2012年5月22日 (火)

主題 <その時、主の栄光が幕屋に満ちた>

聖書箇所 出エジプト記 40章  (2012年 5月22日)

今日のみことば「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(34)

 神の幕屋が忠実なる奉仕によってついに完成したのです。
この章にも八回にわたり『主がモ-セに命じられたとおり』と報告されている。こうしてモ-セはその仕事を終えた。(33節)
 聖書は『その時、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。』と記されている。主のみことばに従い通した結果、幕屋が完成した。だがこのテントは『神の幕屋』なのです。人の手によって造られているようだが、神の御霊の導きのもとに形造られたからである。
 私たちの日ごとの営みもまた、みことばに導かれて形造られる時に、主の栄光が満ちる。ほんの小さな奉仕にも心を尽くして行い始めるときに、人の中に神のかたちが見られてくる。
 どんなに栄光的な作業だったのでしょう。神と共に働くことが神の幕屋つくりなのです。日毎の行いがこんなに大切な意味のあることを深く思うのです。テントのように弱い私たちですが、神のみことばを聞き、従うことにより心の内に神が住み、栄光を現してくださる。

<祈り>主よ。弱い私ですが、私を通してきょうもあなたの栄光を現してください。私と一緒に歩んでください。アーメン

主題 <主がモーセに命いじられたとおりに>

聖書箇所 出エジプト記 39章  (2012年 5月21日)

今日のみことば「彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸で、聖所で仕えるための式服を作った。また、主がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。」(1、5、21など)

 祭司職とその衣服について1~31節に記され、32~43節は幕屋が完成し、祝福が現わされたことが述べられている。細部にいたるまで詳しく記録されている。
ところでこの仕事について一つの共通した表現がある。それが『主がモ-セに命じられたとおりに』と繰り返している。何回記録されているかペンで記して見よう。一節の聖句が世界の歴史を形作ることなのに、これほど多くの命令どおりの仕事をしたことが確認される。
 自分好みの仕事、自分が納得しないと動こうとしない傾向を自分の中に見るのです。この自分のしたい事を行う性質、自己中心な人間性を自覚することは極めて重要です。彼らは自分の感じたとおりに造ったのではなく、どんなに無理、不合理に見えようとも主が命じられたとおりに造ったことに改めて感動を覚える。
 第一に、この仕事は記録されて残る営みであった。
 第二に、主のみ心を写し出す営みでした。
 第三に、主の栄光が現わされたのです。

<祈り>主よ。命じられたままを行う難しさを、神の栄光ために克服させてください。

主題 <彼と共にオホリアブがいた>

聖書箇所 出エジプト記 38章  (2012年 5月20日)

今日のみことば「彼とともに、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブがいた。彼は彫刻をし、設計をする者、また青色、紫色、緋色の撚り糸や亜麻布で刺繍をする者であった。」 (23)

 ベツアルエルが次々とみ霊に導かれるままに、祭壇の用具を整えてゆく。それを見守るイスラエル人たちは、驚異のまなざしで見たことだろう。
 彼ら自身がささげた銀は半シケルずつ(26節)だが、全体で百タラントを越えたというのです。一人一人の忠実なささげものこそ大きな働きを生み出すことを忘れてはならない。
 御霊に満たされた人ベツァエルと多くのささげものによって神の幕屋が完成して行くのです。ここにもう一人の名前、オホリアブが特記されている。彼については23節に三つの優れた職務ができたという。第一は<彫刻>である。素晴らしい彫り物、刻み込まれるものは単に美しい物ではなく、神の栄光をかいまみせていかなくてはならない。第二は<設計>をするものとあり、細かな寸分の狂いもない正確な調和のとれたデザインであったことであろう。第三は<刺繍>をする者で、荒野の中でも糸に染色を施し、神の栄光を織り出す。 
 傑出したリ-ダ-に必ずよき助け手が存在する。宗教改革におけるルタ-にメランヒトン、ツイングリーにカルヴァンがいたのです。あなたも人々の先立つリーダーでないなら、よきヘルパーに徹する道もあるのです。その歩みが特別に記されています。
<祈り>主よ。私たち一人一人に賜物を与え神様の栄光を現すために用いてくださることを感謝致します。リーダーであろうとヘルパーであろうと神様のために喜んで働くものとしてください。ア-メン

主題<これを純金でかぶせ> 

聖書箇所 出エジプト記 37章  (2012年 5月19日)

今日のみことば「そして、上面と回りの側面と角を純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。」(26)

