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2012年3月

2012年3月20日 (火)

主題 <アブラハムのとりなしの祈り> 

聖書箇所 創世記 18章    (2012年 3月 8日)

今日のみことば「彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」」(32)
  18~19章にはソドムとゴモラへの神のさばき、ロト家族に焦点が向けられている。今日は、特に18章22節以降にあるアブラハムのとりなしの祈りについて考えたいと思う。
 アブラハムのところに立ち寄られた神の人たちはソドムとゴモラへさばきを下すために下されていったが、アブラハムは「まだ主の前に立っていた。」(22)とある。アブラハムは少数の正しい者がいるのに、町全体を悪として滅ぼされるのかと主に問われるために、主の前から離れなかった。そして、アブラハムは主と問答するように、ソドムとゴモラへのさばきについて、正しい者たちが50人、45人、40人、30人、20人、10人と執拗なまでに主にとりなしていく姿が記されている。ソドムとゴモラの町にはロト家族がいたこともあって、アブラハムはさばきを考え直してもらいたいと願い求めていくが、実際のところ、ロトとその妻、そして二人の娘以外に正しい者を見つけることができず滅ぼされていくことになる。そして、ロト家族も背後にこのようなアブラハムのとりなしの祈りがあったことは知らない。
 今日の箇所で覚えたいことは、まず知られないところにあってとりなしの祈りがささげられていることは重要なことであるということを覚えたい。実は、今日、あなたのためにとりなし祈ってくださっている人があるかもしれないし、あなたは誰かのためにとりなし祈ることができるということを覚えたい。そして、神はわずが少数という信仰者であっても、そこに存在しているならば顧みて下さるあわれみ深いお方がおられることを覚え、失望せずに祈る者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の契約に応答する>

聖書箇所 創世記 17章    (2012年 3月 7日)

今日のみことば「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」(5)

 神はアブラムにかつて約束された契約(12章)に基づき、さらに具体的に契約される。それは「子孫がおびただしく増やし」、「カナンの全土を・・・永遠の所有として与える。」(6-8)というものだった。そのため、アブラムとの名前がアブラハム(多くの国民の父という意味)に変えられるように言われた(5)。
 そして、待ち望んでいたアブラハムの子孫について、妻サラから生まれる男の子イサクが与えられるとの約束がなされた。アブラハムにとって信じがたいことで、すでに与えられていたイシュマエルを祝福してくださいと求めるほどに(18)、信じがたいことであった。
 これらの契約が示される中、神は割礼をほどこすように命じられた。割礼は男性の包皮を切り捨てることであるが、これはいのちを継承していくということに、絶えず神の祝福であることを覚えていくため、契約は継続性を示していくしるしとして行うように言われたことであった。アブラハム、そしてイシュマエルもすぐに命いじられた通り、割礼をほどこしたのだった。
 神の契約に基づいて、人間の側での応答として、割礼をほどこすということがはじめてなされた。そして、このことは聖書のうちに見る原則となっていることを思わされる。神は契約され、その応答を求められるというのは、今、キリストの十字架によって神のあわれみと赦しが示されていることに、信仰をもって応答していくということになぞられる。神のなされることは、いつの用意周到で、最善であり、恵みが先行している。私たちは、この神を信じ応答し、いつの時にも神に従う者でありたいと願います。

主題 <神の時、神の方法がある> 

聖書箇所 創世記 16章    (2012年 3月 6日)

