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2012年2月 2日 (木)

主題 <天での光景と長老たちの礼拝> 

聖書箇所ヨハネの黙示録4章1~11節(2012年 1月30日)

今日のみことば「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」」(1)

4章は地上の教会に見られるあらゆる教会の姿に対比するように、天上にある教会、すなわち天のみ国の素晴らしさを啓示しています。
 「天に一つの開いた門があった」(1節)とあります。天への開かれた門は3:7の主イエス様が見せてくださるものであり、救われたすべての者に見ることを許された特権であります。天にみ座があり、そこに座する神様がおられたのです。周囲にある宝石などによって示されている光輝く栄光のみ座があり、24人の長老たちが礼拝をささげているのです。4つの生き物が、神のみ業をほめたたえるのです。神が「聖なる方」であることを3回繰り返すことは、神が完全であることを意味するでしょう。そしてイエス様を3つの点でほめたたえます。
1) 神である主 
2) 万物の支配者 
3)昔いまし、今いまし、後に来られる方
24人の長老たちもひれ伏して礼拝します。実に旧約と新約の世界が一つに解け合い、主イエス・キリストへの最大級の礼拝が日毎にささげられているのです。

主題 <熱心になって悔い改めなさい>

聖書箇所ヨハネの黙示録3章14~22節(2012年 1月29日)

今日のみことば「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(19)

教会には、叱責のない教会もあれば、この教会のように賞賛されないで非難されてばかりいる教会もあります。しかし、だからといってこの教会は神の愛から見放されていたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」と勧められているからです。
ラオデキヤの教会には、迫害もなく、偶像礼拝や不品行の罪もありませんでした。むしろ彼らは平和と繁栄のゆえに、自己満足におちいり、なまぬるい信仰になってしまったのです。つめたくも、熱くもないことは、キリストに対し反対もしないし信仰と従順に徹していたわけでもないことです。いたずらに無関心と不徹底で信仰生活を送ることは、主は喜ばれないのです。
いいかげんなどっちつかずの信仰は、なまぬるいものであり、主はそういう者を口から吐き出そうといわれます。我慢することができないというのです。
今、悔い改めましょう。主の愛による配慮を思って。

主題<聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方> 

聖書箇所ヨハネの黙示録3章7~13節(2012年 1月28日)

今日のみことば「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」(7)

 ただ一つ、非難されない教会です。兄弟愛という素晴らしい名前を持つ町に立てられたこの教会は、海外宣教の燃えた教会の模範とされてもいます。
キリストは聖なる方、真実な方といわれます。聖とは、しばしば誤って理解しやすい言葉で、単なる道徳的な完全ということよりも、むしろ被造物(主として人間)を神のものとして区別してゆく神の性質であります。そこに人間をはるかに超越した神の存在と共に、人間と関わられる神の働きを見ます。神の真実とは、アーメンと対応する言葉であり、神ご自身の御言葉を成就することを意味するのです。
神は、決して人間の力を頼りにしたり、偽ったりなさらずに、神の語られたことを実現されるのです。
ルカの福音書1章45節「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」というマリヤの信仰告白には、神の真実をかける確信が記されています。マリヤもエリサベツも共に、ご自分を偽ることができない神の御言葉を信じて祝福を受けたのです。
信じる人には、神の御国は開かれています。神の語られた言葉を信じる人になりましょう。天国のカギが主の中にあるのですから。

主題 <目をさましなさい>

聖書箇所 ヨハネの黙示録3章1~6節 (2012年 1月27日)

今日のみことば「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」(2)

サルデスの教会は、表面的には立派だったのかも知れません。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」といわれるのです。そこには、自分は大丈夫だ、みんなも大丈夫だという見方が定着していたのです。けれども、実際は死んでいたのである。不思議な近づきかたですが、驚かされます。
「目を覚ましなさい」と呼びかけています。目を覚ます、とは眠りについた者が、覚醒して新しい歩みをすることであり、信仰の炎を燃え立たせることです。自分が死んでいるほどであると知って、悔い改めるのです。その時はじめて、他の人々を生かせる働きが始まるのです。
自分の歩みに気付かない、そのことを預言者は「白髪が生えてきているのに気付かない」愚かさにたとえています。自分の真実に目をそらし、適当にお茶を濁すような生活は、決して自分を建て上げないし、他の人を建て上げることができないのです。
悔い改める、そこに緊急な姿勢が見て取れます。主がいつ来られるか、終末がいつであるかを問わないで悔い改めるのです。その熱心を主が求めておられます。

