2012年3月20日 (火)

主題<主の御心を求めて祈る> 

聖書箇所 創世記 13章     (2012年 3月 3日)

今日のみことば「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」(4)

 エジプトを旅立ったアブラムたちは多くの羊、牛の群れを飼うようになっていた。彼らはかつて天幕を張ったべテルとアイの間の地へやってきた。そこは、アブラムは初めて主の祭壇を築いた場所でもあった。エジプトを離れ、逆戻りしてきたような中で、これからの歩みを主に祈る必要を覚えて、この地に戻ってきたと考えられる。
 アブラム、甥のロトは共に財産が増え、家畜の牧草地をめぐって争いも起こるようになった(7)。そこで、アブラムはロトにお互いの繁栄のために、互いに別々の地を行くことを提案した。
 それぞれの地を選択するにあたりアブラムは甥のロトにまず選択権を与えた。ロトの繁栄を願うこともあったと思われるが、いるれにしてもアブラムはこの提案をした時点で神にゆだねていたと思われる。それは、提案をする前にアブラムは祈っていたことから分かる。
 ロトはアブラムの提案を受けて、見渡して豊かに見えるヨルダンの低地を選択する。ロトの選択はすごく当然の選択だったと思われる。でも、その選択の基準は必ずしも神の御心を求めるというよりは、より経済的な安定を求めての基準で選択したと言わざるを得ない。この選択をして、ロトたちはすぐに旅立っていたことからしても、アブラムは祈り、祭壇を築いたということとは違う。
 アブラムはかつてのエジプトでの失敗を思い起こしていたのではないだろうか。一策を計ずるよりも、まず、神の御前に導きを求めていこうとしたことは成長の一端を見たように思わされる。
 14~17節で、神はアブラムに告げて言われたことは、さらなる祝福の約束でした。
 私たちもまず最初に主の前にみこころを求める祈りをしよう。

主題 <神の介入>

聖書箇所 創世記 12章     (2012年 3月 2日)

今日のみことば「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」(17)

 12章からアブラム(アブラハム)の生涯について記されている。1~3節のアブラハム契約はこれより以降、アブラハムのみならず、イスラエル民族にとって神からの祝福の基いとなっている。
 アブラムは「わたしの示す地へ行きなさい。」(1)との命令をすぐに受け入れて新たな旅立ちをしました。この時、75歳であったと(4)記されている。アブラハムの一生は175歳であった(25:7)とあることから、人生の後半戦に入るという時にアブラハムは今までの住み慣れた故郷を離れて出て行った。先が見えている旅ではなく、不安、恐れもあったであろう。しかし、主の命令に従って出ていくならば、祝福しようという約束を信じて決断して出ていくことができたのだろう。
 旅立ったアブラムだったが、エジプトの地に入った時、その地は飢饉で、まず最初の試練を経験する。アブラムは妻サライの美しさのゆえに、サライを奪うためにエジプト人に殺されないかと恐れ、妻サライを妹と偽るようにした。結果、サライはエジプトの王パロに召しいられ、アブラムはパロから財産をも与えられるほどになった。しかし、このアブラムの策に神は介入される。神はパロの王家に災害をもたらされた。
 アブラムは一策を立てうまくいったと思っていたかもしれない。しかし、このアブラムの神の御手、神による祝福を忘れたかのような行動に介入されたのである。再び、エジプトを離れ、旅立つように導かれた。
 私たちもアブラムのような弱さがあるのではないだろうか。神の御手に導かれていくことを第一に求める者でありたいと願います。

主題 <バベルの塔>

聖書箇所 創世記 11章     (2012年 3月 1日)

今日のみことば「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」」(4)

