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2011年9月

2011年9月 1日 (木)

主題 <ステパノの祈りに学ぶ> 

聖書箇所 使徒の働き 7章     (2011年9月 1日)

今日のみことば「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(60)

  <あの七人>の中の一人、ステパノの素晴らしい奉仕と殉教を記して、教会が困難な時代にもかかわらず福音宣教に前進していったことを語るのである。
 私たちには、迫害やいじめ、悪口や不運が重なるときに、簡単にだめだと口にしやすく、不信仰な態度に変わりやすい。けれども神のわざは、どのような状況をも突き破り、福音の種子をまき、成長させ、結実させて行くのである。
 ステパノは福音の中心、福音そのものを知っていた。それは単なる知識ではなく、信仰が明確に受肉していたのである、すなわち生活そのものになっていたのである。だから、祭司やユダヤ教の専門家たちを前にしても、主イエス・キリストの全生涯を正確に、明瞭に説明し、聖書が見事に成就したことを宣言したのであった。そればかりか、自分を引き立てて、激しくののしり、悪口を浴びせるばかりか、ついに石打の刑罰を加えた時に余裕を持ちつつ彼らの罪の赦しを祈れたのである。
 石打とは、人々が周囲を取り囲み、最初の一人がその責任者となって石を投げ、続いて一斉にみんなが石を投げて石塚にして、殺してしまうのである。まことにむごたらしいリンチであった。周囲の激しい憎しみや怒りが、石の中に込められていたのである。
 だがこの時に、ステパノは平安と感謝、そして自分を主の御手にすっかりとゆだねきって、祈ったのであった。その祈りは、「この罪を彼らに負わせないで下さい」という素晴らしい祈りである。まるでその場所には、主がおられて祈っておられたと受けとめることができる。たしかに、祈っているのはステパノだが、彼の中で主が働かれ、聖霊によって満たされて主が祈って下さったとしか思えない。
 主が彼の内に愛となり、いのちとなり、恵みとなり、平和となり、すべてのすべてとなられたのである。こうして福音が受肉したのである。

主題 <聖霊と知恵とに満ちた評判の良い人> 

聖書箇所 使徒の働き 6章     (2011年8月31日)

今日のみことば「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」 (3)

 「初代の教会にいつも立ち返るように」これが私たちの原点であり、聖書の教会の姿をいつも求めることである。そこに見られる私たちの教会の本質、使命、方向性があるからである。
 しばしば、初代教会には何の問題もなく、スムーズに展開していたかのように思います。しかし、実は当時の教会が直面した諸問題は、その後の二千年の教会史に見るすべての問題が含まれていたと思えるほど、あらゆる問題に直面させられたのである。ですから教会に問題があることが問題なのではない。いつの時代も、問題を正しく受け止められないところにいつも問題があるのである。
 教会が拡大するときに、必ず問題が起こります。その時に同様な問題に光を与えて解決を見いだし、その試練を恵みと栄光に変えて行けるのは、使徒の働きから学び取ることが大事なのである。この出来事の結果は「6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」という驚くべきこと、すなわち祭司たちが信仰に入ったことの報告である。
 問題の解決の仕方が、神の言葉、すなわち聖書を第一にするという原則であった。この原則から私たちはあらゆる問題への解決への糸口を見いだせます。それどころか、かえって神の栄光が現されることとなる。問題が起こり、神の聖霊と知恵、力に満ちたあの七人を推挙した。こうした優れた人々が初代教会にはすでにたくさんいたのであった。現在もまた、神はあらゆる問題こそ世界宣教への糸口と恵みの働きへのチャンスがあり、与えられているのである。

主題 <聖霊に導かれ神に従う> 

聖書箇所 使徒の働き 5章     (2011年8月30日)

今日のみことば「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」(29)

 主の福音は、弟子たちの手やことば、祈りを通して主イエス・キリストの働きが継続されていきます。その働きは、「5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。」とある。その結果、人々は病気や悪霊につかれた人々を彼らの所に連れてきたし、極端な場合、使徒ペテロの影にさえふれるなら、いやされたほどであったのである(15)。
 この働きは、あまりにも素晴らしく、エルサレムの人々を熱狂的なものにしたので、ユダヤ当局者は、迫害の手をいろいろな面から加え、投獄し、福音宣教をやめさせようとしたのである。
迫害は、きわめて残虐であり、目をおおうばかりのことがよく起こる。過去の世界の歴史でも日本でも起こってきた。日本ではキリシタンの迫害や先の大戦のときに教会閉鎖などの国家からの迫害が加えられました。
 しかし、神を信じる者は、その迫害にどう耐えられるのか、どう乗り越えるのだろうか。教会の歴史は、勝利の道を歩んだことを証明している。主の弟子たちの生き方に、多くのヒントがあると思う。その重要な一つが人に従い、人を恐れることではなく、神に従うという原則である。人間はその時、その状況で人を利己的に取り扱うが、クリスチャンはいつも神に従うことによってすべてを整理し、確認し、徹することができる。人に従う道を歩もうとする誘惑に打ち勝つには、自分が神に従う道こそ、誤ることのない信仰生活を歩め、心は安息し、勝利への道を進めるのです。また、神の導きをいただいて、聖霊に導かれて行動するのである。どんなにむち打たれても、迫害の火の手が上がっても、落ち着いていられた秘訣は、現在もあなたが生きられる聖霊の力を与えてくださるのである。

