2012年9月20日 (木)

主題 <足の裏が水の中に> 

聖書箇所 ヨシュア記 3章    (2012年 8月30日)

今日のみことば「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・」(15)

 神の民は、祭司の後を続いて進むのである。このときにヨルダンの水は川岸まで岸いっぱいに溢れていた季節だったのです。神はこうした時期に渡るように命じられる。神のなさるみわざはいつもこの点で変わらないようです。人の思いや計画が行きづまったと見える時こそが神の出番となる。
 神がみわざをなさるためには祭司が箱を担いでヨルダン川に足をいれなくてはならない。刈り入れる季節の川はいつもよりはるかに水量が多い。そこを神の助けを信じて踏み込む。その決断ができたのは、9~10節にある。
第1に、主のことばを本気で聞くことによる。
神には不可能なことがないと、記されております。
第2に、生ける神があなた方のうちにおられること。
神は死んだ神ではなく、いま現実に生きておられるお方です。
第3に、足の裏で踏む時に神が敵を追い払うことを知ることのあかしとなる。
 大きなチャレンジである。いつになく水かさの増した川へ足を踏み込むように招いている。しかもこの体験こそが、約束の地を手にいれてゆく大切な道程なのです。そこに奇跡が起こりました。川は二つに割れて、いままでの濁流の河床を乾いた地のようにわたれたのである。
<祈り>主よ。あなたの言葉への深い信頼によりきよめの生涯へ足を踏み込み、祝福をいただかせてください。  ア-メン。 
<祈りの課題> 

主題 <真実と誠実を尽くそう>

聖書箇所 ヨシュア記 2章    (2012年 8月29日)

今日のみことば「その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」(14)
 ヨシュアはカナンの地を占領するためにエリコを偵察させます。二人の斥候を遣わします。神の働きにおいて、一人ではなく二人は有益です。主も宣教に二人づつ派遣しています。エリコは昔から栄えた町でしたが、そのような町で、遊女ラハブに出会うことになるのです。彼女はのちには主の先祖にさえなるのです。
 これまでなされた出エジプトやシナイの奇跡は、遠くカナンの地、エリコまで届いていたのでした。カナン人は神が共におり、イスラエルが強大なエジプトを出立して、ヨルダン川の東までの間、次々と勝利をされてきたことを見聞きしていた。キリスト者の救いもきよめの生涯も、信仰のない人々に思いもよらない神のわざが証しされていることをどれほど分かっていたことだろうか
 ラハブは斥候に対して手厚くもてなす。それは神のしもべに対する態度でもある。神のしもべに対したあり方は、彼らと共におられる神の証しが伴っていたゆえでありました。一方それゆえに命をつけねらった王や兵士たちもいたのです。主のしもべはいのちの香りと死のかおりを放つのである。いのちに至るとすれば信仰により神を受け入れるように神のしもべを受入れることである。
 ラハブは神のしもべに真実を尽くしたように、このわたしに真実を尽くして欲しいと訴える。二人の斥候は、確かに真実と誠実を尽くそうと誓う。この誓いはまた神のあなたのよき誠実な神のしもべへのあり方への報いととるべきではないだろうか。
<祈り>主よ。あなたの遣わした神の器のために誠実と愛を行いたいのです。私たちにあなたの真実を現して下さい。

主題 <ただ強く、雄々しく> 

聖書箇所 ヨシュア記 1章    (2012年 8月28日)

今日のみことば「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(9)
 イスラエル人を導いていたモーセは、約束の地に入ることなく天に召されました。指導者を失ったイスラエルの人々は悲しみましたが、神はモーセの代わりにヨシュアを次の指導者として立てて下さいました。
 この時のヨシュアはどのような気持ちだったでしょうか。モーセのような経験もなく、どんなにか心細かったでしょう。大勢のイスラエルの民を約束の地に導かなければならない責任に押しつぶされる思いだったでしょう。そのようなヨシュアに主が命令と約束を告げられたのです。
 2~9節に次のような命令と約束を見ることが出来ます。
命令
 神の与えようとする地に行くこと(2節)
 すべての律法を守り行うこと。
 恐れてはならないこと(9節)
約束
 ヨシュアの行くところ、その足で踏む所を与えるすべてを与える(9節)
 律法に従うなら、繁栄すること
 あなたの行くところのどこにおいても神がともにあること(9節)
ヨシュアにとって、この命令と約束はどんなに力強かったでしょうか。ヨシュア記の信仰に答えられた神は、約束通りヨルダン川をせき止め、イスラエルを前進させて下さいました。私たちも、みことばに従って行くときに、同じ勝利を経験できるのです。

主題 <モーセの死とヨシュアへの継承>

聖書箇所 申命記 34章     (2012年 8月27日)

今日のみことば「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命いじられたとおりに行なった。」(9)