 洪水以後、ノアの系図にあった人間は地上に増え広がっていった。広がっていきながらも人間はこの時、一つのことばで話していた(1)。その人間たちはシヌアル(バビロン)の地に定住した時、彼らは「「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(4)と言って、一つの塔を築こうとした。「天に届く塔」ということから人間が神に挑戦するようなこころみを持ち始めていたと見ることが出来る。また、「名をあげよう」ということから自己顕示欲がうまれてきているとも見ることが出来る。また、「われわれが全地に散らされるといけないから。」ということから考えると、一体性が失われることへの恐れがあったことも伺える。
 人間は名誉心、自己顕示欲が出ると、それを守ろうとする防御反応が出てくるのは今日も変わらないのではないだろうか。バベルの町の人々は、一つの塔の建設が精神的な拠り所として、彼らの力の象徴として築き、民が一致して力を誇示しようとしたことは、現代も、さまなざな武力、核兵器の保持など国々が競い合って保持しようとしている姿に似ているように思う。
 神は、この「天にまで届く塔」と息巻いていた人々のところに、「降りてきて来られた」(5)とあるように、結局は神がわざわざ降りて来られるほどにその塔は低い物でしかなかったことを示している。人間の浅はかさ、愚かさを知らされたことであったと言える。
 今日、私たちは自己中心的な生き方から離れ、神の御前にへりくだった歩みをしていくことができるように祈ろう。

主題 <ノアの系図>

聖書箇所 創世記 10章     (2012年 2月29日)

今日のみことば「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」(32)

10章は、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤベテの系図が記されている。ノアの息子はセム、ハム、ヤペテの順であるが、系図はヤぺテ、ハム、セムの順に展開されている。これはセムの系図からアブラハムが出て、これ以降、神の救いのご計画で重要さを持つのは、セムの系図であることを示している。
系図の名前は、個人と、氏族全体を表現しているものとが混在し、約七十の民族のリストとなっている。ヤベテの子孫からは「海沿いの国々が」分かれ出た(5)。ハムの子孫は、シヌアル(バビロン)、アシェル(アッシリヤ)などの地域に進出し、ニムロデのような権力者を輩出した。またミツライム(エジプト)、カナンヘも進出し諸氏族が分かれ出たことが記されている。これらの民族の拡大は、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」という、主のことばの実現であったと言える(創世記9:1)。
セムの子孫は「メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯」を定住地とし(30)、このセム族の流れの中から、アブラハムは出て、イスラエル民族が立てられることとなる。
一つの家族から、再び、地上はまたたくまに広範囲に人間は増え広がったことが記されていることは、洪水後の地上は人間が住むのに適した環境を備えて下さったということでもあり、確かに神はこのよなく人間をあわれみ深く導き、諸民族のリストが記されているということは、人々が増え広がっていく様を注意深く見ておられたということができる。
今日、私にも主の憐れみの目が注がれていることを覚えたいと思います。

主題 <永遠の契約> 

聖書箇所 創世記 9章      (2012年 2月28日)

今日のみことば「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(11)

 祭壇を築き、全焼のいけにえをささげたノアに主なる神は語りかけられた。1~7節にて語られた内容はかつてアダムにも与えられた使命(創世記1:28~30)と基本的には同じでした。再び、地に生きて、増え広がっていくことをお許しになられた。
 さらに神は洪水によって地を滅ぼしたが、これから後、洪水によって地を滅ぼすことはしないとの契約をたてられ、そのしるしとして虹を立てられた(11~13)。「虹」はヘブル語で「弓」をも意味している。その「弓」が天に向かって立っているということは、人にむけられたさばきは終結し、和解したことを意味していたと言えることだった。
 では、もうこの地上を、人間をさばかれないということなのか。この後、人間は増え広がっていく中で、また、地上は悪に満ちていく様へと移り変わっていってしまう。この悪、罪に対してさbかれないということではなく、洪水によって一掃されるのではなく、むしろ一掃してしまうことがないように、人間が罪を犯し、悪を行っていたならば、悔い改めていくように導かれようと働きかけてくださるという神の熱心が明らかにされた契約であったことを覚えたいと思います。人間が滅びてしまわないように、新たに神の前に悔い改めて導かれていくことを願っておられる神は、ついひとり子なる御子イエスをこの地に遣わされ、そのいのちをささげられることまでして、滅びから救われようとして下さった神の深いあわれみ、その熱心に感謝する者となりたいと思います。