主題 <私たちの救われるべき名>

聖書箇所 使徒の働き 4章     (2011年8月29日)

今日のみことば「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12)

 教会に与えられた力を改めて深く黙想しましょう。イエス・キリストは教会に驚くべき力を与えると約束されました。それは、天国の鍵を与える、というものです。あなた方、すなわち教会には、地上で教会につながれて天国につながれるのです。地上で解かれると、天上でも関係が解かれてしまう(マタイの福音書16;19)。
 では、具体的に天の鍵を使う機会はどのようにして実現するだろうか。それが、使徒ペテロが大胆に語った12節の福音の宣教です。「この方以外に救いがない」という大胆な宣言です。これまで主の弟子たちがキリストの弟子であることを隠そうとしたが、いまや全く変貌したのです。
 聖霊のそそぎを受けたペテロは、時の権力者、政治的、宗教的絶対的な立場の人々をまったく恐れない確信があふれています。自分の生命の危険や人間的なことなどまったく意に介さないのです。彼らが無学な普通の人であったことですが、神に聞き従う生活を大胆に確信していたのです。
 釈放された二人とそのあかしを聞いた人々がみな、心を一つにして神に向かい、声を上げたのです。23-31節には、まことに素晴らしい賛美と祈りと福音のために献身した群がありました。彼らの祈りに応えるかのように震い動き、聖霊に満たされたのです。
 困難や迫害を受けるたびに弟子たちの信仰は強固になり、輝きだし、さらに祈りに力が増し加わっていくのです。
聖霊に満たされた教会は、福音の宣教に止まりません。主の愛に満たされ、貧しい人々への援助の働きがはじめられる事となります。32-37節

主題 <わたしにあるものを上げよう> 

聖書箇所 使徒の働き 3章     (2011年8月28日)

今日のみことば「すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。」(6)
 主の力を受けた弟子たちは、実に大胆な行動をします。それがキリストの御名を信じる信仰によってあふれてきます。
 彼らは、金銭にこだわりを持ちません。その日は偶然に財布を持ち忘れていたのかも知れません。いや、彼らは福音の宣教のためなら、財布を持つなと教えられていた主のご命令を実践していたのでしょう。彼らにあるものは、ただ一つ、キリストの御名です。これ以下でもなく、これ以上でもありません。そして御名の対する信仰だけで十分なのです。
 現実の置かれている状況の中で、財布があった方がずっといいこともあるように見えます。その結果、もっとも大事な「主の御名」に対する信仰と行動がずっと後退してしまいやすいのです。
 私たちの中に持っているこの世の名声や富や力が何の役に立たず、キリストの御名への信仰のみが奇跡にいたります。ペテロとヨハネに備わった霊のまなざし、それこそ主イエス・キリストのもっておられた力でした。この奇跡は、弟子たちのめざましい働きを物語るだけではありません。彼らの中に働かれている聖霊の力であり、彼ら自身の能力や努力によったのではないことが証拠づけられたのです。
 クリスチャン生活の根本が、自分への依存から自由にされることが大事です。依存とは、ダメだと思うことも、自己過信でもありません。ただ主のみこころを受け入れて、聖霊に依存することのみです。
 今日、彼らの信仰を学び取り、<立って歩め>と語られなければならない人々の問題に囲まれています。問題を見つめて無力を嘆くよりも、信仰を増し加えてください、という祈りをしようではないですか。

主題 <わたしの霊をすべての人に注ぐ>

聖書箇所 使徒の働き 2章     (2011年8月27日)

