギデオンはわざわざ条件の悪い所で仕事をしていた。それは、ミデヤン人を恐れていたからだった。また、ギデオンは主にしるしを求めました(17)。確たる確証がないと行動を起こせない懐疑心に支配されていたとも言えます。
 これらのギデオンのうちにあった恐れや疑いに対して神は共におられることと具体的なしるしを伴って知らせて下さいました。何よりもギデオンの求めに聞き応えてくださった神の憐れみを思わされる。
 私たちは、疑いや恐れを抱いている時に励ましを必要とする。神は恵み深くも、一度ならず二度までもそれを与えられる。この出来事を根拠として、自分が決定を下す前に神にしるしを求めようとする人々がよくいる。しかしそれとギデオンのしていることは違うということを確認したい。彼は神のみこころを知っている。彼に必要なのは、神の臨在が保証されることでした。神は、疑ったり恐れたりしている人々のありのままの状態を受け入れられて、御力をお与えになる神を改めて知った人であったということである。
 私たちも主を第一とし、確かに御業をあらわしてくださるお方がおられることを覚えて歩む者とならせて頂きたい。この信仰に立つことが恐れと疑いから解放されていく方法なのである。

主題 <それぞれの賜物を用いて> 

聖書箇所 士師記 5章      (2012年 9月25日)
今日のみことば「目ざめよ、目ざめよ。デボラ。目ざめよ、目ざめよ。歌声をあげよ。起きよ。バラク。とりこを捕らえて行け。アビノアムの子よ。」(12)
 5章は、デボラとバラクによる勝利の歌が書かれています。
 デボラとバラクが、ともに神への賛歌を歌ったことは、人間的に見れば、不思議なことではないだろうか。バラクの臆病さと、デボラの勇敢さは、対照的であった。しかし二人とも、神によって用いられた。バラクは、始めはデボラの言葉を信頼し切れなかったのかもしれない。彼は、デボラに同行を求めた(4:8)。デボラは、このような神のことばに対する、バラクの不信仰な答えに当惑したかもしれない。彼女は、またバラクの不信仰のために、彼は栄光を得ることができないと預言した(4:9)。しかし彼の不信仰は、イスラエルを救うという神のみわざの妨げにはならなかった。デボラはまさにイスラエルの母と呼ばれるのにふさわしかった(7)。
 神は、女性のヤエルを、戦いの勝利のために用いられた。彼女の家とヤビンの家は親しかった(24-31)。敵の王と親しかったということは、イスラエルにおいては、これまでは、必ずしも評判の良いことでなかったかもしれない。しかし、イスラエルの勝利を決定付けるために、神はそのような関係にある者をも用いられた。
 神のみわざは、決して一人の特定な人が担うのではない。一人一人の力にも、信仰にも限界がある。神は一人の足りなさを、他の人によって補われる。また神は、一人一人を、その賜物に応じて用いることがおできになる。
 5章の勝利の歌は、それぞれの賜物が用いられて勝利したことを歌っている。チームワークの勝利の歌と言える。今日私たちは共に戦う信仰の仲間があることを感謝し歩みたいと思います。

主題 <神のみこころを求めて実行する>

聖書箇所 士師記 4章      (2012年 9月24日)
主題 <神のみこころを求めて実行する>
今日のみことば「あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。」(6)

 士師記の最初のところには、イスラエルが神のことを忘れて神を捨て、その結果、外国人に支配されるようになり、その苦しみの中で神に叫び求めたとき、救い出されるというパターンが三回繰り返されている。きょうは四章を読むが、ここでもそのパターン通りのことが起る。
 デボラはそのような時代にあって人々をどのように導くべきかを示している。
 第一に、神の道を求めました。どのような立場においてでも、私たちが人を指導しなければならないとすれば、まず知らなければならないことは、神が何をさせようとしておられるかということである。
 第二に、明確な指示を与ました。デボラとは対照的に、バラクは気が弱くて、にえきらないように見える。彼女は神に頼っている。バラクは、神から任命を受けた後でさえ、頼ることのできるだれかほかの人を必要としている。
 神のみこころをはっきり理解し、そしてみこころに従おうと決断する時、私たちはデボラのように、他の人を励ますことができる。立派な指導者は、信仰と確信の人であって、それをいくらかでも他の人に伝達できる人である。
 デボラのように、神のみこころを求めて行ったように、私たち自身も主に求めていく者でありたい。そして、示されたのならば実行していく者となれるように祈りましょう。

2012年9月20日 (木)

主題 <弱さの中に奮い立てさせられる主>

聖書箇所 士師記 3章      (2012年 9月23日)

今日のみことば「エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。」 (31)