主題 <祭壇を築いて>

聖書箇所 創世記 8章      (2012年 2月27日)

今日のみことば「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」(20)

 洪水が始まったのはノアが六百歳の時で(創世記7:6)、地上がかわき始めたのがノアが六百一歳(創世記8:13)となっていたとあり、おおよそ1年もの間、洪水が続き、ノアの家族は箱舟の中に留まっていたことが分かる。1年もの間、洪水の恐ろしさをまざまざと見させられ、この先どのようになるか不安を感じていたかもしれない。
 箱舟にて過ごした1年はノアの家族にとって必要な時でもあったように思わされる。この地上が洪水によってさばかれなくてはならなくなるほどに地上は悪に満ちていたこと。そして、ノアの家族が箱舟によって助かったということは、今後、ノアの家族が、この地上を生きていかなくてはならないこと。さまざまなことを思いめぐらし、より一層、神がすべてをご支配されておられるお方であることを知らされていく機会となったと思うのです。
 神の主権、ご支配を覚えたノアの家族は箱舟から出て、地上に立った時、まず初めに何をしたのか。それは「主のために祭壇を築き、・・・全焼のいけにえをささげた。」(20)ことでした。ノアは神の御業を見させられ、神の主権を覚えさせられた時、人がまず何をすべきかを教えてくれている。それは、これまでの歩みに感謝し、罪を悔い改め、新たに与えられる歩みを神にあって歩む、献身の生涯としてスタートしていくことであったということが分かります。
 このノアの姿勢は、今日の私たちも同様に問われているのではないでしょうか。この地上に生かされていることを覚え、神の前に赦されて与えられている歩みを神に感謝し、神を第一として歩む者とならせて頂きたいと願います。

主題 <ノアの家族の救い>

聖書箇所 創世記 7章      (2012年 2月26日)

今日のみことば「こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」 (23)

 いよいよノアは箱舟を完成し、箱舟に入るように命じられた。箱舟にノアの家族をはじめ、あらゆる動物たちが箱舟に入って7日が過ぎ、40日間雨が降り続き、いよいよ地に洪水がおこった。時間を追うごとに、またたくまに地上は水で覆われて言ったことが記されている。そして、動物たちをはじめ、他の人間もみな死に絶えた(21)と記され、確かにすべてのものを一掃されるように死に絶えていったという恐ろしい様が描かれている。
 大洪水の中で、「ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」 (23) とあり、7章の中で「消し去る」(4)、「死に絶えた」(21)、「死んだ」(22)などのことばが数多く出てくる中で、箱舟にいたものたちが「残った」(23)とあることばは、意図的に非常に強調して語られているととることができる。
 神はノアに箱舟の建造を命じられた時に、ノアと契約を結ばれていた(6:18)。この神とノアとの契約の故に、これ以降、ノアの家族は生かされていく。箱舟は多くのものを消し去られる中で、唯一の救いとなった。
 このノアの箱舟の出来事は、神の救いの御業の一端を象徴的に示している。それは、神の契約のうちに、神の方法で、唯一の救いの手段として与えられ、明確な救いであったことを示している。それは、今日、主イエス・キリストによる神のみこころのうちに、唯一の救い主として来られたお方による救いを予表していたと言える。
 神の救いの契約に入れられている恵みを深く感謝しよう。

主題<ノアの箱舟>

聖書箇所 創世記 6章      (2012年 2月25日)

今日のみことば「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」(22)

