2013年7月 3日 (水)

主題 <悔い改めたマナセ> 

聖書箇所 歴代誌第二  33章   (2013年3月28日)

今日のみことば「神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(13)

 南王国ユダの信仰を立て直したヒゼキヤ王の息子が、マナセである(1)。しかし彼は、父ヒゼキヤと全く異なり、主の目の前に悪を行なう王となってしまった(2)。マナセの悪行の中心は、神殿を偶像礼拝の場へと変えたことだった(3-7)。また彼は、子どもたちに火にくぐらせるとともに、霊媒や口寄せをした(6)。マナセがこれらを神殿で行なっていたということは、彼が、主を礼拝することと偶像崇拝とが同じようなものだと捉えていたことによる。
 マナセは神からの語りかけに注意を払わなかった。その結果、主のさばきとして、彼は捕らえられ、バビロンヘ移されてしまう(11)。そのさばきの中で、マナセは主に祈り、へりくだる(12、13)。別の言い方をすれば、悔い改めたのである。彼の悔改めは、列王記には書かれていない。確かに、高き所が残っていたことや(17)、神に背くあり方が息子アモン王にも影響していたことから(22)、マナセの生涯全体は、良い評価が与えられるべきものではない。しかし、彼が悔い改めたということを、後の時代の人々が知り、思いめぐらすとき、そこには民の間で共に思い起こさなければならない、一人の信仰者の姿がある。マナセ王の悔改めは、決して小さいものではない。さばきの悩みの中で、彼は主の御前に、自らの罪を省み、主こそが真の神であることを深く理解した(13)。
 悔い改め、主を知ることこそ信仰の一歩であることを覚えたいと思います。

主題 <高ぶりを捨てて>

聖書箇所 歴代誌第二  32章   (2013年3月27日)

今日のみことば「しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」(26)

主が御使いを送り、アッシリヤとの戦いにおいて、まさに主が戦ってくださり、ヒゼキヤ王は勝利を得た(21)。その後、彼は病を負うという試練を経験する(24)。しかし、彼は日時計の影が十度戻るという不思議なしるしを伴って主によって癒された(Ⅱ列王20章参照)。しかし、主の恵みによって癒されたにもかかわらず、ヒゼキヤは心を高ぶらせた(25)。彼の罪の深さが記されていると共に、ヒゼキヤは悔い改めて主にへりくだる姿勢も持っていた(26)。
 二度の試練の後、バビロンからのつかさたちが来訪することが試練として記されている(31)。31節冒頭に、原文では「このようにして」という接続詞があり、この来訪に伴う事件が水道建設成功(30)の後ということに関係があることを示している。並行箇所は、列王記第二、20章12~19節であり、預言者イザヤが、近い将来にバビロンが王の財宝を持ち去ってしまうことを預言している。これは王としての事業の成功の後に、ヒゼキヤに起こった試練であり、主からの祝福を自らの力と錯覚してしまうものであった。
 バビロンからのつかさたちの来訪の後の事については記されていないが、神は試みられていたことは言われている(31)のを見ると、絶えず主の目は注がれ、人の高ぶりを注視されていたのではないかと思う。
 私たちも内なる信仰に主の目が注がれていることを覚え、高ぶりから離れることができるように、高ぶったときには速やかに悔い改める者となれるように祈らなくてはならないことをヒゼキヤ王から教えられます。

主題 <主の目の前にある歩み> 

聖書箇所 歴代誌第二  31章   (2013年3月26日)

今日のみことば「ヒゼキヤはユダ全国にこのように行ない、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行なった。」(20)

 ヒゼキヤ王は、過越の祭りの後、祝いの祭りを一週間延長した民は、いよいよ彼らの生活の場へと戻り(1)、神殿の聖別と同様、彼らの町々にあった偶像の祭壇を取り除いた。南ユダはもちろん、北イスラエルの一部(「エフライムとマナセ」)にまで、その動きは広がった。
 それからヒゼキヤは、祭司とレビ人たちを組み分けした。それには、ダビデ・ソロモン時代に確立したいけにえをささげる礼拝形式を神の民それぞれが生活する町々で再建するという目的があった。王は神のみおしえに従って(3、4)、神の民全体が整えられるように、王としての務めに励んだ。
 町々に住むようになった神の民は、いけにえとは別に多くのささげ物(「収穫の初物、すべてのものの十分の一」)を至るところに積み重ねた(5、6)。それらのささげ物を、非常にたくさん、長い期間にわたって人々は持ち込んだ。第三の月と第七の月は(7)、それぞれが収穫の時期に当たる。年二回の収穫期にわたって半年以上、彼らはささげ物を集めた。
 これらは、人々の自発的な意志によってささげられた物であった。神の民として、信仰が再興し礼拝をささげる喜びによってあふれ出る感謝の応答を、見ることができる。その豊かなささげ物を、ヒゼキヤは注意深く保管し、神の民全体に分配するように命じた(11-19)。王の指図で管理・分配の仕事に当たった者たちは、忠実に任務を果たした。年齢や地域の偏りなく、神の民全体に対して分配した。ヒゼキヤの改革によって神の民全体が、本来の神の民にある真実な信仰生活を回復していく姿が見られる(20)。
 私たちも主の前に正しく歩めるように祈りましょう。

