2014年6月11日 (水)

主題 <あなたを取り囲む方がおられる>

聖書箇所 詩篇  3章       (2013年6月16日)

今日のみことば「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」 (3)  

 詩篇3篇の表題に「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」と記されている。この状況についてはサムエル記第二15~17章に記されている。ダビデがまざまな葛藤の中で自分の我が子に命を狙われて逃亡し続けてきたことが記されている。そのような逃亡生活の中で歌われた賛歌、詩篇であると表題がつけられている。そもそも命が狙われて追われている。それだけでなく追っている者が自分の我が子アブシャロムであったダビデの心境はいかにつらい状況にあったかと想像されるのだが、ダビデは主に賛歌、賛美をささげている。ダビデをとりまく人々でさえ「彼に神の救いはない。」(3:3)と言う者さえ実際にいたことが分かる。では一体なぜ、ダビデはこのような状況の中で賛美をささげることができたのだろうか。ダビデは「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」(3:4)と告白し、誰の目から見ても危機的な状況におかれていながらも、ダビデは寝るときも目覚めるときも常に背後に主なる神の御手によって支えられていると自覚していたことが分かる。敵に追われ、取り囲まれていても、主なる神が「私の回りを囲む盾」であるゆえに、ダビデは希望を失わず、主に信頼して賛美をささげ続けていくことができたのである。
 今日、私たちもさまざまな困難な状況にあっても主なる神さまが盾のように守ってくださることを信じ、主にあって歩ませて頂きたい。そして、ダビデのように主を賛美しつづける歩みをもって主に栄光を帰して歩み、あかしする者とさせて頂きたいとお祈りしましょう。

主題 <幸いな人生2> 

聖書箇所  詩篇 2篇       (2013年6月15日)

今日のみことば「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(12)

 詩篇1篇1節「幸いなことよ。」で始まっていたが、詩篇2編12節の最後もやはり「幸いなことよ。」で締めくくられている。このことは、詩篇が編纂される中で、詩篇2篇が詩篇1篇に続く、内容的な関連があって位置づけられているととることができます。
 詩篇2篇は、「国々は騒ぎ立ち・・・、」(1)と始まり、地にある混乱、動乱を感じさせられることばで始まっています。そのような中で、「主と、主に油注がれた者」(2)、「御子に口づけせよ。」(12)とあり、これらのことばの解釈にはいろいろの見解があるが、伝統的にはメシア預言を含む詩篇として言われており、この地上の世は、メシアに逆らう中で、この油注がれた者の前に、恐れをもって、仕えて行くように命じられている。そして、最後に「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」で詩篇2篇は閉じられている。
 詩篇1篇が、幸いな人生とは、主のみことばの御教えに聞き従い歩むところにあるとするならば、2篇は油注がれた者なるメシアの前に恐れつつ仕えていくこと。この主に全幅の信頼をもってその身を避けていくことこそ幸いなことであることを教えてくれている。
 そして、新約聖書ではメシア(救い主)とはまさに、この地上にこられたイエス・キリストであり、この方を信じる者に永遠のいのちを与えられると約束されたのです。
 私たちはこの主に身を避ける者として、今日、歩むものでありたいと願います。

主題 <幸いな人生1>

聖書箇所  詩篇 1篇      (2013年6月14日)

今日のみことば「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(6)

