2014年6月15日 (日)

主題 <あなたの光とまことを送り、私を導いてください>

聖書箇所  詩篇 43篇      (2013年7月26日)

今日のみことば「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。」(3)

 この詩篇は、神への切実な訴え、願い、問いかけから始まっている。彼はこのとき、神を恐れない異邦の民や、あざむきと不正の人から攻撃と圧迫を受けていた。彼は、神に「なぜ」と問いかける。力の源である神に頼り、祈り求めているのに、事態は好転せず、神に自分が拒絶されているようにさえ感じている(2)。
 この詩篇の作者は、自分の知恵や方法によってではなく、神の「光とまこと」によって、神のみもとに導かれることを願っている。神のみもとに行くことが、絶望からの解決であるのを知っているからである。確かに、罪人の私たちはだれも、神からの光、また神の真理によらなければ、神のみもとに行くことはできない。
 神は私たち罪人を、みもとに導くために、御子を備えてくださった。人となられた神の御子は、「すべての人を照らすそのまことの光」であられ、「恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:9、14)。
 彼が神に願い、祈り求めるのは、神のみもとに行き、神をほめたたえるためである。彼の訴えが取り上げられ、彼が敵対する者たちから救助されるのは、ただ自分の満足のためではない。神を礼拝し、神の御名をあがめ、ほめたたえるためなのである。
 5節は、42篇で繰り返されていることばである。詩人は、困難な状況の中で、神の導きを求めて祈っている。けれども、状況は何も変わらない。いっそう暗くなり、絶望感が増していく。しかし、詩人は「なぜ」との問いかけを神にではなく、自分自身に問いかけ、いや、「神を待ち望め」と自らに言い聞かせるように告白しているのである。 
 今日も主の導きに期待し歩むことが出来るように祈りましょう。

主題 <神を待ち望め>

聖書箇所  詩篇 42篇      (2013年7月25日)
 
今日のみことば「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」(11)

 この詩篇の作者は、神を慕いあえぎ(1)、神を求めて渇いている(2)。彼の目から涙は流れ続け、彼の耳には敵対者からのあざけりが聞こえ、彼の心は憂うつ感におおわれ、絶望状態にあった。また神が自分をお忘れになったと感じている(9)。彼の渇きは、神との正しい関係にあること、正しい霊的な状態にあることへの渇きであったと分かります。
 また、この詩篇の作者は、今エルサレムから遠く離れた所にいて(6)、群集と共に礼拝したことや、喜びと感謝を思い起こしている。また、神の恵みと、神がいかなるお方であるかを思い起こしている。詩人のたましいの渇きをいやすことのできるのは、生ける神である。
 また、苦しみと絶望の中にあって、自分のたましいに語りかけ、神を待ち望むようにと自分を励まし、神を賛美している。神を信じている者も落ち込むことがあり、また神を信じていることのゆえの苦しみもある。霊的なスランプ状態からの脱出方法は、神の恵みを思い起こし、神に信頼するように、絶望している自分を励ますこと、そして、神に自分の心を注ぎ出すことである(4)。
 今日、私たちの魂の渇きを満たしてくださる主の前に出て行こう。そして、主を待ち望む者の幸いを覚え、確信をもって歩む一日とすることができるように祈りましょう。

主題 <私たちの人生の幸いとは何か>

聖書箇所  詩篇 41篇      (2013年7月24日)

今日のみことば「主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。」(2)