今日のみことば「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(17)
 聖霊が注がれた圧倒的な出来事が記されています。それは、ペテロをはじめ12使徒たちが立ち上がって福音を語った事実です。これまで人を恐れ、自己過信に陥っていました。たくさんの問題をかかえていたこれらの人たちが大胆になり変貌したしるしが今日の出来事です。これまで人の顔色をうかがい、身の危険を感じたら偽りや逃亡していた弟子が、実に大胆に主の福音をあかしし、福音のためにいのちをかける人になったのです。しかも、彼らはいわゆる悲壮感にかられて、いちかばちかというような意気込みではありません。
 ペテロの説教を見るときに、福音の全貌を深く、明確に把握していたことがわかります。旧約聖書の全体像をキリスト論として展開します。キリスト論とは、イエス・キリストをカギとして聖書全体を位置づけるときに、総合的に論理的にも、実際的にも納得が行くのです。
 この日に、弟子たちは天からの大きなしるしを経験します。器がからっぽである中に聖霊が満たされます。祈りとみことばに生きる彼らに、神は喜んで聖霊を満たされました。これから聖霊の導かれるままに、福音を語り、癒しを行い、教会を立て上げて行きます。
 ヨエルの預言をまさにそのまま実現したことを裏付けました。息子や娘も、老人も子どもたちも、身分の低い者たちと思われている人にも、ひとしく注がれました。この約束は遠くにいる私たちにこそ、実現するのです(エペソ人への手紙2;17に心を留めてください)。
 ペテロは、イエス・キリストの十字架の意味と彼らが犯した罪を率直に明らかにし、悔い改めを迫ります。この日、心を開き悔い改めた人々は洗礼を受け、クリスチャンになりました。なんと三千人もの回心に至りました。

主題 <聖霊があなたがたの上に臨まれる> 

聖書箇所 使徒の働き 1章     (2011年8月26日)

今日のみことば「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(8)

 この書を開くことは、何と心おどる予感がするでしょうか。未だ第一世紀の福音が伝えられはじめた記録なのに、何とキリスト教会の全歴史を予測して展開しているのです。教会の宣教の情熱と具体的な行動が詳細にしるされ、キリスト教二千年の方向を示しています。<エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで>とありますが、使徒の働きの歴史的な推移なのです。
 それが8節にある聖霊のご計画である。お一人で天から下られたイエス・キリストは、全世界へ福音を満たすことにより神の国を実現される道を開きます。それも沢山の罪や失敗を経験した弟子たちによって行おうとされていたのです。弟子たちは、懸命に主のみことばを受け入れて応答しました。<使徒の働き>という名称ですが、実際はペテロとパウロがほとんどです。しかし、この二人の存在が聖霊の満たしを受けて出て行くことによって当時の世界中にくまなく福音を伝えることとなります。
 聖霊は力を弟子たちに満たします。この力は、弟子たちが受けるにふさわしく整えられて注がれたのです。
第一に、祈りに心を一つにしていたことです(12-14)。心を合わせるとは、自我の砕かれることから始まります。人々と、いやことに主と心を一つにする人が求められております。
第二に、聖書のみことばに歩む決断です。ユダの脱落後、使徒の職務をはたすために主の導きを求めたのです。自分たちの考えに固執せず、聖書の導きを優先しました。
 こうして、神が描かれた世界宣教への準備が整いました。今、私たちが現代においても変らないみこころは、二つの点を忠実に行動することです。キリストの証人として立ち上がるために、小さいと思えることから決断をしよう。

主題 <主イエスの愛によって> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 21章  (2011年8月25日)

今日のみことば「イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(17)

 イエスはかつて弟子たちと共に過ごしたテベリヤ湖畔にご自身を現された。弟子たちは漁師として働きを始めていた。しかし、網を下しても何一つ獲ることができなかった。空腹の弟子たちを知ってか、イエスはまだ朝早いうちに岸辺に立たれ、「舟の右側に網をおろしなさい。」と言われた。右におろそうが、左におろそうが変わらないことであろうと思われるが、言われる通りにすると大漁となった。かつて、イエスと会って同じ経験をした弟子たちだったが(ルカ5章参照)、弟子たちにはイエスだと分からなかった。しかし、ひとりの弟子が「主です。」とイエスに気付くとペテロは海へと飛び込んだ。一刻も早くイエスに会おうとした行動だったかもしれない。
 弟子たちが岸に上がられると、イエスは食事を用意されており、共に食事につくように招かれる。この食事の席で、ペテロはかつてイエスを三度知らないと否定してしまった失敗を思い起こさせ、それを責めるのではなく、むしろ三度「あなたはわたしを愛しますか。」と聞き、主への再献身へと導かれる。この時、ペテロはかつての自信に満ちた姿はなく、むしろ主イエスの前にただただ謙遜にさせられている姿しかなかった。主イエスはこのペテロに「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられ、これより後、初代教会のリーダーとして用いられるようになるのだった。
 ペテロは取り扱われたことは、主イエスの愛による取扱いであり、主イエスの愛によって救われた原点を確認するところにあった。主の十字架と復活を語り、福音を伝え、教会に仕えていくようになるペテロにとって、主イエスの愛を徹底的にしらなくてはならなかったということは、今日も主の弟子として生きていく私たちにとっても重要なことである。主の深い愛を覚え主に仕えていく一日となるように祈りましょう。

