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2013年1月16日 (水)

主題 <逃亡するダビデ>

聖書箇所 サムエル記第一 21章 (2012年11月 5日)

今日のみことば「ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。 」(12)

 ダビデは、サウルにいのちを狙われ、親友ヨナタンの手引きによって脱出し、本格的な逃亡生活が始まっていくこととなった。
ダビデは最初に祭司アヒメレクのもとを訪れた。一人でやってきたダビデにアヒメレクは不思議に思うが、ダビデは今の状況を語らず、食料と武器を手に入れた。特に、武器に関してはかつてペリシテのゴリヤテの剣がそこにあり、ダビデはそれを持って旅立っている。かつて、勇敢に戦い、ゴリヤテにも勝利したダビデが、今は、サウル王によっていのちが狙われて逃亡の身となっていることを深く悲しむべき状況になってしまったことを実感したのではないかと思う。いずれにしてもダビデはこの状況を何とか打開しようと奔走していく。
続いてダビデはガテの王アキシュのところを訪れた。そこでは、アキシュの家来たちがダビデであることに気付き、アキシュに進言するのに気付いたダビデはとっさにアキシュの前で、自分の身の安全を図るため、気が違ったかのようにふるまった(13)。アキシュはダビデと聞いて恐れていたが(12)、ダビデの方は逃亡の身となっていて、かつてのような勇猛果敢に戦う姿はなく、アキシュを恐れて、気違いを装うしかなかったのだった。
人前に出ることもはばかるような弱さを持った人間の姿はまさにダビデの姿のようではないだろうか。今、私たちは問題から逃げていることはないだろうか。その問題をまず主によって解決を求めていかなくてはならいことを覚えよう。

主題 <苦難の中に見られた友情>

聖書箇所 サムエル記第一 20章 (2012年11月 4日)

今日のみことば「子どもが行ってしまうと、ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。」 (41)  

 ダビデの逃避行は続き、最終的にサウル王の内心を知るためにヨナタンが行動した。
 父サウルから新月祭の会食の席にダビデがいない理由を問われたヨナタンは、ダビデから言われたとおりの筋書きで事情を説明したが、その結果、父子関係は極めて険悪になってしまった。
 ダビデの肩を持つヨナタンを、サウルは口汚くののしり(30)、ダビデを侮辱することばを浴びせ(31)、なおダビデをかばう彼を、槍で打ち殺そうとまでした(33)。父サウルが、本気でダビデを殺そうとしていることを知ったヨナタンは、激しく怒り、また心を痛めた(34)。
 この一連のことをダビデに会って連絡することは、非常に危険な状況にあった。ダビデの所在が父に知られてはならなかったし、ヨナタンがダビデに連絡したとわかるのもよくなかった。そこで安全にダビデを逃がすために、ヨナタンは、あらかじめダビデに告げていたとおりの巧妙な方法で、彼に迫る危険を知らせることに成功した。子供の背に向けて投げかけられた「早く。急げ。止まってはいけない」は、実はそのまま、子供のもっと先に身を潜めているはずのダビデに向けて、ヨナタンの精一杯の友情の表れであった。このヨナタンの友情に気づいたダビデは、危険を冒してまでヨナタンの前に姿を現し、丁重に感謝を表した。苦難の逃避行中に見られた友情であった。
 苦難の中で真実な信頼関係を築き、主の最善を求めて行く姿に学びたいと思います。

主題 <主の守りの中で>

聖書箇所 サムエル記第一 19章 (2012年11月 3日)

今日のみことば「サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。」(10)
 ダビデは敵にではなく味方から、それも自らが家来として仕える王であり、義父でもあるサウルから、いのちを付けねらわれ、絶えず身を守ることを考えなければならない状況となってしまった。しかし、主は、繰り返しダビデに迫る危機から、いろいろな仕方で、彼を救い出された。
 第一に、親友ヨナタンのとりなしによって、危機は回避された。父がダビデを殺そうとしていると知ると、ヨナタンはいち早くダビデにそのことを告げて、ダビデの身を隠させ、父サウルには「ダビデの良いことを話し」、彼が死に値することを何一つしていないばかりか、ペリシテに対する大勝利かダビデのいのちがけの戦いの結果であることを思い起こさせ、父に、ダビデ殺害計画を思いとどまらせた(4、5)。
 第二に、妻ミカルの機転によって、ダビデは難を逃れることができた。立琴を弾いてサウルの心を静めようとしていたダビデを、またしてもサウルは槍で壁に突き剌そうとした。自宅に逃げ帰ったダビデを捕らえようと、踏み込んで来たサウルの使者たちが見たものは、寝床に置かれたテラフィムで、すでにダビデは、ミカルの手引きによって窓から逃走した後だった。
 第三に、主ご自身の直接的な介入によって、守られた。ダビデが逃げて行った先は、ラマのサムエルのところであった。そのことが王に告げられると、王はダビデを捕らえようと使者たちを遣わしたが、神の霊が彼らの上に臨み、彼らは預言した。同じことが三度繰り返された後、王自身がダビデ逮捕に赴いたが、逆に彼までも神の霊に捕らえられて、預言する羽目になった。ダビデは主のよって守られて生き延びていきました。今日、主の守りがあることを祈りましょう。

