2013年7月 3日 (水)

主題 <信仰によって引き継がれるもの>

聖書箇所 歴代誌第二   13章  (2013年3月 8日)

今日のみことば「しかし、私たちの場合は、主が私たちの神である。私たちはこの方を捨てなかった。また、アロンの子らである祭司たちが主に仕えており、レビ人が仕事をしている。」(10)  
 列王記においては、アビヤは良い王ではなかったと言われている(I列王15:1-3のアビヤム)。しかし歴代誌には、一時期かもしれないが、彼が信仰者としての姿が記されている。彼の母についても、列王記とは異なる記述がある(2)。ミカヤ(「主のようなものはだれか」の意)や、ウリエル(「神は私の光」の意)という名を持つ親族がいたことは、彼が、敬虔な信仰を持っている家系の中にいたことを示唆している。南のアビヤと、北のヤロブアムとに争いがあり、南王国にとっては不利な戦いであった(3)。戦いを始める前に、アビヤは北王国の者に向かって、兵力が少ないことなど気にかけずに戦い、勝利を確信するという大胆な宣言をしている(12等)。アビヤは、北王国側の、ダビデ王朝に与えられたとこしえの契約の軽視や(5)、その結果としての偶像礼拝や(8)、祭司たちの追放を非難した(9)。また、南ユダは神を第一とすることで一貫していると主張した(10)。主はこのような民と共におられるのだからと、南ユダの勝利を確信し、北イスラエルに戦いをやめるよう勧めた(12)。
 実際、南ユダは勝利した。アビヤは、信仰のゆえに勝利し、豊かにされたように見える(21)。歴代誌と列王記の双方を合わせ見れば、アビヤの豊かさの要因は、信仰という一点に尽きる。総じて言えば、彼は良くない王であったかもしれない。しかし、彼もまた神の契約の恵みを受け継いで伝える、南王国の担い手の一人だった。王自身の人格によるというよりも、神が与えられた信仰のゆえに、南王国の歴史は引き継がれていった。

主題 <へりくだる態度をもって>

聖書箇所 歴代誌第二  12章   (2013年3月 7日)

今日のみことば「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」(12)

レハブアム王は、ダビデ家の三代目の王だった。祖父や父は、主の御力によって強められたが、レハブアムだけが主から離れてしまう(1)。イスラエルにおける指導者や王は、本来、主との信頼関係を明確に持つ者であり、主のみことばにも親しくしている者だった。彼の生涯全体を見渡すならば、彼は良い王とは言えなかった(14)。
しかし、彼についての良いことも書かれている。それは、エジプト王シシャクの侵入が神によるさばきであるという預言者シェマヤのことばを受けて、彼が「主は正しい」とへりくだったことである(6)。彼がへりくだったときに、主の怒りが彼の身を離れた(12)。王のへりくだりの内容は何か、ということは明確でない。「このように」ということばから推測すると(12)、金の盾がシシャクに奪われたこと、代わりに青銅の盾を作って近衛兵に持たせ、宮に王が入る際に王の身を守らせたことに関係があると思われる(9~11)。彼は、宮の中でさえ護衛がいなければ不安を感じる状況に陥ったのだろう。王は神のさばきとしてのシシャクによる恐怖を覚え、自らの小ささをいやでも意識し、へりくだらされた。
 王についての唯一の積極的な評価は「ユダにも良いことがあったからである」である(12)。レハブアム王時代のユダは、総じて言えば主に対して悪を行ったが、それでも、主によしとされる、へりくだる態度があった。神の民が、神に評価される点は、外面的な豊かさや力の大きさではない。主を恐れ、主にへりくだって従う態度である。

主題 <主の道に歩む短さ>

聖書箇所 歴代誌第二  11章   (2013年3月 6日)

今日のみことば「彼らは三年の間、ユダの王権を強固にし、ソロモンの子レハブアムを励ました。三年の間、彼らがダビデとソロモンの道に歩んだからである。」(17)

