2013年1月16日 (水)

主題 <エリヤの取り扱い>

聖書箇所 列王記第一  19章  (2012年12月28日)

今日のみことば「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」」(4)  

 預言者エリヤは、にせ宗教のバアルに圧倒的に勝ったのです。
 しかし、数年にわたる緊張ときわだった勝利の後で、王妃イゼベルの一言に全くうちひしがれてしまうのです。
 市川牧師は、このエリヤの中に、高慢と偽りの謙遜を見ると語っていたが、人間として陥りやすい面を教えてくれる。物事がうまくいくときには表面に現れてこないが、ひとたび困難がやってくると、思ってもみない罪性や弱さを見せつけられることがある。
 エリヤの取り扱いは、今も私に必要な信仰の訓練である。神は疲労困憊(こんぱい)の肉体に糧を与え、魂に静かな神の声を聞かしめたのでした。これからの彼の奉仕の生活はもっと深められた本当の意味での用いられた生涯になってゆくのです。
 彼が地上を去った時、弟子のエリシャは「わが父よ、イスラエルの軍隊よ。」と叫んだが、一人エリヤの預言者の働きは、一国を支えるものでもあったことがわかります。
 英国の血の女王とさえいわれたメアリーも、まったく自己に死し、神に生きる生涯に変えられたジョン・ノックスという一牧師の存在を恐れたといいます。全スコットランドの経験は私たちの日々にも体験されるでしょう。

<祈り>この小さい私を、きよめて用いてください。

主題 <主こそ神> 

聖書箇所 列王記第一  18章  (2012年12月27日)

今日のみことば「主よ、答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、…。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。」(36~39)

ここには生命がけのエリヤの祈りを見る。神に選ばれたイスラエルが、それこそ偶像にまみれて、生活、道徳は廃れていたことをどんなに嘆いたでしょうか。だから、生涯を投げ出し、祈ったのです。
こうした祈りが本当に答えられるのだろうか。肉なる我らの祈り、弱さをもつ祈りでも聞かれるのだろうか。ヤコブ5;17~18には、『私たちと同じ肉を持つエリヤの祈りが答えられる』と。
 ここで、エリヤの祈りは、<主こそ神であることを知らしめ給え>という祈りでした。今日の八百万の神々に囲まれた日本のキリスト者も、この真剣な祈りをしようではないか。
 イエス・キリストこそ真の救い主、神であることを示すのが、教会の使命であり、キリスト者の使命である。すべての舌がイエス・キリストは主なりと告白して栄えをあらわすことが目的です。偶像に迷った民も、みな口をそろえて「主こそ神です。主こそ神です。」といっている。
 現代にとって欠けたものは、「主よ、私に答えてください。」というエリヤの祈りではないでしょうか。

<祈り>主よ。答えてください。異教の中でのあかしを立てて歩めるように助けてください。

主題 <神の人>

聖書箇所 列王記第一  17章  (2012年12月26日)

今日のみことば「その女はエリヤにいった。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」(24)

 エリヤは神から遣わされた神の器でありました。神は目に見ることはできないのですが、第三者にも神の信頼を得ている人物であることを心からそう思わせる力があったのです。
その女は2つの点を証する。
 第1は、エリヤは神の人である。
 第2は、神のことばは本当である。
 これは、遣わされたエリヤにとっても確信以上のものがある。エリヤには神のことばがある。そして、エリヤの語った超自然的なできごとが成就しているのです。
 現代の伝道者も反省せねばいけない点がある。それは、神のことばが伝道者の生涯に成就しているかという点、つまり、神の人としての自分の生涯を始めとして、人々への証しがどうなされているかということです。
 私たちは、全く神に従い、神のことばを信じて、神のことばのように生きることが大切なことです。

<祈り>主よ。この私の生涯が、あなたのみ手で支えられ、あなたの力をあかしする弟子にしてください。

主題 <主の前に悪を行うのではなく…> 

聖書箇所 列王記第一  16章  (2012年12月25日)

今日のみことば「オムリは主の目の前に悪を行ない、彼以前の誰よりも悪いことをした。」(25)

