2012年7月 2日 (月)

主題 <ナダブとアビフの異なった火>

聖書箇所 レビ記 10章     (2012年 6月 1日)

今日のみことば「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。 すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」(1~2)  

 ナダブとアビフは大祭司アロンの四人の子のうちの二人である。祭司は、民を代表して神に近づく特権を与えられていたが、その特権には大きな責任が伴った。異なった火とは、神の規定に違反する方法でささげられた火である(1)。彼らは、祭司に託された務めを、規定に従わないで行なった。その結果、ナダブとアビフは主の前から出た火によって焼かれて死んだ。
 二人の死後、神は直接、父のアロンに語られた(6、7)。これはアロンに対する神の思いやりであり、続くことばは、アロンの子らに対する警告ではあるが、彼らの祭司職の継続を保証するものでもあった。祭司は、会見の天幕に入って行くときには、ぶどう酒や強い酒を飲むことを禁じられた(9)。祭司は、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものの区別をし(10)、また神のおきてを民に教えた(10)。
 ナダブとアビフの事件の後、アロンの他の二人の息子も罪を犯した。彼らは、罪のためのいけにえのやぎの肉を、聖なる所で食べずに焼いてしまったのである(12、15、16~18)。モーセは、初めは彼らの父アロンを非難したが、やがてアロンの息子たちのための弁解を認めた(19、20)。ここに大祭司アロンの、子どもたちのために必死のとりなしをする姿を見ることができる。
 神の前に仕えた祭司でも不完全な者である。私たちも、絶えず、主の前にへりくだり、忠実に仕えていくことができるように祈っていかなくてはならない。

主題 <祝福を取り次ぐ祭司> 

聖書箇所 レビ記  9章     (2012年 5月31日)

今日のみことば「ついでモーセとアロンは会見の天幕に入り、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。」(23~24)
 7日間の聖別の期間が終わると、8日目には、新しく大祭司と祭司になった者の、最初の仕事が行なわれた。この時、長老たちも呼ばれた。
 まず大祭司アロンのために、いけにえが準備された。それらは、罪のためのいけにえと、全焼のいけにえであった(2)。大祭司は自分自身も罪人だったので、自分のためにもいけにえをささげることが必要だったのである(ヘブル7:27、9:7)。私たちの大祭司であられる主イエス・キリストは、ご自身が全く罪のないお方であり、また罪人の完全ないけにえとなってくださったことを改めて覚えたい。
 イスラエル人のためには、罪のためのいけにえと、全焼のいけにえと、和解のいけにえ、穀物のささげ物が準備された(3、4)。罪のためのいけにえは、罪を贖うためであり、全焼のためのいけにえは、それをささげる者が、自らのすべてを、主にささげることを意味した。和解のいけにえは、神との和解が成立し、神との交わりが許されることを象徴的に表した。
 次にアロンは、大祭司としての初仕事として、自らの罪のためのいけにえをささげた(8-14)。それによって自分の罪が聖められたので、次に民のためのいけにえをささげた(15-21)。
 それからアロンは、民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、さらに罪のためのいけにえと、全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげた(22)。私たちも主の祝福を求め、取り次ぐ器にふさわしく仕える者でありと思います。

主題 <祭司職の任命>

聖書箇所 レビ記  8章     (2012年 5月30日)

今日のみことば「それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。」(6)
 8~10章には、祭司職に関する規定が書かれている。祭司は世襲制でアロンの子らが務めた(出エジプト29:9)。祭司は、神に仕える者として、特に聖別される必要があった。ここには祭司として任職されるに当たっての、聖別の儀式について書かれている。
 まず、アロンとアロンの子たちと会衆が招集された。会衆は、祭司の任職式の証人であった(2~4)。
 モーセは、アロンとその子たちを水で洗った(6)。祭司は、装束を着ける前に体を水できよめなければならなかった(出エジプト29:4)。アロンが身に着けたものは、長服、飾り帯、青服、エポデ、胸当て、ウリム、トンミムであった。頭にはかぶり物をかぶらせた(6~9)。
次に、幕屋の中にあるすべてのものは、油を注がれて聖別された。アロンは、頭に油を注がれることによって聖別された。アロンの子らは、やはり装束を身に着けた(10~13)。
 任職式に使われたささげ物は、罪のためのいけにえ(14~17)、全焼のいけにえ(18~21)、任職のいけにえ(22~29)である。任職のいけにえの特徴は、雄羊の血が祭司の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗られ、血の残りが祭壇の回りに注ぎかけられたことにある(23、24)。それには穀物のささげ物が添えられた。油と祭壇の血によって、アロンとその子ら、また彼らの装束も聖別された(30)。31~32節は、任職の食事の規定である。この儀式全体が、祭司の「贖い」のためであり、祭司の任職には7日間が必要とされた(33~35)。
 神と人との前に立つ祭司として厳格なまでに定められたこれらの規定は、その働きの重要性を意味している。今日の私たちも主の前に、この時代に遣わされた者として主に整えて頂こう。

