2013年7月 3日 (水)

主題 <民に働かれる主>

聖書箇所 ネヘミヤ記  7章   (2013年4月17日)

今日のみことば「私の神は、私の心を動かして、私がおもだった人々や、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載するようにされた。」(5)
 エルサレムの城壁が再建され、城門が取り付けられるとともに、町の防衛と治安に当たるハナニとハナヌヤが任命された(2)。城門は、通常より遅く開かれ、閉門も門衛の勤務中になされるようになった(3)。また、自警団も選ばれ、見張り所と自分の家の警護が命じられた(3)。敵に内通する者が多い中で、敵の攻撃やかく乱されることに対して、なお用心が必要だったのである。城壁内に住む者はまだ多くなく(4)、これから家々が建築され、エルサレムの町の再建がなされていくことになる。
 市内への移住を推進する段階になって、捕囚からの一次帰還者の名簿が発見された(5)。エズラ記2章のものとほぼ同じである。民の代表としてゼルバべル、ヨシュアなど「十二人」が記されている(7)。帰還した民は、ユダ族、ベニヤミン族、レビ族が主であったが、「十二」という数字によって(7)、三部族で成立していた南の王国だけではなく、十二部族で成立していたイスラエル全体の再興が意識されていると考えたい。「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、『破れを繕う者、市外を住めるように回復する者』と呼ばれよう」と言われていた預言がここに成就した(イザヤ58:2)。もちろん、「破れを繕う」とは、城壁と共に、霊的な城壁の修復をも意味すると言えるだろう。
今も神は、人々の「破れ」(神との関係において修復の必要な部分)を見いだして、それを繕う者、とりなす者を求めておられる。最終的な「破れを繕う者」として、キリストが十字架につかれ、よみがえられて新しいイスラエル(教会)をお建てになったことを覚え、主あって歩む者とならせて頂きたい。

主題 <私を力づけてください>

聖書箇所 ネヘミヤ記 6章    (2013年4月16日)

今日のみことば「事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。」(9)

 サヌバラテ、トビヤ、ゲショムらは(1)、城壁の完成が近づいたことを知ると、策略を巡らし、ネヘミヤの暗殺を企てた。彼らと利害を同じくするユダヤ人も同様であった。暴力による恐怖によって、ネヘミヤを脅した。さらには、ペルシャ王に、「ユダヤの反逆、独立」という偽りの情報を流すと脅した(6、7)。情報には力があり、王が誤った情報を信じれば、ネヘミヤとの信頼関係に亀裂が生じる。サタンによるエバに対する誘惑も、誤った情報を信じさせることから始まった(創世記3:17参照)。暴力による脅しや、偽りの情報操作の背後にいつも存在しているのはサタンである。
一方ネヘミヤは、敵に内通する者とも対決しなければならなかった。彼らは、異邦人との協調という、一見平和的解決を掲げていたのかもしれない。シェマヤは、ネヘミヤの身の安全を考え、神の宮の本堂にかくまうと言う(10)。しかし、そのことばにネヘミヤが乗せられれば、祭司しか入れない領域に足を踏み入れることになり、罪を犯すことになる(13)。買収されたり、預言という名で人を惑わすことは、神の方法ではありえない。にもかかわらず、トビヤと姻戚関係にあり、利害を同じくするユダヤ人は、トビヤの善行を語った(19)。このような困難な状況とあらゆる妨害の中で、城壁は52日という短期間に完成し、国内外のすべての者が、「神によってなされた」奇蹟であることを認めざるをえなかった(15、16)。
 私たちもあらゆる困難の中にも動じることのない信仰と主の守りに期待することが出来るように祈りましょう。

主題 <権利を主張するのではなく愛をもって>

聖書箇所 ネヘミヤ記 5章     (2013年4月15日)

今日のみことば「それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した。それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。」(18)

