2013年7月 3日 (水)

主題 <時を待つ> 

聖書箇所 歴代誌第二  3章    (2013年2月26日)

今日のみことば「彼が建設に取りかかったのは、その治世の第四年、第二の月の二日であった。」(2)

ソロモンがいよいよ神殿建設に着手し、建設の場となるのが、「モリヤ山」だった。「モリヤ山」は、アブラハムが息子イサクをささげた場所であり(創世22章)、また、そこは「エブス人オルナンの打ち場」でもある(1)。そこはかつて父ダビデが、神の御前での人口調査による思い上がりの罪を悔い改めて、祭壇を築いた場所だった(I歴代21:26)。これら二つの出来事の共通点は、祭壇が築かれたことである。祭壇は、神殿における大切な場所である。祭壇において、神の民は献身を問われ、悔改めを迫られた。同時に神は、民に対する限りない愛を、その祭壇の場で示してこられた。
 ソロモンが神殿建設に取りかかったのは、彼が王になってから4年後である(2)。神殿建設着手から完成に至るまでの期間が7年であり(I列王6:38)、着手にいたるまでに4年間を費やしているということは、決して短い時間ではない。なぜ、ソロモンは建設前に4年間も時間をかけたのか。恐らく彼は、神殿建設という重大な主のみわざのために、充分に待って備える姿勢をもっていたのだろう。信仰者が、主に試みられて養われる徳の一つに、待ち望む態度がある。自らの判断に頼るのではなく、主のみこころを求めるとき、信仰者は「待つ」姿勢について訓練させられる。ソロモンのここまでの生涯について、多くは記されていないが、主が召された王としての働きのためにふさわしい、「待つ」姿勢をもっていたと理解できる。
 私たちも主の前にみこころを求め、時には待つために忍耐を要することを覚え、その忍耐をも与えて頂けるように祈ろう。

主題 <謙遜に主に仕える者として>

聖書箇所 歴代誌第二   2章   (2013年2月25日)

今日のみことば「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。また、主のために宮を建てるというこの私は、いったい何者でしょう。ただ主の前に香をたくためだけの者です。」(6)
 ダビデによって神殿建設の準備はほとんど用意され、その周到な準備に乗りさえすれば、もう建設が始まるかのような印象がある。しかし、ソロモンもまた神殿建設準備のため、木材などをツロの王フラムに求めた(3)。
 ソロモンはフラムヘの要請の中で、建設の目的ゆえに資材を求めていることと、自分が神の御前にどのような存在であるのかを述べている(4、6)。「私は、いったい何者でしょう」という問いを、父も同じように繰り返していた(I歴代17:16)。彼は、神の御前での小さい存在である自分を自覚し、恵みにより建設準備をするにすぎないことを告白した。ソロモンも自分が小さな者であることを覚え、謙遜な礼拝者だった。
 しかし、そのソロモンが謙遜さと同時に、宮の建設については「私が建てる」と繰り返している(4、5、9)。なぜ、主の御前に謙遜をわきまえたソロモンが、神殿建設に対しては自らを強く主張しているのだろうか。それは神殿建設を主からの任務として自覚するゆえの主張であろう。父にではなく、ソロモンに与えられた責務ゆえに、自らが主への仕え人として神殿建設を全うしようとする態度の表れなのである。
 礼拝者ソロモンは主の宮を建設し、そこで主を礼拝することを切に願った。主の御前にある自分を知り、主との交わりの確かさのうちに平安を覚える者の姿がそこにある。主との親しい交わりを前提に、主から自分へ与えられた任務を理解しているからこそ、「私が建てる」と語っているのである。
 今日の私たちも主の前に謙遜に歩み、主からの使命を自学して歩む一日としたいと願います。

主題 <主を恐れる知恵>

聖書箇所 歴代誌第二   1章   (2013年2月24日)

今日のみことば「今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」 (10)  