主題 <共に食するいけにえ>

聖書箇所 レビ記  7章     (2012年 5月29日)

今日のみことば「和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。」(15)

 1~10節は、罪過のためのいけにえについて教えられている。このいけにえの脂肪、肉の取り扱いは(2~5)、「罪のためのいけにえ」と同じである(7)。また、「全焼のいけにえ」の皮、料理した「穀物のささげ物」の一部も、祭司の家の所有となった(8~10)。
 11~38節は、「和解のいけにえ」についてである。
 「感謝のいけにえ」である場合には(12~15)、「和解のいけにえ」の家畜のほかに、油を混ぜた種を入れない輪型のパンとせんべい(薄焼きのパン)などを添えてささげなければならず、またささげた人は、肉をその日のうちに食べなければならなかった。「きよい者はだれでもそれを食べることができる。」(19)とも規定されているので、ささげた人だけでなく、他の人も食べることができ、喜びを共にしたようである(申命記12:11~28)。
 しかし、「和解のいけにえ」が「誓願」のため、あるいは「進んでささげるささげ物」としてささげられる場合(16)、その肉は、三日以上残してはならなかった(16~18)。この理由は、「和解のいけにえ」の意味が、「神との交わり」を持つことであるため、三日以上残すことは「神との交わり」を軽視することになったからであると考えられる。「和解のいけにえ」の肉は、それが「汚れ」に触れたとき、また人が汚れているとき、食べてはならなかった(19~21)。「その民から断ち切られる」(20~21)ことのないためであった。
 ささげられたいけにえを共に食するという事の中に、分かち合うという恵みを共にするということであり、今日に私たちの交わりの土台であるということを改めて教えられます。

主題 <絶えず、ささげられるいけにえ>

聖書箇所 レビ記  6章     (2012年 5月28日)

今日のみことば「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。」(9)

1~7節には「罪過のためのいけにえ」について続けて教えられているが、特に、隣人から預かった物等に対する不正ついて書かれている。他人に損害を被らせた場合、被害者に損害総額に五分の一を加えて支払わなければならず、聖所で定められた相当額の雄羊を祭司のところに持って行った。これは、犯罪の被害者として、被害当事者の人間だけでなく、主なる神の前に罪を犯したということが意識されているため、神の前に犠牲をささげていく必要があるということを明確に示している。悔い改めていくということは、神の御前にあってなされるべきことであることを示していると言えよう。
 8~30節では、再び幾つかのささげ物について細則が語られている。その中でも、全焼のいけにえ(9-13)は、祭司が、これを一晩中朝まで、祭壇の上にあるようにすること(9)。そして、朝ごとに「全焼のいけにえ」と「和解のいけにえ」をささげ、祭壇の上から、火を絶やしてはならないこと(13)が教えられている。「全焼のいけにえ」は神の前における全き献身を意味し、「和解のいけにえ」は神と人間との交わりの回復を意味し、この献身と和解のためのいけにえが、絶えず、ささげられていかなければならないことが教えられている。今日の私たちも、一日を始める朝ごとに、神の前に献身と和解を確認していくことの重要性を覚えなくてはならない。そのためにも、主のみえしえなる聖書のみことばに良く聞く者とならせて頂きたいと思います。

2012年5月22日 (火)

主題 <罪過のためのいけにえ>

聖書箇所 レビ記  5章     (2012年 5月27日)

