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2012年5月

2012年5月22日 (火)

主題 <罪過のためのいけにえ>

聖書箇所 レビ記  5章     (2012年 5月27日)

今日のみことば「また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行ない、それを知らずにいて、後で咎を覚える場合、その咎を負わなければならない。」 (17)

 4章で言われていた「罪のためのいけにえ」の規定について、5章前半では具体的な罪について取り上げられている。例えば、証言をしなかった場合(1)、汚れた死体に触れた場合(2)、人の汚れに触れた場合(3)、軽々しく誓いをした場合(4)などがあげられている。これらは自らが告白しなくては分からない罪の数々かもしれない。どのような罪でも告白しすることが重要であることを示している。また、言い変えれば、どのような罪も告白し、主に赦し、贖いを求めていく者に回復を与えてくださろうという神の憐れみを覚えさせられる。
5章後半では、「罪過のためのいけにえ」について教えられている。「罪過」として、言われていることは、「人が不実なことを行い、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯した」(15)ことがあげられている。不実なこととは、人の権利を侵害することであり、主に対しては言えば、主に対してささげるべき物をささげないことがこれに当たる。この罪の場合、本来、償いをするべき値に、その五分の一をさらに追加したものを、祭司のところに持って行った。
 17~19節は「主の戒めに対する違反」を犯した場合のことで、主の律法に一つでも違反したとき、「たといそれを知らなくても」、傷のない雄羊を祭司のところに持って行った。
 これらのことは、贖い、償いの重みを示している。今日、私たちは自らがいけにえを持って来るのではなく、主イエスご自身が来て下さったということを覚え、主に深い感謝をささげたいと思います。

主題<罪のためのいけにえ> 

聖書箇所 レビ記  4章     (2012年 5月26日)

今日のみことば「祭司は指を血の中に浸して、主の前、垂れ幕の前に、それを七たび振りかけなさい。」(6)

 アダムが神の前に罪を犯した結果、すべての人は罪人となった(ローマ5:12)。主イエスは、私たちの罪を赦すための、いけにえとなってくださった。すなわち、「世の罪を取り除く神の小羊」として(ヨハネ1:29)、いのちを捨てて死んでくださり、罪を贖ってくださったのである。その意味をあらかじめ表していたのが、この「罪のためのいけにえ」であった。
 いけにえとなった動物は、だれが罪を犯したかによって、傷のない雄牛(祭司、イスラエルの全会衆)(2-21)、雄やぎ(上に立つ者)(22―26)、雌やぎまたは雌羊(一般の人々)(27―35)と、それぞれ異なった。油そそがれた祭司とは(3)、「大祭司」のことである(8:12)。大祭司でさえも、罪人であるが故に弱さがあり、いけにえを必要としたのである。
 このいけにえの特徴は、いけにえの血の扱い方であった。大祭司とイスラエルの全会衆の場合に、祭司は、指を血の中に浸し、聖所の垂れ幕の前に、その血を七回振りかけた(6、17)。聖所の垂れ幕とは(6)は、聖所と至聖所とを区切るものである。血は、「かおり高い香の祭壇」の角に塗られた(7、18)。これは、この儀式を通して、人の罪が贖われるためであった。祭司は「罪のためのいけにえ」の儀式によって、人の罪を贖い、その結果、罪を犯した者は赦されたのである(20、26、35)。
 今日の箇所から主イエスが私たちの罪のために十字架で血を流してくださったことを覚え、いつも十字架を仰ぎ、悔い改め、恵みを覚えて歩む者でありたいと思います。

主題 <和解のいけにえ>

聖書箇所 レビ記  3章     (2012年 5月25日)

今日のみことば「もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。」(1)  