ソロモンの具体的な歩みについて、歴代誌では、彼がギブオンにある高き所に行ったことから始まる。「高き所」は、聖書の中で、偶像礼拝の場として登場することもあるが、この「ギブオンの高き所」は、3節にあるように、モーセが造った天幕のある場所であり、真の神の礼拝場であった。列王記では、ソロモンの名前だけが礼拝者として書かれているが(I列王3:4)、歴代誌では、イスラエルの「全集団」が一緒にギブオンで礼拝するために出かけたとある(3)。民は、ダビデから、そのような信仰をしっかりと受け継いでいたのであろう。
 ギブオンで礼拝した日に、神はソロモンに、願うものを与えると言われた(7)。王としての実力もまだないし、経験も財力も持っていないソロモンは、何を一番先に願うか迷ってしまうくらい、何も持っていなかったのだろう。そのような状況下、ソロモンは「知恵と知識」を求めた(10)。蔵言1章7節には「主を恐れることは知識の初め」とある。ここにおける知識とは、主を恐れることであり、主に信頼し、主を第一にする生き方、態度だと言えるだろう。ソロモンは、主を恐れる生き方をもって、民をさばくことを願った。これは、ソロモンが王として神に政治力を特に求めた、ということでは決してない。ソロモンは民全体の整えのために、自分の任務に徹することができるように、自分自身が信仰者として整えられていくことを願っていた。
 信仰の指導者に最も必要なことの一つは、神を恐れる態度であろう。信仰者すべてにとって、「主を恐れる態度」は最も重要なものであることを覚えたい。

主題 <主に心を向けて>

聖書箇所 歴代誌第一  29章   (2013年2月23日)

今日のみことば「私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。」(18)

 29章はダビデの最後のことばと祈りが記されている。
ダビデは神にいけにえをささげ、神を礼拝するための神殿を「城」と表現している(1)。神殿は、神を平安のうちに礼拝するだけでなく、戦いながら礼拝する場でもあるという意味が込められている。
その手にあふれるほど「ささげる」という表現は(5)、通常、(祭司を)神様に仕えるために「任職する」という意味にも訳される(出エジプト28:41)。ここでダビデは、イスラエル全体が主なる神に仕えるように、民に自から進んで仕えるように、勧めている。ダビデのことばに応答した指導者たちは、進んでささげたことを喜んだ(9)。
「私たちは、すべての父祖たちのように」とあるように、ダビデはイスラエルの民全体が異国人であり、居留者であると考えた(15)。主に選ばれた民だが、彼らは主のあわれみなしには、「影」のように実質がなく、「希望」のない者である。主がおられるからこそ、彼らは生かされており、様々な戦いを経験して主の約束に従う。ダビデは主が、心を試されることを知っていた(17)。彼は主が「直ぐな心」を知ってくださることを認め、そして自らを主にささげてきた。18節には、「御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください」とある。私たちは主のことばを求めなければ、心に計る思いが悪ばかりになることかありうるのである。
 神の御前に一番大切なことは、主に心を向けて生きていくことであることを覚えたい。

主題 <勇気を出して実行しなさい>

聖書箇所 歴代誌第一   28章  (2013年2月22日)

今日のみことば「今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」(9)  

 本章の多くは、王からソロモンヘのことばだが、最初にダビデは、指導者たちを召集した(1)。勧めの内容は「主の命令をことごとく守り、求め」よということであった(8)。命じる理由も加えられている。「あなたがたがこの良い地を所有し、あなたがたの後、とこしえまでもあなたがたの子たちにゆずりとして与えるため」である(8後半)。彼は、神の民の次世代を見据えて、彼らが主の恵みの豊かさに生きるために命じている。
王からソロモンヘのことばの中心は9節にある。王は「あなたの父の神を知りなさい」と言う。ここでは、父が神に信頼し、従い、仕えたということも強調されている。息子が知るべき神は、父が知っている神である。父もまた、神の恵みによって王とされ、その生涯で、主の聖さ、正しさ、あわれみの豊かさを知った。父は、被造物である人間が、主を信じ従うことこそ何よりの幸いだと知るから、このように言うのである。9節以外では、繰り返し、息子が「選ばれた」ことが強調されている。王は息子に、選びの恵みを受けている者として、その恵みに応えることを勧めている(10)。
また、本章ではダビデが主役であり、またソロモンも重要な位置を占めている。しかし、このことばは、最終的には神の民全体に語りかけられている。神の民は、最初は聞くだけだった。しかし、ここではソロモンと共に神殿建設の実行者とされている(21)。