 契約の箱や燭台、香りの壇などを作成する。その方法が詳述されている。契約の箱は、モ-セによって与えられた十戒とマナを壺の中に納めるのです。
 アカシヤは材質に優れた木材であり、美しく強固である。ただ、このアカシヤの木はどれほど優秀であったとしても、美しく、堅固であっても、さらにこの上に純金をおおうのです。
 『純』は交じり気のない、本物の、不変の、高価な、などの意味もあろう。本章は純金と純粋な香りの高いかおりの二つが記されている。
 純粋な金でアカシヤが覆われた時、見られるのは金である。
キリスト者の生涯もまた、きよい神様を内に宿す存在である。その生涯はキリストの救いのみわざによっておおわれて贖われたのです。生来の私たちはどれほど優秀であろうが、そのままで主のお役に立つことはできない。優れているほどその人の栄光になってしまうだろう。
 反対にどれほど劣っていようがキリストの純金の恵みによっておおわれたなら、そこにはキリストの栄光が見られるのです。
今日一日がキリストの恵みに包まれた歩みにしよう。
<祈り>主よ、今日一日があなたの恵みによって与えられ、あなたの恵みだけを輝かす日でありますように。アーメン

主題 <あり余る奉仕>

聖書箇所 出エジプト記 36章  (2012年 5月18日)

今日のみことば「モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」」(5)  

 神の幕屋を造る奉仕に、人も献げ物も十二分に備えられた。1~7節にはそうした心から進んでささげる人と物が満ちたとある。それを『有り余る奉仕』と表現している。後半はその有り余る奉仕によって次々と完成してゆく様子が記されている。
 エジプトで奴隷であった貧弱な民が、何もない荒野で喜々として奉仕に励んでいる姿に感動しない人はいない。力を残し、持ち物を残し、宝石を残していこうとする思いはなかった。なしうる限りを尽くした奉仕であり、ささげ物であった。ちょうど主の十字架直前に三百デナリもの香油のつぼを割った婦人のように、この荒野全体が愛の、信仰の、めぐみのわざですばらしい香りを放ったことであろう。成しうる限りの奉仕が、あり余る奉仕へとつながるのです。
 人の豊かさは持ち物によらないのです。力の限りの奉仕の喜びを知ったものが、あり余る恵みにあずかるのです。カナの婚礼で水を汲んだしもべは知っていたのです(ヨハネの福音書2章)。多く与えるものは多くの祝福を味わえる。
 あり余る奉仕に私たちも関わらせていただこう。なぜなら、聖なる幕屋を造り、聖なる祭壇を造り、なすすべては神の栄光のためなのですから。
 一日、主からの豊かな恵みへの応答とさせていただこう。
<祈り>主よ。あなたのための奉仕に集中させてください。ア-メン。  

主題 <感動した者、心から進んでする者> 

聖書箇所 出エジプト記 35章  (2012年 5月17日)

今日のみことば「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。」(21)

 いよいよ神の山で啓示されたとおりの神の幕屋を造る仕事に取りかかります。聖なる神の臨在してくださる場が幕屋です。この神の幕屋はテントによって形造られるのです。雨や風もある荒野でテントの幕屋はイスラエルを導くのです。 荒野で持ち合わせのわずかな金銀宝石を集め、またテントを織る営み、いろいろの器具を作成する努力が傾けられる。住みつく地でない荒野、何もない所で懸命な共同作業です。
彼らを支えた力は何だったのでしょうか。主の御霊によって感動した人々だったのです。彼らは偉大な神、天と地を創造した神を信じる誇りがありました。この偉大な神が荒野を旅するイスラエル、小さな民族であり無力なイスラエルを愛されたのです。
 聖霊はイスラエルの心を揺さぶり、奮い立たせたのです。この章には心から進んでささげる人の姿がいろいろの所で輝いていることに気付かされる。喜んで、感謝して、溢れる信仰の力が幕屋を造り上げていく。今日、神は神の人を探し求めている。それは男や女という区別もなく、老人も若者も区別はない。ただその心が神の恵みに感動した人々によって神の国は前進していることをしっかりと知ろう。今日、心を主に明け渡して聖霊の力に満たされよう。そして新しい決意をもって踏み出そう。
<祈り>
聖霊に満たされた恵みに満ちた信者にして下さい。アーメン。

主題 <モーセの顔のはだは光を放った>

聖書箇所 出エジプト記 34章  (2012年 5月16日)

今日のみことば「アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。」(30)

 モ-セは再び四十日間、神の山に登り、神と顔と顔とを合わせるようにしてみ声を聞いたのです。この時示された啓示は今後のイスラエルの生活の基本線を形造っていくのである。石の板二枚に今度はモ-セが刻んだのです。
 神ご自身のご性格が6~7節に啓示されている。豊かなあわれみの神は、罪をゆるす方であって、恵みを千代まで及ぼし、罪については3、4代にまでとある。神を知る、と言うことは神に似た者とされてゆくことをすでに学んでいる。神はあわれみによってイスラエルとも異邦人とも関係を持たれるが、このあわれみを知った者だけが他者にあわれみで接することができる。
愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。愛の人にさせてくださいと切に祈った瞬間こそ神が分かったときなのです。モ-セは親しく神と交わりました。それで下山して人々にメッセ-ジを語ったとき人々はその肌から出る光のため恐れ、近付けなかったという。何というすばらしい恵みの体験であったろう。神とともに過ごす時間が多ければ多いほど、人は神に似てくるのです。その顔は変わってきます。
恵みと栄光を反映させつつ歩む一日でありたい。Ⅱコリント人への手紙3;16-18
<祈り>
神様、あなたとの交わりの深みへと導いてください。アーメン。