今日のみことば「ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。」(16)
 アブラムの次の世代の子孫が与えられなかった中、妻のサライはエジプト人の女奴隷ハガルによって与えられる子どもを自分たちの子ども、子孫として育てていこうとアブラムに提案する。そして、アブラムは妻サライの提案に対して、「自分の身から出た者が継ぐ」ということであるならば、神の約束の成就であると考え、この提案を受け入れたのだった。
 そして、ハガルはアブラムの子を身ごもった。この時からハガルはサライを見下すようになり、サライはハガルをいじめるようになり、ついにハガルは追い出されてしまった。ここに、人間的な解決を求めていった中におこった悲劇を見る思いがする。時に最善と思われたことが、問題となってしまうことがある。
 追われたハガルに対して、神は11~12節で言われているように、与えられる子どもを祝福されると言われ、あわれみを示された。さらなる悲惨なこととならないように神は介入され守られたのだった。
 アブラムは子孫を持つということのために、ハガルの胎を借りるということをしたことは、身勝手なことであったと言わざるを得ない。結果的に、アブラム、サライ夫婦にとってもこの後、問題の種となっていくことになった。何よりも子孫を与えられると約束されたのは神であったが、アブラムは人間的な手段で神が与えられると言われたことを成就しようとしたとも言える行動であった。それは目的が正しければ、手段は問わないという考えに通じるように思わされる。
 私たちは神がなされることがあると信じ、また、神がなされる時があり、神のなさる方法があるということをわきまえなくてはならない。
 いつの時にも、私たちは神のみこころを覚えて、待ち望む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の約束を信じる信仰> 

聖書箇所 創世記 15章    (2012年 3月 5日)

今日のみことば「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6)
  ケドルラオメルの軍を破り、ロト一家を救出したアブラハムはソドムの王から戦利品の財産を受け取るように言われた時、「アブラムを富ませたのは私だ。」と言わせないために、戦利品の財産を受け取らなかった。アブラムを祝福されるのは主なる神のみであることを明確にする告白であった。
 このような出来事の後に、主はアブラムに、「あなたの受ける報いは非常に大きい。」(1)と言われるが、アブラムは「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。」と言い、アブラムは随分の年齢を重ねてきたが、その子孫が与えられていないことを訴え、主からの祝福とは何かを問われた。
 そのようなアブラムに対して、神は「あなたの身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(4)と言われ、さらに「さあ、天を見上げなさい。」(5)と言われ、天の無数の星々を見せて「あなたの子孫はこのようになる」(5)と約束された。
 アブラムはこの一連の神の約束のことばを信じた(6)。この約束がいつ実現するかははっきりと示された訳ではなかった。しかし、それは確実な約束とアブラムは信じたのであった。実は、このようなアブラムの神に対する信じる信仰の姿勢こそが重要であり、神を信じるということはまさにこのアブラムの姿勢に学ばなくてはならない。神は、アブラムのこの全幅なる信頼、確信こそが、「彼の義と道認められた。」と言われている。
 私たちもなかなか祈っていても実現しないという中で焦り、不安に思っていることはないだろうか。実現することを待ち望む中にも、着実に神の働きがなされていることを覚えることができるように、信仰をもっとて待ち望むことができるように祈ろう。

主題 <富ませてくださるのは神のみ>

聖書箇所 創世記 14章     (2012年 3月 4日)

今日のみことば「しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」 (22~23)

 アブラムはロトと分かれて後、マムレの樫の木のところに住んでいた。そこへ、ソドムの地で紛争があって逃げてきた者から、紛争の状況とロトがケドルラオメルの軍隊によって巻き込まれ、財産を奪われ、拘束されていることを聞いた(12)。
 このことを知ったアブラムは親類の者318人と共にロトの救出に出て行った。そして、アブラム一行たちはケドルラオメルの軍隊に勝利して、ロトやその家族たちの救出に成功した(16)。
 勝利をおさめ帰ってきたアブラムに対して、シャレムの王メルキゼデクはアブラムを祝福する(19~20)。しかし、それはアブラムへの賛辞のようで、しかし「神に誉れあれ。」と言われているところに、アブラムの信じる神による勝利であり、神をほめたたえていた。
 ソドムの王はアブラムに戦利品の財産を自分で取るように言われるが、アブラムはその申し出を断る。それは、自分を富ませるのは神であるということを明確に示すためであった。
 アブラムの一連の行動は大胆なものであったと言える。戦うべき時に戦い、その戦いは神にあっての戦いとして戦い、その勝利は神に栄光を帰していくというものでした。シャレム(平和)の王メルキゼデク(義の王)の前に、アブラムは戦利品の十分の一をささげた。これは神にささげるという行為としてアブラムがとった行動でした。戦いの勝敗以上に、注目したいのは神のための戦いがあり、その戦いの勝利は神に帰していくことが重要であることを、現代に生きる私たちも覚えたい。