 本章に出てくる五人の王、バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、そしてアハブ王たちは、聖書の歴史に登場するが、いずれも『悪をした』という悲しい記録を残したのです。国王という立場が、国民や神に対する信仰的、道徳的、指導的なありかたが一層求められているのです。
 私たちの生涯もまた、小さな立場のように考えやすいですが、もし最後の時にあなたが紹介される時「彼はわが家の祖先として、悪を行なった」というレッテルしか貼られととしたら、何と寂しいことでしょう。
 また彼は小さいことに忠実だったと評価を受けるでしょうか。神は人を良きわざのためにつくられました。ことにクリスチャンは良きわざのために、特選の民として選ばれているのです(エペソ人への手紙2;10)。
今日一日の生きる歩みも、遠い将来のための一歩であります。
 この代々の王たちは、決して偶像教徒ではなく、イスラエルの十部族、神の民だったのです。神の民は聖別されればすばらしいが、しかしひとたび神に背くと、その破滅、責めは大きいものです。
 教会の中から、こうした代表が出ぬように心せねばなりません。牧師や信徒の中から出ないように。

<祈り>主よ。私の生涯を聖別してください。歴史に残る罪の記述がありませんように。罪人ですが、主に対して誠実にならせてください。

主題 <ダビデのように>

聖書箇所 列王記第一  15章  (2012年12月24日)

今日のみことば「アサが父ダビデのように主の目にかなうことを行なった。」(11)

 イスラエルの王であったダビデはいつも、イスラエルにとって主のみこころにかなう生活の規範であったことがわかります。ですからたとえ彼がウリヤと彼の妻にした大きな罪でさえ詩篇を見るときに告白され、ゆるされることにより規範とさえなっているのです。
 アサは父のようにではなく、主の目にかなうことを次々行ないます。停滞していた真のイスラエルの宗教を改革し、汚れを取り去り、偶像を除きます。たとえ母親といえども堕落や偶像に関係するなら処分するほどでした。
 このように彼の治世のはじめは、そして途中までは主のみこころにかなっていました。しかし、晩年にはどうも思わしくなく、敵の来襲には神殿のものを持ち出し、足を病んだ時にも、神を求めずに医者を求めたのでした(Ⅱ歴代誌16章を読んで下さい)。
 アサは出発がよかったが、最後が悪かったという歩みから注意深く学んでおきたいのです。信仰者も注意しなくてはなりません。信仰の当初の輝かしい歩みが、いつしか人間的、この世的な社会からの影響を受け、すっかり信仰を失ってしまう人がいます。それはほんとうに残念なことです。
 ジョージ・ミュラーは「主よ。われをして、罪深い老人として死ぬことがないようにしてください。」と祈るのが常だったといいます。そして、そういうように主のみこころにかなわない晩年を過ごす人が決して少なくないことは悲しいことです
<祈り>主よ。若いときの主への忠誠、熱心を、生涯の最後まで貫けますように、救いの恵みをいつも自覚させてください。

主題 <あなたの私への取扱いは正しい>

聖書箇所 列王記第一  14章  (2012年12月23日)

今日のみことば「だから、見よ、私はヤロブアムの家にわざわいをもたらす。」 (10)  

 神は信賞必罰を行うお方です。ヤロブアムはイスラエル北王国の王となったが、神のみこころに従わず、金の子牛礼拝をはじめ、神に従わない政治のために、滅亡させられてしまいます。
 子供の病気のために、神の預言者の所へ変装してたずねさせると、目も見えなくなった預言者アヒヤがきびしい宣告をいいわたします。
 これから、第一に、私たちの生涯は神さまの目を決して逃れることができないことを教えています。
 第二に、罪の結果がどんなに恐ろしいことかを真実に語らなければなりません。
 第三に、イエス・キリストの身代わりの死、十字架がどんなにすばらしい救いかを体験して、伝えることです。
 私たちはこれらの出来事を通し、神をおそれ、神が聖き方、主であることが教会によって語られていることを受けとめる必要があるのです。

<祈り>主よ。あなたの私への取扱いは正しいのです。このかみさまへの深い信頼から、罪を犯すことがないように守って下さい。

主題 <本当の預言者> 

聖書箇所 列王記第一  13章  (2012年12月22日)

今日のみことば「あの人が主の命令によって、……呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」(32)

 本当の預言者とは、どんな人でありましょうか。この章にみられる神の人の行動に大きな感動を覚えるのです。
 王の権力も恐れず、大胆に神のことばを語り、王の伸ばした手がしなえてしまいます。この奇蹟によって、王は、神の人のことばをその時だけ受け入れようとする。やがてこの神の人が飲食せず別の道を帰るべきところ、にせ預言者が誘惑して神の命令に背いて罪を犯すこととなり、獅子に殺されてしまいます。
 ある視点からこの問題を考えると、このあわれと見えるにせ預言者によって誘惑されて失敗した愚かな人間と思えるのです。けれども、彼こそ預言者の中の預言者ではないかと思う。それは彼が神の命令を伝え、そして、神の命令を守らない時には、自分の生涯の通りになることを身をもって証言したからです。彼の死は無駄か、犬死にだったでしょうか。
神に示された預言者にさえ、必ず成就するといったことばの中に、厳しくも真実な預言者の生涯を教えられる。