主題 <わたし自身がいっしょに>

聖書箇所 出エジプト記 33章  (2012年 5月15日)

今日のみことば「すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」」(14)

 モ-セは「神のみこころにかなっていた。」と何度か語られている。神もおっしゃっている(17節)が、モ-セ自身の口からも3回発言している。何という大胆さでありましょうか。神のみこころにかなっているという確信が、神と顔を合わせて語り合い、神様が自分で一緒に歩んでくださいと頼み込んでゆかせるのです。人間モ-セではありますが、神の人モ-セでもあります。
では私たちはどうなのでしょう。2コリント6章16~18節に『私は彼等のうちに住み、また歩む。私は彼らの神となる』といわれている。ここで一つの条件があって、聖き者であることが求められている。
 聖さとは主イエスキリスト(1コリント1章30節)が私たちにとって知恵となり、義と聖と贖いになられている。この主を信じ受け入れる時に、みこころにかなうものとなる。信じる者こそ他の人々と区別された歩みをする秘訣である。
 信じる者にはあらゆる祝福が伴う。19節には『わたし自身、私のあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。私は恵もうするものを恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。』と仰せられた。
 何の功績も無い者が信仰のみによって神に受け入れられ、愛され、恵まれるのです。さらに神ご自身が一緒に行って安息を与えてくださるという(14節)。神のしてくださった恵みを信じることが生涯を分けてゆくのです。
<祈り>主よ。きょう、私と一緒に歩んでください。アーメン

主題 <アロンがほっておいたので>

聖書箇所 出エジプト記 32章  (2012年 5月14日)

今日のみことば「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。」(25)

 イスラエルにとってきわめて大きなとりとり返しのきかぬ失敗をしてしまう。神の山に上って四十日、帰らぬモ-セのことよりも、彼等にとって目に見える偶像の方が良かったのです。長年エジプトの偶像に慣れて育ってきたイスラエルにとってこの時は危機でした。
 神は霊であって、神を礼拝する者も霊とまことによって礼拝せよ(ヨハネ4章)といわれているが、目に見えて、触れることのできる、偶像を求めていく弱さは、昔も今も同じように私たちをむしばむのです。
 アロンはモ-セのいない留守中の霊的指導をするべきところ、「放っておいたので」(25節)民は乱れ、敵の物笑いとなってしまったのです。
 霊的緊張はキリスト者にとってきわめて大事なので、週ごとに神に近づき主の礼拝をささげるように召されています。
 霊的な高嶺を目指しているキリスト者にとって、絶えざる向上心と霊的な渇き、熱心な祈りを怠るときに、古き時代の生き方がよみがえってくる危険性がある。霊性は上に向かわぬ限り、停滞し、バックスライドしてしまう。自分と家族のための霊性のために忠実な信仰生活を打ち込んでいこう。

<祈り>緊張を失って大きな失敗し、霊的損失を招くことのないように。

主題 <主の任命してくださった奉仕を>

聖書箇所 出エジプト記 31章  (2012年 5月13日)

今日のみことば「見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。」 (6)
 前半はベツアルエルによって祭壇にかかわる聖なる器具を作らせている。第1に神様は彼を名指しで召して、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。神様自ら、特定の人を選び分けて用いてくださる。第2に『彼は、きわめて熱心な人であったと思われる。巧みに設計し、彫刻し、仕事をするのです。第3に神のみこころに心を明け渡し、従順な信仰者であった。能力のある人は、自分の好みの祭壇を作る誘惑にかられる。しかし、心の底から神様を第一にしたことがわかる。今日も一日神様の希望している祝福の歩みを、自分好みではない、主好みの一日とさせていただこう。
 後半は安息日を守ることを徹底させている。安息日は十戒の一つ、十分の一の教えではない。ここに安息日の幾つかの大事な啓示が明らかにされる。 第1は神と人とのしるしとなるという。第2は神様が人を聖別する主であることを知る。第3は人にとって安息日は聖なるものである。
 神様が六日間の創造の後に安息されたように、人間をして神様の安息の中に招き入れてくださろうという。何もこの安息日をわざわざ他のことに用いて魂を痩せさせることもあるまい。思い切って安息日の中に飛び込んで見よう。神様が幸いの保証人です。
<祈り>主よ。自分の好みではなく主のみこころに従わせてください。安息日を喜んで徹底的に守り、神の民であることを証しさせてください。