2014年6月13日 (金)

主題 <羊飼いなる神> 

聖書箇所  詩篇 23篇      (2013年7月 6日)

今日のみことば「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1)

 若い時にダビデは、家族の羊を飼う羊飼いであった。それ故に彼は、羊は愚かで、迷いやすく、流れの激しい川からは水を飲むことができず、危険に遭うと自らを守ることができない、弱いものであることを知っていた。また、羊飼いの仕事が、いかに難しく、孤独なものであるかということも知っていた。彼は、羊飼いとして、いつも羊の必要を満たすために配慮していたのである。自らの生涯を振り返り、自分を羊に置き換えながら、ダビデは神が羊飼いとして呼ばれるのにふさわしいお方であることを、まず告白している(1)。
 神は、何というすばらしい羊飼いであることか。神は、私たちが人生を歩むために、私たちの必要のすべてを肉体的にも霊的にも満たしてくださるお方であり、私たちを守り、導いてくださるお方である(2-3)。
 それでは、私たちの人生には、もはや問題は無いのだろうか。そうではない。罪人である私たちは、羊のように道に迷うし、またあるときには神のこらしめのむちを必要とする(ヘブル12:5、6参照)。ダビデの羊たちにとって野獣が危険であったように、悪魔はほえたけるししのように、私たちの周りを歩き回り(Ⅰペテロ5:8)、私たちを誘惑の道へと誘うのである。
 しかし、どのような危険が迫ったとしても、羊飼いなる神は決してご自身の羊たちを見捨てることはなさらない。ダビデは、大きな危険、多くの悲しみ、残酷な敵たち、神のこらしめ等、それらのすべてを経験しながら、なおもいつくしみと恵みとが、彼を追ってくると告白することができた。また永遠の祝福についても、確信していたのである(4-6)。

主題 <苦難のしもべ>

聖書箇所  詩篇 22篇      (2013年7月 5日)

今日のみことば「地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。」(27)
ダビデは苦しみの中で、この詩を歌ったと思われる。彼が受けた苦しみは、将来、ダビデの子孫としておいでになる、メシヤが受けられる苦難の予表でもあった。
1~2節は、苦しみの中の叫びである。マタイの福音書27章46節と比べてみよう。メシヤは人類の身代わりとなって、父なる神から引き離されるという恐ろしい苦しみを昧わってくださるのである。
3~5節において、ダビデは、神が信頼に応えられるお方であることを告白している。それはイスラエルの歴史を振り返るときに、当然出てくる告白であった。
6~8節は、ダビデによる、そしりの中にある自分の告白である。彼は、自分が人間ではなく虫けらのように感じた。彼は人々からさげすまれ、あざけられた。やがておいでになるメシヤは、やはり人々から、そのような非難を受けられる。マタイの福音書27章39-43節と見比べてみよう。
9~10節は、ダビデの素晴らしい信仰告白である。彼は、自分にいのちを与えられたのが、神であることを告白している。
11~18節は、まさに十字架の苦しみの予表であると言われている。特に14~15節は、十字架の上に両手両足を釘づけにされてぶら下げられている者の苦しみを表しているという。メシヤがお生まれになる何百年も前に、このようなことが歌われたとは、何という不思議なことであろうか。18節に書かれている預言の実現についてはヨハネの福音書19章24節を参照。
19節以降は、一転して賛美である。主は祈りに応えて、ダビデを苦しみの中から救い出してくださった(24)。

主題 <主の御力の前に>

聖書箇所  詩篇 21篇      (2013年7月 4日)
 
今日のみことば「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」(13)