主題 <ほかの重荷を負わせない>

聖書箇所ヨハネの黙示録2章18~29節(2012年 1月26日)

今日のみことば「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」 (24)

 主は、表面的な、また全体的な評価ばかりではなく、一人ひとりの行いに目を留め、その人にふさわしい仕方で対応してくださいます。主は、その姿をそれぞれの教会のようすに従い、姿を変えて表されているのです。テアテラの教会には、『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子」であります。その主が、わたしは知っている。あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を、と。
私たちのすべてを主は知っておられます。すべての長所を、よき行いを知っている。そして欠点も、問題も。けれど十ぱひとからげのように、評価がなされない。教会に属する私たちもまた、主は一人をご覧になっておられる。
問題が全体としてあったとしても、少数なきよく、誠実な歩みをしている人がいるのです。主はそのことをしっかりと語る。そしてそんな人には、ほかの重荷を負わせることをしないという。ほかの重荷、余分な心労を与えないのである。このことは、ひたすらに信仰の道を歩めばいいのである。「あの人はどうですか?」とたづねたペテロのような質問や戸惑いはいいのである。単純に、主に従う、主を信じる、主を愛する、その道でいい。

主題 <あなたには少しばかり非難すべきことがある> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録2章12~17節(2012年 1月25日)

今日のみことば「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」(14)

私たちは、人の忠告を快く受け入れられないことが多い。忠告した人間をうとんじたり、反旗をひるがえしたりする。だが、神からの忠告は大切に聞かなくてはいけません。また、使徒のヨハネの説教にも耳を貸す必要があります。
神は知っているのです。サタンの激しい攻撃にも、そして仲間であった兄弟が殉教しても、信仰を捨てなかったのです。そんな素晴らしい面を持ちつつも、非難されるところがあったのです。
素晴らしい面があるので、よしとされるのではなく、だからこそ熱心になって悔い改めるのです。こうして忠告を聞き入れることによって、いっそう聖徒らしく整えられ、終末の時代にふさわしく待ち望む者に変えられて行きます。
非難を、忠告をしっかりと聞けた、そこにこのペルガモの教会の素晴らしさを思う。なぜなら聖書に残されていることは、そのことのあかしであろう。
2:17「 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」

主題 <わたしはあなたを知っている> 

聖書箇所ヨハネの黙示録2章8~11節(2012年 1月24日)

今日のみことば「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。」(8-9)

今日は、神は私たちを知っておられる、ということを想起しましょう。
スミルナにある教会は、当時20万人の人口があり、そのうち三分の一がクリスチャンであった町です。聖書の中ではこの箇所だけです。主は、1章18節にでてくる姿を見せて、励ましを与えるのである。死んだが生きている、という主の復活を想起させてくれる。
信仰ゆえの苦難も、神は知っておられる。しばしば試練に立つと、自分が見捨てられてしまったかのような気分になるものです。だが、神は知っている。信仰生活ゆえの貧しさも、神にあって貧しくないことを知っている。そして受けようとしている苦しみさえも知り抜いておられる。
2:10「 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
この地上で、肥え太り、豊かになり、成功をおさめることが人生の目的ではない。死に打ち勝ち、天の御国に入り、主と一緒に栄光を共にするのです。だから、試練をわたしと一緒に歩もう、そんな思いがするのです。

主題 <しかし、あなたには非難すべきことがある>

聖書箇所ヨハネの黙示録2章1~7節(2012年 1月23日)

今日のみことば「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(4)