「幸いなことよ。」(1)ということばは、詩篇41篇1節にも同じみことばにより始まっている。詩篇1篇から41篇までは、詩篇150篇を5つの巻に分けられ、ちょうど1篇から41篇までが第1巻というまとまりということからも第1巻全体は「幸いなことよ。」というみことばそのものが主題として意図的に編纂されていることが分かります。詩篇1篇は詩篇150篇全体としても最初の詩篇ということで、この詩篇は重要と言えます。
詩篇1篇は悪者と正しい者との対比が明確であり、悪者の道に歩まなかった者、その人の歩みとは、たえず主のみことばを口ずさみ(2)、何をしても栄える(3)と言われています。幸いとは主の教えを喜び、従って歩むところにあることが分かります。
しかし、一方で、確かなことは悪者の道があるという事実が言われていることです。この地上を歩む歩みの中に、正しい者があざけられるという扱いを受けることもありうるという理不尽な、不条理な力が働かれているということに注意しなくてはならないのです。
私たちにとって何が幸いなことなのかを改めて問われ、教えてくれる詩篇1篇は、現代に生きる私たちキリスト者に、絶え間なくみことばによる主の教えに聞き従い歩むことになることを覚え、永遠のいのちを失うことのないように警告を与えてくれているのです。
今日、私たちのくちびるに主の教えがいつも口ずさまれるようにみことばを語り、告白した歩みとなるようにしていきたいと願います。

主題 <ついにヨブの勝利がやってきた> 

聖書箇所  ヨブ記 42章     (2013年6月13日)

今日のみことば「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」(3)

 ヨブ記の最後を読み、これまで途中を飛ばして読んできた方々にとって、42章の結論はわかりやすいかも知れない。しかし、じっくりと長い時間を真剣に読まれた方々には、実は途中の戦いの言葉こそ意味があったことを発見されたことだろう。神ご自身を知ったヨブの祝福が倍になった、ああよかったというように、やっぱり神は真実だと思って終わるのではない。
 ヨブは、自分自身の自己嫌悪ではなく、聖なるお方に触れた中での驚きを記している。イザヤが聖なるお方の前で「ああ、だめだ。」と叫んだように、自己中心な世界観から神中心の世界観に変化したのである。
 それは、神について知る出来事ではなく、神を知った出来事である。これまでのヨブの精一杯の自己保身の言葉によって、とんでもないことをしでかしていたのだ。自分で悟り得ないことを叫んでいたのだ。それが自我の根源の問題、自己の納得が行かなければやめない罪性なのである。
 この罪性ゆえに、霊魂の中で休むことができなかった。今、神の前における絶対性を知り、神を神とし、友にために祈ることによって、嵐にもみくちゃになっていた心は、(詩篇131: 2)「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」と静かに語る。
神はこんなヨブを放って置くはずがない。子どもが倍に、財産も倍になった。もう一度、ヨブ記を読み返さなくては、………と願う。

主題 <自我の主張を支配できない人間>

聖書箇所  ヨブ記 41章     (2013年6月12日)

今日のみことば「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押えつけることができるか。」(1)
 
人間がうめき、嘆くのは、混沌としているためだ。その混沌とは、悪人と思える人間は栄えていて、義なる私がなぜ苦しまなくてはならないのか。悪人と思える人間が打ちのめされさえしていたら、少しは胸のつかえが楽になり、納得もいく。しかし、ヨブの中にある自己を義とするゆえに納得がゆかないので悶々としているだ。
この怪物こそ、<レビヤタン>(口語訳では「わに」)なのである。「わに」のようにすごい怪物が、自分の中で動き回っている。その怪物を釣り針のようなもので釣り上げられるか。こうしてだれよりも苦しみのたうち回っているのがヨブなのである。
この混沌を支配し、治めることができるのは神のみであると神は言う。神は創世記1章2節で、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(第三版では、「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と訳している)。地が茫漠としている中で、神の霊が地を舞かけるのである。そしてこの茫漠たる地に神の「光」があって、素晴らしい世界が出現することとなる。(創世記1;3)
 自分でもがいて、誰かに訴えても、だれも真剣にならない。だれもそこまで届かない。だが、神はヨブをここから引き上げるのだ。この混沌を支配できるのは神だけだ。神の御手にゆだねる以外にないし、神は善にして善のほか行いえないのだ。神はヨブをして、低級な信仰生活に終わらせたくはない。より優れた信仰者にしたいのだ。

主題 <神は人をどこまでも追い詰める> 

聖書箇所  ヨブ記 40章     (2013年6月11日)