 20篇が、戦いの前に、イスラエルの民によって王のために歌われたとすれば、この21篇は、戦いにおける勝利の後に、やはり民によって歌われた感謝の祈りである。このときの王は神に信頼し、人々もやはり神に信頼していた。そのようなときには、イスラエルはいつも勝利を収めたのである。王は民のために祈り、民は王のために祈った。民の願いはまた、ダビデの願いであったということもできる。
 1~2節は、王の願いを叶えられる神について言われており、王は、神の御力を喜び、また救いを楽しんだ(1)。すなわち戦いに勝利した。神は彼の心の願いを叶えられた(2)。20篇4~5節の祈りに応えられたのである。
 3~4節は、王を祝福される神について言われており、神は、ご自身に信頼して勝利した王を迎えて祝福し、その頭には純金の冠を置かれる(3)。実際に、王が勝利すると、冠を得ることがあった(I歴代20:2参照)。
 王は勝利を求めたが、神は彼に望む以上の祝福を与えられた。信仰者であるがゆえに、神の祝福は永遠に続くものであった(4-6)。
 7~12節は、王の信頼に応えられる神について言われており、王が神に信頼したので、神は恵みによって彼を支え(7)、ご自身が、王に敵対する者を滅ぼされる(8-12)。
 すべてのことを導かれる主の前に、感謝しつつ、歩む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <主の御名を誇る>

聖書箇所  詩篇 20篇      (2013年7月 3日)

今日のみことば「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(7)
 
詩篇20篇には、「あなたの勝利」や「旗を高く掲げ」(5)、また「いくさ車を誇り」や「馬を誇る」(7)などのことばが見られることから、その背景に、戦いに出陣していこうとしている状況があったと考えられる。イスラエルの民が戦いに出て行くとき、主なる神の前にささげものと祈りをもってから出陣していったことが聖書には多く記されている。おそらく1~3節にあることは、その戦いの前のささげ物と祈りが歌われていると考えられる。
注目すべきことは、戦いを前にして、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(7)と告白していることである。今日もそうであるが、戦いを常とする軍事国家は他国よりも強い兵器をもって自国の強大さを示そうとする。当時の軍事において、いくさ車や騎馬を多く持つことは重要なことであった。しかし、ダビデをはじめ、イスラエルの民は、この詩篇の賛歌として歌われているように、神を誇り、その御名を誇ると告白している。
私たちも自らの力、権力を誇示し頼るのではなく、私たちを本当に助け、救い、導いてくださるお方を覚え、この方を誇りとして歩んでいきたいと願います。
「誇る者は、主を誇りなさい。」(新改訳第3版、コリント人への手紙第二10章17節)

主題 <主は語ってくださっている>

聖書箇所  詩篇 19篇      (2013年7月 2日)
 
今日のみことば「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(14)

 詩篇19篇は、神が二つの方法で、人に語り続けてくださっていることが書かれている。
 神がご自身を顕しておられる第一の方法は、自然界を通してである(1-6)。この素晴らしい自然界の秩序、特に大宇宙を規則正しく運行している天体を見るときに、それは神の存在を示しており、人に弁解の余地はない。特に作者は太陽が昇りまた軌道を進むさまを、力強い花婿にたとえながら描写している(4-6)。太陽の光と熱は、人が生きていくために本当に大切なものである。神の存在を疑いたくなるようなときには、自然界に目を留めることであることを覚えたい。木の葉の一枚一枚にも、神の与えられたいのちが行き渡っている。
 神がご自身を顕しておられる第二の方法は、律法(みことば)を通してである(7-11)。作者は、みことばを幾つかの言葉で形容している。それは、完全で、たましいを生き返らせ、確かで、賢くし、正しくて、人の心を喜ばせる。またきよくて、人の目を明るくし、とこしえまでも変わらず、まことであり、ことごとく正しい。純金よりも好ましく、蜜よりも甘い。それによって人は戒めを受け、それを守れば主からの報いは大きい。まさに神のみことばの素晴らしさは、どんなに言葉を用いても、言い尽くすことはできないでしょう。
 今日も、神は、自然を通して、みことばを通して、私たち一人一人に語りかけて下さっている。主の語りかけに耳を傾けて、主に導きを求め、従う者とならせて頂きたいと思います。

主題 <主はわが力>

聖書箇所  詩篇 18篇      (2013年7月 1日)

今日のみことば「主、わが力。私はあなたを慕います。」(1)

