2014年6月15日 (日)

主題 <主への賛美> 

聖書箇所  詩篇 33篇      (2013年7月16日)

今日のみことば「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」(1)

 ダビデは、神を信じて義とされた者、すなわち「正しい者たち」、「心の直すぐな人たち」に、主を賛美するようにと勧めている(1)。私たちは、キリストを信じる信仰によって救われ、すべての罪を赦され、神の子供とされた。この地上にあっても、全能の神が、すべての必要を満たしてくださり、いつでもどこでも共にいてくださる。何という素晴らしい特権にあずかっていることだろうか。それ故に私たちも、大いに、主を賛美しよう。1~3節勧めに従おう。私たちの教会と各自の信仰生活が、賛美にあふれたものとなるように祈ろう。
 主のみことばは絶対的に正しい。このみことばによって天地は造られた(6)。また、主の計画も絶対的なものであり、人の計画はむなしい(10-12)。このような主を、おのれの神とする国は幸いである(12)。かつてのイスラエルがそうであった。日本が少しでも、このような国に近づくように祈ろう。
 主は天から、すべてのものに目を注いでおられる(13-18)。人の心を皆知っており、私たちのわざのすべてもご存知である。いくら軍隊を持っても、その力は神の御前にはむなしい。特に主を信じ、主の恵みを待ち望む者に、目を留めていてくださる(18)。
 私たちも、きょう、主を持ち望もう。主を喜ぼう。聖なる御名に信頼しよう。そうすれば必ず、主の恵みが豊かに注がれるからだ(20-22)。

主題 <私のそむきの罪を主に告白しよう>

聖書箇所  詩篇 32篇      (2013年7月15日)

今日のみことば「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(5)

 詩篇32篇を読む時、人は何により生き、何をもって喜び、生き生きした歩みをすることができるのかを確認させてくださるように思う。
 この詩篇の冒頭で、ダビデは罪をおおわれた人、つまりは罪を犯したけれでも赦された者、主によって罪をお認めにならない者は幸いであると言っている。そして、3~4節ではダビデが罪に苛まれている姿が告白されている。特に、「私は黙っていたときに」(32:2)とあるように、自分の犯した罪を隠し続けていたことを意味している告白の中に、私たちも改めて注意しなければならない重要なことを示しているように思う。それはどういうことかと言うと、罪を犯したことも問われなければならないことであるが、罪を犯してそれを隠し続けていくことはもっと問われなければならないことを私たちに示しているのである。
昨今、犯罪も証明できなければ罪に定められない、犯罪を犯しても時効まで逃げ切ることを考えるなどの風潮があるように思う。犯罪をつきとめていくために捜査を長く行なえるように事件の時効の延長が話し合われるようになってきている。しかし、時効の延長が言われながらも自首する者は少ない。依然として罪を認めていくことの良心が破壊的な状況にあることを思う。罪を負い続ける者、隠し続けていく者に平安はないのである。
でも、私たちは確認しよう。罪の告白は人生の敗北ではなく、再起であり、赦された者の歩みはまさに喜びの人生であることを、主はそのように導いてくださるお方であることを改めて覚えたい(32:11)。

2014年6月13日 (金)

主題 <主への信頼>

聖書箇所  詩篇  31章     (2013年7月14日)

今日のみことば「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」」 (14)  

