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2012年2月 2日 (木)

主題 <善を見ならいなさい>

聖書箇所 ヨハネの手紙第三 1章 (2012年 1月20日)

今日のみことば「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。」(11)

 ヨハネの手紙第三は、使徒ヨハネからガイオ宛てられた手紙であるが、ガイオについて、新約聖書では、マケドニヤ人ガイオ(使徒19:29)、デルベ人ガイオ(使徒20:4)、パウロから洗礼を授けられたガイオ(Iコリント1:14)、全教会の家主ガイオ(ローマ16:23)、そして、この手紙の中のガイオと五人いる。このガイオが、先の4人と同一かは不明である。しかし、長老から称賛を受けるほどの立派な信仰者であった。
聖書では、旅人をよくもてなすように勧められているが(ローマ12:13)、ガイオの行いは、真実な行為として称賛されている(5)。
 称賛されているガイオとは対照的にデオテレペスについて非難している。彼は、教会の指導者として上に立ちたがり、教会の秩序を乱し、混乱させていた。
このような状況にあって、ヨハネは「悪を見ならわないで、善を見ならいなさい」と勧めました。ガイオの旅人をもてなすという非常に日常のことに忠実に、行なっている行為を評価しているように、要は人の上に立つことのように、何か名誉なことにあずかることが重要ではないことを、デオテレペスを引き合いに出して戒めているように感じられる。何にしても、重要なのは善を行うということであることを私たちにも教えてくれていることを覚えたいと思います。
ガイオはヨハネに健康を気遣われているようで(2)、もしかしたら病気か高齢であったのかもしれない。教会の指導的な立場にあるという人ではなかったのかもしれない。しかし、ガイオほど愛され、その働きを認められた者はなかったのではないだろうか。
しばしば、今日の教会も人知れず忠実に主に仕えて歩む人によって教会は支えられ、福音宣教は前進していることを思わされる。
あなたは、善を行い、人々の見本となるような歩みをしている点検し、忠実に主に仕える者となれるように祈りましょう。

主題 <真理のうちを歩んでいる> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第二 1章 (2012年 1月19日)

今日のみことば「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」 (4)

 ヨハネは『選ばれた夫人とその子どもたちへ』と宛名をく。夫人なので、私のことではないと誤解しないでほしい。実は原語では、キュリマといい、女性名詞で教会をさし、そのこどもたちは教会員を指すと理解することが賢明です。するとこの手紙は他人ごとではなく、このわたしに語られていることになるからです。
 教会と教会員はいつも正しい信仰の上に立つことを教えます。多くの人々を欺く、反キリストの教えがすでにいろいろと出迴っていたのです。
 当時の異なる教えは、イエス・キリストを神とせず、また人間として肉体をとって来られたメシヤを否定していたのです。今日も、エホバの証人は主イエスを神とせずに、人を欺いている(7節)。
 前半に「真理」という語がたびたび出てくる(新改訳に出てこない訳語も含む)のは、真理から外れないように真理のうちを歩むようにペンを執ったのです。
 真理はあなたを自由にし、(ヨハネ8章)、愛させ(1)、神を喜ばせる歩みにする(4節)。
主が真理であるといっています(ヨハネの福音書14章6節)。
むずかしいことですが、あなたにとっての真理は、どのような祝福だと思いますか。

主題 <主イエスを信じる者は世の勝利者である>

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 5章 (2012年 1月18日)

今日のみことば「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(5)

