2012年5月22日 (火)

主題<かおりの高い香をたく>

聖書箇所 出エジプト記 30章  (2012年 5月12日)

今日のみことば「アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。」(7)
 香りのための壇を作り、贖罪をするしかたが述べられている。いくつか気付く点を上げて見よう。『朝ごとにともし火を整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。』とある(7節)。香りが神への祈りであるとすれば、朝ごとにささげられる祈りこそ『主の前の常供の香りのささげ物』(8節)としなくてはならない。しかも神様が祈りを求められているのです。いやそれ以前に人間の側がもっと祈りの必要を、祈ることの祝福を知らねばいけない。神さまとの交わりの時間を聖別しよう。
 15節には、『あなたがた自身をあがなうために、主の奉納物を納めるとき、富んだ者も半シケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。』と教えている。各自の罪のあがないのためには等しいあがないの銀を納める。そこに富める者と貧しい者の差別がない。ロ-マ書3章にはすべての人が罪を犯し、義とされる点でも何の差別も設けられていない。
 32節には『この割合で、これと似たものを作ってはならない。』とあり、聖別することにおいて人が似たような注ぎの油を作ってはならない。
 後に、聖なる火をたくべきところに異火をたき、神に裁かれた人物がいた。人間が聖なる神様へのささげものもまた、疑似宗教に陥ってはならない。多くの異端への戒めである。
<祈り>主よ。常に山の上で示されたかたちに従ってモ-セが形作りましたように、自己満足のためではなく、あなたのみこころにいきるようにささせてください。アーメン

主題 <その所でわたしはあなたに会う>

聖書箇所 出エジプト記 29章  (2012年 5月11日)

今日のみことば「その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」(43)  

 イスラエル人が暗黒の地エジプトから救い出された目的は、神様が彼らに会い、共に住み込まれて栄光を現すためである。42~46節を繰り返して読んでみたい。
 最も小さな民族イスラエルを選んでくださったのは、彼らの祭壇の上で捧げる供え物を見て、その所で会い、語るためだといわれた。その所こそ、主の栄光により聖とされるのです(43節)。
 その所、神との出会いの場を、主はいつも備えています。そこで私たちの側でなすべき責任は何であろうか。
 第1に、み言葉に示されたことに心から従いきることであり、
 第2は、自分を全焼のいけにえとして捧げるように明け渡すことである。 第3に、神が私の神となってくださっていることを徹底的に信頼し尽くすことである。
デボ-ションの時こそ、その所なのである。
 きょうが神さまと出会い、主のこえを聞き、主の恵みと栄光に触れて、満たされる瞬間であり、時間であり、一日である。
 あらゆる時と場所、そこを神様との出会いの場所として形作ることを私のきょうの第一の努めとさせていただこう。
<祈り>主よ。あなたとの出会いのみを求める祈りに集中します。ア-メン。

主題 <栄光と美を表す聖なる装束>

聖書箇所 出エジプト記 28章  (2012年 5月10日)

今日のみことば「また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。」(2)

 神はモ-セと兄とその子たちを祭司として仕えさせよと命じられた。
この祭司は神さまに対して人々の必要とすることを祈り、人々に対して神からの恵みのメッセ-ジを取り次ぐのである。
 12節を読むとき、12部族の名を主の前に携えて、執り成しをするのがわかる。それぞれの置かれている恵みの責任をはたせるためにです。
 主は『わたしのために祭司の努めをさせる。』と(1、3、4節)繰り返されている。祭司は人々に神を示す重大な職務があたえられている。
 そのために、神ご自身の栄光と美を表す聖なる装束を作らせたのです(2節)。そのように、私たちの信仰生活は、神の恵みを証しするという重大なつとめに私たち一人一人は召されている。
 ただし宗教のつとめにどうしても必要なのは生命であって、形式はその生命を盛る器である。神の栄光と神の美を表す服装を、知恵の霊に満たされた人が形づくるのである。外側の行動という服装と内側における栄光と美を豊かにマッチさせる日々でありたい。
<祈り>主よ。常にあなたの恵みを日々に受けつつ、あなたをあかしすることのの最高の信仰生活をきょうも歩ゆませてください。アーメン。

主題 <祭壇をアカシヤ材でつくる>

聖書箇所 出エジプト記 27章  (2012年 5月 9日)

今日のみことば「祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。高さは三キュビトとする。」(1)