 ユダヤ人の中には、食料を手に入れるため(2、3)、また、城壁修復を含む税金のために(4)、家や畑を抵当に入れ、同胞から借金をし、さらに、自分の息子や娘を奴隷として売らなければならない者もいた(5)。問題は、富裕層が貸付金の利息を取り、担保の土地を手に入れ、同胞を奴隷としても、これらを「合法的」と思っていたことであった。申命記23章19~20節には、同胞から利息を取ることが、レビ記25章39~43節には、同胞を奴隷とすることが禁止されている。いずれもこの時代には、忘れ去られていた規定であった。
 ネヘミヤは、そのような教えの精神を回復しようとする。異邦人に売られた同胞の買い戻し(8)、貧しい者に貸した金、穀物の帳消し(10)、総督手当ての辞退(14)、農地の不買(16)などを行った。彼は、ペルシャ高官として蓄えた財を、すべて使い果たしてもよいと覚悟しているようにも思えるほどに自らの財産に関わる決断を民のために行った。
 ネヘミヤの行動は決して一時の思い、情熱ではなく、絶えず主のためであり、同胞の民のためにどのように仕えていくべきかを自らがその姿勢を示した行動であったと言えよう。
 私たちは、神の家族に、兄弟姉妹に対して、自らささげ仕えているだろうか。主イエスは仕えられるのではなく、人に仕えるためにこの地に来られ、共に歩んでくださったということを覚え、私たちも主にあって仕える者とならせて頂きたいと思います。

主題 <主が戦ってくださる>

聖書箇所 ネヘミヤ記   4章   (2013年4月14日)

今日のみことば「どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」」 (20)  
ネヘミヤによる城壁再建の働きは、ユダが捕囚になっている間に、その地において様々な権益を獲得した者たちにとっては、脅威となった。ネヘミヤは、城壁再建と外敵からの防衛という二つの戦いに向き合わされた。異邦の民の代表たちは、再建を中断させるために、神の民を気落ちさせることばを語った(1-3)。ネヘミヤは、このような嘲笑を買うたびに、短く祈った(4、5)。彼らのことばは、無防備に聞くならば、イスラエルの民を無気力に追いやり、働きを放棄させる力となってしまう。私たちは、人の嘲笑や課題に直面するとき、ため息に代えて、主に祈る者とされたい。ため息をついてばかりいると、無気力が民の心を支配するようになるだろう(10)。
その後、敵によることばでの嘲笑は、やがて武力行使へとエスカレートするだろう(11)。敵のことばは、城壁再建の主たる担い手である壮年男子が、その家族と離れて作業をしていることに注目し、家族の不安をかきたて、浮き足立たせることを計算していた。イスラエルの民は、働き手が家にいて、自分たちを守ることを求めた(12)。そこでネヘミヤは、まず「彼らを恐れてはならない」と語り(14)、次に具体的な対応策を示した。城壁の完成までの短い期間、家族ごとに城壁に移り、防衛に携わり(13)、彼の直属の部下は、半分は工事に、半分は防衛に当たった(16)。城壁を築く者は、武器と工具を持ち、状況に対応する。夜も武装した者がエルサレムに滞在し、敵の動きに備えた(22)。
 敵の攻撃に際し、「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」(21)と告白し、主にの助けに期待している。困難がかえって主への全幅に信頼へと成長する機会となった。

主題 <城壁再建に関わった人々>

聖書箇所 ネヘミヤ記   3章   (2013年4月13日)

今日のみことば「こうして、大祭司エルヤシブは、その兄弟の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、とびらを取りつけた。彼らはメアのやぐらまで聖別し、ハナヌエルのやぐらにまで及んだ。」(1)

