2012年7月 2日 (月)

主題 <聖なる者とする主>

聖書箇所 レビ記  20章    (2012年 6月11日)

今日のみことば「あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行なうであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。」(8)
 アモン人の神であるモレク礼拝には、子どもをささげるという恐ろしい儀式が伴った。その行為をする者だけではなく、その罪に対して目をつぶる者も、罪を問われた(2~5)。信仰は個人としての信仰告白は重要であるが、もう一つの視点として、家族が、一つの群れとしての集団としての信仰の土台をいつも確認していくことも重要である。信仰継承を考えていく上で、信仰の黙認は注意しなくてはならないことを警告している。
 イスラエル人は、自分の身を聖別し、聖なる者となることが求められた。しかし、聖なる者としてくださるお方は、主である(7、8)。聖さを求めていくときに、自らの自己達成ではないことを知らなくてはならない。そして、常に主の前にへりくだった者でなくてはならない。
 霊媒や口寄せに頼るのは罪であり(6)、それらを行なう者も、死刑に処せられた(27)。それらの罪には、死者を呼び出し助言を仰ぐという習慣があった(Iサムエル28:8)。恐らく、悪霊の働きと関係していたと思われる。今日も注意しなくてはならない。
 親には、神の代理として子どもを育て、神のみことばを教える務めが与えられている。それ故に子どもは、両親を敬い、恐れなければならない(19:3)。神の代理人である両親をのろうことは、神をのろうことに等しい(9)。しかし、親も、主の教育と訓戒によって子どもを育てることが必要である(エペソ6:4)。
22~27節は、神のおきてと定めとを守るようにとの勧めである。そうすれば、彼らが住む土地が、彼らを吐き出すことがない。神はイスラエルを、国々の民からえり分けられた(24、26)。彼らは「聖なるもの」であり、神のものであった(26)。

主題 <神が聖であるから>

聖書箇所 レビ記 19章     (2012年 6月10日)

今日のみことば「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」」 (2)

 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」という教えはレビ記の中心聖句である(2)。神ご自身が聖であるが故に、人間にも聖を求められていることを銘記したい。
 18章に続き、社会生活における戒めが続いている。今日の箇所には、父母を敬うことと、安息日を守ること、偶像を拝んだり造ったりしないこと、また和解のいけにえに関する教えについて書かれている(3~8)。さらには、貧しい人への配慮(9、10)、盗みと欺きの禁止(11、12)、弱い者への配慮(13、14)、不正、中傷の禁止(15、16)、愛することについて(17、18)教えられており、これらは、主イエスが教えられていたことに似ている。聖さを求めて生きることは、神の完全さを求めて生きることと言える(マタイ5:48)。
30~37節では、安息日を守ることについて教えられている。安息日を厳守することは、3節でも命じられているが、ここでは聖所を恐れることと合わせて、再度命じられている。
 神の聖さを覚え、私たちの日常生活がるということを覚えて、生きていかなくてはならない。神の聖さを覚え、その民としてある私たちの歩みが神の栄光を証し、聖なる民としての歩みを全うすることができるように祈り、整えて頂きたいと思います。

主題<性と異教に関する戒め>

聖書箇所 レビ記 18章     (2012年 6月 9日)

今日のみことば「あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。」(4)

ここにおいて神は、「わたしはあなたがたの神、主である」、「わたしは主である」ということばを、繰り返しながら(2、4、5、6)、イスラエル人に、エジプトやカナンの地のならわしをまねないようにという警告を与えておられる。それらの民は、道徳的に非常に堕落していた。神がイスラエル人に、カナン人を追い出すことや滅ぼすことを命じられたのは、彼らがあまりにも堕落していたからである(24、~25)。
 その戒めるべき第一の教えとして、性的な罪に対しての教えであった。ここでは、近親相姦の禁止、重婚の禁止等が書かれている。性的な関係については、結婚の制度の大原則で言われているように、一夫一婦制における、妻との関係のみが許されている。
 第二が異教に関しての教えでした。不道徳な罪に続いて、偶像崇拝の罪について戒められていることは、これらが互いに密接に関係しており、偶像神モレク崇拝には、子どもをささげるという行為を行っていたということがあり、そのような行為は、一人一人にいのちを与えてくださっている神の愛とご主権とを軽んじることであった。不道徳を罪は、神の御前に忌み嫌うべきものであり、その地を汚すことになることを覚えよう(25-27)。