主題 <天に届く声>

聖書箇所 歴代誌第二  30章   (2013年3月25日)

今日のみことば「それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。」(27)

 30章では、ヒゼキヤ王は過越のいけにえをささげるよう呼びかけた。大群衆の中で、祭司とレビ人たちは、いけにえをささげる段階になって、自らがその役割にふさわしく聖別されていないことを恥じた(15)。それは、偶像を除きつつも、彼らがしばらく偶像礼拝に陥っていたためであろう(14)。祭司、レビ人は、聖別していない他の人々をとりなす役割を負い(17)、ヒゼキヤもその役割を負った(18、19)。エジプトからイスラエルを救い出した主は、神の民それぞれを救い出した。各個人が、主の救いの恵みに立ち返る必要があった。そして神の民全体が、神殿において過越の祝いを喜んだ(21)。彼らは定めに従って七日問、祝ったが、それだけでは満足せず、さらに七日間にわたって祭りを延長した(23)。
 この過越の祭りは神の民を整え、延長して行われたこおは、単なる儀式以上に、この祭りを通して民たちに大きな喜びを満たしていく結果となった。その喜びは、かつて神殿を建設し奉献した、ソロモン以来であった(26)。この喜びのうちにある神の民の声は、天に届いた(27)。
 主は今日も礼拝されるべきお方である。そして、私たちは毎週の礼拝ごとに主の臨在を覚えて、喜びの声をもって礼拝しているだろうか。
その声は天に届いている。つながっているということを覚えて、礼拝をささげていくものとならせて頂きたい。

主題 <礼拝する喜び>

聖書箇所 歴代誌第二   29章  (2013年3月24日)

今日のみことば「そのようなことのあとで、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身をささげました。近寄って来て、感謝のいけにえを主の宮に携えて来なさい。」」 (31)  

ヒゼキヤ王はソロモン王以来の高い評価されれている王として記されている。彼の業績は主の宮を整えることから始められた(3)。
神殿の聖別完了が報告されるとすぐに、ヒゼキヤ王は罪のためのいけにえをささげた。それは、王国と聖所とユダの、罪の贖いのためだった(21)。アハズに至るまでは、ヒゼキヤの父祖たちは、主に対する不信を重ねていた。アハズ王は、「不信」が彼の信仰の内実を表わしていたが、ヒゼキヤ王は前王までの不信の罪から神殿や民を「聖別」することで、彼の信仰の表明をした。
 ヒゼキヤは全イスラエルの罪のためのいけにえをささげ(24)、楽器を用いた賛美も伴わせて礼拝をささげた(25~30)。奏楽を伴う礼拝は、楽器のことも含めて、ダビデ時代が一つの模範だった(25)。彼らの礼拝の形式は、ヒゼキヤとその周辺の人々の独創性によるものでなく、主が教えてこられ、民の間で大切にされてきた形式であった。
 神の民全体の礼拝には、喜びがあった。献身した民がささげた、数多くの家畜などのささげ物は、民の神に対する感謝の応答を表わしている。多くのいけにえがささげられる礼拝においては、仕え人の奉仕も膨大なものだった(34)。人々が、多くの物や労力をささげたことにより、この礼拝が成立していると見えるが、民自身は、礼拝が成立するのは主による整えがあったからであり、主の恵みによると見ていた(36)。そして、礼拝によって恵みにあずかったことを喜んでいる(30)。
 私たちも喜びを持って主に礼拝をささげていきましょう。

主題 <不信の罪>

聖書箇所 歴代誌第二   28章  (2013年3月23日)

今日のみことば「アッシリヤの王が彼を悩ましたとき、このアハズ王は、ますます主に対して不信の罪を犯した。」(22)