いよいよ主からの手紙、七つの教会へのメッセージが始まりました。七つの教会が何を指すかにはいろいろの考えがあります。当時、一つの政治的な結びつきがあった小アジア(今のトルコ)の区域の町のこと。また象徴的な町であるという考え方や世界の歴史の中に現れる教会の七つの姿を表す、などが主な見方です。
私たちにとって、エペソの教会はどんな意味があるのでしょうか。エペソ教会は、使徒の働きによると、パウロが腰をすえて伝道した町であり、その影響力たるや、アルテミス神殿の礼拝者が激減してしまい激しい迫害にあったほどの町です。
七つの教会の最初の教会として励ましと警告が記されていますが、忍耐強い恵みの教会であったのです。当時、信仰のゆえに大きな困難と迫害が満ちていたのに、どこまでも信仰を守り通していたのです。神は、私たちのそうした見えにくい信仰の戦いを知っているのです。
しかし一方、そうした忠実さにもかかわらず、生き生きした信仰からわき出る愛を見失ってしまっていったのです。多くの労苦があり、熱心があるけれども、一番大切な愛が欠落してしまった。こうした悲しむべきことが、私たちにもしばしば起こりがちなことです。主は、最初の愛に帰るように勧めます。そうでないと、光の燭台が取り去られてしまうと警告している。最初の救われた純粋な感動と喜びを思い出すようにと、主は望まれています。
今日の課題を書いて下さい。

主題 <イエス・キリストの黙示>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 1章 (2012年 1月22日)

今日のみことば「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」(1)

 いよいよ最後の書、難解な書だと思われています。しかし、聖書の中で最大の書と言えます。第一に、この世の終末と新しい世界が明瞭に記されているからです。神が世界を創造された目的は、ヨハネの黙示録で完成します。そして地上の激しい戦いもキリストの勝利の宣言でピリオドが打たれます。
 極めて困難な時代に生きた聖徒たちを、この書がどれほど支え、栄光に変えたことでしょうか。
まずしっかりと刻む言葉が、イエス・キリストの黙示、すなわちヨハネは啓示されたことを記したのであり、中心は、イエス・キリストそのものです。この1章に出でてくる栄光の主の姿を思い描くことが第一の作業です。
とても大事な11-20節に見られるイエス・キリストの姿を記して下さい。

                           

この主の素晴らしい姿は、2-3章にある7つの教会のそれぞれにふさわしいあり方で登場します。すなわち、主のご性格を必要とするところへ注がれるのです。
 栄光の主の姿をマタイの福音書17章で見た弟子の一人がヨハネです。その真実な証言が1章全体にちりばめられています。

今日の課題は、聖書の預言を正しく受けとめるにはどうしたらいいでしょうか

主題 <信仰のために戦うよう>

聖書箇所 ユダの手紙 1章    (2012年 1月21日)

今日のみことば「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(3)

 キリスト者は平和の福音(エペソ2章11~19節)によって平和の道に導かれた。無用の戦いは避けた方が賢明です。
 唯一つの大事な事で戦うようにユダ(主の兄弟)はすすめる。それはキリスト教会が成立してまだ年月が経過していないにもかかわらず、ひそかに忍び込んで来たキリストの福音に似て非なる不敬虔な人々が入り込んで来たので、戦えと命じる。
 『神の恵みを放縦に変え』(4節)る危険は、この手紙の受取人である旧約を熟知する人々にあったのです。神の惠みを深く味わってから堕落する者についての姿はヘブル6章にあり、恐ろしい裁きが待っている。
 キリスト者が自己中心に振る舞い、8節にあるように『夢見る者、肉体を汚す者、権威ある指導者を軽んじる者、栄えあるものをそしる者』は、キリスト者の交わりを傷つけてしまう。愛餐のしみとはまことに身震いする言葉である。旧約をよく知るものとして神のなされた裁きから過去のことについての悔い改めから出発して今日どう生きたらいいのか、学びなおしたいものである。御使いのかしらミカエルのような態度で臨みたい(9節)。
<祈り>主よ。あなたは私を限りない愛をもって愛しておられることを知りました。あなたの愛を素直に受け入れます。感謝します。アーメン