ヤロブアムに率いられてまとまった、北王国に対し、南王国のレハブアム王は、兵を整え戦う準備をする(1)。しかし、預言者シェマヤによって、兄弟である北の人々と戦ってはならないという主のことばを聞き、行軍を中止する(3、4)。レハブアムは、ここでは主のことばに耳を傾けた。防備の町々を建てたのは(5)、ユダの西、東、南の防備を固めるためであり、北イスラエルにではなく、諸外国の侵入に備えるものだった。
 その後、祭司たち、レビ人たちが、北王国全土から出て来て、レハブアム王についた(13)。北王国では、偶像を拝するようになっていた(15)。北王国は、ソロモンに対する不満によって十部族が集まったという点が強かったが、不満だけで真の一致は作れなかった。さらに、「主を尋ね求める者たち」までもが北王国を離れ、南王国に集まってきた(16)。神殿の奉仕者と共に、主への信仰を明確にしている人々が、続々と集結した。南ユダは、ダビデ王家と同族によってできた国ということではなく、神への信仰を明確に持つ者が集う国家であった。南ユダにレハブアム王が即位して最初の三年間、王権が強固にされた(17)。このようなユダ王国の基礎固めは、王の指導力によるだけのものではなかった。それは、確かな信仰を持つ人々によるのであり、彼らがダビデやソロモンの歩みに倣ったからである。しかし、王権が強固になるにつれて主からはなれていってしまうことになった。

主題 <助言を聞く>

聖書箇所 歴代誌第二  10章   (2013年3月 5日)

今日のみことば「しかし、彼はこの長老たちの与えた助言を退け、彼とともに育ち、彼に仕えている若者たちに相談して、」(8)

 この章は、イスラエル王国の分裂の始まりを記している。ソロモンの部下ヤロブアムは、ソロモンに敵対し、彼の息子レハブアム王にも敵対しているが、それは彼が民全体の苦しさを代弁する結果であった(4)。ソロモン王が、民に過酷な労役を課したゆえに生じた不満を理解しなかったために、ヤロブアムが代弁したのだった。
 レハブアム王は、父ソロモン時代の課題を、引き受けざるを得ない面があったが、彼自身にも大きな失敗があった。それは、問題の対処のために、ソロモンに仕えた長老たちの助言を聞かず、自分と同世代の若者の助言を採用したことである(6-11)。同世代の助言が無益であるとは限らないが、レハブアム王は結局、自分自身に聞こえが良い意見しか受け入れなかった。彼は、神に立てられた王としての、みこころを尋ね求める態度がなかった。
 15節には、ヤロブアムに告げられた約束の実現のため(王国が分裂し、十部族がヤロブアムに与えられるというもの。I列王11:31)、神がそのようにされたとある。これは、神が分裂を引き起こしたということでなく、人間の悪しき思いによる動きを、そのままに許されたということである。ここからイスラエルは、一つの神の民であったのに、分裂王国となってしまう。
 栄華を極めた王国はいつしか国内に問題が山積するようになり、さまざまな助言を聞き受け入れることができず、分裂と向かっていってしまった。
 あなたに助言してくれる人はいるだろうか。主のみこころを求めて祈っているだろうか改めて私たちも心していきましょう。

主題 <ソロモンの知恵>

聖書箇所 歴代誌第二   9章   (2013年3月 4日)

今日のみことば「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。」(7)

シェバの女王にとってはイスラエルとの通商を開く目的もあったようだが、ここでは明確に「難問をもってソロモンをためそうとし」だとある(1)。
 女王の難問が実際にどのようなものだったのかはわからないが、この聖書のことばからわかることは、ソロモンがどんな質問、難問にも答えたということ、またそれに対してシェバの女王はソロモンの知恵に驚嘆したということである(3、4)。7~8節を読むと、シェバの女王は、それらが主である神からのものであると理解している。
 箴言1章7節では、知恵とは一般的な知識や知能のことを言っているのではなく、「神を恐れ、神を第一として生きる信仰の姿勢・態度」を示している。現代の信仰者も、天地万物を造られ、それを今もご自身の手のうちに治めておられる方を拝することや、救い主イエスの恵みを感謝する心を持つこと、約束の聖霊が絶えず自分を導いてくださっている確信を持つことによって、自らの信仰が外側に表われてくることがある。ソロモンのことばや行ないは、その信仰によるものであると、シェバの女王にはよくわかったのであろう。別の言い方をすれば、ソロモンは主なる神をあかしし、彼の神殿も王宮も、神の素晴らしさを示したのである。
 9章の後半では、ソロモン王の栄華を極めた記録が記されているが、一つだけ、ソロモンの王座(17~19)が違和感を感じるのではないだろうか。極みまで達した富みは晩年のソロモンの人生を狂わせていくことになりました。主の知恵を頂きつつ謙遜に歩む者でありたいと思います。