 この祭壇は(1節)は『全焼のいけにえのための祭壇』(38章1節)である。この祭壇はアカシヤ材で造れと命じているが、第1は非常に堅い材料であること、第2に荒野に見出だせる植物であること。第3に、オレンジ色、ブラウン色の美しい素材である。
 アカシヤ材は旅行でしばしば砂漠の荒野で見出だした。
 神様はこの至聖所の祭壇に角を造らせている。この角の部分こそ最も神聖な箇所とみなされ、そこに『贖いの血』が塗られた。
 後にダビデはすべての敵の手から救い出された時に(2サムエル22章)、『主はわが救いの角』とほめたたえて賛美している(詩篇18篇にも)。外敵からの救いともとれるが神ご自身のあがないの絶対性を歌っていよう。アドニヤは王に反逆した時にこの祭壇の角をつかんで命乞いをしている。
 永久的な堅いアカシヤ材の祭壇こそ今日まで私たちの救いの確かな証しの場と見るべきである。もろく崩れないしっかりとした救いの約束を握っていい。しかもその材料は、歩んでいく旅路にある。
 『全焼のいけにえのための祭壇』とは、完全な献身を意味する儀式である。全部を捧げるわけです。
<祈り>神様、今日わたしのために大きな救いの約束を与えてくださり、感謝いたします。しっかりした救いの土台に立ちます。アーメン。

主題 <垂れ幕はあなたがたのため>

聖書箇所 出エジプト記 26章  (2012年 5月 8日)

今日のみことば「その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。」(33)

 聖所と至聖所がたれ幕によって仕切られている。それは祭司が仕える場と、年に1度の大祭司が立って仕える至聖所が隔てられたものです。
 至聖所とは『聖のなかの聖』『聖の聖』を意味する、最上級の聖を示す言葉である。縦、横、高さ、ともに十キュビトの立方体であり、神の完全性を表している。軽々しく神様の聖なる場を犯すことのないためにたれ幕がおかれましたが、これは主の十字架上で『すべてが完了した』叫ばれた時に上から下に引き裂かれたものである。
 出エジプトでは『あなたがたのために』とあるが、人が聖を重んじるため、聖を踏みにじらないため、の配慮であった。ちょうどアダムが罪を犯して死ぬべきさばきと、いのちの木を食べて生き続けることを避けるため、エデンの園を追放されて、燃える火の垣根を置かれたようにです。
 たれ幕に込められた重い意味を考えてみたい。その後に、主イエスさまの十字架を意味を、深く黙想しよう。
<祈り>主よ。私のために神さまに近付く道を用意し、しかも隔てる幕を用意してくださったことを感謝します。御名をそこなうことがないように。主の十字架の深い愛を感謝します。アーメン

主題 <わたしは彼らの中に住む>

聖書箇所 出エジプト記 25章  (2012年 5月 7日)

今日のみことば「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」(22)

 神様がイスラエルの中に住むと約束され、事実歩まれたのです。そのための聖所をつくる方法を示されます。この聖所は細部にわたり神様の指示どおりであることが求められている(9)。
 人間はしばしば自分好みの聖所を造り上げ、小さな神、いびつな神、自己の思いどうりの神を求めてしまう。そのような自分の造り上げた偶像には、どんなに呼び求めても真の神に出会えない。
 神が住まわれる聖所とは、
第1に、すべて心から捧げられる人からのものによつて造り上げられる。
第2に、神のためのみに向けられた聖所であって人間の好みの宗教生活ではない。
第3に、神の示す通りの材料と方法である。
 22節は『わたしはそこであなたと会い、あなたに語る。』と約束している。神さまと出会う祝福と神からのメッセ-ジを耳にする。それこそ日々の礼拝です。デボ-ションの中にこの約束は実現する。

<祈り>神さま、今日も聖書を通して私に語り、神ご自身を明かに示し、あ なたの側から近ずいてくださることを感謝します。続いてこのデボ-ショ ンの時を祝福して下さりあなたと出会う最高の時として下さい。ア-メン

2012年5月10日 (木)

主題 <神を見、飲み食いした>

<きょうの課題>
聖書箇所 出エジプト記 24章  (2012年 5月 6日)

今日のみことば「神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。」 (11)

