2013年7月 3日 (水)

主題 <神殿建設の継承> 

聖書箇所 歴代誌第一  22章   (2013年2月16日)

今日のみことば「そこで今、わが子よ、主があなたとともにおられ、主があなたについて語られたとおり、あなたが、あなたの神、主の宮をりっぱに建て上げることができるように。」(11)

 17章においてすでに、ダビデには神殿建設が許されないことが言われていた(17:4)。本章ではその理由について、ダビデは多くの血を流したからと記している(7-9)。対照的に、息子の「ソロモン」という名は、「平和」を意味する。主はソロモンの治世に「安息を与え」、「平和と平穏(静けさ)」を与えられる(9、18)。
 このことは、主の御前にある王たちの役割が、それぞれ違うことを示しているのではないか。ダビデには戦いの人としての役割があり、戦いにおいて主による勝利がもたらされ、敵から攻められなくなった。与えられた安息の中で、ソロモンには神殿を建設する役割が与えられた。
 ダビデには、神殿建設が許されなかったが、それで彼は何もしなかったのではない。彼は建設に必要な資材を準備した。「おびただしく」ということばが繰り返されているが(3、4)、彼は、神殿建設を主の命令として息子へ託し、自らは準備に関してできうる限りのことをした。そして、ソロモンヘの祈りの中で、主が共におられるがゆえになされるよう願っている(11)。
 神殿建設の継承は、ダビデとソロモンの間でなされた。それはイスラエルの王と王の間のことであるが、最終的には神の民に関わることである。ダビデは最後につかさたちに、ソロモンを助けるように命じている(17~19)。ダビデは神殿建設を、王だけの事業とせず、神の民全体のものとしている。
今日、私たちも福音宣教と主の教会の建て上げの働きを共に継承していく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <ダビデの高ぶりと悔い改めの祈り>

聖書箇所 歴代誌第一   21章  (2013年2月15日)

今日のみことば「ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。」(17)  

 ダビデは人口調査を、神の民を整えるために行なったのではなく、国の軍事力を把握するために行ない、軍事力によってさらに国が栄えることを望んでいたのではないか。20章に書かれていた連続する戦いの勝利に、そのような誘惑のきっかけが含まれていたと考えられよう。ダビデの心の中に、高ぶりの罪が大きく入り込んできたのである。
自らの罪について、ダビデはイスラエルが打たれることで気づいた。人口調査は、ダビデの命令によって始められたが、イスラエル全体の関心事でもあっただろう。その意味では、主がダビデにだけ責任を問われたことは厳しいことのように感じる。しかし、王という立場のゆえに、そのさばきは厳しいものであった。
 主は三つのわざわいの中から、ダビデに選ばせた。ダビデにとっては、イスラエルの民と共に受けるべき厳しいさばきだが、ダビデは、主の御手に陥ることを選択した。それは、さばきを受けることをはっきりと自覚しているとともに、神のあわれみの豊かさにもしっかりと目を向けていたからである(13、「主のあわれみは深いからです」)。
 ダビデと民のうちに主のさばきが臨んだとき、ダビデは民のためにとりなして祈りました。私たちは真実な悔い改めをもって主に祈ったダビデの姿に学ばなくてはなりません。

主題 <慢心のきざし>

聖書箇所 歴代誌第一  20章  (2013年2月14日)

今日のみことば「ダビデが、彼らの王の冠をその頭から取ったとき、それは金一タラントの重さがあり、それには宝石がはめ込まれているのがわかった。その冠はダビデの頭に置かれた。」(2)