 詩篇41篇の冒頭は「幸いなことよ。」とあり、これは詩篇1篇の冒頭と同じである。詩篇41篇は詩篇150篇の第一巻の終わりでもあり、そもそも詩篇1篇から41篇は最初と最後に「幸いなことよ。」という主題で意図的に編纂され一つのまとまりとなっている。
 これまで詩篇1~41篇の第一巻の中に、苦しみ、悩み、死の危険、罪を犯してしまった現実など私たちも今日経験しうるさまざまな人生の描写を見ることができたと思う。そのような困難な状況の中で、「幸いなことよ。」と最終的に言える理由は何かを考えさせられる。
 詩篇1篇の「幸いなことよ。」と言われているのが、ここでは主のみおしえに心を向けて生きていく者の幸いが語られていました。では第一巻の最後の詩篇41篇の「幸いなことよ。」と言われている中心は何かと言えば、主の見守りのうちにあって生きていく者の幸いと言える。2節に「主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。」とあり、神の御手のうちにある人生こそが幸いであると告白され、さまざまな境遇の中で、最終的には守られているという安心、平安であることこそが人生における幸いであると告白している。
 今、私たちは何をもって幸せと言うでしょうか。私たちの幸福観が自分中心の価値観からのものではなく、神のみおしえに学びつつ、神の御手のうちに見守られてある平安をもって生きることこそ幸いであると言うことを確認させて頂きたいと思います。

主題 <大きな会衆の中で>

聖書箇所  詩篇 40篇      (2013年7月23日)
 
今日のみことば「私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。主よ。あなたはご存じです。」(9)

 神が私たちを救い、絶望の暗い穴や暗黒の状態から引き上げて下さった時、私たちの応答は賛美であり(3)、次に、神のみわざをほかの人たちに語り告げたいという願い(9、10)であるはずである。こういう応答は、人々が主を信じ、主に頼るようになる助けとなる(3後半)。また私たちについて言えば、後に何かの出来事で心をかき乱されたり、おびえたり、悩んだりする時にも、祈りに信頼できるしっかりした土台があることを思い出す助けとなる。自分がどんなに不完全であっても、神が「私の助け、私を助け出す方」であることを知っている(17)。だから、困難なことが起った時にも、この真理をしっかりと握っていることができる(13-17)。
 私たちは、「新しい歌」で神の恵みをたたえているだろうか。神が私たちのためにして下さったすべての驚くべきことと、神のひとり子イエスが私たちのためにどんな死を遂げられたかを人々に語っているだろうか。私たちは単に一般の世に向かってではなく、まだ信仰を持っていない家族や職場の同僚や友人、知人にはっきりと語っているだろうか。この作者のように、私たちの話を聞く人たちが理解できるようなことばを使って、自然に語ることができるだろうか。
 私たちの信仰の告白、証しの伴う感謝の賛美を主にささげ、その賛美する姿が神ご自身を証しすることになることを覚えて、今日の一日を歩んでいきたいと思います。

主題 <私の望み、それはあなたです>

聖書箇所  詩篇 39篇      (2013年7月22日)

今日のみことば「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」(7)

 詩篇39篇は詩篇38篇に続く内容で、ダビデが病に苦しみ、さらには死の危険を感じる中で歌われたものと考えられています。そのような中でダビデは自分の人生を顧みて、人の人生とは何かと問い始め、主に祈り始めていきます。
 4節に「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」とあり、人の人生とはいかにはかないものかと告白している。この告白をしているダビデ自身が病も伴う苦しみの中で、自分の弱さを痛切に感じさせられていたと思われ、確かに私たちも病のうちにあるとき、自分の弱さを思い知らされ、そこに無気力感にさいなまれる程の絶望観の故にこの世をはかないく感じることがあるように思う。
 しかし、自らの人生を顧みて、ダビデは一つの結論に至っています。それは、むなしい人生において、唯一の望みは主であるということでした(39:7)。そして、この主を待ち望むことこそが人生のはかなさを逆転させていくこととなることを見出している。
 4~7節の間に、「知らせてください。」(39:4)、「知ることができるように。」(39:4)、「知りません。」(39:6)、と知ることの出来ない状況、知らないでいると繰り返されていることに気付く。私たちは自分の人生においてその先をすべて知りうる者ではない。そこで、人生のはかなさを嘆くのではなく、すべてをご支配されておられる主はみこころのうちに私たちを導こうとされていることをまず覚えたい。主を待ち望むことが鍵である。そして、待ち望むということは神を知り求めていく営みの中にあることを覚えたいと思います。

主題 <罪のうちにあって赦しを求める>

聖書箇所  詩篇  38章     (2013年7月21日)

