2013年7月 3日 (水)

主題 <きょうは、良い知らせの日なのに>

聖書箇所 列王記第二   7章  (2013年1月 7日)

今日のみことば「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。」(9)

  神に背いたイスラエルが大きな試練に直面していたのです。アラム、すなわち北方のスリヤが圧倒します。生活は徹底的に困窮しています。
ここに人々から拒絶されていた4人のツァーラト(新改訳2版訳 らい病人)たちは、死ぬならそれでよしと敵陣のアラムの陣営へ行こうと決心する。もし殺されるなら、そのときは死ぬまでのことだと(4節)。
このらい病人の苦しみは、救われねばならないと行き詰まった私たちの姿です。しかし、不思議が起こったのです。アラムがいのちからがら逃げ去った後でした。主がふれてくださる、主が目を留めてくださるとはこういう事です。
この出来事を目の当たりにした4人は、「きょうは良い日なのに、ためらっている」と。そして「さあ、知らせよう」と自分たちを迫害してきた人々に救いを知らせるのです。彼らの生き方が、福音宣教をする者へのすばらしい模範を示しています。ツァーラトになぞらえる恐ろしい罪は、きよめられるまでゆき詰まりの中に日毎に生活していることになる。罪の払う価が死の報酬だからです。
 自分たちだけがたくさんのぶんどり物を手にするだけではなく、国民全体への救いの知らせを伝えるものになりましょう。
 今日という一日は、神様の大きな恵みに生かされていることをあかしする一日として、良い知らせを伝える歩みを始めよう。キリストの愛にこたえる歩みに前進しよう。

<祈り>主よ。救われた生涯なのに、さらに自分を豊かにしようとする愚かさに気付かせてください。

主題 <恐れるな>

聖書箇所 列王記第二   6章  (2013年 1月 6日)

今日のみことば「恐れるな。私たちとともにいるものは、彼らとともにいる者より多いのだから。」 (16)  

 私たちは目に見える恐ればかりでなく、様々な心配がある。それはある意味で自分の力でどうにもならない無力感や焦燥感からくるものです。
 エリシャを囲む大軍を前に召使は恐れて声もなく立ちすくむ。しかし、エリシャは生きた神の臨在の中に、神の護衛を確信していた。
 詩篇34篇7節には、「主の使いは主を恐れるものの回りに陣を張り、彼らを助け出される。」と約束されています。
 第一ヨハネ4章4節には、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちおられる方が、この世のうちにいる、あのものよりも力があるからです。」とあります。
 エリシャは祈る。若者の目を開きたまえと。主よ。私たちの目を開き、私たちの中に、私たちの周囲に陣営をつらねて、昼は雲、夜は火の柱をもって守られる神の守りを見させてくださいと。エリシャは祈っている中に、神を体験していることを知る時、私たちも励んで祈りたい。

<祈り>主よ。きょうもふさわしい重荷を与えてくださり感謝します。しかも、あなたが一緒にいてくださることを感謝します。

主題 <みことばに従う>

聖書箇所 列王記第二   5章  (2013年 1月 5日)

今日のみことば「神の人エリシャは、「彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」」(8)

 神に用いられる人とはどんなタイプの人でしょうか。エリシャは強い確信を持った人でした。世の権力者、富者におもねる弱い男でなく、王や富者をも恐れない信仰の人でした。
 スリヤの将軍ナアマンにらい病がいやされる方法を単純に示しました。難病をいやすのに、もったいぶった儀式(11節)や、好みの方法でなく(12節)、単純に、みことばに従うことを示したのです。彼は裸になり、七度ヨルダン川に沈み、みことばに従った時、きよめられます。
福音を伝える神の人も、単純にイエス・キリストの血汐による清めを語るものでありたい。
 いやされたナアマンは、沢山の礼を届けるが、神の人エリシャは固辞して受けない。この清廉な生き方こそ、神の人にふさわしい。確信に満ち、人を恐れず、物質にも目もくれず、神に従う人です。
Iテモテ3章に、神の人の生き方が記されています。読んでください。
主イエス・キリストは「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたをどうして信じることができますか。」(ヨハネ福音書5章44節)と語られている。

<祈り>神の言葉を語る人を尊敬し、自分も神の言葉に歩めますよう。

主題 <そのすべての器に油を注ぎなさい>

聖書箇所 列王記第二   4章  (2013年 1月 4日)

今日のみことば「そのすべての器に油を注ぎなさい。」(4)  