サムエル記第二、10~11章に、きょうの箇所と同じ内容について記されている。しかし、歴代誌には、サムエル記にある有名な大事件については何も書かれていない。それはダビデのバテ・シェバとの姦淫事件である。「歴代誌ではダビデを美化している」と言う人がいる。しかし、それは正しくないだろう。なぜなら、この歴代誌は、サムエル記をすでに知っている人たちを対象に書かれたからである。歴代誌に記されていなくても、この頃にバテ・シェバ事件があったと、読む者は皆わかっていた。しかし、21章には、ダビデが人口調査をした罪については記されている(21:1)。
歴代誌においては、むしろ、このダビデの人口調査の罪の方が、ダビデの姦淫よりも強調され、姦淫の罪が軽視されているのではない。歴代誌は、彼の罪の根本が、神の御前での高ぶりであったことに注意を向けているのである。歴代誌は、サムエル記の記録を重視しつつも、礼拝者としてのダビデを強調し、ダビデやソロモンを中心として、礼拝を学ぶことに強訓点がある。歴代誌が、「礼拝を教える書物」と言われる理由の一つは、このような記録の仕方にある。アモン人との戦い(1-3)、ペリシテ人、ガテ人との戦い(4-8)における勝利の連続の記録も、礼拝者ダビデとイスラエルの日常の歩みの記録であり、主にへりくだり、主から勝利を与えられた民の記録なのである。
私たちもまた、恵みに慣れ、勝利を自らのもののように慢心することのないよう注意しよう。

主題 <誠実を尽くすダビデ>

聖書箇所 歴代誌第一   19章  (2013年2月13日)

今日のみことば「ダビデは、「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたのだから」と考えた。」(2)

きょうの箇所では、アモン人と戦い(6-15)、そしてアラム人と戦っている(16-19)。敵の軍勢はかなり大きく、恐らく数の面では、敵軍がイスラエルを圧倒していた(6、7、18)。勝利することが難しいそれぞれの戦いに、彼らが臨んだのはなぜか。それは神の約束を信頼する民として、神を第一として
歩む自覚が、明確にあったからである。
 16~17章に、戦いに臨む以前のダビデが詳しく記されていた。それは、礼拝者ダビデの姿である。彼は礼拝式においてのみ整えられていたのではない。礼拝において整えられるとともに、礼拝後においても、主なる神を第一とし、臨在の神が共におられると約束してくださったことへの、率直な信頼があった。その信頼があったからこそ、ダビデとイスラエルの民は、これらの戦いに臨むことができた。
 ダビデは神を拝し愛すると同時に、人をも愛する信仰者であった。それは、最初のアモン人との関わりの経緯の中に見ることができる。2節で、ダビデはアモン人の王ナハシュに良くしてもらったことがあったので、「真実を尽くそう」と言っている。
 しかし、ダビデの好意はハヌンに受け入れられなかった。ダビデの使者たちは侮辱を受けるが(3)、ダビデは侮辱を受けた彼らをいたわった(5)。ダビデ白身は、異邦人の王に対しても礼儀をわきまえていた。また、部下に対し、暖かい配慮をした。彼の基本的な姿勢は、主を愛するとともに、人を愛することで一貫していた。

主題 <戦いに勝利していくダビデ> 

聖書箇所 歴代誌第一  18章   (2013年2月12日)

今日のみことば「彼はエドムに守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(13)

 ダビデはまずペリシテ人とモアブ人を打った(1、2)。この二つの民族は、ダビデにとって親しさを感じる人々だったことだろう(Iサムエル27:2~7)しかし、ダビデは人間的なつながりには左右されず、主の約束に従って戦いを始めたことがわかる。それに続く戦いとして、ツォバとアラムの連合軍との戦いがある。彼らには多くの戦力があったゆえ、ダビデにとって、最初から勝利が見えているような戦いではなかった(4、5)。また、さらにはエドム人との戦いにおいてダビデは苦戦が予想された。
 しかし、ダビデとイスラエルの民は、周囲の敵対する人々との戦いにおいて連続して勝利をおさめた。そのすべての戦いは、勝利を得ることができると、考えられるものではなかった。私たちもまた、信仰の戦いにおいて、人間関係にとらわれたり、またはこの世の物質的な力量に圧倒されたりして、ほとんど勝利の見込みがなく、絶望的にさえなるような経験をするだろう。ダビデがそれぞれの戦いを最後まで戦い、勝利したのは、主とのとこしえの契約への信頼と(17:4)、恵みによって導くお方が共にいてくださるという確信があったからと言える。ダビデはこの戦いの直前には、主を礼拝するために多くの時を過ごし、労力を費やした。礼拝者ダビデは、その後の戦いにおいても、神を恐れて歩む者として臨んだ。ダビデはいつでも、一人の礼拝者として、神の御前にある態度においては変わりなく、一貫していた。
 私たちも問題に直面する時こそ主へに信頼を失うことなく、主に栄光を帰していくことができますように。