主題 <どこに行くににも主が共におられること>

聖書箇所 サムエル記第一 18章 (2012年11月 2日)

今日のみことば「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。」(14)  

 ペリシテ軍との戦い後、ダビデはサウル王に謁見が許され、ダビデは千人隊の長となった(5、13)。主がダビデと共におられたので、「その行く所、どこででも勝利を収めた」(14)。彼が民の先頭に立って行動していたので、民は彼を愛した。
 しかし、民たちのダビデに対する高評価はサウルにとって王位を脅かす存在と見られ、ダビデを恐れるようになった(13~16)。
 ダビデに対してねたみと疑念を抱くようになったサウルは、発作的に起こる彼の病的な苛立ちを静めようと、懸命に立琴を弾くダビデめがけて、いきなり槍を投げっけた。ダビデは二度も身をかわし、危うく難を逃れた。
 ゴリヤテを倒した者に約束された、王の婿となる話は、一旦はダビデにとって恥辱となる結果になったが、ペリシテ人の手でダビデを始末しようと図るサウルは、ダビデを愛するミカルを、危険な花嫁料と引き替えにダビデに与えた。しかし、結果は彼の思惑どおりにはならなかった(25-27)。
 サウルは、主が自分のところから去って、ダビデと共におられるのを見てダビデを恐れ、「いつまでもダビデの敵となった。」(12、29)
 ダビデの功績は賞賛されるべきことであったが、サウル王からのねたみの原因となってしまう。この時からダビデはサウル王から命を狙われるという苦難の日々が始まって行く。しかし、ダビデはこのような窮地にあっても主に信頼しつづけていたことに学びたい。

主題 <主の戦いという確信> 

聖書箇所 サムエル記第一 17章 (2012年11月 1日)

今日のみことば「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(47)

 ペリシテ軍はサウル王との前に、代表戦をもちかけてきた。その代表戦の相手は巨人のようなゴリヤテが出てきた。そのいでたちと勢いにイスラエル勢は恐れてしまっていた。
 そのような中、父の使いでやってきたダビデはゴリヤテとの戦いを「主の戦い」だとした(47)。彼は主にあって、主のために、主の御力で戦おうとしたのである。
 一騎打ちに臨むダビデとゴリヤテ、二人のいでたちは、まことに対照的だった。
 ゴリヤテは自分の神々によってダビデをのろい(43)、ダビデは主の御名によってゴリヤテに立ち向った(46)。ダビデは単に勝利を確信していただけではなく、彼の勝利によって人々が「主が剣や槍を使わずに救うこと」、主の御力の偉大さを知るようになることを望んでいた(47)。
 勝負は一瞬のうちについた。石投げから放たれた、たった一つの石によって、重装備の巨人はあっけなく倒れた。
 この戦いの結果、イスラエル軍は奮い立ち、ペリシテ軍は総崩れとなり大敗した。
 ダビデは主の名のもとに戦い、勝利を収めました。主が共におられる故に戦いに出て行きました。単なる勇気ではなく、信仰による確信があったということを覚え、私たちも信仰をもって一歩を踏み出す者となりましょう。 

主題 <主は心を見る>

聖書箇所 サムエル記第一 16章 (2012年10月31日)

今日のみことば「しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」(7)

  サウルが王位から退けられたのは、彼の能力や手腕に問題があったからではなく、ただ、主のみことばに聞き従わなかったからであった。そ
 主はサムエルに新たな王を選ばれるに際して、すべきことを教えると約束なさり(3)、サムエルもまた、主が告げられたとおりを行なった。
 サムエルの前に連れて来られた、エッサイの七人の息子たちの中には、主が選んでおられる者はいなかった。サムエルが「容貌や、背の高さ」を見て、この人こそと思ったエリアブも、主は退けられた。  
エッサイの末子ダビデは、野で羊の番をしていた。彼はまだ若過ぎると、父エッサイは考えた。しかし、その外された者こそ、主がお選びになった者であった。主の選びは、しばしば人の思いを越えていることが分かる。
 油注ぎと共に主の霊を受けたダビデは、ただちに王位に着かせられることはなく、その祝福された音楽の賜物を用いて、悪しき霊に脅かされるサウルを慰め癒す者として仕えることになった(23)。
 主の選びは見た目のうわべではなく、その人の心であるということは、今日の私たちにも同様の主の目が注がれているということを覚え、私たちの心の内側をとりあつかってくださる主の前に真実に生きることができるように祈りましょう。

主題 <聞き従うことはいけにえにまさる>

聖書箇所 サムエル記第一 15章 (2012年10月30日)