主題 <主イエスの復活>

聖書箇所 ヨハネの福音書 20章  (2011年8月24日)

今日のみことば「イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。」 (16)

 十字架刑にて息をひきとられたイエスはアリマタヤのヨセフによって引き取られ、十字架刑の行われた近くの園にあった墓に葬られた。
 イエスが葬られて安息日が過ぎ、三日目の朝早くに、マグダラのマリヤが墓へやって来ると、墓をふさいでいた石がころがされているのを発見し、すぐに弟子たちに知らせた。イエスの復活の第一報はマグダラのマリヤであったことが記されている。そして、マリヤの知らせを聞いたペテロともう一人の弟子も墓に駆けつけ、確かにイエスの体がそこになくなっているのを確認した。
 マリヤにとって衝撃的な事実を前に、ただ涙を流すしかなかったが、そこに主イエスは現れ、マリヤに声をかけられた。マリヤは初めのうちは、話している方がイエスであるとは気付かなかった。しかし、会話を重ねていくうちに、イエスであることを知っていく。それはイエスが「マリヤ。」と声をかけられ、マリヤがイエスに対して「ラボニ(先生)」と答えられていく中で気付いていった。これまで、いつも語り合っていた言葉使い、会話を交わす中でイエスであるということが分かった。復活した主イエスはその見た目の姿でははっきりとイエスであるということが分からない容姿であったとも言え、さらには死んだ者が生き返るはずないという思いも強かった故に、復活されたイエスに気付けなかったと考えられる。今日、新約の時代に生きていない私たちはイエスの復活を信じることはさらに難しいかもしれない。しかし、目で見てということ以上に、マリヤはイエスとの会話というやり取りの中でイエスを認めていったということを考えるとき、現代を生きる私たちはイエスのみことばを聞くというところに復活を信じることができるようになるということを教えてくれているように思うのです。そして、イエスの復活を信じるようになることは人間の思い込みや知識によってなされるのではなく、やはり神の御業なのだということを今日の教会は良く覚えていかなくてはならないと思うのです。
 今日、復活されたイエスは生きておられ、今も救いに導かれるお方であることを覚え、御名をあがめて歩む者とさせて頂きたいと思います。

主題 <イエスの裁判2>

書箇所 ヨハネの福音書 19章  (2011年8月23日)

今日のみことば「イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」」(11)

 イエスに対する尋問と裁判は再び総督ピラトのもと、多くの群衆の前で行われた。ピラトはイエスに鞭を打つように命じられ、この時点で大変な傷をイエスは負われた。また、頭にはいばらで編んだ冠をかぶせられ、当時の王の装束の色である紫色の着物を着せて、人々の前に見世物のようにさらした。ピラトにしてみれば、これだけ辱めを与えれば、人々も十分納得するだろうと考えた。この時点では、ピラトはイエスに恩赦を与え、解放しようと考えていたからであった(10)。
 ピラトの予想していた群衆の反応とは異なり、むしろ狂気に満ちていた。イエスに恩赦を与え、解放するならば、イエスではなくバラバを解放するように願うというとんでもない要求をしてくるほどであった。ピラトは群衆を押さえつけるどころか、その狂気に満ちた姿に恐れをいだくほどであった。
 ピラトは最終的には、イエスの口から恩赦を求めていくことばを聞くことで解決を図ろうとした。ピラト次第で十字架刑が行われるのも、解放させるのも行う権威があることをイエスに訴える。しかし、イエスの返した言葉に驚かされる。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(11)。ピラトの弁護的な言葉に対して、明らかに、ピラトに与えられている権威を否定し、その上にある権威に従って、イエスはこの裁判を受け入れ、実に十字架刑へと進まれることを受け止めていることを告白している。イエスはこの地上の権威のもとにあるのではなく、父なる神の権威のもとに、その許しのもとにすべてを受け入れられ、神のみこころに従っていく歩みをされていることを話されたのだった。
 ピラトはイエスの言われていることを十分に理解することが出来ず、さらには群衆の狂気に満ちた姿に気圧されて、恐れるようになり、最終的には公平な裁判を行う責任を放棄して、ユダヤ人の群衆にイエスの身柄を引き渡して、十字架刑の許可を与えてしまったのだった。
 すべては人間的な思惑のうちに進められているようであるが、主イエスは神のみこころに従われていたことを改めて確認したい。