今日のみことば「また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行ない、それを知らずにいて、後で咎を覚える場合、その咎を負わなければならない。」 (17)

 4章で言われていた「罪のためのいけにえ」の規定について、5章前半では具体的な罪について取り上げられている。例えば、証言をしなかった場合(1)、汚れた死体に触れた場合(2)、人の汚れに触れた場合(3)、軽々しく誓いをした場合(4)などがあげられている。これらは自らが告白しなくては分からない罪の数々かもしれない。どのような罪でも告白しすることが重要であることを示している。また、言い変えれば、どのような罪も告白し、主に赦し、贖いを求めていく者に回復を与えてくださろうという神の憐れみを覚えさせられる。
5章後半では、「罪過のためのいけにえ」について教えられている。「罪過」として、言われていることは、「人が不実なことを行い、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯した」(15)ことがあげられている。不実なこととは、人の権利を侵害することであり、主に対しては言えば、主に対してささげるべき物をささげないことがこれに当たる。この罪の場合、本来、償いをするべき値に、その五分の一をさらに追加したものを、祭司のところに持って行った。
 17~19節は「主の戒めに対する違反」を犯した場合のことで、主の律法に一つでも違反したとき、「たといそれを知らなくても」、傷のない雄羊を祭司のところに持って行った。
 これらのことは、贖い、償いの重みを示している。今日、私たちは自らがいけにえを持って来るのではなく、主イエスご自身が来て下さったということを覚え、主に深い感謝をささげたいと思います。

主題<罪のためのいけにえ> 

聖書箇所 レビ記  4章     (2012年 5月26日)

今日のみことば「祭司は指を血の中に浸して、主の前、垂れ幕の前に、それを七たび振りかけなさい。」(6)

 アダムが神の前に罪を犯した結果、すべての人は罪人となった(ローマ5:12)。主イエスは、私たちの罪を赦すための、いけにえとなってくださった。すなわち、「世の罪を取り除く神の小羊」として(ヨハネ1:29)、いのちを捨てて死んでくださり、罪を贖ってくださったのである。その意味をあらかじめ表していたのが、この「罪のためのいけにえ」であった。
 いけにえとなった動物は、だれが罪を犯したかによって、傷のない雄牛(祭司、イスラエルの全会衆)(2-21)、雄やぎ(上に立つ者)(22―26)、雌やぎまたは雌羊(一般の人々)(27―35)と、それぞれ異なった。油そそがれた祭司とは(3)、「大祭司」のことである(8:12)。大祭司でさえも、罪人であるが故に弱さがあり、いけにえを必要としたのである。
 このいけにえの特徴は、いけにえの血の扱い方であった。大祭司とイスラエルの全会衆の場合に、祭司は、指を血の中に浸し、聖所の垂れ幕の前に、その血を七回振りかけた(6、17)。聖所の垂れ幕とは(6)は、聖所と至聖所とを区切るものである。血は、「かおり高い香の祭壇」の角に塗られた(7、18)。これは、この儀式を通して、人の罪が贖われるためであった。祭司は「罪のためのいけにえ」の儀式によって、人の罪を贖い、その結果、罪を犯した者は赦されたのである(20、26、35)。
 今日の箇所から主イエスが私たちの罪のために十字架で血を流してくださったことを覚え、いつも十字架を仰ぎ、悔い改め、恵みを覚えて歩む者でありたいと思います。

主題 <和解のいけにえ>

聖書箇所 レビ記  3章     (2012年 5月25日)

今日のみことば「もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。」(1)  

