2011年9月 1日 (木)

主題 <神の守りを信じて進もう> 

聖書箇所 使徒の働き 12章    (2011年9月 6日)

今日のみことば「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」(1-2)

 ヘロデへの恐ろしいまでの怒りと王がさばかれたことが見られる。この時のヘロデとは、主が誕生したときベツレヘムの幼児を虐殺したヘロデ大王の孫にあたり、バプテスマのヨハネを殺害したヘロデ王の甥に当たる。彼は頑迷な王であり、それだからこそ人々にもてはやされることを好んだのである(3)。ところが、迫害し、教会を抹殺しようとしたヘロデは自己の栄光を求めて打たれるのです(30-33)。
 教会に対する最初の攻撃により、使徒ヤコブの首が切られた。これまでのキリストのために生きて、名を知られていないが、たくさんの殉教者たちが存在しているのである。神は真実な犠牲を知っておられる(詩篇116:15)。なお、このヤコブはヤコブの手紙の著者ではない(ヤコブ書は、イエスさまの弟といわれる)。
 ヘロデは今度、教会の中心人物のペテロを投獄し、過越の祭りの後で、殺害しようとしていた。しかし、神を無視した計画は決して成功しない。どれほど人々の気に入り、みんなが喜んでいるように見えても、神の審判が彼の上に降ることとなる。
 ここには、ペテロの素晴らしい救いの情景がはっきりと見て取れる。主にとっては、鉄格子も鎖も、厳重な兵士も無力なのである。ペテロは、明日は処刑という前夜にもかかわらず、ぐっすりと眠ることができた。安眠の秘訣は何だろうか。生きるも死ぬも神の御旨の中でゆだねることです。
 さて、敵は綿密な計画により、しかも絶対的な権力を持ってすれば国民を自由に操作できると考えていた。ヘロデの計画はうまくいっていた。だが神はペテロを獄から出したばかりか、王ヘロデが小さな虫にかまれて即死して行くのである。神は生きておられる。人間が手を下さない方がいい。神がその民を危険から守れるのである。今日も神を信じて進んで行こう。

主題 <神のなさることを信仰を持って受け入れる> 

聖書箇所 使徒の働き 11章    (2011年9月 5日)

今日のみことば「人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。」(18)

 神さまが異邦人をも受け入れて救いをお与えになられた、ということを理解するのには弟子たちやクリスチャンにとってさえ、とても手間がかかったのである。18節には、使徒団のトップのペテロが自分の体験を懇切ていねいに話しているが、なかなかそれを受け入れられない。ここに人間の先入観、できあがった生き方を変えることの難しさを見る。
 最後的に、人々がこれを聞いて沈黙したことが書かれている。聖霊を異邦人にも与えて下さった、自分たちと同じ賜物を彼らにも注がれたのだと知って、神をほめたたえるまでになった。
 ここには二つの分かれ道があったように思えます。ペテロといえども異邦人を信仰に導いたのはよくないといって否定するような空気でさえあった。もし、ここで異邦人が救われることを確認できなかったら、その後のキリスト教の歴史が全く変わり、キリスト教が世界の宗教になり得なかったのである。神が異邦人にも福音の門戸を開き、働かれたことをはっきりと信じたときから、自分たちの方が間違いだったと悟った。だからその兄弟たちの救いを本当に喜べたし、神をあがめられたのである。
 きわどい経験であったが、考えてみると私たちも同様な瀬戸際を通過させられることがある。人間的な経験、伝統、そういう形式的な事柄から抜け出せないで、結局狭い殻の中に閉じこもり、自分をよしとして来なかったか。もっと心を開いて、神の働きを受け入れる余裕が大切なのだと思う。
神がなさることに信仰を持って受け入れるときから、神への賛美が始まるのである。

主題 <異邦人への宣教> 

聖書箇所 使徒の働き 10章    (2011年9月 4日)

今日のみことば「彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」(4)