 申命記の最後の章は、モーセの死と埋葬、イスラエルによる服喪、ヨシュアによる継承と、結語が述べられている。
 モーセは、32章四9節で主がお命じになっているように、モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。そこから約束の地を見た。そこが、族長たちに与えると主が誓っておられた地が見えた。
 モーセの死は、神の民をエジプトから脱出させ、荒野を40年もさまようという、困難に満ちた奉仕からの解放を意味していた。モーセは今や使命を終えて天に召された。
 彼は主のしもべと呼ばれ、主の命令によって死に(5)、主によって葬られたと言われていることに注目したい(6)。
 モーセは120歳で死んだが、老衰ではなかった。「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とある(7)。主がモーセの死をみこころとされたことを意味している。また、主がモーセの労苦をねぎらわれたことを表している。これにまさる慰めと報いがあるだろうか。
 偉大な指導者モーセの死を悼んで、イスラエルは、30日間喪に服した。
 しかし、一人の指導者の死によって、神のご計画が中断してしまうことがあってはならない。モーセの後継者であるヨシュア(知恵の霊に満たされた人)によって、主のみわざは継続されるのである。
 結語の部分では、再びモーセのことが触れられて、主がモーセを選び、ご自身を啓示された目的が述べられている。

主題 <しあわせなイスラエル>

聖書箇所 申命記 33章     (2012年 8月26日)

今日のみことば「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」 (29)

 6節以降から各イスラエル部族に対して語られた祝福のことばが記されている。ルベンに対しては少数でも生き残るように語り、ユダに対しては、敵からの助けを祈っている。レビに対しては神の御心を求め祭司の務めを果たすように祈り、ベニヤミンには主の保護を祈っている。ヨセフについては、地の産物が豊かに与えられることが預言のように告げられている。ゼブルンとイッサカルは対で登場し、外に出て行っても、天幕の中にいても喜べと呼びかけ、その理由として海の富(海上貿易)による繁栄を挙げている。ガドは雌獅子にたとえられ、最良の地(ヨルダンの東側)に相続地を得る。カナン攻略の時には、イスラエルの先頭に立って戦うことになる。ダンは獅子の子にたとえられ、バジャンからおどり出ると預言されている。ナフタリは、やがてガリラヤ湖西南地域を所有するようになる。アシェルには、オリーブ油に恵まれ、「かんぬきが、鉄と青銅」と表現されるように(25)、防備が堅固であるという、祝福が告げられる。
 26~29節は、モーセによる祝福のことばの結びである。この結びの箇所には、特徴的な二つの呼びかけのことばがある。一つは、イスラエルの詩的愛称である「エシュルン」(26)で、もう一つが「しあわせなイスラエル」である(29)。これらはこの箇所のキーワードと言える。すなわちイスラエルの神は、他に並ぶものがない偉大な神であり、民の住む家となってくださるので、民は真の安らぎを得、くつろぐことができる。また、神の民への祝福が、29節に要約されている。神の民として生きることが真のさいわいであることを覚えたい。

主題 <主への背信> 

聖書箇所 申命記 32章     (2012年 8月25日)

今日のみことば「まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。」(28~29)

 32章はモーセの歌が記されている。今日は19節以降に歌われている主への背信について注目したい。神の恵みをないがしろにしたイスラエルの背信の結果は何であったのか。神は、決して罪を見過ごされることはない方である。
 19~25節には、背信のイスラエルに対する、神のさばきが語られている。民への怒りによって、主は彼らを退けられた。神が顔を隠すという擬人的表現は(20)、神がもはや民を顧みられなくなったことを示している。彼らは、神でないもの(偶像)によって、神のねたみを引き起こしたので、神も同じように神の民ではないもの(異邦人)によって、イスラエルにねたみを引き起こすと、主は仰せられる。義なる神の怒りの激しさが、22節では、焼き尽くす火にたとえられている。「わざわいを彼らの上に積み重ね」とあるように(23)、飢え、災害、悪疫などが(24)、イスラエルの乳飲み子から白髪の老人にまで、容赦なく臨むようになる(25)。
 26~35節には、それが主による復讐であり、報いであることが明らかにされている。もし、民に思慮と知恵があったなら、滅びを免れることができたはずだと、主によって言われている(28)。30節の「彼らの岩」とは主のことだが、31節の「彼らの岩」は、敵の頼みとする偶像の神を指しているので、注意して読む必要がある。
 主への背信の罪に対して、必ずさばかれることが語られている。しかし、その一方でさばきを避けられることに触れられている。それは、今日、神のみことばに聞くところにあることをさとらなければならにことが教えられている。

主題 <強くあれ、雄々しくあれ>

聖書箇所 申命記 31章     (2012年 8月24日)

今日のみことば「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(6)  