今日のみことば「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(8)

 神はヨブの持つ罪の問題をどこまでも追い詰める。
38章の自然の世界と39章の動物たちの世界を語られて、ヨブは降参した。その告白として、また祈りとしてこう述べたのである。「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。」(4節)
 ここには、自分の無知と高慢さに気付いたヨブの率直な告白がある。無条件降伏と見えるヨブのことばだ。
だが神はここで終わらない。自己の弱さや小ささに気付くことはとても大事だ。だが神は彼をさらに神の国の高嶺へと導くのである。なぜなら自分の小ささに気付いても、どんなに謙虚な姿勢であっても、自己の神の前にある罪の認識がなくては、信仰が意味をなさないからである。
ヨブが神のさばきを無効にし、自分をどこまでも義としようとすることによって神を罪に定めるという。ここには究極的な自己義の姿がはっきりと示されてくる。信仰を持っているといいつつも、自己を義とする以上は、不信仰よりも始末が悪いのだ。しばしば、この点で自分が見えないと思えるクリスチャンたちがいることも事実だ。
神の前に自分を悔い改めることは、神の前に靴を脱いだ旧約聖書の聖徒たち(モーセやヨシュア、ダビデたち)のように、新約聖書の使徒やパウロのように聖めを経験するまで神は捨て置かないのだ。

主題 <神は荒れた地を野ろばに与えたのだ>

聖書箇所  ヨブ記 39章     (2013年6月10日)

今日のみことば「わたしは荒れた地をそれの家とし、不毛の地をその住みかとした。」(6)

 神は直接にヨブの苦しみの意味を語ろうとされていない。38章では自然の現象における神の創造の不思議を、39章では、生き物たちの世界の不思議を取り上げて、ヨブの高慢を打ち砕こうとされている。
その中で、野ろばの存在と生存を与えているのが神だというのである。「だれが野ろばを解き放ったのか。だれが野生のろばの綱をほどいたのか。」(5節)と語る。野ろばは、荒れ地で生きてゆくのだ。不毛の地を神は住み家として与えたのだという。それでは野ろばが不幸そのものではないか。だが野ろばはそこで生きることができるのだ。なぜなら、神が与えたということにほかならないからだという。
 野ろばがどうしてこんな荒れ地を神は自分に与えたのか、ともし自分だけを見つめていれば、生きることができなくなるだろう。
 しかし、野ろばは何も語っていないが、自分に置かれた場所で、荒野で飛び回っている。そこで歓喜の生活をしているのだ。
 ヨブにとっての現在の場は、とても生きられないと絶望するだろうが、それはなぜ、何故と迷いつつ問い続けるからである。自分のむごいと思える状態に涙だけが今の自分にできることか。自分の暗黒な状態を、悲しみに心を奪われ続けているのはよくない。
 さてである。今の環境、困難にあなたを置かれたのは神だ。そして野ろばが置かれた世界で喜んで生きているように、荒野のようだが生きてみよ。必ず道は開かれてくるのだ、と。

主題 <神がついに登場された>

聖書箇所 ヨブ記  38章     (2013年6月 9日)

今日のみことば「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。」 (1)  

 ヨブ記において、ついに神の登場となる。どんなにヨブにとって願わしいことだったろうか。しかし、この神の登場はヨブにとっては自己の真実に直面する契機となるのである。 ヨブは自分の苦しみが襲い、どうしようもないときに三人の友人が来て三日三晩も悲しんでくれたが、そこは所詮人間であった。ヨブの苦しみはヨブに問題があったことを告げても、希望を告げる言葉ではなかった。かえってヨブの心をかたくなにし、ヨブの自己主張を積み重ねるだけだった。
 ヨブは神そのものに解答を求めたのだ。神は嵐の中からヨブに語るのである。聖書の人々は、しばしば嵐の中で神に聞き、心から神に明け渡すことによって勝利を得る道を見いだした聖徒がいる。たとえば、ヨナはタルシシュ行きの船に乗り、大嵐を経て大魚の腹の中で悔い改めた。エリヤは大きな自然現象の後に神の声を聞いた。弟子たちはガリラヤ湖の湖上の嵐の中におられる主を再発見したのである。
 大自然の脅威を経験してはじめて、人は謙虚になる。それまで何でもできるかのように高慢な振る舞いをしていた姿は影を潜める。
試練の中から人間は人となるのである。それまでの人間は獣(ケダモノ)であり、三人の友人さえそうであったことを思い知らされる。
 さて神は直接にヨブに苦しみの意味を語っておられるわけではない。神の答えはもどかしく思われるかも知れない。だが、ここで神は人間は自分の分を超えて思い上がらないということを知らしめているのである。