 異邦人からの最初の改宗者コルネリオが記録されている。神は9章ではサウロ(パウロ)とアナニヤとを会わせるように導かれたが、今日はコルネリオとペテロの出会いを準備された。ちょうど、トンネルの工事を山を挟んで反対側から出発して出会うようなことである。
 コルネリオは百人隊長で先鋭なローマ軍の責任者でもある。百人の部下がいるはずだが、たいていは六十人くらいの部下を持っている。新約聖書で登場する百人隊長はみな信仰的に優れた存在となっている。 
 彼は、異教徒として成長したが、ユダヤ教に属し、信心深い人ではあった。そして彼の配慮は、神の前に覚えられていたのである。彼の祈りと施しは神の前に立ち上っていたのである。神はこのような人に福音を知らせたいと思われたのである。福音を聞く方法をコルネリオに語られた。私たちもまた、ほかの宗教を信じているよい人を尊ぶ必要がある。
 彼らこそ、真理を心から求めているからである。その長年求めてきたものがキリストにあることを見いだす助けを私たちがするのである。ユダヤ人だけではなく、異邦人もまた福音によって救いに入れられることを信じて福音を伝えなくてはならない。
 私たちはこうした人物もまた神によって救われることを深く確信することが絶対に必要である。ユダヤ人同様に神が受け入れて下さること、愛しておられることを確信して祈り、福音を語らなくてはならない。
エペソ人への手紙2;11-13において、実にはっきりと教えていることを学ぶことが大事である。こうして未伝道地へ福音を伝えに出て行く準備ができるのである。

主題 <選びの器>

聖書箇所 使徒の働き 9章     (2011年9月 3日)

今日のみことば「彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5)

この章は、キリスト教会にとって決定的な役割を果たすパウロの回心の出来事が記されている。パウロの回心以前の名前サウロは、イスラエルでは有名な名前であり、イスラエル初代の国王の名前でもある。しかも、彼は律法に通じ、当時の最高学府でガマリエル門下生として名をはせたのである。
 彼は、キリスト教が神の教えに反すると確信し、撲滅しようと立ち上がった。8章の教会迫害の責任者となり、先頭に立ち、あの七人の一人ステパノの殉教させたのです。こうして、教会を抹殺することを使命としたので、ユダヤ国内だけではなく、国外にも手を伸ばし、ついにユダヤの北、遠いダマスコにまで出かけて行く。後に弟子テモテに、罪人の中で最大の人間だと語っている(第一テモテ1;15)。
 ところが、そこに待っていたのはクリスチャンではなく、キリストご自身であられた。主がこのような迫害者に対して取り扱う方法がありました。それは迫害者が真理や神の命じることならどんなことでもできる性格を持っていることである。このような姿勢を持つ人物をこそ、主が選ばれたのである。彼が復活のキリストに出会って最初に言った言葉が「主よ。あなたはどなたですか。」という質問であった。
 彼は長い間、ユダヤの伝統や宗教、儀式に通じていても、ほんとうの自分の生涯をかけられる主を知らなかった。いうなれば真剣な求道者であった。この人の真心をほかならぬ主が知っておられた。そして道を求めていたサウロを選び分けた。だが彼の前途には、困難な生涯が待ち受けている。主の御名のためにどんなに苦しまなければならないかを予告している(16)。
 パウロは特別な選びの器であり、特別な使命を授けられていました。しかし、私たちもまた同様な選びの器であって、特別な使命があることをどこまで自覚し、受け入れるべきだろう。「わたしは、イエスである」と今日、主の方から近づいてくださるのです。

主題 <聖霊に満たされた導き手> 

聖書箇所 使徒の働き 8章     (2011年9月 2日)

今日のみことば「すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」(31)
あの七人のもう一人がピリポである。彼もまた素晴らしい福音に生きた人物だった。彼は熱心な活躍をし、神の福音をあのサマリヤの地に満たし、さげすみの地とユダヤ人が考えていた地にリバイバルが起こったのである。サマリヤとは、ユダヤ人とは近い民族であった。かつてバビロン捕囚の時に残ったイスラエル人が現地の人々と雑婚したのです。このため一層、堕落したと考え、イスラエル人は敵対していた民族であった。しかし、主もあえて行かれたことがある(ヨハネの福音書四章)が、その後にはピリポを遣わされたのである。
 そこでは、町の有力者でさえあった魔術師を職業としていたシモンさえ救われたのである。後に、使徒たちが巡回し、そこにリバイバルされた宣教のみわざに神の御名をあがめた。
 ところが主は、このピリポを成功した宣教の場から、荒野のガザに行けと命じられた。ガザはイスラエルから南にあるエジプトへの通路であった。ここで、エチオピアの高官の救いのために用いられることとなる。大きなみわざがなされたサマリヤから、人の住まないような荒れ果てたガザが主に仕える場所となったのである。ピリポは、主の導きとあれば何の不満や戸惑いもなく、どこへでも出かけたクリスチャンの模範である。
 ところで、ここに熱心な求道者がいた。まことに高価な聖書を購入して読んでいた。しかし、導く人がいなくてはわからいのである。あなたもかつては、聖書を読んだだけで神がわかり、祈りをささげたのではないと思います。きっと、あなたの信仰を助ける人がおり、それが信仰の先輩であったり、教会の牧師であったでしょう。
 ピリポはこうして、主の御霊の導かれるままに、従ったときに、そこに大切な器が彼を待っていたのである。そして一緒に高価な馬車に乗り込み、聖書からイエス・キリストを語り、信仰に導き、そして洗礼にまで導くこととなる。彼はアフリカの最初の受洗者となったのであり、その後のアフリカはキリスト教の一つの宣教の拠点にさえなって行く。