 この詩篇は、ダビデがサウル王に追われてマオンの野に逃れた時に歌われたものと考えられています(Ⅰサムエル23:24-25参照)。
この詩篇の最初はダビデが神に助けを求め、そして神への信頼の告白で始まっています(31:1-8)。特に、5節に「私のたましいを御手にゆだねます。」との告白している言葉のうちに、ダビデが敵に追われ死を意識させられるほどの緊迫した状況にあったことが伺える。しかし、6節に「私は、むなしい偶像につく者を憎み、主に信頼しています。」と告白し、ダビデは偶像の神々を退け、ただ主にのみ信頼し救いを待ち望んでいた。私たちは、藁をも掴みたくなるような困難な状況にあって、何でも構わずすがり、それが真の神から離れてしまうことになってしまうことがしばしばあるように思う。ダビデの徹底したまでの主への信頼に学ばなければならない。
しかし、どうしてダビデは主にのみ信頼し続け求めていくことが出来たのだろうか。実は、主に信頼するということは苦しみの中にこそ培われていくものなのではないかと思わされる。9節に「私をあわれんでください。私には苦しみがあるのです。」とダビデは祈るように訴えている。今も私たちのうちにも苦しみがあります。主は無意味に苦しみの中におかれることはないことを思うとき、この苦しみの中に唯一の救いを見出すことができるお方に改めて取り扱われていくのではないだろうか。それは苦しみの中にあっても依然として変わらずにある主の慰め、あわれみの内にあって支えられていくという経験を通して神が共におられるということを知っていくように。だから、私たちも「あなたこそ私の神です。」と改めて告白しよう。

主題 <夕暮れに涙が宿っても>

聖書箇所  詩篇 30篇      (2013年7月13日)
 
今日のみことば「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(5)

 作者のダビデは、明らかに敵の攻撃の下にあった(1)。彼は病に伏し、それを敵たちは、恐らく罪の結果であるとして非難していた。しかし、ダビデが祈ったときに、神は彼を癒された(2)。死の世界に行かないように、彼を守られたのである(3)。それ故に、ダビデは神をあがめている(1)。
 そこで彼は、すべての聖徒たちに主を賛美し、感謝をささげるようにと勧める(4)。神は、私たちの罪の故に怒ることがあるとしても、その怒りは長くは続かない。夕暮れには涙が宿っても、主の御前に罪を告白するならば、怒りは去り、朝明けには喜びの叫びがあるからである(4-5)。
 6節からは過去の回顧である。かつて彼は繁栄を経験し、それが山のように動かないと感じたことがあった(6、7前半)。しかし、突然事態は変わり、彼にとっては神が御顔を隠されたように思われた(7後半)。恐らくその時に病に伏すようになったのであろう。そこで彼は、あわれみを求めて祈った。もしも彼が死んでしまうならば、それが神にとって何の益になるのかと訴えながら、神が助けとなってくださるように、祈ったのである(9-10)。
 そのように祈ったときに、神は応えてくださった。彼の病はいやされたのである。そこで彼の嘆きは踊りに変わった。荒布の代わりに喜びを着ることができた(11)。彼は主に、心からの感謝をささげている(12)。
 私たちの主は、夕暮れの涙を覚えて下さり、一日とたたない朝明けには喜びを備えてくださるお方であることを覚えましょう。

主題 <主に栄光を帰せよ>

聖書箇所  詩篇 29篇      (2013年7月12日)

今日のみことば「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。 御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。」(1-2)

ダビデは、栄光を主に帰するようにと呼びかけている。特に地の「力ある者の子」たちに呼びかけている(1)。ダビデ白身が、単なる詩人ではなく、王であり戦士であり、イスラエル王国を確立した人物なのである。彼は、多くの隣国と戦って勝利しなければならなかった。しかしそのような王であるダビデが、自分自身に栄光を帰することは求めずに、地のすべての者に、主に栄光を帰するようにと呼びかけているのである。
ダビデは、彼を勝利に導いた神が、自然をも支配しておられるお方であることを告白している(3-9)。「主の声」とは雷鳴のことであろう(3)。それは、杉の木をも引き裂く(5)。その恐ろしさは、動物に産みの苦しみをもたらすほどである(9)。「火の炎」とは稲妻のことであろう(7)。それら自然界のすべては、神に栄光を帰している(9)。私たちも、このように偉大なる主を恐れつつ、主に栄光を帰するのである。
 「大洪水のときに御座に着かれた」というのは(10)、天地創造の時から主が王座に着かれていたことか、あるいはノアの洪水の時に、神がさばき主であられたことを示すのであろう。この偉大なる恐るべき主が、契約の民には力を与えてくださり、また平安をもって民を祝福してくださるお方であることを忘れてはならない(11)。
私たちもすべてのことは主にあって与えられ、導かれ、守られていることを覚え、自らを誇るのではなく、祝福して下さる主に栄光を帰して歩む者となりましょう。