 神は神の人エリヤを用いて、油をみたす奇蹟を行なわれた。こういう奇蹟はむやみに行なわれるものではなく、神に仕えた預言者の死により、その家族への配慮として与えられたのである。
 神様を第一とした生涯は、その死後でさえ、忘れられずに神が十分な備えを与えられるのです。神に従う生涯に、強い確信と喜びをもって歩まれますようにと祈ります。
 持ってきた空の器に油が尽きないのは、いくつかの教訓があろう。
 第一に、どんな器でも、さし出せばみたされること。私たちがどんなに小さな器でも、神にさし出せば精霊でみたされる。
 第二に、みたされるためには、空の器にならなくてはいけない。この世のことや自我が心を満たしていては霊的に満たされることは決してできない。
 第三に、わずかの油の入ったつぼを注げば注ぐほど、増し与えられ、   次々に器をみたすことができる。
 私たちの信仰の油も、わずかに見えて無限の霊的祝福を与えるものを持っている。ただ、油を注ぐことを忘れてないだろうか。

<祈り>主よ。この小さな私の生涯に、あなたの油を注いで下さい。 

主題 <この谷にみぞを掘れ>

聖書箇所 列王記第二   3章  (2013年 1月 3日)

今日のみことば「主はこう仰せられる。「この谷にみぞを掘れ、みぞを掘れ。」」(16)

 人生は常に新しい問題と祈りに向かわされるのです。その都度、へりくだって神の導きを求めることを忘れたなら、必ず大きな困難と主を傷つける結果になることを学んでおきたい。
 さて、イスラエルの王に新たな問題が出てきた。モアブの謀反を片付けなくてはならない。そこで、預言者エリヤが神の声を語る。それは、谷にみぞを掘れと二度も語られていることです。みぞの大きなものが谷と言えるでしょうが、そこにあえてみぞを掘って水を流すようにして、何の利益がありましょうか。平地にみぞを掘るなら理解できますが。
 現代は、合理主義が教育され、何でも合理的に考えて、行動しようとする。しかし、この現代でも、神の約束を信じて自分の心に謙遜な谷に、さらに自己を砕くみぞを掘るという服従をするなら、神は水を満たし、敵を撹乱させ、奇跡を行われる。
旧約聖書の物語の中に、新約聖書の大きな霊的な真理が含まれている。

<祈り>主よ。心のみぞをもっと深い溝を掘り下げ、恵みを通す器に。

主題 <求めなさい>

聖書箇所 列王記第二   2章  (2013年 1月 2日)

今日のみことば「『…求めなさい。』すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。」(9)

 この世の野心家は沢山いるけれども、一方で信仰の世界での清められた野心、大志を抱く者が現れなくてはならないのです。「わがめぐみ汝に足れり。」という謙遜な深い信仰告白もその面では大切である。しかし、神はさらに大いなる恵みを賜わると言われているのです。へりくだる者でありつつ神のためにビジョンを求める者になれ、とすすめている。
 エリシャは、エリヤにスッポンのように食いついて離れない。
ギルガル(1節)から、ベテルヘ(2節)、エリコへ(4節)、ヨルダンへ(6節)と固執するように神の祝福を求めている。このような霊的渇望こそ、よりよき者へのステップになってゆくと思えるのです。
 この真のきよめ、聖霊のみたし、恵まれることを求めないとするならば、まもなく我らの求めが人間的な求めに堕してしまうことであろう。
 神に大事を求めよう。求めの切なるによって答えた悪しき裁判官のように、執拗な熱心な祈りに、神様は渇いておられる。
 先生であるエリヤ、偉大なイスラエルの父、イスラエルの戦車と騎兵に匹敵するエリヤ、この自分の師の2倍の霊を求めたエリシャは、おとなしい反面、激しい内なるものを秘めていることに気付かせられる。

<祈り>主よ。偉大な神の人の二倍の霊を与えてください。

主題 <ティシュベ人エリヤ>

聖書箇所 列王記第二   1章  (2013年 1月 1日)

今日のみことば「アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ。」といった。」(8)

 神が立てられた人の立場は、神の召命によるのです。神が特別に選び、ご自分のご用に用いるために立たせて下さるのです。
 神の選ばれた人はいつ、どんな場所においても用いようとされる時に、神のメッセージを携えて語るのです。たとえどんなに過酷なさばきの宣告でも、明白に語るべきなのである。
現代は使徒のパウロの時代と同じように、福音を語るのに水増ししたり、会衆の気に入るメッセージのみを語る時代でもあるかも知れないが、神の預言者はありのままの神の言葉を、厳しいけれどもさばきを語るのです。
 私たちも神のみことばに対してあいまいな態度で告白を続けるのはやめ、大胆にいつものように、今も信じた通りに告白するものとなろう。
 預言者はどんな人かと様子をたずねると、すぐに、「それはティシュベ人エリヤだ。」と王アハズヤみずから語ったというのです。私たちの人生と信仰が神の人を証する器とされたいのです。神の人の召命はまた、人からの証しが加えられることも事実でありましょう。