1~5節では、キリストを信じる者は神から生まれた者であると確認するように語られています。ヨハネは 「生まれる」ということを、神から新しいいのちを与えられたことを意味して用いました。
6~12節では、イエスこそが神の御子であることを証明するように語られています。その証明するものとして御霊、水、血をあげています(8)。水は、イエスが受けられた水のバプテスマを指し、罪のない方が罪ある者のようになられたことを意味し、血は十字架上で流された血潮を指しています。そして御霊が悟りを与えられる方として助けてくださるので、イエスが神の御子と知ることが出来ると言われているのです。
13節では、再び、キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられていることを語られ、確信をもって歩むことが出来るように示されました。この手紙が書かれた目的は、まさに、この永遠のいのちの恵みを覚え、歩むようになることでした。
グノーシス主義の影響の中で、キリストを否定するようになってしまった兄弟たちを意識してか、ヨハネは「死に至らぬ罪を犯している兄弟のため」に祈るように勧めました(16)。
現代においても、人間の限られた知識であってもそれが最良と考える傾向があるように思う。しかし、本当の知恵、知識は神から来るのであり、人間の打ち立てた知識、理論、主義などは、いくらかは人間の役に立っても、人間を真の意味で救うことはできないことを知らなくてはならない。
重要なのは、御子イエスを知り、信じて歩んでいるか、その愛を覚えて歩んでいるかに集約される。これが使徒ヨハネの晩年に示され教えられてきたことを次世代のキリスト者に伝えたいことであったのでした。
そして、続けて、主を知り信じることが出来るように、とりなして祈っていくように勧めたのです。今日、私たちもこの主イエスを信じることができるように、導きたい人のために祈りましょう。

主題 <神が愛してくださったから> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 4章 (2012年 1月17日)

今日のみことば「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(19)

当時アジヤ州の諸集会に入り込んでいたグノーシスという異端の特徴は、救いに関する特別な知識のほかに、彼らを支配する霊の働きも見られた。だからヨハネは神からの霊とそれ以外の霊(四節によると、サタンによるもの)とを見分けるよう忠告している。霊を見分ける基準としてヨハネが示しているのは、その霊が人に「イエス・キリストは人間として(この世に)来られた」(2)ことを告白させるか否かであった。もしそう告白するなら、それは神からの霊(聖霊)によるのであり、それを告白しないのは反キリストの霊によることを教えられた(3)
また、グノーシス主義も神を愛すべきことを教えていたようだが、その愛はもともと人間のうちにある愛である。しかし私たちの愛は、神がご自分のひとり子を私たちの罪のための、なだめの供え物として十字架にかけてくださったことに表されている(9、10)。そして私たちが互いに愛し合うとき、神が私たちの中に共にいてくださるのがわかるのである(12)。
この愛の関係に私たちが生かされるとき、愛は私たちの中で完成を目指していくように勧めている(17)。この愛が完全なものとなる時、私たちに与えられる二つのものがある。一つは、さばきの日に神の御前に出る時、私たちの心に恐れがない(18)。二つ目は、神を愛するように、信仰の兄弟を愛する者とされる(20)。
目に見える兄弟を愛することは、目に見えない神を愛するより難しく思えるときがあるかもしれない。しかし聖書は、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(20)と言っています。それは主イエスご自身がこの地上を歩まれた時に、率先して、隣人となり、兄弟となられて愛して下さった愛を覚えなくてはならないことを言っているのです。そして、主が愛して下さったという事実を覚えて初めて、本当に兄弟を愛することは出来き、また、そのことが神を愛することを教えているということを覚えたいと思います。

主題 <互いに愛し合うという神の命令> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 3章 (2012年 1月16日)

今日のみことば「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(23)

1~12節では、キリストにあって神の子どもとされている者と罪を犯し神に逆らっている者が対されるように語られている。神の子どもとされている特権として、再臨の時、主イエスのありのままの姿を見るという、信仰による希望が示されている(2)。それ故に、私たちを、罪に背を向け道徳的な汚れから遠ざかる清さを求める思いへと導いていると言われている(3)。しかし、対照的に、罪を犯している者は神のおきてに背き、神に反逆している(4)。このことからすると神についての知識を誇り、神に従う道徳的な生活を否定するグノーシスの人々は、神に反逆しているのである(6後半)。そもそも罪は悪魔から出ており(8)、神から生まれた者は罪のうちを歩まないし、罪のうちを歩むことができないのである(9)。
13節以降では、兄弟愛について教えられています。ヨハネはこの世にあって、キリストを信じる信仰によって救われた私たちは死からいのちに移った証拠として、兄弟愛が与えられている(14)。そしてこの愛は、イエス・キリストの十字架によって、私たちにもたらされた愛である(16)。キリストのように、私たちも兄弟のためにいのちを投げ出す覚悟で兄弟を愛すべきであることを覚えたい。
また、愛するということは自己犠牲を払うということでもある。(17、18)。私たちは何かを犠牲にすることはしたくないと思ったり、犠牲を払うことは難しいと考えていることはないだろうか。そのようなときこそキリストの模範にならうことである。
 私たちの交わりが愛のうちに築き上げられることを願っておられる。そして、そのように歩むことが神の命令に応答した歩みであるということを覚え、今日を歩ませて頂きたいと思います。

