主題 <羊飼いなる神>
聖書箇所 詩篇 23篇 (2013年7月 6日)
今日のみことば「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1)
若い時にダビデは、家族の羊を飼う羊飼いであった。それ故に彼は、羊は愚かで、迷いやすく、流れの激しい川からは水を飲むことができず、危険に遭うと自らを守ることができない、弱いものであることを知っていた。また、羊飼いの仕事が、いかに難しく、孤独なものであるかということも知っていた。彼は、羊飼いとして、いつも羊の必要を満たすために配慮していたのである。自らの生涯を振り返り、自分を羊に置き換えながら、ダビデは神が羊飼いとして呼ばれるのにふさわしいお方であることを、まず告白している(1)。
神は、何というすばらしい羊飼いであることか。神は、私たちが人生を歩むために、私たちの必要のすべてを肉体的にも霊的にも満たしてくださるお方であり、私たちを守り、導いてくださるお方である(2-3)。
それでは、私たちの人生には、もはや問題は無いのだろうか。そうではない。罪人である私たちは、羊のように道に迷うし、またあるときには神のこらしめのむちを必要とする(ヘブル12:5、6参照)。ダビデの羊たちにとって野獣が危険であったように、悪魔はほえたけるししのように、私たちの周りを歩き回り(Ⅰペテロ5:8)、私たちを誘惑の道へと誘うのである。
しかし、どのような危険が迫ったとしても、羊飼いなる神は決してご自身の羊たちを見捨てることはなさらない。ダビデは、大きな危険、多くの悲しみ、残酷な敵たち、神のこらしめ等、それらのすべてを経験しながら、なおもいつくしみと恵みとが、彼を追ってくると告白することができた。また永遠の祝福についても、確信していたのである(4-6)。