主題<主の御心を求めて祈る> 

聖書箇所 創世記 13章     (2012年 3月 3日)

今日のみことば「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」(4)

 エジプトを旅立ったアブラムたちは多くの羊、牛の群れを飼うようになっていた。彼らはかつて天幕を張ったべテルとアイの間の地へやってきた。そこは、アブラムは初めて主の祭壇を築いた場所でもあった。エジプトを離れ、逆戻りしてきたような中で、これからの歩みを主に祈る必要を覚えて、この地に戻ってきたと考えられる。
 アブラム、甥のロトは共に財産が増え、家畜の牧草地をめぐって争いも起こるようになった(7)。そこで、アブラムはロトにお互いの繁栄のために、互いに別々の地を行くことを提案した。
 それぞれの地を選択するにあたりアブラムは甥のロトにまず選択権を与えた。ロトの繁栄を願うこともあったと思われるが、いるれにしてもアブラムはこの提案をした時点で神にゆだねていたと思われる。それは、提案をする前にアブラムは祈っていたことから分かる。
 ロトはアブラムの提案を受けて、見渡して豊かに見えるヨルダンの低地を選択する。ロトの選択はすごく当然の選択だったと思われる。でも、その選択の基準は必ずしも神の御心を求めるというよりは、より経済的な安定を求めての基準で選択したと言わざるを得ない。この選択をして、ロトたちはすぐに旅立っていたことからしても、アブラムは祈り、祭壇を築いたということとは違う。
 アブラムはかつてのエジプトでの失敗を思い起こしていたのではないだろうか。一策を計ずるよりも、まず、神の御前に導きを求めていこうとしたことは成長の一端を見たように思わされる。
 14~17節で、神はアブラムに告げて言われたことは、さらなる祝福の約束でした。
 私たちもまず最初に主の前にみこころを求める祈りをしよう。

主題 <神の介入>

聖書箇所 創世記 12章     (2012年 3月 2日)

今日のみことば「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」(17)

 12章からアブラム(アブラハム)の生涯について記されている。1~3節のアブラハム契約はこれより以降、アブラハムのみならず、イスラエル民族にとって神からの祝福の基いとなっている。
 アブラムは「わたしの示す地へ行きなさい。」(1)との命令をすぐに受け入れて新たな旅立ちをしました。この時、75歳であったと(4)記されている。アブラハムの一生は175歳であった(25:7)とあることから、人生の後半戦に入るという時にアブラハムは今までの住み慣れた故郷を離れて出て行った。先が見えている旅ではなく、不安、恐れもあったであろう。しかし、主の命令に従って出ていくならば、祝福しようという約束を信じて決断して出ていくことができたのだろう。
 旅立ったアブラムだったが、エジプトの地に入った時、その地は飢饉で、まず最初の試練を経験する。アブラムは妻サライの美しさのゆえに、サライを奪うためにエジプト人に殺されないかと恐れ、妻サライを妹と偽るようにした。結果、サライはエジプトの王パロに召しいられ、アブラムはパロから財産をも与えられるほどになった。しかし、このアブラムの策に神は介入される。神はパロの王家に災害をもたらされた。
 アブラムは一策を立てうまくいったと思っていたかもしれない。しかし、このアブラムの神の御手、神による祝福を忘れたかのような行動に介入されたのである。再び、エジプトを離れ、旅立つように導かれた。
 私たちもアブラムのような弱さがあるのではないだろうか。神の御手に導かれていくことを第一に求める者でありたいと願います。

主題 <バベルの塔>

聖書箇所 創世記 11章     (2012年 3月 1日)

今日のみことば「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」」(4)