主題 <完成を目指して必要なこと>

聖書箇所 歴代誌第二   8章   (2013年3月 3日)

今日のみことば「このように、ソロモンの工事は、主の宮の礎を据える日まで、また、その完成まで、すべてが整えられていた。主の宮は完全であった。」 (16)  
神殿建設の後にソロモン王が行なったのは、領土の周辺整備と言えるような作業であった(1-6)。彼は王国の周辺を整えるために、軍事的拠点としての町々を建設し、また通商貿易のために、倉庫の町々も建設した。彼は信仰をもって王国を治めるために、周辺の状況を具体的に整えた。
 7節からしばらく、異邦人に対する王の対応が記録されている(7-11)。異邦人を滅ぼし尽くさなかったり、自分の妻としたことは(7、8、11)、ソロモンの、主に対する不忠実さを示すことでもある。列王記によれば、パロの娘等の他国の妻によって、ソロモンは堕落した(I列王11章)。しかし、少なくともこの時点では、パロの娘を聖なる契約の箱の周辺に近寄らせないという一線を守ったことが、注目される。その後にも、ソロモンの信仰の姿勢が記されている。彼は絶えずいけにえをささげたが、それはモーセの命令に従う結果であった(12、13)。また祭司やレビ人たちの礼拝への奉仕体制を整えた。それはダビデの定めに従ったものだった(14、15)。
 それらの後に、主の宮が整えられ、主の宮は完全であったといわれている(16)。ここで「完成した」のは、建造物としての主の宮が完成したということだけではない。ソロモン王の治世の体制だけでなく、祭司やレビ人の奉仕体制も整い、イスラエルの民を含めての礼拝の体制が整って、初めて「主の宮の完成」と言われているのであろう。今日、主の教会も、これまで主の導かれてきた歴史を覚え、主に従い続けていくことから受け継がれてきた信仰的遺産を大切に、さらに主の前に整えられた教会を建て上げていくことができるように祈りましょう。

主題 <祈りに応えられる神>

聖書箇所 歴代誌第二   7章   (2013年3月 2日)

今日のみことば「わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(14)

 ソロモンが祈りをささげ終えると、天より火が下り、いけにえを焼き尽くした(1)。聖なる神の臨在は、祭司たちさえも近づくことの許されないものだった。おびただしいいけにえは(5)、畏れと同時に、聖なるお方との交わりに生きる喜びによって、惜しげなくささげられた。何万頭もの牛や羊は、神の民全体が、神のためにささげたものの集計であろう。
 主は、ソロモンの祈りに対する応答として、彼に語りかけられた(12)。そこで、この神殿のことを「いけにえをささげる宮」と、いけにえをたずさえての礼拝がなされる場として意識した表現がされている。臨在を約束される神は、神の民を寄せつけないのではなく、むしろ罪の問題が解決され、共に交わりを持つためにそこにおられることを宣言する(14-16)。
 主の応答は、ソロモンの奉献の祈りに対するものである。特に14節で言われていることは、神の、王、そして民に対する応答の中心である。この主の応答は、まさに罪人の祈りを聞いてくださるという内容である。実際にはイスラエルは何度も背いてきた民だった。背いたから、それで神の民としての資格が失われた、ということではない。そのような過ちを犯したとしても、御前にへりくだり、祈り、神を求め、そして悪い道から立ち返るなら、その祈りを聞いて神は赦すと言われている。
 主が民の祈りを聞いてくださった後は、赦してくださることだけで終わらない。主は「彼らの地をいやす」と言われる(14後半)。すなわち、神に背いた民の生活する場である地をいやされた。主なる神は、その地で信仰者が生きるように求めておられ、また信仰によって神の民として歩むことができるように、顧みてくださるのである。

主題 <罪の赦しを求めて>

聖書箇所 歴代誌第二   6章   (2013年3月 1日)

今日のみことば「そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」(20)  