主題 <肉に関する教え>

聖書箇所 レビ記 17章     (2012年 6月 8日)

今日のみことば「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(11)  
  17章では特に、聖なる民として肉を食べることについての教えが書かれている。
 イスラエルの民は、聖なる民として、いけにえとしてささげられた動物の肉を食べることができた。しかし、それ以外の時に食するときにも、いけにえの場合と同じように、まず動物を祭司の前に持って来なければならなかった。祭司はそれを、和解のいけにえとして、主にささげた(5)。「やぎの偶像」とは(7)、当時の異教の民が拝んでいた偶像のことであろう。もしもイスラエル人が動物を殺して、それを主の御前にささげないならば、他の民のように容易に、異教の神にささげる可能性があったと考えられる。
また民は、きよい動物を食べる場合でも、血を食べることは許されなかった(10)。血は罪人の贖いのために、用いられたからである(11)。罪人を贖うためには、だれかがいのちを捨てなければならなかった。血はいのちの象徴であり、血を流すことは、いのちを捨てることを意味した。それ故に血は尊いものだったのである。この戒めの中でも、神は、やがておいでになる救い主(メシヤ)が、罪人のためにいのちを捨て、尊い血を流してくださることを教えておられる。獣や鳥を狩りで捕らえるなら、血は注ぎ出され、土で覆われた(13)。自然死や、野獣に裂き殺されたものの肉は、正しい方法で血を注ぎ出していないから、原則として食用にしてはならなかった(15、16)。
今日の箇所から、主イエスが十字架の上で血を流されたこと、いのちをささげてくださり、私たちの罪の贖いをなしてくださったことを心から感謝したいと思います。

主題 <贖いの日のおきて> 

聖書箇所 レビ記  16章    (2012年 6月 7日)

今日のみことば「以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。」(34)
 16章は、一年に一度行なわれた、イスラエル全体のための贖罪の日について書かれている。それは当時の七月十日であり、イスラエルにとっては、非常に大切な日であった。この日には、彼らは「身を戒めなければ」ならなかった(29)。イスラエル人は、それを断食をすることと解釈した。「身を戒める」は、「身を悩ます」とも訳されるが、イスラエル人は、この日には自らを深く顧み、罪を悲しみ、贖われている者であることを感謝し、神の御前に謙遜な思いをもって、一日を過ごすことが要求されたのである。
 この日には、すべての民が、どんな仕事もしてはならなかった。神がすべての罪を赦し、民をきよめてくださるからである(29、30)。
 まず、大祭司アロンは、自分自身と、彼の家族のために贖いの儀式を行なった。大祭司も罪人であったからである(3-14)。服装のことも含めて、彼らは厳格な規定に従わなければならなかった。またアロンは、特別に二頭のやぎを準備した(8)。一頭は殺され、その血が取られ、会見の天幕の内側に持って行かれ、贖いの儀式に使われた(15-19)。もう一頭は、アザゼルのためであった。やはり贖いのために用いられたが、アロンがこのやぎの頭に両手を置いてイスラエルのすべての罪を告白した。このやぎは、イスラエルの罪を負い、野に放たれた(10、21、22)。アザゼルの意味は不明である。
 次に、イスラエルの民全体のために贖いの儀式を行なった。その中には、聖所と会見の天幕のため、祭壇のための贖いも含まれていた(20)。ここに出てくるすべてのいけにえも、主イエス・キリストの型(タイプ)であった。

主題 <漏出についての戒め>

聖書箇所 レビ記  15章    (2012年 6月 6日)