 アハズ王は主の目にかなうことを行なわず、北王国イスラエルの王たちの道に歩んだ。また彼は、国が外敵によって不安定になった際、大国アッシリヤに助けを求めた(16)。彼はアッシリヤヘの貢ぎ物を自らの財産から準備するよりも、神殿の宝物を取り出した(21)。また、アハズ王については、「不信の罪」という評価が繰り返されている(19、22)。アハズは、強い国の偶像の方が、真の神より優れていると考えた(23)。彼は自分が望む成功、勝利をもたらすものこそ信頼できると考え、大国を頼り、自分たちに大きな打撃を与えたダマスコの神々を頼った。
しかし、本章には民が神の御前で自らを省みていたこと、特に北イスラエルの民の信仰の姿がある。南王国の民は、北王国ぺ力の軍隊により、多くが殺され捕虜となった(6-8)。彼らは、本来ならば北王国の奴隷になり、財産になるはずだった。ところが、預言者オデデと、エフライム族のかしらたちが、南ユダの人々を奴隷にしてはならないと勧告し、南ユダの捕虜を非常に丁重に扱った(9-15)。同じ民族ではあったが当時は南北に分裂した国々のゆえ、この扱いは通常では、ありえない。奴隷や財産が増えれば、国として喜ばしいが、北王国の民は自らの益よりも、神の御前での自らのあり方を求めた。王たちは、南も北も、主の道に歩んでいなかったが、民の中には神への畏れを失っていない者が多くいたことが分かる。
いつの時代にも、主に従おうとする者を主は用いて下さる。主に不信の罪を重ねることがないように歩まなければならない。

主題 <信仰の滅びを招いたヨタム>

聖書箇所 歴代誌第二   27章  (2013年3月22日)

今日のみことば「ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。民はなお滅びに向かっていた。」(2)  
 ヨタムは、比較的短い統治であったが、歴代誌には列王記にはない、彼の事業についての、二つの点の記録がある。
一つは、防備について、あるいは町々の建設である(3、4)。二つめは、アモン人との戦いと勝利である(5)。王たちの戦いは、基本的には主の力による。「打ち勝った」は(5)、「勢力を増し加えた」という語と同じである(6)。ヨタムの父祖たちが、王に即位している際に、神の力が与えられて王の務めを為したのと同様に、彼も主によって勝利し、また貢ぎ物を得て力を増した。列王記には、王の建設事業や経済活動について、ダビデとソロモンを除いては、ほとんど記録がない。しかし歴代誌を見ると、模範的な王であった彼ら以外にも、主から力が与えられ、王として事業を拡大し、物質的繁栄を国にもたらせた者たちがいたことがわかる。ヨタムの事業はアマツヤやウジヤと重なる部分がある。それぞれ完璧な父祖ではなかったが、ヨタムは彼らの信仰の良い面を受けた。ヨタムには残念な点もあった。それは「ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。民はなお滅びに向かっていた」という点である(2)。神殿に入らなかったのは、王が偶像を拝する場をむしろ好ましいとしたからだった(Ⅱ列王15:35)。彼の時代、国は繁栄したが、民は滅びに向かった。その滅びとは信仰の滅びのことである。ウジヤの時代には、彼を支える側近がいた。一方、ヨタムを信仰の面で支え、時に苦言を与える者は、周囲にいなかった。偶像崇拝に伴う人間的な好ましさを求めたことは、神の民の信仰を弱らせ、それは信仰以外の面にも強い影響を与えたのだろう。

主題 <主に打たれたウジヤ>

聖書箇所 歴代誌第二  26章   (2013年3月21日)

今日のみことば「ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、その祭司たちの前、主の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にツァラアトが現われた。」(19)

アマツヤに代わって、その息子ウジヤが王となった。彼は南王国の、南部に接する周辺地域まで領土をのばし、彼の名はエジプトに届くほど強くなった(8)。それは、神が彼を通して、南ユダを栄えさせた結果である(5)。ウジヤの事業の特徴は、農業政策だった(10)。現代のように技術的進歩が大きくない農業が栄えるためには、気候に恵まれる以外に、戦争による土地の荒廃から守られることも重要であった。王はエルサレム周辺の守りを強固にし(9)、敵の侵入をはばみ、農地を整えた。彼は農業を好んだ(10)。それは平和を大切にしていた彼の心を示している。
 そのように良い働きを始めたウジヤが、残念ながら変化する。それは軍備を整えることから生じた。彼には多くの兵が備えられ(13)、武器も他国のものとは違う工夫がなされていた。そのような兵力、武器の助けをもって、ウジヤ王は強くなった(15)。彼の強さは神の助けによるものだったが、ここではむしろ彼の兵力や武器の力によって、強められている印象である。信仰者としてのウジヤは、外面の力が増すのに反比例し、信仰の衰退があった。16節以降に、ウジヤが越権行為として神殿にて香をたこうとした事件がある。彼の心は高ぶり、主に対し不信の罪を犯した。ウジヤの不信の罪は、主の助けによって与えられた力を自らのもののように錯覚したことであった。初期と変わってしまったウジヤは、主のさばきとしてツァラアトが額に現れ、宮から絶たれてしまう(21)。主の前にへりくだることのできない者は絶たれることが示された出来事だった。