<祈り>主よ。あなたのみ言葉は、必ず実現します。神の言葉を語る器たちの上に、主の導きを与え、私たちが聞き従う自由を下さい。

主題 <高慢と謙遜>

聖書箇所 列王記第一  12章  (2012年12月21日)

今日のみことば「彼はこの長老たちの与えた助言を退け、彼とともに育ち、彼に仕えている若者たちに相談して、……」(8)  

 ソロモンまで続いたイスラエル王国が危機にさらされて来ます。王位をついだ若い王レハブアムはまず直面した国家の問題、すなわち税のありかたに取り組むことになります。父ソロモンは、ぜいたくを尽くしたので、国家財政は破綻をきたしていたためです。
 この国家の問題を解決するために、はじめに父ソロモンに仕えた長老に相談します。彼らのすすめは、謙遜に仕えるようにとさとされます。しかし、彼はその意見を退けてしまいます。
そして、レハブアムに何でも言うことをきき、自分に仕える若者に相談をし、彼らの考えを実行します。
 ここに、人間のだれでも陥りやすい問題がある。それは高慢ということです。高慢と無知は、王という立場にあるという誇りとなり、へりくだることを拒否し、長老たちの進言を棄てさせたのです。
 教会の問題にしても、霊的な根本の姿勢は、謙遜ということです。人がある立場を確保すると、以前のように自分をむなしくすることができなくなる危険があります。このために、その人を不幸にしてしまいます。ついに争いと分裂に至ることがあるのです。

<祈り>主よ。自分の思いをやり遂げる誘惑から救い出してください。いつも、主のみ思いがなされるように心を支配してください。

主題 <ソロモンの晩年の罪とさばき> 

聖書箇所 列王記第一  11章  (2012年12月20日)

今日のみことば「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(3)

 ソロモンの晩年の罪とさばきが記されている。聖書中、ソロモンの堕落ほど悲しむべきものはない。彼は知恵と賜物に豊かで、富に、人材にすばらしいものを持ったのです。しかし、その知恵と賜物が、神への敬虔の時間(Quiet Time)と交わりを保つわけではなかったのです。
 申命記17章17節で、王たる者の心がけとして、馬(戦力)に頼らず、妻を多く持たず(品性)、神をおそれ、神のみを頼りに生きること(敬虔)を命じられている。聖書を絶対の拠りどころに読み、神を恐れることです。
 けれどもソロモンは、神の律法にそむき、外国の占領地の娘たちに心を引かれ、彼らの持っていた偶像をとり入れて機嫌をとったのです。
 こうして、彼の晩年は、父ダビデの敬虔によって占領した土地を次々に失い、ソロモン王に敵する者が次々に現れてくるようになります。その結果、イスラエルは分裂国家にいたります。
 信仰者は、晩年においてきよく美しくありたいと願う。

<きょうの祈り>主よ。いつも神様の前に呼ばれても、透き通った信仰の歩みをさせてください。妥協せず、信仰を貫徹させて下さい。

主題 <想像をはるかに越える祝福>

聖書箇所 列王記第一  10章  (2012年12月19日)

今日のみことば「驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。」(6~9)

 シェバの女王がソロモン王に謁見に来ます。彼女はアフリカのエチオピア地域の女王としてソロモンの栄華と知恵について耳で聞いていました。そして遠路イスラエルへ来るのですが、今は目をもって繁栄を見たのです。
ソロモンの栄華と知恵は、考えられうる想像をはるかに越えるものでした。
 シェバの女王はこうした王のもとで仕えられる家臣は幸いだと述べたが、そうした国のすばらしさは、神を信じた私たちにも当てはまるのではないだろうか。
 私たちが罪を悔い改め、主イエスさまを信じた信仰によって得た安息と力とは、キリスト教を受け入れる入信以前の想像をはるかに越えるものです。神の国の祝福が想像を越えた喜びです。
 マタイ13章17節に、「見よ、ソロモンに勝る者がここに居る。」とキリストはいわれる。キリストのもとに求道する魂に、求めていた祝福以上のすばらしい賜物を与えて下さるのです。
 私共は、ソロモンの知恵と繁栄に勝るキリストの祝福に仕えることができる幸いと特権を感謝しましょう。

<きょうの祈り>主よ。あなたの知恵と力は、ソロモンの素晴らしさに比較できません。神の国に生きる幸福を満喫させてください。