2014年6月13日 (金)

主題 <私の目を輝かせてください>

聖書箇所  詩篇 13篇      (2013年6月26日)

今日のみことば「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。」(3)
 
作者ダビデは神に選ばれた王でしたが、長い間試練の中に置かれた人でした。「いつまでですか?」と何度も問うダビデ。私たちも人生の中で同じ問いを神にぶつけてしまいやすい者ではないでしょうか。試練の中で悲しみと苦しみを覚えるときに、霊的な目が曇らされて永遠の神のご計画を考えられなくなってしまう。神は私のことを永久に忘れてしまったのではないかと思ったり、自問自答しているうちに絶望的に感じて眠れない夜を過ごしてしまったりする。
しかし、ダビデは試練の中でこのように祈りました。「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。」(3節)と。小さな者に神のまなざしが注がれ、みことばが語られることを切に願い求め、曇らされた目が輝けるように求めたのです。
そのようにして、ダビデは主の恵みに拠り頼んで試練のときに陥りやすい考え方から救われたと告白して賛美しているのです。(5,6節)試練の中で祈り、神に拠り頼む小さな者に、神は必ず、目を注がれ、豊かにあしらってくださるのです。
私たちも苦難の中で、いっこうに好転しないかに見える状況に目を曇らせることのないように、そのまなざしは神を仰ぎ見るように、主に希望をおいて、今日歩むことが出来るように祈りましょう。

主題 <真実なことばの力> 

聖書箇所  詩篇 12篇      (2013年6月25日)

今日のみことば「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(6)

 ここにおいては、言葉による罪が強調されている。1~4節では、不誠実と虚偽に満ちた社会を描写しながら、聖徒に対する主の救いを求めている。しかし主は、ご自身が立ち上がることを約束された(5)。主のことばは不真実な者たちの言葉と比べると、大いに異なる(6)。最後に主の守りを確信している(7)。
 言葉の持つ力を考えてみよう。私の言葉は、他の人をいつも励まし建て上げているだろうか。それとも傷つけているだろうか。
 ダビデは助けを求める叫びで始めている(1)。ダビデが直面している問題は、偽善と(2)、公然と行われている悪である(8)。それはすべて、話す言葉から始まっている。人々が、神について尊敬を欠いた話し方をするならば、間もなくそれには、神をあがめないような行動が伴う。そのような人々は、他の人々の同じような行動も容認する。それで、社会全体が神から離れて行く過程は、さらに進んでいく。明らかにこのようなことがダビデの時代に起っていた。ダビデは、罪を犯している人々の言葉を引用しながら、彼らの言葉の中心にある、神の前の傲慢さを浮き立たせる(3、4)。それは、貴金属
のように七回も精練された、完全に純粋な主のみことばと何と違っていることを明確にしている(6)。神が話されるとき、そこには何の偽善もない。イエス・キリストの生涯は、そのことばと行動が完全に一致していた。イエスはいつも真実を語られた。そしてそのことば通りに行動をされた。イエスは完全な模範であられた。
 現代に生きる私たちは世にある不誠実な、虚偽なことばに惑わされずに、主のみことばによって歩む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <本当の拠り所>

聖書箇所  詩篇 11篇      (2013年6月24日)

今日のみことば「拠り所がこわされたら正しい者は何ができようか」(3)

 詩篇11篇1~2節において言われていることは、心の直ぐな人を鳥にたとえて、その鳥を弓矢によって射抜こうとする猟師が迫ってきているから、鳥が山に飛んで逃げるように、今は心の直ぐな人も身を隠し逃げるべきであると、たとえをもって勧告していることを意味しており、この詩篇がダビデの著作によるものであるということから考えて、おそらくダビデがいのちを狙われて逃亡生活をしているときのものと考えられる。この時、ダビデは「主に私は身を避ける。」(11:1)と言い、また「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(11:3)とも言い、主なる神こそが身を避ける、拠り所であると告白している。
 私たちも行き詰った時、困難な状況の中で逃れる場所を求めることがある。人目を避けたり、誰からも干渉されることのない場所へと逃れたいと考え、行動することがないだろうか。一時的に安心できる場所に逃れられたとしても、そこには問題を回避できたかに見えても、根本的な解決がないことに気付かされることがあるのである。人は本当の逃れる場所を必要としていることを思わされる。
 ダビデはその本当の逃れる場所が神のもとであると言っている。主にあって正しく歩み、生きようと願うもの最終的に身を避ける場、拠り所は神ご自身であることを覚えたい。たとえどんなに悪者が襲ってきたとしてもこわされることのない逃れ場が神のもとなのである。そして、そこに本当の導きと解決があることを覚えたい。問題や困難が生じたとき、まず、神のみ前に進み出て行こう。

2014年6月11日 (水)

主題 <悪者が栄えているように見えても>

聖書箇所 詩篇  10章      (2013年6月23日)

今日のみことば「主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。」 (12)  