<祈り>主よ。あなたのしもべであることをいつも証しさせてください。

主題 <この世の人の関心>

聖書箇所 列王記第一  22章  (2012年12月31日)

今日のみことば「ユダの王ヨシャパテがイスラエルの王の所に下ってくると」(2)

 キリスト者は、この世と決定的な分離をしなくてはならないという立場に置かれ、決断しなくてはならない経験をするでしょう。なぜなら、この世は人を罪と滅びに誘引するからです。目を覚ましていないと再びこの世に引きずり込まれる可能性があります。
 ヨシャパテは善王であり、立派なことを完成したが、アハブと友交を結んだことは大きな躓きであった。彼は悪いアハブ王と戦争を共にし、わが子ヨタムの嫁にアハブの娘アタリヤを選び(I歴代誌18;1)、子孫と王国にわざわいをもたらしたのです(Ⅱ列王記8、11章)。
 ヨシャパテは戦争に行くことに自信がなく、預言者にたずね、最後にミカヤにやめるように注意されるが、アハブに断り切れない。また、戦争のさなかにも自分を表立った王にされ、アハブは変装して戦場におもむく。ヨシャパテは自分の身が危うくなると大声でわめき、いかにも王らしからぬ立ちふるまいといえる。しかし、神は不思議にも、「ひとりの兵士が弓を引くと、…射を抜いた。」(34節)とさばかれたのです。
 クリスチャンもこの世の人の関心を引くあまりに、この世に下ってしまうことを恐れよう。決して、この世のほうがクリスチャンに近付き、上ってくることがないことをしっかりと覚えて、身を慎み歩もう。

<祈り>主よ。目を覚まして、滅びから免れるように導いてください。

2013年1月16日 (水)

主題 <心砕けているものに>

聖書箇所 列王記第一  21章  (2012年12月30日)

今日のみことば「彼女(イゼベル)はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む…人々とにその手紙を送った。」 (8)  

 悪妻は一生の不作というが、幼稚なアハブに悪賢い妻イゼベルがいたのは、家庭生活にも国家にも大きな損失であった。
 箴言には「賢い妻を得るは主よりの賜物である」とありますし、31章10~31節にもしっかりしたすばらしい妻のことが記されている。弱さを持つ人も良い援助者を得るときに、大いに神に用いられることをたくさんみています。
若いクリスチャンの方々は、将来への良き伴侶に恵まれるよう今から祈り備えるべきです。また既婚者は、良き夫、良き妻として神に仕え、妻や夫に仕える道を祈り、学び、訓練されてすすむことが大切です。
 さて、イゼベルは夫アハブがすねて、ふて寝しているので、偽証人を立てて願い通りナボテの畑を不正の手段の中で手に入れるのです。イゼベルにすすめられて、さっそく畑に出向くアハブ王の姿はまことにみっともない。そしてその行為を神は見逃さないのです。預言者を遣わして神のさばきが告げられる。
 すると、アハブが打ちしおれてしまうのを見た神は、何と大きな憐みをかけているかが、29節にある。神は、心砕けているものに何と恵み深いかの証明でもある。ああ、神の知恵は、恵みは底知れない。(ローマ人への手紙11;32)

<祈り>主よ。日々に、賢い生き方を聖霊に導かれて歩めますように。

主題 <アハブの幼稚さ> 

聖書箇所 列王記第一  20章  (2012年12月29日)

今日のみことば「主はこう仰せられる。「私が聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、…」(42)

 神はあわれみの中に、戦争に勝利させて下さった。敵が「イスラエルの神は山の神」で「平地の神でない」と嘲られたがゆえに、神が勝利を与えられたのです。ところがアハブ王は、一番大切な決断の時にあいまいな態度で戦後処理をしたのです。
多くの味方軍を失った敵王をわが兄弟と呼び、凱旋将軍のように扱った軽率は、幼稚な未発達な精神である。
 人にほめられるとすぐに悪のりをするこの男は、結局神が用いることのできない人物であった。預言者は自分の体を打たせ、体を張って王アハブに神のさばきを宣告する。アハブは今まででの最高の得意絶頂な時に厳しい神の宣告を受け、43節に王は不機嫌になり激しく怒り自分の家でふて寝をきめこむのです。
 21章でも思うようにならぬとアハブは、幼稚で甘やかされて育った人格を見せます。人間はたとえどう育った土壌だったとしても神に取り扱われるならば変えられるのですし、用いられるのです。しかし心をかたくなにして拒むなら、裁きのみことばが必ず生涯で実現することになるのである。

<祈り>主よ。あなたを恐れることを、実際に日々現せますように。