主題 <神の民としての自覚>

聖書箇所 歴代誌第一  27章  (2013年2月21日)

今日のみことば「土地を耕して畑仕事をする者たちをつかさどったのは、ケルブの子エズリ。」(26)

軍の分団長の多くはダビデの30人の勇士である。この軍の各分団の編成がくじ引きでないこと、30人の勇士が積極的にこの分団の長になる点などを見ると、この軍の働きは志願制であった可能性もある。彼らはこの奉仕を、使命感をもって果たしていた。
ここで12部族としてはほかの書にはない名前がある。17節のアロンがそうである。またガドとアシェルは本章では除外されている。歴代誌では、神の民イスラエルは第一に礼拝する民だという点が強く意識されている。最初の系図でも、レビ族やアロンの家系が大きく取り上げられている。各部族長のリストにおいても、自分たちは礼拝の民であるという自覚が表されている。
あまり目立たない場で奉仕しているとしても、彼らもまたイスラエルの民である。この25~31節までに挙がっている人名は12名である。恐らく、長であるこの12名を挙げることで王の領地で働いている人々を代表としている、という意味があろう。
本章のリストの最後に、ダビデ王の側近たちについて記されている。しかし、これらの側近中、アヒトフェル、エブヤタル、ヨアブは、後にダビデ王から離れていく(Ⅱサムエル15章)。
神殿外で仕えていく人々にも配慮され、その働きを担うように任命されていたように、今日の私たちも主の奉仕の全体を覚えつつ、その中の一つの奉仕を担う一人として主に仕えていきましょう。

主題 <辺境にあっても主に仕えた人々>

聖書箇所 歴代誌第一   26章  (2013年2月20日)

今日のみことば「ダビデは、「ヘブロン人のうち、ハシャブヤとその同族の者は勇者であり、千七百人いたが、ヨルダン川を渡った所から西方に至る地域のイスラエルの管理に当たり、すべての主の仕事、王への奉仕に当たった。」(30)

門衛は、門を持ち場として、敵の侵入などを防ぐ働きをした。て12節を見ると、門を守るだけでなく、主の宮に関連する働きをしていたことがわかる。
神殿の中には宝物倉があった。その宝物は26~28節にあるように、荘厳な輝きを放つ宝物というよりは、神の民の先祖たちが戦いにおいて得たもの、あるいは預言者や王たちのささげ物だった。彼らは、主の宮の修理のために、分捕り物を聖別してささげた(27)。主の宮の必要のために、また、神の民が絶えず神殿を中心とした礼拝の民としてのあり方を継続していくために、ささげられた。
最後に、門衛や宝物倉の管理以外の奉仕を負う人々のリストがある。ヘブロン入について総括的に言うと、彼らは辺境の民であり、そしてまた、辺境の部族に対する働き全般のために、ダビデによって、彼の晩年に任命された人々であった。彼らは重要でない地域の、重要でない奉仕のために、ダビデ王の最盛期を過ぎた時期に任命された。働きとしては重要でないように見えるが、何よりも主が彼らの奉仕をご覧になっていた、ということに注意しなければならない。人には重要でないかのように見える働きかもしれないが、主なる神はそれを明確に主の奉仕としてご覧になっておられるのである。
どのような奉仕でも喜んで主に仕える者となりましょう。

主題 <歌うたいたち>

聖書箇所 歴代誌第一  25章   (2013年2月19日)

今日のみことば「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。」(1)
 1節の「アサフ、ヘマン、エドトン」とは、賛美する4000人のリーダーであった(23:5)。
 彼らは賛美しながら「預言」をしたと記されている(1-3)。預言とは、主からのことばを預かり、人々に伝えることである。彼らが歌っていたものは、恐らくほとんどが詩篇であった。詩篇を通して、神がどのようなお方であるか、神の民に対してあわれみ深いかが、わかるのである。詩篇を歌うことは、神を知り、神を告げ知らせるという意味で、預言的な面がある。
 5節の「先見者」とは「(幻を)見る者」という意味がある。つまり、みことばから、民がどうあるべきかを明確にする人たちである。これも、詩篇を歌うことによってなされたのだろう。また、彼らは「王の指揮の下に」奉仕をした(6)。賛美の奉仕も、主に仕える民全体の中での調和のもとに行なわれた。また、歌うたいたちは「達人」であると書かれている(7、8)。「達人」とは、もともと「良く訓練された」という意味がある(雅歌3:8の「練達」と同じ)。歌うたいたちが「達人」と呼ばれているのは、彼らが充分な訓練を積み、よく練習をして備えていた、ということを意味している。主に、より用いられるために継続して訓練を受けることは大切であり、主に対する奉仕への忠実さは、訓練によって整えられると言える。
 今日、教会における賛美が神をたたえると共に、賛美する会衆がより神を知り、互いにおしえられていくものとなっているだろうか。また、豊かな賛美がささげられていくためにも訓練を重ねていくことは、より主に従っていくことを学んでいくことに通じることを覚えたい。

