2013年7月 3日 (水)

主題 <律法学者エズラ>

聖書箇所 エズラ記   7章    (2013年4月 7日)

今日のみことば「エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜わったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。」 (6)  

 律法学者エズラの信仰による偉大さを学ぶことができます。
 第一に、モーセの律法を深く学び、調べたのです(10)。聖書を読む、調べる、学ぶことの重要さは、今日始められる一日の歩みに与える力ははかり知れません。
 第二に、モーセの律法について実行しようと心に定めています(10)。論語読みの論語知らずという諺で示されるように、律法読みで律法を守ろうとしない人の人生も空虚なものです。実行には必ず困難が伴います。実行しようと心定めたエズラの信仰を学びたい。
 第三に、「おきてと定めを教えようとして、心を定めていた」(10節)のです。自分が学び、そして実行するばかりでなく、人に教えようとする熱意は、神の民に対する愛以外の何ものでもない。人々の生活が神の言葉によって変えられ続けて、文字通り神の国が形成されることへの愛です。
 アルタシャスタ王は、エズラのこの深いみことばへの生き方に対して敬意を払い、彼のことばと生活から神を見たのである。こうして、王は彼の願いをみなかなえていくのです。(21~28)
「わたしたちの先祖の神、主はほめたたえられますように。主は、このようにエルサレムの神殿を栄えあるものとする心を王にお与えになり、」(27)と記録にあります。世俗の王が、神によって変られていくのです。
 私たちは、政治や宗教などの指導者たちが神の導きを受ける祝福をいつも祈ることをしたい。パウロも、王たちのために願えと命じてもいる(第一テモテへの手紙2;1)。神と世俗は相容れないと思いがちですが、今日はそうした祈りの課題が新しく開かれていることを覚えて祈ることを始めよう。

主題 <過ぎ越しの食事を食べる> 

聖書箇所 エズラ記   6章    (2013年4月 6日)

今日のみことば「捕囚から戻って来たイスラエル人と、イスラエルの神、主を求めて、この国の異邦人の汚れから縁を絶って彼らに加わったすべての者たちとは、これを食べた。」(21)

長い間、敵の妨害によって工事が滞りましたが、やがて時が来るときに新しい芽が成長し、神の働きが驚くほどに神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。(22節)神殿の再建のための妨害が、かえって、タテナイたちの反対はかえって逆転し、神殿を建てるために糧食を与えて工事を行うようにせよ、ということになるのです。こうして、ユダヤ人たちの長老たちは神殿の造営を完成させ、成功したのでした。(14節)
 長い間の抵抗、反逆、妨害によって中止されていた働きが完成したときには、どんなに喜びが大きかったでしょうか。無力で貧しい中からの感謝の犠牲は、ソロモンの時の神殿に比べるなら、とても見劣りはしたかも知れない。しかし、神の助けと愛と導きを信じてきた人々に計り知れない慰めをもたらしました。それだけに力の限りの賛美と喜びが民の中から湧き上がったことだろうと思う。この喜びが、7日も続けられた背景に、目に見えない神様が働いていたと、エズラは見ているのです。全天全地を支配されるお方が、彼らを喜ばせ、力づけたとあります。小さな者に目を留め、落胆した魂を力づけ、喜ばせることが主の喜びなのです。神が人の間に住み、人と関わり、人を喜ばせるのです。「主が彼らを喜ばせ、………王の心を彼らに向かわせ、彼らを力づけるようにされた。」(22)とあるのは、天の神の配慮です。神を愛する人々のために万事を益とされるのです。神を愛する、この一事に励むなら、あとは主が事を行って下さるのです。思い煩うことを主にゆだねて、主の働きを待ち望む信仰者となろうではないか。

主題 <神殿の再開が始まる>

聖書箇所 エズラ記  5章     (2013年4月 5日)