主題 <すべての手を封じる神> 

聖書箇所 ヨブ記 37章      (2013年6月 8日)

今日のみことば「神はすべての人の手を封じ込める。神の造った人間が知るために。」(7)

エリフの言葉は、自然に現れた神の栄光を語る。36;26-33には、秋の時期。37;1-13は冬の時期、14-22は夏の時期を語る。ことに冬は大雪の季節で人々は憂鬱な閉じ込められた季節である。だが、この封じ込められた中で神は人に語るのだというのである。
 新共同訳聖書は、「人の手の業をすべて封じ込め/すべての人間に御業を認めさせられる。」と訳している。苦難に囲まれて、いくら忍耐しても出口が見えない時期に、神は神の方法でみこころを示されるというのである。そうした神経験をした聖徒たちは多い。
 人の手のわざを封じ込めてから、神が立ち上がられるということには、いくつかの取り扱いがあることを考えられる。
 第一に、神のみこころはそう簡単に答えが出ないと考えられる。だからといって延期なさることではない。ただ人間の側で神から語りかけられることを真剣に求めることを望まれている。
 第二に、人間の考えではどれほどに考え抜いても答えが出ないが、神は人を正しく導かれる。
 第三に、神が造ったすべての人間に神のみわざを認めさせるのである。
 使徒パウロは、特別な賜物と共に、深刻な苦悩が与えられていた。そのために切に祈ったが、神は答えられた。『私の恵みはあなたに十分だ。わたしの力は弱さに完全に現れる』(Ⅱコリント12章)
それゆえに、自分の弱点を誇るほどの突き抜ける信仰をにぎった。

主題 <悩みの中で耳を開かれ>

聖書箇所  ヨブ記 36章     (2013年6月 7日)

今日のみことば「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」(15)

 エリフの言葉でも、特筆する言葉である。神は苦悩の中で耳を開かれるというのである。新共同訳聖書は、「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し/苦悩の中で耳を開いてくださる。」と訳している。
エリフは、これまで3人の友人たちのヨブの試練の原因は罪ある者だからと悔い改めを迫ったのとは違い、もっと深い問題の本質に迫る。それは苦難が神の教育であることを知らせようとしている。それが悩みの中で「耳を開く」と言うことである。
もしそうなら、試練と逆境は何という偉大な役割をもっていることだろう。この深い意味を今日は想起したい。
試練が神からの取り扱いよることを信じて受け入れて、無知をもって神の真理、神の教育を閉ざしてはならないのだと。この神からの語りかけを真剣に自分自身と、自分の考え方と取り組む必要がある。自分に討議し、語り合い、受けとめることを考えなくてはならない。苦難に埋没し、神を憎み、世間の冷たさを恨み、自己の不運を嘆き続けることから外に出よう。神の世界に飛び込んでみよう。神とまさにそこで出会えるのである。神が一人子を与えるほどに愛されたことを発見しよう。また、聖書に出てくる聖徒たちが家族を失い、立場を失い、途方に暮れつつも天を見上げて涙をぬぐったことを発見しよう。
そして近隣の人々の激しい痛みと悲しみにふれ、想起しつつ、一緒に天を見上げることのために自分の苦悩があったことを発見しよう。