 表題を見るとこの詩篇の背景が分かります。ダビデが「救い出された日」に介入して下さった神に感謝の祈りをささげたのでした。
ダビデがサウルに追われていた状況は、「死の綱」「滅びの川」「よみの綱」「死のわな」と書かれてあるように、自分ではどうにもならない力に囲まれていました。そのような中でダビデは、主を呼び求め、助けを求めてひたすらに祈ったのです。(6節)
すると、その祈りを主は聞いてくださり、主は被造物や自然現象を使い驚くべき力でダビデを救い出してくださったのです。(7~19節)主が自ら行動を起こしてくださったので、追い詰められていたダビデは勝利を得ることができたのです。ダビデは「主が私を喜びとされたから」だと、言っています。(19節)
この日、「救い出された日」にダビデは「主、わが力。私は、あなたを慕います。」(1節)、「…この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」(3節)と告白したのです。
ダビデは主を「わが力」と告白しました。あなたの力となっているのは何ですか。 自らの力には限界があるのではないでしょうか。特に、ダビデが経験したように困難な中に、本当に頼るべき方を見出し、助けを求めているところに本当の勝利があることを覚えなくてはならないのではないでしょうか。
私たちの姿勢として、ダビデが告白したように、「主、わが力。私はあなたを慕います。」(1)を土台とすることができたらと願います。

主題 <主の御翼の陰に守られる恵み>

聖書箇所 詩篇  17章      (2013年6月30日)

今日のみことば「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰にわたしをかくまってください。」 (8)  

 詩篇17篇の表題は「ダビデの祈り」とあり、ダビデの祈りの姿勢をよく現わしている詩篇の一つと言える。
 ダビデの祈りは必死な叫びであり(1)、心を探られ導かれることを求めていくものであったということが分かります(3)。私たちは、単純に、自分の願いばかり祈ってしまっていなだろうか。まず、神の御前にあって祈るにふさわしいものであるかどうかを問われるべきであり、自分のうちには完全さがないことを認め、むしろ公正に目を注がれ(2)、事を行なわれる主を覚えて祈ることが大切である。また、祈りをささげる一方で、神様の側からは確かに耳を傾けられ、目を注いでいてくださっていることを改めて覚えたい。
 ダビデは「御翼の陰に私をかくまってください。」(8)と祈っている。この「御翼の陰」ということばはたびたび詩篇に出てくる。詩篇57篇1節「まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。」とあり、ここでは滅びからの神の守り、平安について示され、詩篇61篇4節「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。」とあり、ここでは神のうちにあって永遠に交わりが与えられることを示され、詩篇63篇7節「御翼の陰で、私は喜び歌います。」とあり、ここでは喜びについて示されています。主の御翼の陰のうちにあることの幸いが描写されています。今日も鳥が羽でひなを覆い守られるように、神は私たちを愛し守ってくださっていることに感謝し、ダビデのように困難な時こそ、主に祈り求めていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <私の前に主を置いた> 

聖書箇所  詩篇 16篇      (2013年6月29日)

今日のみことば「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(8)

 ダビデは、ある問題の中で、主の守りを求め、主に身を避けることを願った(1)。王のダビデが、謙遜に神の助けを求めている。私たちもどのような問題であっても、一人で悩み苦しむのではなく、神に身を避けよう。そのように祈ったときに、すぐにダビデには確信が与えられた。彼は神を自分の主と告白し、また幸いが主にあることを告白している(2)。
 このような確信を待った彼は、次に周りを見て感謝する。彼と同じように主を信じる聖徒たちには、独特の威厳がある。彼らと交わりを持つことは、ダビデにとっては大きな喜びであった(3)。しかし、このような素晴らしい主や、また聖徒との交わりを放棄して、異教の神に走る者もあった。彼らは、人をも犠牲としてささげていた。彼らの痛みはやがて増し加わることが言われている(4)。
 ダビデは、主からの恵みを、「ゆずりの地所」「杯」「測り綱」という言葉で表現している(5-6)。「測り綱」は、測量のために用いられたが、主の恵みは正確に測られた土地のように、彼に与えられたのである。
 ダビデが神の恵みを豊かに与えられた最大の理由は、いつも自分の前に主を置いたことである。これは彼が、いつも神を意識していたということであろう。それ故に、どのような悩みや苦しみのときでも、喜びと平安を保つことができた(8-9)。10節は、彼の復活の希望であり、新約聖書の中では、キリストの復活の預言として引用されている(使徒13:35)。
 いつも私の前に主を置くというように、主にある歩みであることを強く意識して歩んでいきたいと願います。