主題 <ステパノの祈りに学ぶ> 

聖書箇所 使徒の働き 7章     (2011年9月 1日)

今日のみことば「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(60)

  <あの七人>の中の一人、ステパノの素晴らしい奉仕と殉教を記して、教会が困難な時代にもかかわらず福音宣教に前進していったことを語るのである。
 私たちには、迫害やいじめ、悪口や不運が重なるときに、簡単にだめだと口にしやすく、不信仰な態度に変わりやすい。けれども神のわざは、どのような状況をも突き破り、福音の種子をまき、成長させ、結実させて行くのである。
 ステパノは福音の中心、福音そのものを知っていた。それは単なる知識ではなく、信仰が明確に受肉していたのである、すなわち生活そのものになっていたのである。だから、祭司やユダヤ教の専門家たちを前にしても、主イエス・キリストの全生涯を正確に、明瞭に説明し、聖書が見事に成就したことを宣言したのであった。そればかりか、自分を引き立てて、激しくののしり、悪口を浴びせるばかりか、ついに石打の刑罰を加えた時に余裕を持ちつつ彼らの罪の赦しを祈れたのである。
 石打とは、人々が周囲を取り囲み、最初の一人がその責任者となって石を投げ、続いて一斉にみんなが石を投げて石塚にして、殺してしまうのである。まことにむごたらしいリンチであった。周囲の激しい憎しみや怒りが、石の中に込められていたのである。
 だがこの時に、ステパノは平安と感謝、そして自分を主の御手にすっかりとゆだねきって、祈ったのであった。その祈りは、「この罪を彼らに負わせないで下さい」という素晴らしい祈りである。まるでその場所には、主がおられて祈っておられたと受けとめることができる。たしかに、祈っているのはステパノだが、彼の中で主が働かれ、聖霊によって満たされて主が祈って下さったとしか思えない。
 主が彼の内に愛となり、いのちとなり、恵みとなり、平和となり、すべてのすべてとなられたのである。こうして福音が受肉したのである。

主題 <聖霊と知恵とに満ちた評判の良い人> 

聖書箇所 使徒の働き 6章     (2011年8月31日)

今日のみことば「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」 (3)

 「初代の教会にいつも立ち返るように」これが私たちの原点であり、聖書の教会の姿をいつも求めることである。そこに見られる私たちの教会の本質、使命、方向性があるからである。
 しばしば、初代教会には何の問題もなく、スムーズに展開していたかのように思います。しかし、実は当時の教会が直面した諸問題は、その後の二千年の教会史に見るすべての問題が含まれていたと思えるほど、あらゆる問題に直面させられたのである。ですから教会に問題があることが問題なのではない。いつの時代も、問題を正しく受け止められないところにいつも問題があるのである。
 教会が拡大するときに、必ず問題が起こります。その時に同様な問題に光を与えて解決を見いだし、その試練を恵みと栄光に変えて行けるのは、使徒の働きから学び取ることが大事なのである。この出来事の結果は「6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」という驚くべきこと、すなわち祭司たちが信仰に入ったことの報告である。
 問題の解決の仕方が、神の言葉、すなわち聖書を第一にするという原則であった。この原則から私たちはあらゆる問題への解決への糸口を見いだせます。それどころか、かえって神の栄光が現されることとなる。問題が起こり、神の聖霊と知恵、力に満ちたあの七人を推挙した。こうした優れた人々が初代教会にはすでにたくさんいたのであった。現在もまた、神はあらゆる問題こそ世界宣教への糸口と恵みの働きへのチャンスがあり、与えられているのである。

主題 <聖霊に導かれ神に従う> 

聖書箇所 使徒の働き 5章     (2011年8月30日)

今日のみことば「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」(29)