今日のみことば「そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。」(2)  
 しばらく、工事中止の挫折の中にあって、預言者が主の霊の導きによって、指導者を励ましたのです。
1節にあるようにこの時に建てられた神の人は、ハガイとゼカリヤです。ハガイはハガイ書の著者、ゼカリヤもゼカリヤ書の著者です。ハガイ書には、神の民が自分たちの家に安住して、神の家が荒れ果てている。だから、稼いでも稼いでも穴の開いた袋に入れるだけだ(1;4~6)と激しいメッセージが語られた。ゼカリヤ書にも、「わたしに帰れ。そうすればわたしもあなたがたに帰る。」(1;3)と激しく霊の悔い改めを迫るのです。
私たちの仕事や計画も人間的なことだと中止に終わりますが、ことは神によって始められた神殿再建計画は、神の働きですから、神がこれを成し遂げるのです。このように神を信じる神の人になりたい。
新規まき直し、ということわざがありますが、困難に直面して進む道が途絶えたかに見えましたが、神のみ霊に導かれた器は、神の幻に生き、人々を動かしていく。
こうしてゼルバベルとヨシュアは立ち上がります。20年程の停滞も、また再建を妨害する人も、どれほどに強くとも問題ではない。信仰によって立つ決意をします。こうして宮を建て始めたのです。この決断に強い励ましがありました。神の人の声です。人間的な計算を越えて、神の目をもって、現代を進むのです。どんな敵の妨害があっても、押し殺せない強い霊的な力があります。聖書こそ、この悪魔の働きを打ち破り、敵の城塞を破壊する。<祈り>主よ。困難の中からこそ、立ち上がる勇気が生まれます。

主題 <迫害者に屈することなく>

聖書箇所 エズラ記  4章     (2013年4月 4日)

今日のみことば「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(4)

神の神殿の再建が始まります。この神殿の礎が据えられ時に、民たちは大きな喜びに満たされたのでした。しかし、工事の計画が推進されるよりも、妨害者たちが現れてきたのです。
彼らは、最初、友好的な姿勢で神殿再建の協力者となりたいと申し出ますが、彼らは同じイスラエルの神を礼拝していると口では言いつつも、実際はアッシリヤとの戦いの折に他国から連れてこられた者たちで、自分たちの信じる神を持っており宗教混合のような者たちでした。かつてのバアルやアユタロテなどの偶像に引き回されたユダヤ人は、決して過去には戻ろうとしません。人間的な援助が、大きな取り返しのつかない失敗になることを知っていたのです。
ゼルバベルとヨシュアは「あなたがたと私たちとは何の関係もない」(3)と断った。このことが契機となり、神の民たちはおどされ、議官たちは買収されるなど狡猾な妨害工作に発展します。工事はダリヨス王の治世の第二年まで、およそ16年間中止させられる(24)。
 神殿再建というすばらしい事業に携わっているのになぜ妨害があるのだろうか。もし、ゼルバベルたちが全面的に拒否するのではなく、上手に合わせていれば強力な妨害に発展しなかったのではないかと考えるのは間違いであることを確認したい。ゼルバベルもヨシュアも神殿再建は神の民として行なう事業であり使命であることを覚え正しい選択をしたのであり、そのために妨害行為が起こるが、妨害行為が問題ではない。大切なことはどのような困難、問題が生じても、神の御心を求め完遂しようという姿勢である。今も、サタンは人が神の祝福にあずかれないように働いている。私たちは、目を覚まして主の働きに敏感でなくてはならないのです(Ⅰペテロ5:8)。

主題 <悲しみと喜びが入り交じる>

聖書箇所 エズラ記   3章    (2013年4月 3日)

今日のみことば「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(12)
 バビロンから帰還した人々が、7月(現在の10月)にいっせいに一人のようにエルサレム集まったのです。帰還したばかりの彼らには、しなくてはならないたくさんのことがあったろう。エルサレムまで行かなくてもいいではないか、と考えないのです。一人のクリスチャンがいいました。「救われて以来、礼拝を休んだことはない。」と。
そこに、以前の信仰生活のゆるみから来た不信仰がもたらしたバビロン捕囚だったのです。そして「めいめいが喜んでささげるささげ物を主にささげた」(5)すばらしさがあるのです。こうして神殿の再建が進んで行きますが、受けとめる人々には、かつての秀麗な神殿のかがやきを知っていた老人が泣いたのです。感無量だったのです。
一方、ほかの人々は喜びにあふれて声を張り上げたのです。自分の立つべき地は神の家のあるエルサレムであり、神殿が建設されると言うことは、神第一とすることをはっきりと表明したのです。
こうした霊的な信仰者が神を賛美し、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(11)と歌い合ったのです。
毎週の主の日の礼拝で、神の真実に心を打たれて、互いに語り合うこの世にない交わりこそ最も大切にすべきことです。この世のことに心を奪われていたイスラエルの歴史の失敗から学び取ることができるなら、すばらしことです。ちょうど東日本震災から二年、人のことよりも自分のことに心を傾けていた日本人が<絆(きずな)>こそ何にもまさる生き方であると発見したら、多くの犠牲は無駄ではない。