主題 <祈りの声を聞かれる主> 

聖書箇所  詩篇 28篇      (2013年7月11日)

今日のみことば「ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。」(6)

この詩篇を読むと、作者ダビデは、主から答えが与えられるまで、祈り続けたことがわかる。
 ダビデはまず、彼の祈りに神が耳を傾けてくださるようにと訴えている。はっきりとは書かれていないが、彼は死を目前にするような、危機的な状況に置かれていたようだ。彼は神に呼ばわっている。それは叫びに近いものであっただろう。「私の祈りに答えてくださらないことがないように。死んでしまうことがないように」と訴えているのである(1)。「手を…聖所の奥に向けて」祈るというのは、祈りが神に届くようにという熱烈な願いの表現であった(2)。
 どうやらダビデは、知らぬ間に、悪人たちの陰謀に落ちてしまい、自分が悪者であるとの熔印を押され、その結果、今にも命を失うような危機に瀕していたようである。ダビデは悪人たちに、神の公正なさばきが下るように、また自分が罪人扱いされたままで命を失うことのないようにと祈るのである(3-4)。
 このように祈っていくときに、彼の心の中には、神が祈りに応えてくださったという確信が湧いてきた(6)。悪を行う者は、神がなさることや、神の御手のわざを悟ることのできない者たちなので、神は必ず公正なさばきを下される(5)。ダビデの祈りの内容は一転して、賛美と感謝に変わるのである(6-8)。まだ結果を目で見たわけではないが、彼は祈りの中で確信が与えられ、神を賛美するのである。
 私たちも祈る時、主の前に祈りが届いているという確信を持って祈り続けていくことができたら、祈りほど主にある交わり、恵みの時はないかと覚えられたら幸いである。

主題 <神との交わりを求めて>

聖書箇所  詩篇 27篇      (2013年7月10日)

今日のみことば「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(4)

詩篇27篇の背景に、ダビデの息子アブシャロムの謀反により追われる身となり、困難な状況にあって歌われた詩篇と考えられている。この時、ダビデは4節にあるように、主の家に住み、主を仰ぎ見ることを求めている。つまりは神との変わらない交わりを求めました。
なぜ、ダビデは神との交わりを求めたのでしょうか。特に、危機に際し、あるいはいのちが短いと感じさせられる中で神との交わりを求めたのでしょうか。それは、神こそが救いであり、いのちのとりであり(1)、悩みの日の隠れ場であるから(5)と告白しています。ダビデは目先の危機に際して、この地上にありながら永遠に目を向けています。そして、神こそが最終的な救い、いのちをもたらし、困難な悩みの日に際しての本当の守りの隠れ家であることを確信していたからでした。
詩篇27篇7~12節では、具体的な危機に際し、主の助けを求めていますが、そのように求めるに先立って主との交わりが絶たれてしまうことを恐れ、とこしえに、永遠に変わらない神との交わりを求めていったダビデの信仰の姿勢に学びたいと思います。詩篇23篇6節に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」とあり、主なる神が私たちの人生の導き手、羊飼いであることが歌われている詩篇において同様なことが歌われています。永遠にある主との交わりに勝るものはないことを覚え、私たちも求めていきましょう。

主題 <主の御前に歩む誠実さ>

聖書箇所  詩篇 26篇      (2013年7月 9日)
 
今日のみことば「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」(1)