主題 <キリストのうちにとどまっていなさい>

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 2章 (2012年 1月15日)

今日のみことば「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」(28)

 一章の後半で触れた罪の赦しについて、ヨハネはさらに詳しく説明していきます。
クリスチャンは、サタンによる罪の支配の原理から解放されている(ローマ8:2)。しかしこの肉体にある間、罪の誘惑にあい、罪を犯す可能性を持っている。しかしもし私たちが罪を犯しても、罪を告白して悔い改めるなら、神はそれを赦してもう一度神の御前に立たせてくださる(1:9)。それは私たちを含む全世界の人々の罪の赦しのために十字架にかかり、父なる神へのなだめの供え物となってくださったイエス・キリストが、今も父なる神のそばで、私たちのために弁護してくださっていることを確認するように教えられている(1-2)。
また、罪赦された者にとって、神のみことば(命令)は、神に従う人生を導く(3、4)。また、みことばを守って生きることは、実際の生活の中で実行されるくべきであることを教えられました。
 12~17節では、信仰者がどのように生きていくべきかについて勧められ、特に、信仰に生きている「父たち」と「若い者たち」に、ヨハネは警告を書き送っている(15)。ここで言われている「世」とは、「神に創られた被造物世界」や「この世界に住む人々」の意味ではなく、「神様を抜きにした世のあり方と、その全体」の意味である。つまりサタンに支配される世である。この世が関心を持つのは、「肉の欲」(自分中心、人種差別、不倫等)、「目の欲」(肉の欲への入り口となる)、「暮らし向きの自慢」(財産や学歴など)である。しかしこれらは、一時的な、過ぎ去ってしまうものである。
 18節以降2章の後半では異端について警告している。異端の働きは今日も見るものである。このような中で私たちはどうすべきかについて、ヨハネは「キリストのうちにとどまっていなさい。」(28)と繰り返し教えています。私たちが主イエスはキリスト(救い主)と告白し続け、キリストのうちにとどまり続けていくことが、主の再臨の時に恥じ入ることなく、全うできるということを示されたのでした。

主題 <光の中に歩む> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 1章 (2012年 1月14日)

今日のみことば「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7)

 使徒ヨハネは十二弟子の中で長く生き、初代教会の各教会における長老的役割を担った。新約聖書中、ヨハネだけが福音書、手紙、黙示録とを書き残していることからしても多くの影響を与えてきたと言えよう。
 このヨハネの手紙第一の書かれたのはヨハネの晩年の頃で、各教会も最初に救われて教会の形成に尽力してきた人たちから、その子供たち、第二世代、第三世代の若い人々が教会の中心になってくる中で、直接には主イエスにお会いしたという人が少なくなってきた中で、これからの世代の人々に伝えていくべきことを意識して執筆されたことが伺える。また、グノーシスと呼ばれる異端に動揺させられているクリスチヤンたちに警告すべく執筆された。
ヨハネは、自分たちが信じて救われた「福音」の根源についてさかのぼる。それは彼が、「ヨハネの福音書」で記していることにも通じる。ここに書かれているお方は、私たち(信仰者)に神からの永遠のいのちをもたらしてくださったお方であると同時に、神の御子として、御父と固く結ばれたお方である。このお方を、ヨハネたちは五感を通して経験した(1)。そして、そのお方のことをこの手紙を読むキリスト者たちがよく知ることによって、信仰の交わりが完全なものになることを期待して書き送りました(4-5)。
ヨハネは、自分たちが親しく体験した神の御子イエスについて語り、その方に導かれる人生は、罪の中を歩まないと宣言している。当時のグノーシス主義は、自分たちのうちにある真理の知識(グノーシス)に目覚めれば、その後の生活は禁欲的なものでも、道徳的に放縦なものでも、問題ではないとしていた。しかしヨハネは、本当に神を知って従う者の生き方は、光にたとえられている神の(5)、きよさ、正しさ、愛にあずかる生き方であると言う。たとえ一時的に罪の暗闇の中を歩くことがあっても、罪を悔い改めて神に立ち返る(9)。罪の悔改めを、いつでも受け入れてくださる主イエスがおられることを教えられ、主からの赦し、きよめて頂くように勧めました。
キリストに似る者としてふさわしく、きよい、生きた証のともなう歩みをしていけるように祈りましょう。