主題 <主の助言に徹底して従う>

聖書箇所 歴代誌第二  25章   (2013年3月20日)

今日のみことば「そこで、主はアマツヤに向かって怒りを燃やし、彼のもとに預言者を遣わして、彼に仰せられた。「なぜ、あなたは、あなたの手からその民を救い出すこともできないような神々を求めたのか。」」(15)
 アマツヤ王は即位の初期には、まだ節度ある王としての態度が見られた。彼は父ヨアシュを殺した家来たちを滅ぼした(3)。復讐の情があるゆえに、場合によっては一族のすべてを、皆殺ししかねないが、アマツヤは主のみことばに従って、罰が際限なく広がるようにはしなかった(4)。
 しかし、彼は軍隊を組織するに際して、北イスラエル王国の傭兵を、銀百クラントを支払って、雇い入れようとした(6)。しかし、神が遣わす預言者を通して(7)、「神がともにおられない人々に協力を求めること」に対して明確に警告され、彼は本当に助けることのできるお方に信頼するように促された。
 預言者のことばにより、アマツヤは北イスラエルの傭兵を帰し、南ユダの軍隊の兵のみでセイル(エドム人)と戦い、勝利を得た(11~12)。30万の兵を用いて、2万の敵を打打ったということから言えば、勝利したとは当然かもしれない。しかし、その戦いの後、ユダ軍から離れたイスラエル傭兵たちが、解雇の腹いせにユダの町々を打つということが起こった(13)。アマツヤの不徹底が、招いた反乱と言えることであった。さらに、アマツヤはエドム人の拝していた神々を、分捕り物として持ち帰ったが、これを礼拝の対象としてしまう(14)。戦いの勝利の中、アマツヤは高慢になっていった(19)。偶像崇拝に対しての預言者の警告のことばを、聞くこともできなかった(16)。主からの預言者の助言を聞いたかに見えたが、高慢になっていったアマツヤ王は退けられていくこととなる。 
私たちも信仰に徹する歩みが問われていることを教えられる。

主題 <良き助言者を得る幸い> 

聖書箇所 歴代誌第二  24章   (2013年3月19日)

今日のみことば「ヨアシュは、祭司エホヤダの生きている間は、主の目にかなうことを行なった。」(2)

ヨアシュ王は、主の目にかなうことを行なう王だった。ただし、「祭司エホヤダが生きている間」という限定があった(2、14)。バアルを拝する女王アタルヤを退け、真なる神を礼拝できるように整えたエホヤダの信仰者の姿は、王に対して大きな影響力があった。神の目にかなうヨアシュの具体的な事業は、神殿の再建であった(4、27)。しかし、再建は容易ではなかった。ヨアシュ王は神殿を修理するための費用を集めるように命じるが、レビ人たちはすぐにそれに取りかからなかった。列王記によると、神殿修理の費用は、他の必要と一緒の会計の中で捉えられ、神殿の修理は後回しにされることが多かったようである(Ⅱ列王記12:4~6参照)。王の命令を受けて、祭司エホヤダは修理の目的のためだけに用いられる献金箱を用意した。その働きのために神の民は喜んでささげた(8-10)。そして建物や礼拝の用具が整い、再び礼拝がささげられるようになった(14)。
 民の信仰の回復のために、重要な事業を行なったヨアシュだが、祭司エホヤダの死後は変化した(17)。ユダのつかさたちによって、彼は偶像アシェラに仕えた。彼の偶像礼拝は「主の宮を捨て」(18)、王に苦言を呈する祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺害するまでになってしまう(20、21)。南王国は最終的には隣国アラムの攻撃を受け(23)、ヨアシュ王は家来の謀反により死んでしまう(25)。王は、祭司エホヤダの存命中のみ、善王であった。
 良き助言者を得ていることは幸いである。あなたにとって信仰の友、家族による助言を感謝することができるように。