今日のみことば「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」 (15)  

 この詩篇は、ダビデがバテ・シェバのことで罪を犯した後に悔い改めて歌ったものと考えられている。詩篇には七つの悔い改めの詩篇があるが、これはその一つとされている。
 1~8節にて、苦しみの中にあって神に祈っている姿があるが、その苦しみ続けている理由は自分の犯した罪のためであったことを告白している(38:5)。特に、1~3節には、その罪を犯したということが、どんなに肉体的にも、精神的にも苦しみ続けなければならないかを、その様子が告白されている。ついには、11節に「私のえやみを避けて立ち」とあり、「えやみ」とは病気のことであり、肉体的苦痛は現実の病となって苦しむこととなってしまったことが言われており、さらにはその病のうちにあって、だれも近寄る者のなくなってしまうという孤独の中に置かれて、一層の苦しみを経験することとなってしまったことが言われている。この詩篇を見る時、ダビデにとっての失敗、罪を犯したことがどんなに人生に大きな困難の中に立たされてしまうことになったかを知ることができる。
 しかし、ダビデは悔い改め、主の赦し、救いを求めていきました。そして、「急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。」(38:22)の祈りで終わっている。ダビデは苦しみのただ中で、神を見上げて祈り求めました。以前として苦しみから解放されていないけれども神に祈り、神が解決を与えてくださると希望をおいている。このダビデの姿こそが真の信仰者の姿ではないだろうか。罪の赦し、救いを与えてくださるお方は唯一であり、主にこそ救いがあることを告白しよう。

主題 <地に住み、誠実を養え>

聖書箇所  詩篇 37篇      (2013年7月20日)
 
今日のみことば「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(3-4)

 ダビデにとっては、なぜ悪を行う者が栄えるのかということは、大きな疑問であった。今日でも、悪を行いながら権力の座に着いている者は多い。この詩は、そのような疑問に対する解答を与えている。
 この世界を見渡すと、確かに悪を行う者が栄え、安楽な生活を送っているように見える。しかしそのようなことは昔からあったことであり、驚くべきことではない。ダビデはそのような悪人たちに対して腹を立てないように、ねたまないようにと勧める(1、7、8)。なぜなら神の御前に悪を行う者たちの繁栄は一時的であり、やがて彼らは必ず滅びるからだ(2、9、10等)。
 神を信じる者は、彼らによって煩わされる必要はない。私たちのするべきことは何か。主に信頼して、善を行うこと(3)。主をおのれの喜びとすること(4)。自分の道を主にゆだね(5)、主の前に静まり、耐え忍んで主を待つことである(7)。神を信じる者はたとえ貧しくても、やがては地を受け継ぐようになり、永遠に続く豊かな恵みを受ける(11、18、22、29、34)。
 悪を行う者は一般的には短命であり、彼らには恐ろしい運命が待ち受けている(22、34-36、38)。我々は、長い尺度で人生設計をするべきである。主は正しい者の歩みを確かなものとしてくださり(23)、たとえ一時的に悪者に捕らえられても、必ず助け出してくださる(39-40)。
 今日、罪人の栄えるように見える地にあっても、主に信頼し、誠実に生きることが出来るように祈ろう。

主題 <注いでください。あなたの恵みを>

聖書箇所  詩篇 36篇      (2013年7月19日)

今日のみことば「注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。」(10)