 主の福音は、弟子たちの手やことば、祈りを通して主イエス・キリストの働きが継続されていきます。その働きは、「5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。」とある。その結果、人々は病気や悪霊につかれた人々を彼らの所に連れてきたし、極端な場合、使徒ペテロの影にさえふれるなら、いやされたほどであったのである(15)。
 この働きは、あまりにも素晴らしく、エルサレムの人々を熱狂的なものにしたので、ユダヤ当局者は、迫害の手をいろいろな面から加え、投獄し、福音宣教をやめさせようとしたのである。
迫害は、きわめて残虐であり、目をおおうばかりのことがよく起こる。過去の世界の歴史でも日本でも起こってきた。日本ではキリシタンの迫害や先の大戦のときに教会閉鎖などの国家からの迫害が加えられました。
 しかし、神を信じる者は、その迫害にどう耐えられるのか、どう乗り越えるのだろうか。教会の歴史は、勝利の道を歩んだことを証明している。主の弟子たちの生き方に、多くのヒントがあると思う。その重要な一つが人に従い、人を恐れることではなく、神に従うという原則である。人間はその時、その状況で人を利己的に取り扱うが、クリスチャンはいつも神に従うことによってすべてを整理し、確認し、徹することができる。人に従う道を歩もうとする誘惑に打ち勝つには、自分が神に従う道こそ、誤ることのない信仰生活を歩め、心は安息し、勝利への道を進めるのです。また、神の導きをいただいて、聖霊に導かれて行動するのである。どんなにむち打たれても、迫害の火の手が上がっても、落ち着いていられた秘訣は、現在もあなたが生きられる聖霊の力を与えてくださるのである。

主題 <私たちの救われるべき名>

聖書箇所 使徒の働き 4章     (2011年8月29日)

今日のみことば「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12)

 教会に与えられた力を改めて深く黙想しましょう。イエス・キリストは教会に驚くべき力を与えると約束されました。それは、天国の鍵を与える、というものです。あなた方、すなわち教会には、地上で教会につながれて天国につながれるのです。地上で解かれると、天上でも関係が解かれてしまう(マタイの福音書16;19)。
 では、具体的に天の鍵を使う機会はどのようにして実現するだろうか。それが、使徒ペテロが大胆に語った12節の福音の宣教です。「この方以外に救いがない」という大胆な宣言です。これまで主の弟子たちがキリストの弟子であることを隠そうとしたが、いまや全く変貌したのです。
 聖霊のそそぎを受けたペテロは、時の権力者、政治的、宗教的絶対的な立場の人々をまったく恐れない確信があふれています。自分の生命の危険や人間的なことなどまったく意に介さないのです。彼らが無学な普通の人であったことですが、神に聞き従う生活を大胆に確信していたのです。
 釈放された二人とそのあかしを聞いた人々がみな、心を一つにして神に向かい、声を上げたのです。23-31節には、まことに素晴らしい賛美と祈りと福音のために献身した群がありました。彼らの祈りに応えるかのように震い動き、聖霊に満たされたのです。
 困難や迫害を受けるたびに弟子たちの信仰は強固になり、輝きだし、さらに祈りに力が増し加わっていくのです。
聖霊に満たされた教会は、福音の宣教に止まりません。主の愛に満たされ、貧しい人々への援助の働きがはじめられる事となります。32-37節

主題 <わたしにあるものを上げよう> 

聖書箇所 使徒の働き 3章     (2011年8月28日)

今日のみことば「すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。」(6)
 主の力を受けた弟子たちは、実に大胆な行動をします。それがキリストの御名を信じる信仰によってあふれてきます。
 彼らは、金銭にこだわりを持ちません。その日は偶然に財布を持ち忘れていたのかも知れません。いや、彼らは福音の宣教のためなら、財布を持つなと教えられていた主のご命令を実践していたのでしょう。彼らにあるものは、ただ一つ、キリストの御名です。これ以下でもなく、これ以上でもありません。そして御名の対する信仰だけで十分なのです。
 現実の置かれている状況の中で、財布があった方がずっといいこともあるように見えます。その結果、もっとも大事な「主の御名」に対する信仰と行動がずっと後退してしまいやすいのです。
 私たちの中に持っているこの世の名声や富や力が何の役に立たず、キリストの御名への信仰のみが奇跡にいたります。ペテロとヨハネに備わった霊のまなざし、それこそ主イエス・キリストのもっておられた力でした。この奇跡は、弟子たちのめざましい働きを物語るだけではありません。彼らの中に働かれている聖霊の力であり、彼ら自身の能力や努力によったのではないことが証拠づけられたのです。
 クリスチャン生活の根本が、自分への依存から自由にされることが大事です。依存とは、ダメだと思うことも、自己過信でもありません。ただ主のみこころを受け入れて、聖霊に依存することのみです。
 今日、彼らの信仰を学び取り、<立って歩め>と語られなければならない人々の問題に囲まれています。問題を見つめて無力を嘆くよりも、信仰を増し加えてください、という祈りをしようではないですか。