 ヨシュアの死後、ほどなくして、イスラエルは主に背いた。神は民をアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡された(8-11)。この苦しみの中で主に呼び求めたイスラエルに、主はオテニエルを最初の士師として立てられた。続いて、エフデ、さらにシャムガルを士師として立てられていく。
 士師たちは特別に優れていたという面はなかったように感じさせられる。特に、エフデの「左きき」は、直訳では「右手の不自由な」と訳される。むしろ弱さを持っていたということを思わされる。シャムガルについては、戦いに用いた「牛の突き棒」は、何らかの農機具を指すと思われる。彼は、大した武器も用いないで六百人のペリシテの戦士を倒したのである。
 彼ら士師たちは、「主の霊が彼の上にあった」(10)ゆえに、民たちを守り導いていったように、主の働きがあってその務めを果たして行った人々であったと言える。
 パウロは「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9)と言ったことを思い出す。
 弱さの中にも主の力、働きを見させて頂けることを覚えて日々の戦いに出て行きたいと思います。

主題 <戦いの中で取り扱われる主> 

聖書箇所 士師記 2章      (2012年 9月22日)

今日のみことば「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」 」(22)

主の契約の民は、カナン人と契約を結んだり、異教の慣習を残してはならなかった(2)。しかし、イスラエルの民たちは主の命令に徹底することができず、何度も失敗を繰り返す民に、主はさばきを伝えた(3)。民は声をあげて泣いたが、真の悔改めには繋がらなかった(4、16-19)。ヨシュアとその世代の民は、失敗しつつも、主の大きなわざを見、主に仕えることを知っていた(7)。しかし次世代の者は、主を完全に捨て去り、他の神々に仕えるようになってしまった(10)。
 11~19節には、士師記の中にたびたび繰り返されるパターンを見る。それは民の背信→主のさばき→民の悔い改め、嘆き→士師による救い→ふたたび背信というパターンである。ここでもイスラエルは、さばきつかさにも聞き従わず、士師の死後はなお堕落する(17、19)。民は主のあわれみによってのみ守られるのだが(18)、不誠実を犯し続けていく。
 主はカナンの先住民を、イスラエルの周囲に残された。それはイスラエルが「主の戦い」を貫徹できなかったためだが(20)、主は戦いを与えることによって、実際にイスラエルが主に従うかどうかを知ろうとされた(21、22)。困難な闘いの中で、それでも主に従っていくかを試される、訓練されていくことがある。私たちも日々の闘いの中で、信仰の勝利を得ることができるように祈ろう。

主題 <主からの使命の不徹底>

聖書箇所 士師記 1章      (2012年 9月21日)

今日のみことば「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」(19)  

 士師記は指導者ヨシュアの死後のイスラエルの民がカナンの地にてどのように生きたかが語られており、ヨシュア記に引き続くイスラエルの歴史を見ることができる。
 ヨシュアは主の民を約束の地に導き、各部族ごとに相続地を割り当て、そこを占領するようにと命じていた(ヨシュア23:4~6)。民は割り当てられた地を、主のものとしていく必要があったが、徹底していなかった。
 最初ユダ族は、ペリシテ人の地において勝利を収めたようだ(18)。しかし、占領できなかった。谷の住民は鉄の戦車を持っていたからだと記されている。主が共におられたのに勝利を完遂することができなかった(19)。ベニヤミン族も同様であった(21)。そこには最後まで占領を徹底しない、イスラエルの問題がある。
しかし共通の弱さが私たちにもあるのではないだろうか。捨てるべきものを捨てず、やめるべきものをもやめない甘さはないだろうか。自らの力ではなく、共におられる主の力に信頼する必要があるのは、現代の信仰者も同様である。小さな妥協は、次の大きな妥協を生む。
 士師記の最大のテーマは、民の不徹底、不従順と言える。追い払うべき民を追い払わず、やめるべきことをやめなかったので、霊性は落ちていった。しかし、ヨセフ族には完全な勝利があった(22-26)。主の臨在と共に、知恵を用いての勝利であった。民が主に従うことの重要性は、繰り返し強調されている。失敗のときにこそ、真の悔改めの実を結ぶチャンスとしよう。

主題 <私と私の家とは、主に仕える> 

聖書箇所 ヨシュア記 24章   (2012年 9月20日)

今日のみことば「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15)

 シエケムで再び神様の契約をイスラエルの中に語りなおしている。23章にもある通りの祝福とのろいの分れ目は、主を愛し、主を恐れ(14)、主に仕える(15、18、21、22、24、)ことです。
 指導者ヨシュアは『私と私の家とは』と控え目に語るが、イスラエルに激しい挑戦をしたのである。最後にいのちある限りにおいて、人々に対して、主に仕えるか、偶像に仕えるかを迫ったのです。
 それは主なる神が『聖なる神であり、ねたむ神である。』(19)ことを深く知っていたからです。神を愛する者には恵みを千代にまで及ぼし、従わないものには神からの審判がある。
 イスラエルが出エジプトの後、シナイの荒野で不信仰、不従順のためにどんなに神の心を傷付け、悲しませ、主のことばとおりに滅んでいったことか。
31節にあるように、『そのすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた』という聖句にギクリとさせられている。
 控え目だが、ヨシュア自身とその家族は腹が決まったのです。そして全イスラエルに霊的決断を促している。今、どう応答すべきなのであろう。この世半分、神半分では祝福を受けそこなう。

<祈り>主よ。ヨシュアの激しい主を愛する心に動かされています。生涯を貴き主に仕えます。アーメン。