 なぜ、悪者が存在するのか。今日の私たちも同様の疑問を持っておられる方も多いと思う。紀元前に生きた詩人が問いかけておられるように、この地上に生きている限り、いつも絶えず問いかけられることであり、正しく生きようと願うならばなおさらのこと、この世に悪者、悪意があるのを感じさせられるのである。
 詩篇10篇には、悪者の行いや姿について、いくつか具体的なことを指摘している。貪欲、高慢、神を侮る、のろい、欺き、しいたげ、罪のない人を殺す、不幸な人をねらっている、悩む人を捕らえようと待ち伏せるなど、目を覆いたいと思われるような悪意に満ちていることを指摘している。これらのことを持っているとされる悪者たちは、「神はいない。」(10:4)、「私はゆるぐことなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」(10:6)、「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」(10:11)と言っており、神を認めることもなく、侮り続けている。詩篇10篇の著者である詩人が「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。」(10:1)と問いかけるのも当然のように思われる。
でも12節のように「主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。」と願い求めていることばも同時に覚えたい。神を神とすることのできない悪者の結末は、一時は栄えているかに見えても滅びなのである(10:1)。最後は神の前に忘れ去られることのない者とされていることが重要なのである。今日も主は貧しくある者である私たちの問いや求めに答えてくださるお方(10:17)であることを覚えたいと思います。

主題 <神を知る者を見捨てられない>

聖書箇所  詩篇 9篇       (2013年6月22日)
 
今日のみことば「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(10)

 これまでに、神はもはや人間社会の営みを制しきれなくなったとか、あるいは姿を隠されてしまった、と感じたことはないだろうか。この詩篇では、神が王なるお方であり、正しいさばきを行うお方であることが強調されている。また、神は最終的に勝利されることも、力強く語られている。
 これはダビデの作である。まずダビデが一人称で賛美をささげていることに注目しよう(1、2)。次に、神が義の審判者として王座につかれており、敵対する者をさばかれることが(3-6)、また、永遠に王座についておられることが強調されている(7-9)。したがって、この詩篇のテーマは全世界的であり壮大であるが、その一方で個人的でもある(9、10)。
 神なしでも、うまく機能しているかのように見えるこの世界を、実は主がご支配されていることを、私たちはどのようにして理解できるのだろうか。ダビデの答えによると、それは過去を見ることによってである。神は、今まで彼が、試練や反対に会ったときに、ずっと誠実であられた(10)。私たちもダビデのように、御名を知る者として、10節のような確信を持っていつも神により頼みたい。また神は、これからも変わることがない。それ故にダビデはいつも神に助けを求める(13)。
 今日、私たちを見捨てられないと言ってくださる神に信頼して、主にゆだねつつ歩む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <特権を与えられている人間>

聖書箇所  詩篇 8篇      (2013年6月21日)

今日のみことば「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(4)

私たちが、だんだんと神を深く知るにつれて、自分白身のことをもさらによく知るようになる。あなたは今、神によって造られた自分をどのように見ているだろうか。肯定的な見方だろうか。それとも否定的な見方だろうか。自分に満足しているだろうか。あるいは不満足だろうか。きょうのみことばを通して、神があなたを特別に造ってくださっていることを確信しよう。
この詩篇の目的は、まず、神は偉大であると、声を大にして言い表すことにある。幼子でさえもが、その口を通して神を賛美したり告白したりするとき、それは力となり、敵は沈黙させられる(2)。
この大自然を見るときに、私たちは自らのあまりの小ささに圧倒される(3、4)。しかし、創造者であられる神の目の前には、私たちがどのような者であるかを見てみよう。神は人をご自身のかたちに創造され、いくらか劣るものとされた(5)。ここには、人の特権について書かれている。神は人に栄光と誉れの冠をかぶらせてくださり、御手の多くのわざを治めさせてくださり(創世1:26,28)、万物を足の下に置いてくださった(5、6)。人とはこのようにすばらしい存在なのである。
今、自分自身の存在を無意味と思ってしまっていなだろうか。紙はあなたという存在を造られた時から、祝福されようとされていることを覚え、この恵みの中を生き生きと歩む者とさせて頂きたいと願います。

主題 <神は正しい審判者> 

聖書箇所  詩篇 7篇      (2013年6月20日)

今日のみことば「神は正しい審判者、日々、怒る神。」(11)

 表題にあるベニヤミン人クシュは、聖書の他の箇所では何も触れられていないので、なぞの人物である。彼がダビデに対して偽りの告発をしたことは、この詩を読むと明らかである。その結果、今やダビデは逃亡中である。これは、ダビデがサウル王から逃げている状況に当てはまるだろう(Iサムエル24:1-2)。ク
 ダビデは、主なる神に、目をさまし、さばきを定めてくださるようにと訴えている(6)。彼はまたこの恐ろしい状況のすべてを、神がお調べにならないようにと願うのではなく、他の人と同じように、自らも厳しい検査に会うことを望んでいる(8)。ダビデには自信があった。その自信は、神にあった。きょう、私たちは、8節のように折れるだろうか。
 ダビデは、彼を告発する者としての神ではなく、自分を保護してくださるお方としての神に信頼を置いた(10)。そして神は、神を信じない者が必然的に自らの上にもたらすような害から、ダビデを守られた(14-16)。罪深い行いは破壊的な影響を及ぼす。その結果は、今ここで現れるかもしれないし、或いは永遠の結果として出てくるものかもしれないが、必ず現れるものである。
 神の御国の市民であるならば、さばきを恐れない。それは私たち自身が正しいからではなく、神の義が私たちのものであるからである(17)。
 最後には正しくさばいてくださる主を覚え、主の御心が行われることを覚えて、祈りつつ歩んでいきましょう。