 洪水以後、ノアの系図にあった人間は地上に増え広がっていった。広がっていきながらも人間はこの時、一つのことばで話していた(1)。その人間たちはシヌアル(バビロン)の地に定住した時、彼らは「「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(4)と言って、一つの塔を築こうとした。「天に届く塔」ということから人間が神に挑戦するようなこころみを持ち始めていたと見ることが出来る。また、「名をあげよう」ということから自己顕示欲がうまれてきているとも見ることが出来る。また、「われわれが全地に散らされるといけないから。」ということから考えると、一体性が失われることへの恐れがあったことも伺える。
 人間は名誉心、自己顕示欲が出ると、それを守ろうとする防御反応が出てくるのは今日も変わらないのではないだろうか。バベルの町の人々は、一つの塔の建設が精神的な拠り所として、彼らの力の象徴として築き、民が一致して力を誇示しようとしたことは、現代も、さまなざな武力、核兵器の保持など国々が競い合って保持しようとしている姿に似ているように思う。
 神は、この「天にまで届く塔」と息巻いていた人々のところに、「降りてきて来られた」(5)とあるように、結局は神がわざわざ降りて来られるほどにその塔は低い物でしかなかったことを示している。人間の浅はかさ、愚かさを知らされたことであったと言える。
 今日、私たちは自己中心的な生き方から離れ、神の御前にへりくだった歩みをしていくことができるように祈ろう。

主題 <ノアの系図>

聖書箇所 創世記 10章     (2012年 2月29日)

今日のみことば「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」(32)

10章は、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤベテの系図が記されている。ノアの息子はセム、ハム、ヤペテの順であるが、系図はヤぺテ、ハム、セムの順に展開されている。これはセムの系図からアブラハムが出て、これ以降、神の救いのご計画で重要さを持つのは、セムの系図であることを示している。
系図の名前は、個人と、氏族全体を表現しているものとが混在し、約七十の民族のリストとなっている。ヤベテの子孫からは「海沿いの国々が」分かれ出た(5)。ハムの子孫は、シヌアル(バビロン)、アシェル(アッシリヤ)などの地域に進出し、ニムロデのような権力者を輩出した。またミツライム(エジプト)、カナンヘも進出し諸氏族が分かれ出たことが記されている。これらの民族の拡大は、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」という、主のことばの実現であったと言える(創世記9:1)。
セムの子孫は「メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯」を定住地とし(30)、このセム族の流れの中から、アブラハムは出て、イスラエル民族が立てられることとなる。
一つの家族から、再び、地上はまたたくまに広範囲に人間は増え広がったことが記されていることは、洪水後の地上は人間が住むのに適した環境を備えて下さったということでもあり、確かに神はこのよなく人間をあわれみ深く導き、諸民族のリストが記されているということは、人々が増え広がっていく様を注意深く見ておられたということができる。
今日、私にも主の憐れみの目が注がれていることを覚えたいと思います。

主題 <永遠の契約> 

聖書箇所 創世記 9章      (2012年 2月28日)

今日のみことば「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(11)

 祭壇を築き、全焼のいけにえをささげたノアに主なる神は語りかけられた。1~7節にて語られた内容はかつてアダムにも与えられた使命(創世記1:28~30)と基本的には同じでした。再び、地に生きて、増え広がっていくことをお許しになられた。
 さらに神は洪水によって地を滅ぼしたが、これから後、洪水によって地を滅ぼすことはしないとの契約をたてられ、そのしるしとして虹を立てられた(11~13)。「虹」はヘブル語で「弓」をも意味している。その「弓」が天に向かって立っているということは、人にむけられたさばきは終結し、和解したことを意味していたと言えることだった。
 では、もうこの地上を、人間をさばかれないということなのか。この後、人間は増え広がっていく中で、また、地上は悪に満ちていく様へと移り変わっていってしまう。この悪、罪に対してさbかれないということではなく、洪水によって一掃されるのではなく、むしろ一掃してしまうことがないように、人間が罪を犯し、悪を行っていたならば、悔い改めていくように導かれようと働きかけてくださるという神の熱心が明らかにされた契約であったことを覚えたいと思います。人間が滅びてしまわないように、新たに神の前に悔い改めて導かれていくことを願っておられる神は、ついひとり子なる御子イエスをこの地に遣わされ、そのいのちをささげられることまでして、滅びから救われようとして下さった神の深いあわれみ、その熱心に感謝する者となりたいと思います。