主題 <主に礼拝と感謝をささげるために> 

聖書箇所 エズラ記  2章     (2013年4月 2日)

今日のみことば「一族のかしらのある者たちは、エルサレムにある主の宮に着いたとき、それをもとの所に建てるために、神の宮のために自分から進んでささげ物をした。」(68)

 エズラ記2章はエルサレムに帰還した人々の記録である。その記録は、帰還したかしらたち(2)、諸氏族別人数(3-20)、帰還地別人数(21-35)、祭司等の礼拝奉仕者たち、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたち、ソロモンのしもべたち(36-58)が記録されている。帰還者の合計は42,360名と記されています(64)。
 この章で特に帰還した者たちの中で神殿再建のために進んでささげものをした者たちがいたことです(68-69)。
ささげた者たちは「ある者たち」とあるように、民のすべてがささげたというのではなくて有志の者たちであり、それらのささげものは今日にすれば相当多額なささげものです。これらを彼らは「自分から進んで」ささげたことが記録されています。つまり、彼らはエルサレムに帰還した目的は神殿を再建し、再建するのは何よりも神に礼拝をささげるためであったということです。帰還した者たちの中に主のために多くのささげものをすでに準備し、神がとこしえにあがめられる神殿再建のために十分に備えていた者たちがいたのです。私たちは主に感謝と礼拝をささげるために何を備えることができるか祈りましょう。というのは、1;5節にあるように、強いられて献げるのではなく、進んでささげようとする人々であったからです。神の国は、こうした自発的な献身の行為によって前進していったのです。
使徒パウロも第二コリント人への手紙8章で、献金についての動機と実際を教えている。その進んで献げる人を神は愛して下さることがわかります、天上でもまた自発性が記録されているのです。

主題 <奮い立つ聖徒たちによって>

聖書箇所 エズラ記  1章     (2013年4月 1日)

今日のみことば「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(5)

 歴代誌はイスラエルの民が自らの不信仰、神への不従順の故にバビロンへ捕え移されて終わっている。しかし、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」(エレミヤ29:10)と預言されていたように、再びエルサレムへ帰還することができる約束、希望が与えられていた。
 エズラ記1章は、まさにずばり預言通り、一人のペルシャの王クロスを奮い立たせて実現されるのです(1)。奮い立つ感動は、クロス王が命令を出してイスラエルの民が帰還しただけではなく、イスラエルの民のかしらたち、祭司たち、レビ人たちも神にその霊を奮い立たされて、エルサレムに帰還し、神の宮の再建という大事業に着手しようと旅立つ決意をしています(5)。
時代も人も変わる中に神の介入があり、イスラエルの民がエルサレムに帰還し、神殿再建の大事業に携わるように民を導かれるのは神の豊かな介入があったのです。摂理の神は、停止したかに見える世界をずっと導き続けておられた。
 いつ、どのような時代でも神が働きかけてくださり、人々を力づけ、導いてくださり、自らの力では不可能と思われるような大きな働きのために用いてくださることがしばしばです。
今日を生きるキリスト者一人一人にも同様である。神は私たちを奮い立たせ、力づけてくださり生きるように導いてくださる。私は、この神のことばで前橋教会へ遣わされる勇気を得たのです。

主題 <主の憐れみは尽きず>

聖書箇所 歴代誌第二   36章  (2013年3月31日)

今日のみことばところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」 (16)  