主題 <主の幕屋に宿る>

聖書箇所  詩篇 15篇      (2013年6月28日)

今日のみことば「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」(1)

1~2節は、神の幕屋に宿る条件、3~5節は信仰者の実際的な歩みについてである。
まず作者は、神の幕屋に宿る、すなわち聖なる山に住む条件について考える。神の国に住むための条件と考えてもよいだろう。神の答えは、すぐに与えられた。その条件とは、正義と真実を愛することである(2)。
では、その人の具体的な歩みはどうか。3~5節に書かれているのは真実さ、謙遜さ、同情、公明正大さ等である。このような人は、神の守りがあるのでゆるがされることがない (5)。
このように、作者は、エルサレムの神殿に目を留めながら、主に従う生活の大切さを思い起こしている。確かにこのような人がいるとするならば、その人は間違いなく天国に入ることができるであろう。 
しかし、私たちは、日々。このような生活を送っているだろうか。このような条件を守れない、弱い者はどうなるのか。感謝なことに、律法は、不完全な者がなおも救われるための道を示していた。それは、犠牲をささげることによる罪の赦しである。旧約時代の人々は、動物の犠牲をささげつつ、神が約束してくださったメシヤを待ち望む信仰によって救われたのであった。そして、今日、ただ一度、ささげられた犠牲である神の小羊イエス・キリストの犠牲によって(へブル8章)、今はただ、イエス・キリストを信じる信仰によって救われれていることを感謝したい。
神の幕屋、神の国に住む幸いを得ている喜びをもって、主を賛美しつつ、今日も歩んでいきましょう。

主題 <愚か者は心の中で> 

聖書箇所  詩篇 14篇      (2013年6月27日)

今日のみことば「愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。」(1)

 本篇は、53篇と内容が類似している。53篇は、本篇を後になって書き改めたものと思われ、同じ様な内容が繰り返されて編纂されているというところに、この詩篇の重要性を感じさせられる。
 1~3節は、神の目から見た人の状態と考えれば、よく理解できる。アダムが罪を犯して以来、すべての人は神の前に罪人となった。「義人はいない。ひとりもいない」と書かれている通りである(ローマ3:10~12)。「愚か者」(1)は、ヘブル語では「ナバル」である。サムエル記第一25章に出て来る、愚かな男(ナバル)のことを思い出す。彼はダビデから受けた恩を無視し、神の前に、意図的に非常に挑戦的な態度を取った人だった。残念ながらナバルのような愚かな者は、現代でも至る所にいる(2、3)。3節はある程度は誰もがそうであることを意味している。私たちは、聖なる、また義なる神の前に、「だれもかれも腐り果てている」。この腐敗は、悪しき行いに発展する(三節後半)。愚か者はなかなか学ぶことがなく、また自分の愚かさの度合いを見ることができない。彼は神の前に誠実に歩もうとする者たちを、迫害することが多い(4)。これが、この詩篇の要点である。すなわち、人の愚かさは、神がおられること、そして神がすべての物事の中心で働いておられるという真理を見えなくしてしまうことが示されている。
 しかし、実は神は正しい者と共におられる(5)。神を信じながら、この世にあっては悩んでいる者たちを、愚かな者たちは、はずかしめようとするであろう。しかし、主は彼らの避け所となって正しい者たちを守られる(6)。やがてメシヤ(キリスト)がシオンから来られ、信じる者のために正しいさばきを行われる(7)。