今日のみことば「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(22)
 サムエルからサウル王に命じられたことはアマレク人を打つというものでした。そして、主の命じられるとおりに行動し始めるサウル王でしたが、アマレクの民を聖絶したが、王のアガクは生け捕りにし、さらには家畜の中でも良い物を惜しんで、値打ちのない物だけを聖絶するということをしました。
 サウルはサムエルから、なぜ主の御声に聞き従わなかったのかと問いただされたとき、「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました」と言い切るほど、彼の心は頑なになっていた。そればかりか「いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来た」のだから、むしろ良いことをしたのではないか、と開き直っている(20、21)。
  「私は罪を犯しました」と、ようやく悔改めのことばを口にしたサウルであったが、その後にすぐ「私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」という言い訳のことばが続くところをみると、その悔改めは場を繕うためのものでしかなかったように思われる(24)。実際、あくまで同行を求めてサムエルに食い下がるサウルの心にある思いは、王位から退けられたという深刻な事態にもかかわらず、「どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」のことばのとおり、民の前に王としての自分の面目を保つことでしかなかったのである(30)。
私たちはみことばに対する不従順の罪の重さに気づく信仰者でありたい。

主題 <主がお助けになられるという信仰>

聖書箇所 サムエル記第一 14章 (2012年10月29日)

今日のみことば「ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」」(6)

 14章では、ペリシテ軍との対決に際して、ヨナタンと道具持ちの二人が先陣をきっていくところから始まっている。
ヨナタンは「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」と考え(6)、道具持ちと二人だけで敵陣に乗り込んでいった。大軍のペリシテ軍に対して、ヨナタンは無謀とも言える行動をとったかに見えるが、彼にとってどのような状況にあっても主が共におられるという確信が実行に移されていく理由だった。
 たった二人だけで大群の先陣に切り込んでいくという、ヨナタンと道具持ちの大胆な信仰の行為は、思いがけない戦況の展開をもたらす結果となった。彼らの行動は、ペリシテ軍の間に恐れを生じさせ、その恐れは瞬く間に全軍へと広がっていった。そして、ペリシテ軍内部の混乱はペリシテ軍の敗走という結果となった。
 しかし、せっかくの好機に際して、サウル王は民たちに追撃させる間、食事をとならないということを誓わせたり、完全な勝利を得られなかった原因をヨナタンの罪として断罪するという行動をとるという結果となってしまった。
 私たちも信仰的決断と行動が人間的な判断で阻んでしまうことがないか注意しなくてはならない。

主題 <主の御声を待ち望み>

聖書箇所 サムエル記第一 13章 (2012年10月28日)

今日のみことば「サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。」 (13)  
 王制を支えるための三千人規模の常備軍が編成され、二千人がサウルのもとに、千人がサウルの息子ヨナタンのもとに置かれた(2)。ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を打ち殺したことをきっかけに、ペリシテ人との戦いが始まった(3、4)。
 この戦いは、一般的な見方をするなら、初めから勝ち目のない戦いであった。圧倒的な軍事力を誇るペリシテ軍に対して、イスラエル軍は、手にする武器すら、ろくになかったのである(5、22)。イスラエルの人々はペリシテ軍の脅威の前に恐れをなし、逃げ隠れた。サウルに従う兵士たちの士気は低く、「震えながら彼に従っていた」(6、7)。
戦いを前に、主を礼拝しなければならなかったが、サムエルは、約束の七日間を過ぎてもやって来なかった。民が離れて行くのを恐れたサウルが、自分の権限を越えて全焼のいけにえをささげ終わったその時、サムエルが到着した(8-10)。民の離散、サムエル到着の遅延、情勢の緊迫化を理由に、自分のしたことを正当化しようとするサウルに対して、サムエルは、主がみこころにかなう次の王をすでに用意しておられると告げた。彼が「主の命じられたことを守らなかったから」である(11-14)。
 私たちはサウルのような失敗を時に、サウルがしたように正当化して反論することはないだろうか。この時、問われたことは、主の前に忍耐して待つことであったと思うが、これが本当に難しいことでもある。主に対する全幅の信頼こそがいつの場合でも問われるということを覚えたい。 

主題 <王ではなく、主を恐れ> 

聖書箇所 サムエル記第一 12章 (2012年10月27日)

今日のみことば「もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。」(14)

 サムエルは、サウル王の就任式に集まったイスラエルの人々に、今まさに、その歩みが始まったばかりの、「王制」という新しい体制における民のあり方について、幾つかの心得を語っている。
 主が王をお立てくださったからと言って、ただ自分たちを治める王に従っていればよいというわけではない。今まで同様、「主を恐れ、主に仕え、主の御声に従う」べきであることを、サムエルは強調した(14、15)。
 王制という恒常的な体制が整いさえしたら、すべてはうまく行くかのような民の安易な考え方を打ち破るために、サムエルは、小麦の刈り入れ時には普通見られない、雷と雨をお下しくださるように神に祈り、実際にそのようになった。「民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。」(18)
 サムエルは、王制に移行しても、民の生き方は根本的には変わらないことを重ね重ね強調し、「心を尽くし、誠意をもって」主に仕えるようにと命じると同時に、主の御声に従うことをやめてしまうなら、王も民も滅ぼされてしまうであろうと警告した(15、24、25)。
 私たちは目に見える頼りがいのある人を見ると安易に依存してしまうことはないだろうか。どのような場合でも、主に信頼していくことを忘れてはならないことを覚えたい。