本章ではエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、そして最後の王ゼデキヤについて、簡潔に記録されている。そこには統治期間と、多くは「主の目の前に悪を行なった」ことが中心に記されている(5、9)。ゼデキヤは預言者エレミヤに対してへりくだらなかった(12)。もちろん、これは一預言者に反抗したことでなく、神のことばに聴き従わなかったということである。
 このように、王および民の信仰状態が悪くなる中、当然のごとく、神の民の国が消滅してしまう(17-20)。しかし、民の心が最悪の状態であっても、神はまだ民をあわれんでおられた。神は変わらず預言者を送った。エレミヤが送られ(12)、エゼキエルもダニエルも、バビロン捕囚の時期に送られ、活躍した預言者たちであった。神は預言者を遣わして、民が立ち返ることを待っておられた。民の背きに背きを重ねる愚かさを超えて、主は預言者を用いて語り続けた。
 22節以降は、エズラ記冒頭と重複する(エズラ1:1~3)。ペルシヤ王クロスの勅令により、神の民はエルサレムに戻ることが許された。歴代誌は、このような時期に、神殿再建、信仰生活の再建を願う民の間で読まれた。国が敗れて後、信仰の希望など抱くことができないような状況だとしても当然であった。しかし、神は民をあわれみ、預言者を用いて語り、さばきと同時に次への準備期間も与えられて、信仰によって歩み続けるようにと導かれた。
 主の憐れみは尽きず、絶えず主は語り続けて下さいました。私たちも今主のみことばに聞く者とならせて頂きたいと思います。

主題 <主にささげた人生>

聖書箇所 歴代誌第二   35章  (2013年3月30日)

今日のみことば「すべては、そこにいたすべての人の過越のいけにえのためであった。その数は三万、牛は三千。これらは王の財産の中から出された。」(7)
 ヨシヤ王はまず神殿の偶像を取り除き、神を拝する場をきよめた(三四章)。ヨシヤは「聖なる箱」(契約の箱)を据えるように命じる(3)。契約の箱は、すでに神殿の中心に設置されていた(Ⅱ歴代5章)。ここでは改めて、主の臨在が約束されている契約の箱が意識され、神の臨在のもとに過越の祭りを行ない、神の民は、神と共に生きる特権が与えられていることを思い起こしている。
 彼らにはいけにえが用意された(7)。多くは、王やつかさたちが用意したものだった。用意したいけにえは、かなりの数であった。確かに「預言者サムエルの時代からこのかた、イスラエルでこのような過越の祭りのいけにえがささげられたことはなかった」と言われている(18)。これは、必ずしもいけにえの数量を指しているのではないだろう。それでは何か理由で、イスラエル王国の歴史において賞賛されるべき祭りと言われているのか。それは18節後半で言われているように、神の民全体で、主の恵みを共に祝ったという点にあるのだろう。
 すぐれた働きをしたヨシヤ王であったが、その最後は、エジプトの王ネコとの戦いに敗れ、殺されてしまった(24)。ヨシヤ王は預言者フルダによって安らかな死が預言されていた(34:28)。しかし、戦いで戦死してしまったといところに、戦うべきところではない所で、高ぶって自らの力を誇示しようとしたことによる戦いの結果の戦死だったのではないかと考えられる。
 どこまでいっても主の前に謙遜に、一人の礼拝者として歩みを全うすることができるように祈り続けていくことが大切であることを教えられるのです。

主題 <主の律法の書の発見>

聖書箇所 歴代誌第二   34章  (2013年3月29日)

今日のみことば「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。」(21)  

ヨシヤ王は悪王マナセの子であったが、南王国の末期にあって、特筆すべき良き王であった(2)。ヨシヤは8才で王となり(1)、16才で主を求め始め、20才でユダとエルサレムをきよめ始めた(3)。詳しくは記されていないが、彼の十代において信仰の成長があったことがわかる。
 その青年王は20才で、ユダとエルサレムにあった様々な偶像を取り除き始めた(3-7)。若さもあって、多少、その方法は乱暴に感じる。また列王記の並行箇所を見ると(Ⅱ列王23:4以下)、そこでは祭司たちの骨を焼いたことが、その偶像の祭壇を汚すためだとある(同23:16)。しかし歴代誌では同じ行為について、それがきよめの行為であるとしている(5)。共通して言えることは、ヨシヤ王は、偶像の礼拝所を真なる神に対して汚れた場として厳格に認めたのであり、その背きの場を破壊したことで、それはきよめの行為なのであった。若いヨシヤ王は、神への背きが、神の聖さをそこなう汚れであるということを、しっかりと見ていた。
 ヨシヤ王に助言する者がなかったが、偶然にも主の宮において律法の書を発見し、この主のみことばがヨシヤ王の改革を進めていく力にったことは間違いない。ヨシヤ王はしっかりと主のみことばに聞き、みこころを求めていくように勧めました。
 私たちも、今日、みことばに聞き、主のみこころを求めて歩み出していけますように。