3章では、城壁の修復にかかわった人々の名前が、北(1-7)、西(8-13)、南(14)、東(15-32)と、時計の反対回りの順に記述され、城壁を一回りしている。最初に挙げられているのは大祭司エルヤシブで、一族で神殿の北側を担当した(1)。工事の中核は、エルサレムとその近辺の住民である。その多くは自分たちの住居近くの区域を担当した(23、28、29等)。しかし、修復にはエルサレムの住民だけではなく、エリコ(2)、テコア(5、27)、またユダヤ総督管轄地の外の、ギブオンとミツパ (7)からの者も加わっていた。
 また金細工人、香料作り(8)、レビ人(17)、商人(31)等の職業の者たち、さらには女性(12)も加わっていた。特に土木作業向きであったとは言えない人々であるが、彼らの参加は、この事業が神のみこころにかなうことであることを、イスラエル全体が理解した証拠であろう。
 それぞれに自分の担当する区域(役割)があったが、自分の区域を終え、なお残る力を別の修理に向けたメレモテや(4、21)、女性ながら作業に加わったシャルムの娘たち(12) たちの思いは、自分の責任を果たすだけではなく、全体の働きは神のみこころであることを覚え、さらに全体の働きを支えていこうという姿勢があったことを思う。
 共に、仕え合い、支え合うことこが主の御心を全うしていくこととなることを教えられる。

主題 <良い仕事に着手した>

聖書箇所 ネヘミヤ記   2章  (2013年4月12日)

今日のみことば「そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。」(18)  

エルサレムの惨状を聞き、とりなし祈ったネヘミヤは悲しみしおれたようになっていた(1)。そこに、王がネヘミヤに気付かい、「では、あなたは何を願うのか」と尋ねた(4)。彼の求めは、王の総督としてユダに派遣され、城壁の再建に当たること(5)、現地までの安全通行の保証(7)、城壁再建の資材を、王の管理する森林から得ることであった(8)。神のご計画の実現を妨げる危険や、それを克服する手立てが、はっきりと、主の知恵に導かれているのを感じさせられる。彼の場合、祈りと具体的な行動は、しっかりと結びついていた。エルサレムに到着してすぐの夜中、彼は現状を調べるために、こっそりとエルサレムの城壁を一周した(12、13)。それは、修復のための資材がどれぐらい必要か、人員はどこにどれぐらい必要かを知るためであった。しかし、なぜ夜中に、調査しなければならないのか。それは、サヌバラテなどのように(19)、外部に反対勢力が存在し、内部にも、彼らに通じる者の存在が予想されたからである。そんな圧力を感じながら、ネヘミヤは、主の民と共に城壁の再建を始めた。「さあ、再建に取りかかろう」(18)。この掛け声の裏に、積み重ねられた祈りと念入りな調査、準備があったことを覚えなくてはならない。
私たちも、現状を把握し、そのためにまず祈りから始めていき、主の御心を求めていくところから行動を始めていきたいと思います。

主題 <とりなすネヘミヤ>

聖書箇所 ネヘミヤ記  1章   (2013年4月11日)

今日のみことば「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」(6)

 ネヘミヤはぺルシヤ帝国で、王の献酌官という側近にとりたてられていた。そこへ、ハナニによって、エルサレムの城壁は崩され、門は焼き払われたままで放置されたままになっていることが告げられた(3)。
 ネヘミヤは、イスラエルがバビロンに捕因になって以来、自らの安定した立場に立って、祖国の現状を他人事のように聞くこともできた。自分は神の前に正しく歩んでいる。イスラエルの現状は彼らの不信仰が原因であると、突き放すこともできた。しかし、ネヘミヤにとっては、その現状がどうであれ、イスラエルの現状を憂い、そして、イスラエルのために、その民のために行動していく時と悟った。ネヘミヤはその行動の始めとして主の前に祈り始めていった。それも民の内的、外的な悲惨を前にネヘミヤは泣き、喪に服し、断食し、祈るのである(4)。
 彼は、堅く信仰の道を歩んでいた。しかしイスラエルの罪を、自らの正義を足場にし、評論家のように断罪してはいない。むしろ「私も私の父の家も罪を犯しました」と告白し(6)、自らをも、罪ある者としている。ここにとりなしの祈りの姿勢を教えられる。それは、全く罪のないイエス・キリストが、全世界の罪を一身に負われるお方として十字架につかれたという事実につながる、とりなし手の本質を見るのではないだろうか。
 私たちもネヘミヤのように、とりなし祈る者とさせて頂きたい。