 主イエスは、聖なる神と、罪人との間に和解をもたらすいけにえとなってくださったのであるが、その意味を持っているのが、この「和解のいけにえ」である。イスラエル人は、このいけにえをささげることにより、神と和解し、神に感謝をささげたのである。私たちも、主イエス・キリストを信じることにより、神との和解が与えられ(ローマ5:1)、また人との和解も積極的に求めていくのである(ローマ12:18)。
 「和解のいけにえ」には牛(1-5)、羊(6-11)、やぎ(12-16)がささげられた。全焼のいけにえの場合、動物は雄だけであったが、和解のいけにえの場合は、牛、羊ならば、雄と雌にかかわりなくささげられた(1-6)。礼拝者は、ささげ物の頭の上に手を置き(2、8、13)、それをほふり、脂肪などを燃やし、祭司は、その血を祭壇の周りに注いだ。その肉は、祭司や礼拝者たちが食べることができたが、17節にあるように、脂肪と血は、決して食べてはならなかった(7:23-27、17:10-14)。この和解のいけにえは、感謝をするときに、また誓願のときに、あるいは進んでささげる物としてささげられた(7:11-21)。和解のいけにえは、それをささげた礼拝者が食べることのできる唯一のささげ物であった(11、16)。申命記12章7節には、「あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい」とある。神との和解が私たちに本当の祝福、喜びを与えてくださるということが描かれている。
 今日、主イエスが私のための和解のいけにえとなってくださったことを覚え、神との平和が与えられていることを感謝しよう。

主題 <穀物のささげもの> 

聖書箇所 レビ記  2章     (2012年 5月24日)

今日のみことば「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」(13)
 二章は、穀物のささげ物についてである。このささげ物は、小麦粉でなければならなかった。料理していない場合(1-3)、かまどで焼いた場合(4)、平鍋(鉄板)で焼いた場合(5、6)、鍋で料理した場合(7)、いずれの場合にも油すなわちオリーブ油、また乳香が加えられた。しかしパン種(酵母)と、蜜は加えてはならなかった11-12)。それは異教のささげ物と区別するためであったかもしれない。乳香(1、2、15、16)は、乳香樹の分泌物を乾燥させた香料である。「記念の部分」とは(2、9、16)、「穀物のささげ物」の祭壇で燃やす部分のことである。神が、ささげる者を覚えてくださることを、暗示していたのかもしれない。
 最も聖なるもの(3、10)は、祭壇で燃やされた物の、残りの部分のことである。最も聖なるものは、祭司のものとなった。穀物のささげ物には、「神の契約の塩」と呼ばれる塩を欠かしてはならなかった(13)。塩は、火に燃えず、腐らないという性質があるので、神と人との契約が永遠に変わることがないことを望みながら、使用されたのかもしれない。
 穀物のささげ物は、通常「全焼のいけにえ」に続いてささげられた。礼拝者から神へささげる物であると共に、祭司の生活を支えるものともなった。神は、「全焼のいけにえ」を通して、ご自身の民イスラエルを近づけられた。穀物のささげ物は、その恵みに対する民の「感謝のしるし」と考えられる。
 主イエスを信じる者は、神との永遠の契約関係に入ることができることを感謝しよう。

主題 <全焼のいけにえ>

聖書箇所 レビ記  1章     (2012年 5月23日)

今日のみことば「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。」(3)

 レビ記は律法文の印象を受けるが、決してそうではない。レビ記のへブル語聖書の題名は1章1節の「神はモーセを呼び寄せ」をそのまま書名としている。レビ記と呼ぶようになっている70人訳聖書のときからそのようになった。つまり、レビ記は神がモーセに語られたストーリー性をもった書物である。そして、現代の私たちも主の語られたことをいかに聞くかが問われていると言える。
全焼のいけにえは、ささげられた家畜や鳥のすべてが、祭壇の上で焼かれた。それは、「主へのなだめのかおりの火によるささげ物」であった(9、13、17)。このいけにえは、ささげる者の、神に対する全き献身を意味した。本来、いけにえとは高価な動物だったのである。すなわち、人間の罪を贖うことは決して安価なことではないことを意味している。神の御子イエス・キリストは、最も高価で、完全な、全焼のいけにえであった。
 レビ記に書かれているそれぞれのいけにえは、完全ないけにえである主イエスの、ある一面を表していた。その類似点を以下のことである。
 全焼のいけにえは、傷のないものであった。これは主イエスが罪のないお方であったことの象徴であった(Iペテロ1:19)。また全焼のいけにえはそのすべてがささげられた。主イエスは、私たちを救うために、同様に、全焼のいけにえとして、すべてをささげてくださったのである。
 今日、全焼のいけにえを覚え、主イエスが、全人類を救うために、すべてを神にささげてくださったことを感謝し、私たちも、私たちのすべてを神にささげよう(ローマ12:1)