主題 <ダビデの祈り>

聖書箇所 歴代誌第一   17章  (2013年2月11日)

今日のみことば「今、あなたは、おぼしめしにより、あなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてくださいました。主よ。あなたが、祝福してくださいました。それはとこしえに祝福されています。」(27)

 ダビデは、主の契約の箱を安置し、神殿の建設を考えた(1)。しかし預言者ナタンを通して、主はその提案を退け、同時にダビデの家にとこしえの王国を立てることを約束された(4-14)。ダビデは約束に対する感謝をもって祈りをささげました。
 ダビデは祈りの冒頭で、自らを「しもべ」と呼んでいる(17)。ダビデは大きな祝福の中に置かれていても、それが主のあわれみによるものと見なしていた。主はダビデをよくご存じのお方であり、みこころのままにすべてをなされるのである(19)。
 また、ダビデは、主なる神を人間的な思いで小さくしてしまうことはない。主が異教の神々とは異なり、歴史を支配なさるお方であることを覚えて祈っている(21)。彼の祈りは個人的であるとともに、民全体を代表する祈りでもある(22)。彼は主の恵みの豊かさが、自らとイスラエルとに与えられることを確信している。自分の生涯以前と以後のイスラエルの歴史を支配しておられるお方に、信頼して祈りました。
 ダビデには神殿を建てることは許されなかった。しかし主は、ダビデの家に起こされる王国が、主によって堅く立てられるという祝福を約束された(10-14)。ダビデはその約束が、そのことばどおりになされることを願って祈りました(23、24)。
 ダビデの主への信頼とその姿勢にならい、私たちも主にゆだね、主による祝福に期待して祈る者となりましょう。

主題 <主への賛美>

聖書箇所 歴代誌第一   16章  (2013年2月10日)

今日のみことば「主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。」 (8)  

 契約の箱の移動終えて、ダビデは箱の前で、初めて主を賛美し礼拝する(7)。ダビデの主への賛美は、サムエル記第二には書かれていない。歴代誌は、王ダビデの、模範的な信仰の態度を記録している。
 7節以降は主を礼拝しささげられた賛美が記されている。この賛美の特徴は、命令形で歌われていて、主の前になすべきこととして歌われている。教育的な要素が含まれた賛美であった。
 第一に、主への感謝が勧められている(8-14)
 第二に、主の導きと憐れみを覚えるように勧められている(15-22)
第三に、主を賛美するように勧められている(23-27)
第四に、主に礼拝をささげるように勧められている(28-36)
 ダビデは契約の箱の移動を終えて、この大きな事業を通して、神は聖なるお方であり、賛美を受けるにふさわしいお方であることを覚え、それはダビデのみならずイスラエルの民全体が共に主をほめたたえていくことが重要であることを捕囚後のイスラエルの民は確認しなくてはならないこととして教えるように記録されていたということが分かります。
 私たちが聖なる主に賛美をささげるにふさわしく整えられているか、本当に主を礼拝しこころからの喜びがあるかを問われているように思います。
 私たちも主に真の礼拝者となって賛美をささげ歩むことが出来るように祈りましょう。

主題 <みことばに徹する>

聖書箇所 歴代誌第一  15章   (2013年2月 9日)

今日のみことば「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」(13)

 主の厳しいさばきのもとに、神の箱の運搬がとどめられ、三か月以上が過ぎた(13:14)。この期間は、全イスラエルにとって、重要なものだった。14章の二つのペリシテとの戦いを中心に、彼らは神に求め、聞き従うことを改めて学んでいた。さらに彼らは、聞き従うことには恵みが伴うという確信をもって、再度、モーセの教えに忠実に従い(15)、契約の箱を運ぶ備えをした。具体的に言うと、ダビデはレビ人を、箱を直接運ぶ役割に任命した(民数7:9参照)。彼らの運び方は、モーセの教えに忠実であった。彼らは聖なる箱を運ぶのにふさわしく、自らを聖別した。ウザの死を通して知った過ちを悔い改め、厳密にみことばに従った(14、15)。ダビデは、以前の厳しいさばきは、主を「定めのとおりに求めなかったから」だと言う(13)。「主を求める」態度は、みことばに従うことによって示されることが、ダビデとイスラエルの行いから知ることができる。
 16節からは、契約の箱をエルサレムヘ運び入れる、行列の様子が記されている。契約の箱に関わる全般的なことをレビ人が負ったが、幅広い奉仕に徹するレビ人もいた。このようにして契約の箱が運ばれることにより、全イスラエルに喜びが生じた(28)。
 ところが、この様子を離れたところから見ていたダビデの妻ミカルは、神の箱に表されている、主の臨在を喜ぶダビデをさげすんだ。
 主のみことばに徹し切ったところに主の祝福と喜びがあったことをまず覚えたいと思います。