主題 <御旨にかなったことをしなさい>

聖書箇所 エズラ記   10章   (2013年4月10日)

今日のみことば「だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい。」(11)

 エズラが神の前にひれ伏し、涙ながらに祈って告白している時、イスラエルの大集団がエズラのもとに集結して、同じように激しく涙を流して泣いた(1節)のでした。一人の悔い改めは、全国民のリバイバルに広がっていきました。真実な霊的覚醒は、個人で終わりません。やがて、シェカヌヤが「私たちは罪を犯しました」と告白を始めました。「外国の女をめとりました」と素直に悔い改め告白しました。しかも、彼は、「このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。」(2節)と本当に悔い改めて今までの生き方を中止し、神の律法に基礎を置き、神の規準に立った生活を立てると契約を申し出たことです。
 人々の中から、生まれてきた霊的選択が、今、イスラエルに強い力となって大きな流れを作り出しました。上からの命令ではなく、自分たち自ら決断した力は、実に貴いものがあります。御旨にかなったことをする上で、どれ程の困難も乗り越えて行く流れとなったのです。

<祈り>主よ。自らの内に湧き上がる霊的願いによって御旨を行わせて下さい。

主題 <エズラの祈り>

聖書箇所 エズラ記   9章    (2013年4月 9日)

今日のみことば「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。」(6)

 エズラの努力によってイスラエルが神殿中心となり、宗教改革は見事に成功しました。そう見えて順調に進んでいたときに、大きな問題が発生しておりました。それは、結婚の問題でした。忌み嫌うべき風習にあった女性と民のつかさたちが結婚していったのです。民のつかさ、代表者たちがこの不信の張本人(2節)となっている報告を聞いて、エズラは色を失って座り込んだのです。
 結婚はユダヤ人にとっても極めて重要であり、生活も信仰も規定されてきます。異教の妻たちによって、王たちの人生が狂っていったことにより全イスラエルに及ぼした悪影響ははかり知れません。教会の指導者
も、またよき結婚を通して神の栄を現すようにありたい。
 ここで、エズラは、実に長い長い祈りを神様にささげます。あれほどの困難の中に主に従ってきたつかさたちが、一安心したときに足元が崩れたのです。人間は悪魔の力に対し、安全な人は一人もいない。激しい
祈りの中に、主の助けを請い求めたエズラの祈りを私たちもささげたい。

<祈り>主よ。長い危機のときを通過して、心の緩みに付け込みサタンが働くことがないようにお守り下さい。

主題 <恥じるという思い>

聖書箇所 エズラ記  8章     (2013年4月 8日)

今日のみことば「私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。」(22)

 エズラたち一行は、男子だけで1736名に上り、女性や子供達を加えると5000人程になるでしょう。不安定な時代の旅は極めて危険で、これを守備するために部隊を要請することは極当たり前の頃です。常日頃、 「我は全能の神を信ず」と告白していたエズラにとって、この1000Kmにおよぶ道中の危険の中に神の御目と御守りがあると信じるのである。これは具体的な問題であり、信仰が深く問われることでした。
 子供達と持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるために断食したのである(21節)。なぜなら、王から人間的に当然願うべき助けを求めることを恥じたからである。恥じるという思いも、また大切にしたいことです。
 告白が具体性を帯びて迫ってくる時に、信仰が培われ、成長させられていく。このときの祈りと願いと断食は、徹底したことであり、突き抜けたものでした。「すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」(23節)と確信いたします。

<祈り>主よ。恥じるほどに、世のことに頼ることを止めさせて下さい。