この詩篇では、罪人の姿と、神の恵みとが比較されている。
悪者は神を恐れない。彼は罪によって支配されている。彼は寝床の中でも不法を図る(1-4)。ここには、罪が悪者に語りかけ、やがては悪者を完全に支配するようになることが描かれている。悪者は、罪からの語りかけを聞き、受け入れてしまう。神に対する恐れがないということは、自分の罪や咎を小さいものと考えたり、罪を罪とすることができなくなることである。罪に捕らえられた人は、良心が鈍くなり、善悪を見分けることがむずかしくなる。そればかりか、自分がどれほど罪の深みに陥っているのかさえもわからなくなってしまうことが多い。
 5~9節は、主の恵みについてである。彼は、主の恵み、真実、義、さばきを、それぞれ、天、雲、山、海に結びつけることによって、主の御力がこの世界に満ちていることを教えている。またそれらをもって人を栄えさせてくださる主を慕い、賛美している。罪は人に滅びをもたらすが、主の恵みは人に喜びをもたらす。
 詩人は、滅びをもたらす罪と、主の恵みを対比させた。しかもそれにとどまらず、さらに進んで、自らも恵みを求めている。また、罪人が自分を捕らえることのないようにとの願いをもって、この詩篇を終えている。
 今日、私たちも神を恐れ、罪から離れ、神の恵みを求めていく者とならせて頂けるように祈りましょう。

主題 <敵の罠の中にあっても>

聖書箇所  詩篇 35篇      (2013年7月18日)
 
今日のみことば「こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。」(9)

このときの敵は、ずるがしこかった。彼らは、突然跳ね上がる網や、いったん落ちたら這い上がることのできない落とし穴のようなわなを、ダビデに対して仕掛けた。こうしたことを思い描きながら、きょうの箇所を読もう。
 ダビデは、自分と争う者を主に訴えている(1-6)。自分に力を与えて勝たせてくださいというのではなく、主ご自身が私のために戦ってくださるようにとの訴えである。また、それは執拗な訴えでもあった。ダビデは「いつまでながめておられるのですか」(17)、「目をさましてください」(23)と、自分に対する救いのわざが速やかになされることを、繰り返し求めている。それは個人的な復讐を求めているのではなく、神の義の実現を願う祈りであった。このときの彼の敵とは、見ず知らずの者ではなく、かつて彼がとりなした人々であった。13~14節に、作者が彼らのためにどのような思いで、どれほどとりなしたかを見ることができる。彼は、荒布をまとい、断食をし、母の喪に服するように祈ったのである。
 ダビデの神への訴えの根拠はどこにあるのだろうか。それは、彼自身にあるのではなく、24節に「あなたの義にしたがって」とあるように、神の義とあわれみにある。また、彼の救いとは、自分が危険やわなから逃れることや、敵が滅ぼされることだけを意味するのではなく、彼自身が主にあって喜び(9)、また主の御名がたたえられるところにある(27-28)。
 主は私たちが困難の中にあっても、主にとどまり続けることを願っておられる。また、敵に対する本当の勝利は、私たちがどんなときにも主にとどまり続けることにある。

主題 <主のさいばらしさを見つめることから始めよう>

聖書箇所  詩篇 34篇      (2013年7月17日)

今日のみことば「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(8)

詩篇34篇はダビデがサウル王に追われガテからアドラムへ逃れていき、アビメレク王(Ⅰサムエル21:10-15参照。ここではガテの王アキシュと書かれているが同一人物である)の前に出た時、気が狂ったふりをして、身に迫る危険を逃れたという経験をしたことが背景となっている。
ダビデは、4節に「私をすべての恐怖から救い出してくださった。」と言っているように、正気でありながら、気が狂ったふりをしなければならなかったことを想像すると、それはよほどの極限であり、恐怖の極限の中にあったと言ってよいだろう。しかし、ダビデはそのような極限の中で、外見は気が狂ったように振舞わなければならなかったが、しかし、その内心はゆるがないものがあったことを感じさせられる。5節に「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」とあり、恐怖の中にあって、恥じ入るばかりに見える姿であっても、主を仰ぎ見る者こそ救いがあり、他に比べることのできない輝きがあることが言われている。確かに、今日、私たちの身近におられる信仰生活の先輩の方々の中に、円熟した信仰の姿勢に他に比べることのできない輝きを見るように思う。
8節「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」とあり、主を仰ぎ見るということは、さらには主のすばらしさを味わうように見ていくことであることが言われている。圧倒的な恐れの中にもゆるがなれない主にある輝きを持つ者となるために、まずは主のすばらしさを思い見つめていくことから始めようではありませんか。