今日のみことば「イスラエル人に告げて言え。だれでも、隠しどころに漏出がある場合、その漏出物は汚れている。」(2)

 14章は漏出からのきよめについて規定している。男性の漏出については、漏出物が汚れているだけでなく、漏出している者自身も、また汚れていると見なされる。その結果、彼が触れる物も汚れた物とされる。その男に触れる者は水を浴び、夕方まで汚れたものとされる。また、彼が触った土の器は壊されなければならず、木の器は洗われなければならない(2~12)。
 漏出を病む者がきよめられるには、漏出がなくなってから七日を必要とする。衣服を洗い、湧き水を浴びた上で、翌日に山鳩二羽か、家鳩のひな二羽を、罪のためのいけにえと全焼のいけにえとして、主にささげる。この場合、富む者も貧しい者も、いけにえは同じものである(13~15)。
 また、女性が「月のさわりの間でないのに、……血の漏出のある場合」も、男性の漏出と同様に規定されて、いけにえをささげ、贖われることが必要とされている。ただ使った器などが壊される必要があるという明確な規定はなされていない(25~30)。一方、「精を漏らしたとき」や(16~18)、「男女が寝て交わ」つたとき(18)、あるいは「月のさわりの状態」のときにも、「夕方まで汚れる」とされているが(20~23)、贖いのためのいけにえは必要なく、水を浴びることが規定されているだけである。
これらの漏出についての規定は、個人的なことであるが、細かく規定されていることに、その重要性を覚えなくてはならない。性の乱れと誘惑に満ちている時代にあって、主の戒めを覚え、きよさを求めていく者とならせて頂きたい。

主題 <きよめの宣言> 

聖書箇所 レビ記  14章    (2012年 6月 5日)

今日のみことば「祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるよう命じる。」(5)

 病からのきよめを宣言するのは、祭司であった。旧約の時代の祭司は、やがておいでになる、本物の大祭司である、主イェスーキリストの型(タイプ)であった(ヘブル4:14~15)。祭司は、病人を診るために、自らが宿営を出て、病人の元に向かった(3)。同じように主イエスは、罪の中にもがき苦しんでいる人々の元に来て下さったことを思い起こす。祭司は、病気を癒すのではなく、病人の病が、すでに治っているかどうかを判断し、治っている場合には「きよい」と宣言し、きよめの儀式を行なった。
 祭司は、二羽の生きている小鳥を準備し、一羽を土の器に入れた湧き水の上で、ほふった。次に、生きている小鳥を、ほふった鳥の血の中に浸した。その者をきよいと宣言した後に、生きている小鳥を野に放った(4-7)。殺された小鳥は、私たちの罪を背負って死んでくださったキリストを、また野に放たれた小鳥は、復活されたキリストを、あるいは、今や病から解放された人を、象徴しているかのようである。
 八日目には、祭司は罪過のためのいけにえと、罪のためのいけにえと、全焼のいけにえをささげた(13)。また罪過のためのいけにえの血を取り、きよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った(14)。同様に、油も同じ箇所に塗った(28)。
 レビ記を見ていくとき、改めて私たちの罪のためにいのちをささげてくださったキリストの御業を思い起こさずにはいられない。主イエスが十字架においてあがいなをなして下さったことに心から感謝をささげたいと思います。

主題 <ツァラアトからのきよめ> 

聖書箇所 レビ記  13章    (2012年 6月 4日)