主題 <嘆き疲れ果てた時に>

聖書箇所  詩篇 6篇      (2013年6月19日)

今日のみことば「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」(8-9)
 
詩篇6篇1~3節を見るとき、ダビデは主にあわれみを求めて祈っており、その原因はダビデが何らかの罪を犯してしまったからなのか、その具体的なことは触れられていないが、いずれにしても悔い改めをもって主に願い求めている姿が伺える。
 特に6節には「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」とあり、王としてイスラエルを統治したダビデ王が、神の御怒りを恐れ、自らの嘆き、涙で寝床をぬらしていたと告白されている。今この詩篇を読んでいるあなたは、ダビデのように夜も眠れずに、自らを嘆き、涙を流しているようなことを抱えていることがあるだろうか。もしそのようなことがあるならば、次にダビデの告白のことばを覚えたい。8節に「主は私の泣く声を聞かれたのだ。」とあり、ダビデはどんなに愚かに、神の御怒りや激しい憤りを受けておかしくない者であっても、その自らを嘆き、悔い改めの涙を流す者の声、祈りに主は耳を傾けてくださり、聞いてくださると確信している。それは、本当の意味で人の深いところの嘆き、涙に触れてくださり、とりあつかってくださるのは主なる神の他にはないことを示している。
 「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」(6:9)とのみことばを今日の私たちの歩み、祈りにおける確信のことばとして、主との関係の土台として心に刻んでいきたいと思います。

主題 <朝毎に祈る> 

聖書箇所  詩篇 5篇      (2013年6月18日)

今日のみことば「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(3)

 この詩篇は、苦境を訴え、解決のために立ち上がってくださいとの必死の祈りで始まり、義の行為者としての「神」を告白し、さらに主に身を避ける者へのとりなしの祈りへと進み、最後には深い確信のことばとなっていく。
 この詩篇からダビデは、朝早く祈ることを常としていたことが伺える。それは、神の御前で、これから始まる一日の歩み方を整えていただくためであり、様々な問題に対する、霊的備えをしていただくためであったことが分かる(3)。
 神が忌み嫌われるのは、誇り高ぶる者、不法を行うすべての者、偽りを言う者、血を流す者と欺く者である(5、6)。彼らは強く勇ましい生き方をしているように見えるかもしれないが、決して神の御前に立つことはできず、神に退けられる者たちである。特に、彼らの口、のど、舌は害毒をまき散らし、その原因は、心そのものにある(9)。彼らは、ダビデにうめきを与え、叫びを与えている張本人であろうが、ダビデは、神が彼らに対して正しいさばきを行われることを信じ(10)、神の豊かな恵みを確信し、神への畏敬を忘れることなく、神の御前にひれ伏している(7)。
 また、ダビデは、自分のことだけではなく、自分と同じような状況にいる者たちのことも思いつつ、主に身を避ける者がみな、祝福を得るようにと祈っている(12)。ダビデを含めたそのような者たちに、神がなさることは、大きな確かな愛で取り囲んでくださるということを覚えたい(12)。

主題 <平安を与えられる神>

聖書箇所  詩篇 4篇      (2013年6月17日)

今日のみことば「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(8)

 詩篇3篇は「朝の詩篇」と呼ばれるのに対し、詩篇4篇は「夕の詩篇」と言われている。詩篇4篇の表題にはダビデの賛歌とあるだけで、その背景に関わる情報が記されていないが、「朝の詩篇」と「夕の詩篇」と対応して呼ばれることから、おそらく、詩篇3篇と同じような困難な状況にあったダビデが主からの導きと平安を頂きたいという祈りから生まれた詩篇であると考えられる。(4:1)
 主に詩篇4篇2~5節には、ダビデが苦しみの中で主にへりくだり、罪を犯すことなく、主に信頼し歩むように勧め告白している。特に4節には「恐れおののけ。そして、罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。」とある。あなたは、困難な状況の中で自暴自棄となってしまい、どうにでもなれというような思いで行動する勝手な振る舞いが人を傷つけ、自分を傷つけ、罪を重ねることになっていないだろうか。ダビデは困難な時こそ、主の前にへりくだり、「床の上で自分の心に語り、静まれ。」とあるように、一人寝静まる夜の時のように主の前に静まり、絶えず自らを省みるように促されている。それは、困難な時こそ、自分の経験や考えに偏ってしまい、結果的には神から離れていくような行為、行動となってしまい、罪を犯してしまうことが多々あるからである。
 困難な時こそ、あれこれと考えては失望してしまうのではなく、あるいは焦って行動しては失敗してしまうのではなく、ダビデのようにまず平安を与え最善を備えてくださっている主を覚え、主の前に導きを求めていく祈りから始めていきたいと願います。