 6章はソロモンの神殿奉献礼拝における祈りが中心的に記されている。最初に、王がどのような行動をもって祈ったのかについて記されている。王は民を代表しているかのように、祭壇と民の間で、神と民との仲介者のように祈った。また、13節では、足台の上でひざまずいて祈る姿がある。ソロモンは王でありながらも、非常に謙遜な態度で祈った。6章全体にわたる、ソロモン王の、ひざまずく態度をもって祈る姿から、礼拝者の態度について教えられる。彼は、神が私たちの祈りを聞いてくださるように、まさにこの宮で聞いてくださり、そして天で聞いてくださるようにと祈っている(19-21)。ソロモンの祈りは、赦しを求める祈りである。後半を読んでわかることは(22以降)、既に犯したことではなく、これから人間として地上で犯してしまうかもしれない罪についても、赦しを願っている。
 神殿での祈りは、聖さを求める祈りである。聖さにあずかることに神の民の喜びがある。また、具体的に宮で祈ることが大切にされている。
現代の信仰者も、ソロモンの謙遜さ、主の御前における罪人であるという自覚、聖さを求めていくことは今も変わらないことである。私たちは主を恐れつつ、しかし、私たちの祈りにこたえてくださるお方であもあることを覚え、主の御前に進み出ていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <主を喜ぶ>

聖書箇所 歴代誌第二  5章    (2013年2月28日)

今日のみことば「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。」(13)

契約の箱を運ぶ役目は、その他の器具も一緒に運び入れることを含め、レビ入が負った(4、5)。
契約の箱の中には「二枚の板」があった(10)。それは、かつてモーセが神から授けられた、十戒が記された板である(出エジプト31:18)。神から直接的に与えられた板であり、そこには、神を愛し、人を愛することを求める内容が記されている。イスラエルの民は、主との交わりに積極的に応答した。全イスラエルは、羊や牛の群れを、数え切れないほど多くささげた(6)。彼らは自分たちと共にいてくださる神に対して、自発的に喜びをもってささげたのだった。
契約の箱を設置した際には、レビ人たちが賛美した。かなり多くの歌うたいたちが、「まるでひとりででもあるかのように」賛美した(13)。この箱の設置は指導者たちが導いてはいるが、彼らだけの働きではなく、イスラエル全体の働きだった。イスラエル全体が一致して箱を運び、賛美していた。彼らは、聖なるお方なのに、白分たちと交わりを豊かに持ってくださる神に対する感謝で満ち、一致して賛美した。その一致した賛美の後に、宮は主の栄光で満ちた。ここから、主の臨在とそれを喜ぶ民との関係の豊かさを知らされる。
主の臨在は、信仰者にとって大きな慰めであり、力である。礼拝においても、そこには主の臨在があり、また主と、主を喜ぶ信仰者との力強い関係があることを覚え、礼拝における主との交わりを意識し、主の教えに聞き、主に従う者とならせて頂きたいと思います。

主題 <罪人であるという自覚>

聖書箇所 歴代誌第二   4章   (2013年2月27日)

今日のみことば「さらに、金の燭台十個を、規格どおりに作って、本堂の中に置き、五個を右側に、五個を左側に置いた。」(7)

4章には、主に神殿の内装について記録されている。ソロモンによって主導的に神殿は建設されたが、それは彼の個人的意向がすべて反映したものではない。その建設場所は、父ダビデの指定した場所であり(3:1)、神殿の内部に置かれる品々も「規格どおりに」作られた(7、20)。「規格」は、「基準」という意味も持つことばである。ソロモンは、モーセを通して定められていた規格であり、イスラエルの民すべての生きる指針、基準である、「神の教え」に従った。彼は祖先が、主に従ってきたときの態度と全く同じ態度で、神殿建設に臨んだ。
神殿内に設置される品々について記されている(1-22)。それらは、フラム、及び王によって作られた。神殿の内部に置かれる物品は、単なる家具やインテリア用品ではなく、神の臨在の場に必要な物として備えられた。6節には、洗盤や円形の「鋳物の海」の使用目的が書いてある。洗盤はいけにえを洗うため、「海」は、祭司たち自身がそこに入り、身を洗い清めるためのものだった。つまり、いけにえも、いけにえをささげる祭司も、臨在される主の御前に、聖さを求めて、整えられる必要があったのである。
私たちも礼拝をささげるということは、おのずと自らの罪を自覚させられるのが必然である。だからこそ臨在の主に対し、自らをささげ、聖なる神のご性質にあずかれるように、私たちもまた聖さを求め続けていきたいと願います。