主題 <アロンの子らたち>

聖書箇所 歴代誌第一   24章  (2013年2月18日)

今日のみことば「これは主の宮に入る彼らの奉仕のために登録された者たちで、彼らの先祖アロンがイスラエルの神、主の彼に命じられたところによって、定めたとおりである。」(19)

 23章から26章までは、神殿に仕える人々の任命について記録されており、24章は、特にアロンの家系が中心である。アロンの子らは、宮の奉仕の中で「とこしえまでも主の前に香をたき……」とあるように(23:13)、祭司の働きを負っていた。その後、大祭司はこの家系より選ばれた。
 アロンの四人の息子たちは、祭司として選ばれた。しかし、神の召しにどう応えていったかという点で、神の前に取り扱われた。息子たちのうち、ナダブとアビフは、自分たちの勝手な方法で香をたいた結果、主のさばきによって死んだ(2)。
 アロンの家系は、ナダブとアビフを失うという辛い体験をしたが、彼らの子孫は二十四組に分けられ、奉仕に当たるようになった(4~19)。それぞれの組に分かれて行う奉仕は、その後ずっと、主イエスがお生まれになる時にいたるまで、守られ継続されていた。
 歴代誌の記されたこの時代から数百年後、神殿はバビロンによって破壊された。しかし、神殿のない空白時代があっても、主イエスの時代にいたる千年近くの長い間、この働きは守られたのである。
アロンの家系には、尊い働きに選ばれたことを軽んじる者もいたが、忠実に与えられた務めを大切に果たした者もいた。主に選ばれた者として誠実に、忠実に歩むことが、現代に生きる神の民として期待されていることではないだろうか。

主題 <主の宮に仕えるレビ人>

聖書箇所 歴代誌第一   23章  (2013年2月17日)

今日のみことば「立って朝ごとに主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。」 (30)  
 ダビデによる神殿建設の準備が記録されている。最初に、レビ人たちが数えられている(3)。列王記には、レビ人による準備の記録がないが、歴代誌は礼拝が重視されているがゆえに詳述されている。30才以上のレビ人が数えられた。務めのために必要な、具体的な条件を考慮しながら、彼らが整えられたことがわかる。
 レビ人たちの奉仕内容については4~5節にあるように、その全体は「主の宮の奉仕」と言える。そして28節から、彼らの役目についてさらに詳述されている。その役目は、包括的には「いけにえをささげる」ということである。神殿は本来、いけにえをささげる祭壇が中心だったことは、神殿が建てられる根拠となった経緯からも思い起こされる(21:22~28)。神殿では最初からいけにえがささげられ、特に神殿建設の準備としての使命を託されるレビ人も、いけにえをささげることが、おもな役目だった。
 レビ人たちに「主が民に安息を与えられた」とダビデは語る(25)。その表現は、カナンの地にイスラエルの民が入った後にも言われていた(ヨシュア21:44)。主はご自身の民を、約束どおり、敵を退けてカナンの地に導き入れ、とこしえまでも続く安息を与えてくださった。ダビデには臨在の神が、とこしえに神の民に安息を与えるお方であるという感謝があった。
 信仰者は救われてもなお、罪の課題を抜きに、主の御前に出ることはできない。それゆえに私たちは、礼拝者として、主イエスの犠牲を常に感謝することが大切である。この救い主への信仰と感謝が、私たちを礼拝の豊かな恵みへと導く。賛美も、みことばも、聖なるお方との交わりに私たちを導くものであることを感謝し、心からの礼拝を絶えずささげよう。