 1~7節は、誠実を主張しつつ、弁護を求める祈りであり、8~12節は助けを求める祈りである。ここでは特に前半の祈りに注目してみよう。
 25篇においては、ダビデは大胆に自分の罪や咎を告白した(7、11)。ここでは逆に、彼がいかに誠実に歩んだかを訴えている。彼の人生には、多くの失敗があったにもかかわらず、「私が誠実に歩み」とダビデは言っている。この誠実という言葉は、「完全」、「非難されるところのない」等という意味があるという。旧約聖書に記されたダビデの数々の罪を知る人々は、決してこの神への告白に同意できないだろう。しかし、聖書はこうも記している。「ダビデは、わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行なった」(I列王記14:8)。彼には確かに欠点があったが、全体としては、いつも神に従うことを求めていた。
 彼はここで、「弁護してください」と懇願もしている(1)。それ故に、自分で自分の義を主張しているのではないし、「誠実」ということと「何の失敗もなかった」ということを混同しているのではない。
 彼は、「あなたの恵みが私の目の前にあり」とも告白している(3)。恵みとは本来、「受けるに値しない者に惜しみなく与えられる神の好意」であり、自分が神の愛にふさわしいと言う者は受けることができない。また、「私は手を洗ってきよくし」というとき(6)、それは自分が汚れたものであり、きよくされなければならないという自覚を持っていたことを示している。
 私たちが自分の罪や失敗を、神の御前に告白し、赦しを求めつつ歩むなら、それこそが、誠実な歩みなのである。

主題 <主の小道>

聖書箇所  詩篇 25篇      (2013年7月 8日)

今日のみことば「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(12)

 この詩篇には「道」ということばが繰り返し出てきます。その「道」は小さい「小道」とも表現されています。その「道」は神に喜ばれる人生をさしています。ダビデはひたすらにこの主の道を教えていただきたいと求めた人でした。
主はこの道をどのような人に教えられるのでしょうか。それは、「罪人」(8)、「貧しい者」(9)、「主を恐れる者」(12)に教えられるとあります。つまり神に罪を悔い改める者、心がへりくだった者、そして神のみことばに聞き、守る者に主はご自身の道を教えられるのです。
 ダビデは心から罪を悔い改める祈りをささげる人でした(18)。王でしたが、へりくだって主の御前に喜ばれる歩みを求め、不安定な状況に立たされても誠実と正しさが保たれることを願いました(21)。
 主に教えられた道を選んで歩んできたダビデは、このように確信しています。「まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません」(2)。ダビデのうちに、絶えず主を求めて歩む道は、決して、恥じを見ることがない、主にあって祝福された歩みを全うしていくということを覚えたいと思います。
 どのように生きることが神に喜ばれる主の道なのか。この問いに対しての答えてくれるのは主のみことばである。主のみことばによって正しい選択を一日一日していけるように導いていただきましょう。

主題 <栄光の王>

聖書箇所 詩篇  24章      (2013年7月 7日)

今日のみことば「その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ栄光の王」 (10)  

 詩篇24篇は、契約の箱をオベデ・エドムの家から運び出して、ダビデがシオンに立てた王宮に安置する際に歌われたものと考えられている(Ⅱサムエル6:12-19参照)。ダビデが契約の箱をオベデ・エドムから運び上る時、六歩進む度に、いけにえをささげ、ダビデ自身は力の限り主の前で踊りながら運び上っていった。それを見て、サウルの娘ミカルはダビデをさげすんだだが、ダビデは人の目に卑しく見られても、契約の箱を運び入れることのできた喜び、感謝を全イスラエルの民と共有することを望んでいたことがサムエル記に記されている。
このような背景があったことを踏まえて、詩篇24篇を見ていくとき、中心的に示されていることは、この世界は主のものであり、栄光に満ちた神をほめたたえている点にある。
 詩篇24篇1~2節において、天地万物を造られた創造主、今も主の御支配のうちにあることがまず賛美されている。ダビデはその神の箱を運び上るということは非常に畏れ多いことであったことを覚えて賛美をささげている。そして、詩篇24篇7~10節では、7節と9節、8節と10節の繰り返しの並行した賛美をもって、栄光の王が来られること、その栄光の王とは力ある主、万軍の主であることが示されました。これまで、ダビデはエブス人らを戦いに打ち破って勝利してきたが、この勝利をもたらしてくださった神をほめたたえて、神に栄光を帰しこの詩篇の賛美をささげたのでした。
 今日、「栄光の王」とは、すべてに勝利された復活の主イエス・キリストであることを覚え、ダビデのように、私たちも主に力の限り、とこしえに賛美をささげる者でありたいと願います。