主題 <その時、主の栄光が幕屋に満ちた>

聖書箇所 出エジプト記 40章  (2012年 5月22日)

今日のみことば「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(34)

 神の幕屋が忠実なる奉仕によってついに完成したのです。
この章にも八回にわたり『主がモ-セに命じられたとおり』と報告されている。こうしてモ-セはその仕事を終えた。(33節)
 聖書は『その時、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。』と記されている。主のみことばに従い通した結果、幕屋が完成した。だがこのテントは『神の幕屋』なのです。人の手によって造られているようだが、神の御霊の導きのもとに形造られたからである。
 私たちの日ごとの営みもまた、みことばに導かれて形造られる時に、主の栄光が満ちる。ほんの小さな奉仕にも心を尽くして行い始めるときに、人の中に神のかたちが見られてくる。
 どんなに栄光的な作業だったのでしょう。神と共に働くことが神の幕屋つくりなのです。日毎の行いがこんなに大切な意味のあることを深く思うのです。テントのように弱い私たちですが、神のみことばを聞き、従うことにより心の内に神が住み、栄光を現してくださる。

<祈り>主よ。弱い私ですが、私を通してきょうもあなたの栄光を現してください。私と一緒に歩んでください。アーメン

主題 <主がモーセに命いじられたとおりに>

聖書箇所 出エジプト記 39章  (2012年 5月21日)

今日のみことば「彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸で、聖所で仕えるための式服を作った。また、主がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。」(1、5、21など)

 祭司職とその衣服について1~31節に記され、32~43節は幕屋が完成し、祝福が現わされたことが述べられている。細部にいたるまで詳しく記録されている。
ところでこの仕事について一つの共通した表現がある。それが『主がモ-セに命じられたとおりに』と繰り返している。何回記録されているかペンで記して見よう。一節の聖句が世界の歴史を形作ることなのに、これほど多くの命令どおりの仕事をしたことが確認される。
 自分好みの仕事、自分が納得しないと動こうとしない傾向を自分の中に見るのです。この自分のしたい事を行う性質、自己中心な人間性を自覚することは極めて重要です。彼らは自分の感じたとおりに造ったのではなく、どんなに無理、不合理に見えようとも主が命じられたとおりに造ったことに改めて感動を覚える。
 第一に、この仕事は記録されて残る営みであった。
 第二に、主のみ心を写し出す営みでした。
 第三に、主の栄光が現わされたのです。

<祈り>主よ。命じられたままを行う難しさを、神の栄光ために克服させてください。

主題 <彼と共にオホリアブがいた>

聖書箇所 出エジプト記 38章  (2012年 5月20日)

今日のみことば「彼とともに、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブがいた。彼は彫刻をし、設計をする者、また青色、紫色、緋色の撚り糸や亜麻布で刺繍をする者であった。」 (23)