主題 <主への恐れを起こさせる>

聖書箇所 歴代誌第一   14章  (2013年2月 8日)

今日のみことば「こうして、ダビデの名声はあまねく全地に及んだ。主はすべての国々に、彼に対する恐怖を起こされた。」(17)  

 15章1~7節にはツロの王ヒラムから、王宮を建てるための資材提供があったことが言われているが、それは後の神殿建設の良い備えともなった。ダビデは、神の民以外の者からも良い評価を得、またたくさんの子孫にも恵まれた(3)。
8~17節にはペリシテ人との二度の戦いについて記されている。ダビデ王とイスラエルは、ペリシテと二度の戦いを経験する(バアル・ペラツィムの戦い。ギブオンからゲゼルまでの戦い)。それらの戦いに共通するダビデの特徴としては、「神に伺う」(10、14)という点が挙げられる。それぞれの戦いにおいて、ダビデは主の導きを常に求め、聞き従った。
神の民イスラエルがペリシテを破ったことは、諸国にも知れ渡った(16)。諸国の人々はイスラエルを恐れるとともに、イスラエルの神、主を恐れる、ダビデを恐れた(17)。
すべてのことは主の導きのうちに整えられ、すべてのことは主に導きを求め、それに従おうとする姿勢が大きな勝利をおさめていったことを見る時、私たちも徹底して主に導きを求め、従って行かなくてはならないことを教えられるのではないでしょうか。そして、いつも主を恐れていたダビデの姿を通して、人々がダビデの信じる神を恐れるようになったように、私たちを通して、神を恐れる思いが起こされていくような証し人になれるように祈っていきたいと思います。

主題 <主への恐れ> 

聖書箇所 歴代誌第一  13章  (2013年2月 7日)

今日のみことば「その日ダビデは神を恐れて言った。「私はどうして、私のところに神の箱をお運びできましょうか。」(12)

13章の内容は、サムエル記第二、6章にもある。サムエル記では、契約の箱の移動の決定も、ダビデ一人によるという印象を受ける。しかし、ダビデは民のリーダーたちと共に箱の移動を決定し、また民全体を集合させることで、ダビデ個人の事業ではなく神の民全体の働きとして進めていることがわかる(1)。「エジプトのシホルからレボ・ハマテに至るまで」と言われている地域は(5)、当時のイスラエル人の生活圏の北から南までである。ダビデ王は全イスラエルによって王とされた。そして神の御前での民の整えの始まりに、契約の箱を自分たちのもとに取り戻すことも、全イスラエルによって始められた。彼らには大きな喜びがあった。
全イスラエルが喜びを豊かに味わっている途中で、その喜びが全く逆転してしまう、いわゆる「ウザ打ち」と呼ばれる出来事が起こった。ダビデ自身は、主が怒りを燃やされた理由が明確にわからなかったのだろう。「ダビデの心は激した」(11)。最初、彼の心は主の怒りに対して、怒りを抱くものであった。しかし、後には主への「恐れ」に変わる(12)。15章2節を見ると、箱を運ぶ方法に不適切な点があったことがわかる。ダビデは、主の怒りはウザに対するものであり、またこの動きの先頭に立っていた彼自身に対するものであることを自覚するゆえに、神の箱を運ぶことを一時中断した(12)。ウザに対する神の怒りは、民の動きに対する神のご介入でもあった。私たち信仰者も、限界を持つ人間なので、主のための熱心さのゆえの行動であっても、主の教えていることを充分に理解していない欠けがあることもあることを知らなくてはならないことを教えてくれている。