 モ-セや民の長老たちは神様を直接見たと記されている。その場面には、神さまの姿と、み足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであったという。
 神を見ることは心の清い人に約束されており、幸福な場である(マタイ5章8節)。
 ヨハネは、『キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならその時、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』(ヨハネ第1書3章2節)と約束しています。キリストに似るという驚くべき出会いを体験し続けたい。
 3~8節に、和解のいけにえをささげ、その血を取って祭壇に注ぎ、半分は民に注ぎかけたという。この契約の血により、神を見る道が開かれたのです。注ぎの血が人々の罪ととがを赦し、清め、神に近づかせるのである。
 み子イエスの血はすべての罪をきよめます。昔の人々は、主の流された血潮を『ご宝血』と表現して、恵みの信仰を告白した。神を見る最高の経験を今、祈りの中にさせていただこうではないか。
<祈り>主よ。たえず心をイエス様の血で清められて神様を見つつ歩ませてください。そしてイエス様に似る者として下さいように。アーメン。
<きょうの課題>

主題<起こしてやりたくなくても> 

聖書箇所 出エジプト記 23章  (2012年 5月 5日)

今日のみことば「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」(5)

 1~9節は約束の地に入った後に、どのような生き方をして主をよろこばすべきかが記されている。むかしの生活をそっくり再現して生きるわけではないが、その原則、方法を学ぶことが大切である。
 人間はどうしても中立でいられないし、権力者に傾いたり、逆に弱者の側ばかりについてしまう。どんな状況の時にも神を第一として問題に対処するようにと考える、ということをいつも生きていきたい。
 ところで4~5節には敵であっても困った状況を見た時には助けにゆく、援護していくことを命じている。『なければならない。』というのです。とてもおもしろい真実に迫った表現ですね。『あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼と一緒におこしてやらなければならない。』とある。起こしてやりたくない、という表現を聖書の中に残しておられる。
 第1に神様は人の心の思いを見通す方であるとともに、深い同情を持っておられることがわかるだろうか。
 第2に、敵や憎しみあう相手に対して、憎しみではなくして、愛によって勝てと命じている。それでこそ神の子である。
 第3に神様の恵みが底流にしっかりと流れていて、もろい私たちをカバ-してくださることを言外に読み取れる。
<祈り>主よ。私の弱さを深く理解し助けてくださること感謝します。憎しみに生きるのではなく愛によって生きられるように今日も導いてください。アーメン

主題 <牛一頭を牛五頭で贖え>

聖書箇所 出エジプト記 22章  (2012年 5月 4日)

今日のみことば「牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。」(1)  

 イスラエル人における民事が、細かく規定された。盗みに対する教えが1-6節に記されている。牛や羊を盗むことがあったなら、五倍にして償わなくてはいけない(1節)。こうして神の民の中から、不道徳を除き、愛の生活をさせようとしている。五倍という罰則が犯罪を防ぐ目安となるのであろう。もっとも羊の場合は、四頭と規定されている。なぜだろうか。同じ盗みでも償いにの中に違がある。興味が湧くところです。
 間違って、隣人の家畜を死なせた場合など、丁寧である。神は心を見ておられるということだろう。
21-27節では、弱者に対して親切でなくてはならないのです。その理由が27節に記されている。「彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。」私たちの生活と性格は、神に似る者でありたい。神がいつくしみ深いのであるから、私たちも慈しみ深くあるべきですが、またいつくしみ深くなれるのです。それはこの神を深く交わり、神に学び、神にならうからです。
<祈り>主よ。あなたの前に、真実な生活によって恵みを示すことができますように。ア-メン。
<祈りの課題>                     

主題 <必ず殺されなければならない> 

聖書箇所 出エジプト記 21章  (2012年 5月 3日)

今日のみことば「自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。」(15)

 イスラエルの民の生き方がこまかく記されている。奴隷への取扱いや、死刑についての問題、償いをすることなどである。
 イスラエルの民にとっては、神のめぐみをあかしするために一つは悪の生き方は取り除かれなくてはいけないと命じているのです。
決して罪を犯した人間がさばかれることを主が望んでいるわけではない。主はひとりも滅びることを望まず、救われることをみこころとしている(Ⅱペテロの手紙3;9)。
 なぜ、こんなに厳しいと見える戒めを与えているのだろうか。それはより優れた生活を、ご自分の民に期待しているということだろう。奴隷へのいたわりある取扱いには、当時の世界では想像できない寛容さがある。出エジプトの経験が、新しい生き方を形造っていく現実があるのです。
 恵みの信仰生活を新しいかたちにしてゆくために、生活から汚れを、罪を取り除いてゆくことです。
 悔い改めの道こそ、求められている。励んで悔い改める。清いこころと生活をとおして神をあかししたい。
<祈り>主よ。わたしの今日一日のあゆみが神様のまえに真実な歩みとして整えてください。アーメン。
<祈りの課題>