 ベツアルエルが次々とみ霊に導かれるままに、祭壇の用具を整えてゆく。それを見守るイスラエル人たちは、驚異のまなざしで見たことだろう。
 彼ら自身がささげた銀は半シケルずつ(26節)だが、全体で百タラントを越えたというのです。一人一人の忠実なささげものこそ大きな働きを生み出すことを忘れてはならない。
 御霊に満たされた人ベツァエルと多くのささげものによって神の幕屋が完成して行くのです。ここにもう一人の名前、オホリアブが特記されている。彼については23節に三つの優れた職務ができたという。第一は<彫刻>である。素晴らしい彫り物、刻み込まれるものは単に美しい物ではなく、神の栄光をかいまみせていかなくてはならない。第二は<設計>をするものとあり、細かな寸分の狂いもない正確な調和のとれたデザインであったことであろう。第三は<刺繍>をする者で、荒野の中でも糸に染色を施し、神の栄光を織り出す。 
 傑出したリ-ダ-に必ずよき助け手が存在する。宗教改革におけるルタ-にメランヒトン、ツイングリーにカルヴァンがいたのです。あなたも人々の先立つリーダーでないなら、よきヘルパーに徹する道もあるのです。その歩みが特別に記されています。
<祈り>主よ。私たち一人一人に賜物を与え神様の栄光を現すために用いてくださることを感謝致します。リーダーであろうとヘルパーであろうと神様のために喜んで働くものとしてください。ア-メン

主題<これを純金でかぶせ> 

聖書箇所 出エジプト記 37章  (2012年 5月19日)

今日のみことば「そして、上面と回りの側面と角を純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。」(26)

 契約の箱や燭台、香りの壇などを作成する。その方法が詳述されている。契約の箱は、モ-セによって与えられた十戒とマナを壺の中に納めるのです。
 アカシヤは材質に優れた木材であり、美しく強固である。ただ、このアカシヤの木はどれほど優秀であったとしても、美しく、堅固であっても、さらにこの上に純金をおおうのです。
 『純』は交じり気のない、本物の、不変の、高価な、などの意味もあろう。本章は純金と純粋な香りの高いかおりの二つが記されている。
 純粋な金でアカシヤが覆われた時、見られるのは金である。
キリスト者の生涯もまた、きよい神様を内に宿す存在である。その生涯はキリストの救いのみわざによっておおわれて贖われたのです。生来の私たちはどれほど優秀であろうが、そのままで主のお役に立つことはできない。優れているほどその人の栄光になってしまうだろう。
 反対にどれほど劣っていようがキリストの純金の恵みによっておおわれたなら、そこにはキリストの栄光が見られるのです。
今日一日がキリストの恵みに包まれた歩みにしよう。
<祈り>主よ、今日一日があなたの恵みによって与えられ、あなたの恵みだけを輝かす日でありますように。アーメン

主題 <あり余る奉仕>

聖書箇所 出エジプト記 36章  (2012年 5月18日)

今日のみことば「モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」」(5)  

 神の幕屋を造る奉仕に、人も献げ物も十二分に備えられた。1~7節にはそうした心から進んでささげる人と物が満ちたとある。それを『有り余る奉仕』と表現している。後半はその有り余る奉仕によって次々と完成してゆく様子が記されている。
 エジプトで奴隷であった貧弱な民が、何もない荒野で喜々として奉仕に励んでいる姿に感動しない人はいない。力を残し、持ち物を残し、宝石を残していこうとする思いはなかった。なしうる限りを尽くした奉仕であり、ささげ物であった。ちょうど主の十字架直前に三百デナリもの香油のつぼを割った婦人のように、この荒野全体が愛の、信仰の、めぐみのわざですばらしい香りを放ったことであろう。成しうる限りの奉仕が、あり余る奉仕へとつながるのです。
 人の豊かさは持ち物によらないのです。力の限りの奉仕の喜びを知ったものが、あり余る恵みにあずかるのです。カナの婚礼で水を汲んだしもべは知っていたのです(ヨハネの福音書2章)。多く与えるものは多くの祝福を味わえる。
 あり余る奉仕に私たちも関わらせていただこう。なぜなら、聖なる幕屋を造り、聖なる祭壇を造り、なすすべては神の栄光のためなのですから。
 一日、主からの豊かな恵みへの応答とさせていただこう。
<祈り>主よ。あなたのための奉仕に集中させてください。ア-メン。