 主イエスは、聖なる神と、罪人との間に和解をもたらすいけにえとなってくださったのであるが、その意味を持っているのが、この「和解のいけにえ」である。イスラエル人は、このいけにえをささげることにより、神と和解し、神に感謝をささげたのである。私たちも、主イエス・キリストを信じることにより、神との和解が与えられ(ローマ5:1)、また人との和解も積極的に求めていくのである(ローマ12:18)。
 「和解のいけにえ」には牛(1-5)、羊(6-11)、やぎ(12-16)がささげられた。全焼のいけにえの場合、動物は雄だけであったが、和解のいけにえの場合は、牛、羊ならば、雄と雌にかかわりなくささげられた(1-6)。礼拝者は、ささげ物の頭の上に手を置き(2、8、13)、それをほふり、脂肪などを燃やし、祭司は、その血を祭壇の周りに注いだ。その肉は、祭司や礼拝者たちが食べることができたが、17節にあるように、脂肪と血は、決して食べてはならなかった(7:23-27、17:10-14)。この和解のいけにえは、感謝をするときに、また誓願のときに、あるいは進んでささげる物としてささげられた(7:11-21)。和解のいけにえは、それをささげた礼拝者が食べることのできる唯一のささげ物であった(11、16)。申命記12章7節には、「あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい」とある。神との和解が私たちに本当の祝福、喜びを与えてくださるということが描かれている。
 今日、主イエスが私のための和解のいけにえとなってくださったことを覚え、神との平和が与えられていることを感謝しよう。

主題 <穀物のささげもの> 

聖書箇所 レビ記  2章     (2012年 5月24日)

今日のみことば「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」(13)
 二章は、穀物のささげ物についてである。このささげ物は、小麦粉でなければならなかった。料理していない場合(1-3)、かまどで焼いた場合(4)、平鍋(鉄板)で焼いた場合(5、6)、鍋で料理した場合(7)、いずれの場合にも油すなわちオリーブ油、また乳香が加えられた。しかしパン種(酵母)と、蜜は加えてはならなかった11-12)。それは異教のささげ物と区別するためであったかもしれない。乳香(1、2、15、16)は、乳香樹の分泌物を乾燥させた香料である。「記念の部分」とは(2、9、16)、「穀物のささげ物」の祭壇で燃やす部分のことである。神が、ささげる者を覚えてくださることを、暗示していたのかもしれない。
 最も聖なるもの(3、10)は、祭壇で燃やされた物の、残りの部分のことである。最も聖なるものは、祭司のものとなった。穀物のささげ物には、「神の契約の塩」と呼ばれる塩を欠かしてはならなかった(13)。塩は、火に燃えず、腐らないという性質があるので、神と人との契約が永遠に変わることがないことを望みながら、使用されたのかもしれない。
 穀物のささげ物は、通常「全焼のいけにえ」に続いてささげられた。礼拝者から神へささげる物であると共に、祭司の生活を支えるものともなった。神は、「全焼のいけにえ」を通して、ご自身の民イスラエルを近づけられた。穀物のささげ物は、その恵みに対する民の「感謝のしるし」と考えられる。
 主イエスを信じる者は、神との永遠の契約関係に入ることができることを感謝しよう。

主題 <全焼のいけにえ>

聖書箇所 レビ記  1章     (2012年 5月23日)

今日のみことば「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。」(3)

 レビ記は律法文の印象を受けるが、決してそうではない。レビ記のへブル語聖書の題名は1章1節の「神はモーセを呼び寄せ」をそのまま書名としている。レビ記と呼ぶようになっている70人訳聖書のときからそのようになった。つまり、レビ記は神がモーセに語られたストーリー性をもった書物である。そして、現代の私たちも主の語られたことをいかに聞くかが問われていると言える。
全焼のいけにえは、ささげられた家畜や鳥のすべてが、祭壇の上で焼かれた。それは、「主へのなだめのかおりの火によるささげ物」であった(9、13、17)。このいけにえは、ささげる者の、神に対する全き献身を意味した。本来、いけにえとは高価な動物だったのである。すなわち、人間の罪を贖うことは決して安価なことではないことを意味している。神の御子イエス・キリストは、最も高価で、完全な、全焼のいけにえであった。
 レビ記に書かれているそれぞれのいけにえは、完全ないけにえである主イエスの、ある一面を表していた。その類似点を以下のことである。
 全焼のいけにえは、傷のないものであった。これは主イエスが罪のないお方であったことの象徴であった(Iペテロ1:19)。また全焼のいけにえはそのすべてがささげられた。主イエスは、私たちを救うために、同様に、全焼のいけにえとして、すべてをささげてくださったのである。
 今日、全焼のいけにえを覚え、主イエスが、全人類を救うために、すべてを神にささげてくださったことを感謝し、私たちも、私たちのすべてを神にささげよう(ローマ12:1)