今日のみことば「祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。」(6)
 13~14章には、ツァラアトについてと、ツァラアトからのきよめについて書かれている。ただし、ここに書かれているらい病は、人体だけではなく、衣服、家にも及ぶものなので、現代の「ハンセン病」と同一のものではない。
 13章においては、まず、人の病が取り上げられ、次に衣服の場合が取り上げられている。祭司の務めは、病人の症状を観察し、その後に「汚れている」と宣言したり(3、8など)、きよいと宣言することであった(6、17など)。
ここで言われている汚れも、12章と同様に、宗教上の汚れでもある。ここに書かれている病は、伝染性のものであったと思われる。したがってそれは公にされる必要があり、また患者は隔離される必要があった(45、46)。
衣服のらい病とは(47-59)、かびのようなものを意味していると思われるが、それらは衛生的ではなかったので、適切に処置されることが必要であった。
 人は弱い肉体をもっており、私たちは病を体験する。しかし、多くの場合、病は癒されうるものである。祭司によって、いったん汚れていると宣言された人が、その後、きよいと宣言されたときには、その喜びは非常に大きなものであっただろう。
 今日の箇所から、考えさせらっることは、「きよい」と祭司によって宣言されることと、キリストにあって赦された者とされていることの恵みを重ねて合わせて見ると、今は何と恵みの時代に生かされているかを思わされるのである。主にある救いを感謝しよう。

主題 <産後のきよめ>

聖書箇所 レビ記 12章     (2012年 6月 3日)

今日のみことば「彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。」 (6)
 女性が身重になり、子どもを産んだときは、一定の期間汚れた者とみなされた。男子を産んだときは七日間(2)、女子の場合は、二週間であった(5)。これは実際にその女性が汚れた者となったというのではなく、宗教上の意味での汚れである。女性だけを蔑視しているのではない。また、産後の休養のためでもあったと思われる。
 生まれてきた男子は八日目に割礼を受け、契約の民に加えられた(3)。したがって、決して子どもを産む行為が、忌み嫌われたのではない。生まれてきた子どもが何の功績がないのにも関わらず、神の民に加えられたのは、神の一方的な恵みを示している。
 母親は、男子を産んだときは、さらに三十三日間、きよめのためにこもった。「血のきよめのために」とあるが、これらの期間は、母体に充分な休息を与えたと思われる(4)。女子を産んだ場合には、その後、六十六日間、血のきよめのためにこもった(5)。
 きよめの期間が満ちると、母親は、自分自身のきよめのために、全焼のいけにえと、罪のためのいけにえをささげた(6、7)。祭司は、罪のためのいけにえを用いて、彼女のために贖いをした(7、8)。ここでの全焼のいけにえは、子どもが生まれたことに対する神への感謝と、神への再献身を表すものであったろう。羊を買う余裕のない者は、山鳩か家鳩のひなをささげることが許された。貧しくともささげる恵みのために配慮されている。子孫が与えられることを感謝し、特別な配慮がなされていることは、神もこのことを祝福し喜んでおられることを覚えさせられる所である。

主題<聖なる者となりなさい> 

聖書箇所 レビ記 11章     (2012年 6月 2日)

今日のみことば「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(45)
地上の生き物のうち、食べてもよい動物は、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもので、また、反芻するものである(3)。この二つの条件のどちらか一つでも欠けるものは、食べることができないし、死体に触れてもいけない(4-8)。
水中の生き物で食べられるものは、ひれとうろこを持つものである(9-12)。
空中の生き物、すなわち鳥の場合には、その特徴よりも、具体的な種類と名が挙げられている(13~19)。
「羽があって群生し四つ足で歩き回るもの」とは、「昆虫」のことである(20)。これは「忌むべきもの」で、食べてはならなかった。しかし、「はね足を持ち、それで地上を跳びはねるもの」(21)、すなわち、いなごの類、毛のないいなごの類(または、羽のないいなご)、こおろぎの類、ばったの類(22)は食べることができた。
 24~40節には、汚れをもたらすものについて書かれている。忌むべきものの死体に触れる者や、運ぶ者、また、汚れた動物に触れる者は汚れた者となる。その者は、夕方まで汚れる(24~28)。「地に群生するもの」は(29)、新共同訳聖書では「爬虫類」と訳されている。この場合、これらの死体に触れる者だけでなく(31)、これらの死体が触れたものも汚れる。器とその中の汚れについても書かれている(32-38)。
 きよさが意識された一つの理由は神が聖なるお方だからである(44)。神は、人が様々な生き物を見て「あれは聖なるものだ」と判断するときに、いつも神の聖を意識するように導かれた。今日を神の聖を意識して歩む一日としましょう。