主題 <神の大きな忍耐を知る>

聖書箇所 ペテロの手紙第二 3章 (2012年 1月13日)

今日のみことば「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(9)

 現代は終末の時代です(3節)。だから、神に従わない不敬虔な人々がはびこります。
こうした時代に生かされているあなたが、心得る三つのことを8節に記しています。
1 他の人々に動揺させられないこと 

                                         

2 神は実に忍耐深い

                                         

3 悔い改めに進むことを願う神

                                         

神を信じる生活が、新しい世界を待ち望む素晴らしい信仰に支えられるものです(13節)。
今日をどう生きたらいいでしょうか。
1)11節                    

2)12節                    

3)14節                    

主題 <敬虔な者たちと不義な者ども>

聖書箇所 ペテロ手紙第二 2章  (2012年 1月12日)

今日のみことば「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」 (9)

 この章には悲しい記事が満ちている。その中心は、自分たちを救ってくださった主を否定するにせ教師が群れの中から出てきて、自分が速やかな滅びを招くだけでなく、多くの者が彼らの好色にならうからです。
悪い人はその人だけではなく、仲間をつくり、共に滅びの道連れをつくる。サタンは文字どおりそのように地獄の子を連れ込んでいる。
 敬虔な信仰者は影響力をもっている。だがしばしば悪の誘惑にさらされて悪戦苦闘しているのだ。9節に『主は誘惑から救い出してくださる。』と証しする。
 不義な者どもは、どの様に働いているのだろう。
1)滅びをもたらす異端を密かに持ち込む
 作りごとのことば、によって人々を食い物にする。
2)汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩む、(10)多くの者が彼らの好色 にならってゆく。
3)高ぶって、権威を侮る(10)
 大胆不敵で、尊大な者、栄誉ある人をそしる。
周囲に同じような不義と見える人々がいたときに、御使いのような賢さを学んでおきたい。(11)なぜなら、神が神であられることをまもなく示すのですから。
<祈り>主よ。幸いをこわさないで、作り上げる一日としてください。

主題 <備わりますます豊になるなら> 

聖書箇所 ペテロ手紙第二 1章  (2012年 1月11日)

今日のみことば「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」(8)

この書は、神を知ることの素晴らしさを各方面から上げて、ますます豊かになるように励ましている。3回『ますます』とあります。
 消極的だが、神と主イエスさまの恵みを知らない時には、
1)役に立たない者、(8)
2)実を結ばない者、(8)
3)近視眼であり、盲目で、きよめられた事を忘れる。(9)
4)つまずく(10)
積極的には、
1)いのちの敬けんに関するすべての事を与える。(3)
2)世の欲を免れ、神の御性質にあずかる。(4)
3)永遠のみ国に入る惠みです。(11)
このために、5~7節にあるように1つの徳に追加的に、補うように、加える努力をしていくのです。
例えば、『信仰』に対しては『徳』を加えていく。信仰だけで十分であろうと思われるものにプラスアルファをする事で一層神を知る事となり、ますます豊かにされてゆくのであり、神の御性質に似る者とされてゆくのである。 
<祈り>主よ、一つの性質で安んじていないで、そこに新たに徳を加える事によって豊かにされますように。
<きょうの課題> 
あなたがますます豊かになる歩みを記して下さい。