  1~6節では、全イスラエルに対しての語りかけがある。モーセはすでに百二十歳に達していた。自らはヨルダンを渡ることができないので、民を励ましている。主が先立って渡ってくださり、共に進んでくださる。主は民を見放さず、見捨てない。それゆえ強くあれ、雄々しくあれと命じている。
 モーセは、7~8節で、ヨシュアに対しても同じように励ましを与えている。自分に代わって神の民を約束の地に導き入れるのは、ヨシュアの務めであることを、全イスラエルの前で告げ、ヨシュアに自覚を与えている。
 この同じ励ましのことばが、モーセの死後、神ご自身によってヨシュアに語りかけられている(ヨシュア記1:6~9) 
 9~13節では、祭司だちとイスラエルのすべての長老たちに、命令が与えられている。それは、神から与えられたみおしえを、「免除の年の定めの時、仮庵の祭りに」、女、子ども、在留異国人を含めた民に、読んで聞かせることである。その目的は、彼らがこれを聞いて学び、主を恐れ、みおしえのすべてのことばを守り行うためである。
 この使命はとても重要である。神のみことばを読み聞かせていくことは親から子へ、教会の働きとして中心にしていかなくてはならないことであることを覚えたい。

主題 <主のみことばに聞き、実行する> 

聖書箇所 申命記 30章     (2012年 8月23日)

今日のみことば「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」(14)

 1~2節には、回復の条件が提示される。それは、神の民が罪の結果として散らされた国々の中で、主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うことである。
 3~10節では、回復の約束と、回復に伴う祝福が告げられている。全能の神にとって、ご自分の民を再び集めるのに障害となるものは、何もないのである。
 6節に注目しよう。「心を包む皮を切り捨てて」とは、神の民の外的しるしである割礼を思い起こさせることばである。ここでは心に割礼を受けよという意味で、罪を悔い改め、神に聞き従う心のことを指している。
 11節によれば、神が求めておられることは、決して実行不可能なむずかしいものでも、現実離れしたものでもないことがわかる。12~13節は11節を説明したことばである。実に神のみことばは、天にあるのでもなく、海のかなたにあるのでもない。ごく身近にあり、「あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」のである(14)。
 今や、神の民は「いのちと幸い」か、「死とわざわい」かを(15)選択することが求められているのである。
 神は、私たち人間を、自由意志を持つ者としてお造りになった。与えられた自由意志によってどちらを選択するかは、人生で最も重要な決断である。
 絶えず、みことばに聞き、選択して、実行することができるように祈りましょう。

主題 <のろいに関する警告>

聖書箇所 申命記 29章     (2012年 8月22日)

今日のみことば「しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」(29)
 29章全体では、契約の更新について記されている。今日は特に後半ののろいの警告について注目したい。
 神の民は、エジプトの地において、また荒野をさまよう間に、異邦の民の中に忌むべき偶像を見てきた。神の民は、「万が一にも、主を離れて、偶像に仕える者があってはならない」と警告されている。18節では、偶像礼拝のことが、毒草や、苦よもぎを生ずる根と、表現されている。
 19~20節には、こののろいのことばを聞いても、自分は大丈夫だと、心の中で自分を祝福する(うぬぼれる)者を、主は決して赦そうとはされないと書かれている。「潤ったものも乾いたものもひとしく滅びる」とは、砂漠の熱風が、すべての植物を枯らしてしまうところからとられた、たとえである。また、主の怒りとねたみが燃え上がると言われている。特に、ねたみということばが、主に関して用いられる場合、人のねたみとは異なり、あくまでも契約を守ろうとされる、神の熱心を表している。
 この書に記されたすべてののろいの誓いが、その者の上にのしかかる。どのようなのろいかは、前日の通読箇所だった28章15-68節で見たとおりである。さらに、主は、その者の名を、天の下から消し去られるのである。
 後の世代の人々が、彼らに下されたわざわいを見て、「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか」と問うなら(24)、人々は即座に、神の民が神との契約を捨て、偶像に仕え、それを拝んだからであると、答えるというのである(25-28)。これは、私たちが学ぶべき歴史の教訓である。

主題 <祝福とのろい> 

聖書箇所 申命記 28章     (2012年 8月21日)

今日のみことば「あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。」(14)

 28章には主に従う者の祝福と不従順の者へののろいが記されている。
 3~6節は一つの区分となっていて、ヘブル語の原文では、六つの「祝福される」という言葉が文頭に用いられている。
 神の民は、どこにあっても祝福され(3)、胎の実である子どもも、地の産物も、家畜も祝福される(4)。収穫を入れるかごも、パンをこねるこね鉢も祝福される(5)。7節では、敵に対する勝利、8節では、収穫と動労の祝福が約束されている。
これらの祝福の条件が、1節と共に、9節にも提示されている。それは、主の命令を守り、主の道を歩むことにほかならない。そうするなら、神はイスラエルを、ご自身の聖なる民として立ててくださる(9)。その結果、諸国民は神の民を恐れるようになる(10)。
 11~13節では、再び、約束の地における様々な祝福が、告げられている。物質的に恵まれることは、神の民にとって確かに大きな祝福であるが、神の民とされ、神を知り、神を礼拝できるという霊的な祝福にまさるものはないのである。
 15節以降には、前述されていた祝福とは正反対ののろいについて記されている。神の民が、主の御声に聞き従わず、主のすべての命令を守り行わないなら、多くののろいがもたらされるということを明確に語られている。祝福の記述よりものろいの記述の方が4倍のスペースを用いて28章では記されている。これはいかに神の民が主に従順に歩むことができるように警告し続けている神の配慮がなされていると言えよう。