 6章からはノアの歴史が記されている。このノアの歴史が記される前に、1~7節までに、地上の悪が増大し、神は悔やまれ、この地上のすべての生き物を、それは人間を含めて消し去ろうと決断されたことが記されている。かつて、アダム、エバ、カインと罪を犯した者たちに対して、神は彼らを生かされ、大きな憐れみのうちに守ってもいてくださったが、しかし、人間は罪を繰り返し続けてきたという現実を前に、この地上のものを一掃されることを決断される。
 そこで、8節以降に記されているノアの歴史は興味深いものがある。神は地上のすべてを一掃されようと決断されながら、しかし、ノアに目を留められ、神は「ノアは神とともに歩んだ」(9)と言われ、ノアの家族を守られようとされることが記されている。改めて、ここでも神のあわれみは尽きないことを感じさせられる。
 神はノアに対して箱舟の建造を命じられる。非常におおきな建造物となる箱舟を建造することは簡単なことではなかったであろう。しかし、「ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」(22)とあるように、忠実に実行していった。
 ノアの箱舟の建造から教えられることは、地上に悪が増大し、つまりは神を恐れることさえなくなっている地上の人々の中にあって、ノアは神のみこころに従い、忠実に生きようとしている点にある。そして、ノアにとっては大事業と共に、それは危機から脱出という緊迫感のあるものだったと言える。この状況にあって、「神とともに歩む」ことを全うしようとしたノアの信仰に私たちもならう者とさせて頂きたいと思います。

主題 <神と共に歩んだエノク>

聖書箇所 創世記 5章      (2012年 2月24日)

今日のみことば「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。」(22)

 5章はアダムの系譜が記されている。5章6節「セツ」の名があり、アダムから生まれたセツの系譜を通して、神の御業は進められていくことが記されている。
 このセツの系譜は単純な名前の羅列、どれほど生きたかと言う遍歴をたどっているが、唯一、エノクのみが一言加えて語られている。それは「メトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ」(22)ということばである。そして、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(24)ともあり、聖書の中で、地上の死を見ることなく、天にあげられていった人として、エノク、エリヤといるが、数少ない死を見ずして天にあげられた人として紹介されている。
 注目したいことは、第一に、三百年、神と共に歩んだということは、その半生を神との深い交わりの中に生きた人であったということw示している点である。そして、それは地上の生涯の最後の時まで続き、ついに神によって彼はとられ天へとあげられたということは何と幸いな人生だったのではないかと思う。
 第二、神はエノクが神と共に歩んだと言われているように、神の関心事は、神と共にあるかということが分かる。アダムとエバは神の御前から身を隠した時から、神から離れていく人間に対して、しかし、神の御前に求めて生きていくいかということに深く関心が向けられていると言えよう。
 第三に、神は共に歩むという人間の人生に同行されるように、歩んでくださるお方であるということも暗に言っているということに気付きたい。神は、今も、私たちの人生の同行者となってくださり、導いてくださるお方であることを覚えたいと思います。

主題 <人類最初の殺人> 

聖書箇所 創世記 4章      (2012年 2月23日)

今日のみことば「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」(5)

 アダムとエバとの間に2人の息子カインとアベルが与えられた。兄カインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者となった。ある時、それぞれが神へのささげものを持ってやってきたが、アベルは羊の初子の中から「最上のもの」をささげた。神はアベルのささげものに目を留められた。神はささげものが「最上のもの」であったという以上に、最上のものをささげようと感謝をもって主の御前にやって来たアベルに目を留められた。
 一方、兄カインは「ひどく怒り、顔を伏せた。」(5)とあり、非常に不愉快に思い、神に怒りを燃やしている。自分にとって不都合な結果を怒りに変えて、ついには理不尽な肉親である弟を殺してしまうという人類最初の殺人へと発展してしまった。さらに恐ろしいことは、カインは自分の犯した罪をしらを切って悔い改めることをしなかったという一面は、今日の人間のうちにも見る恐ろしさを感じさせられる。
 しかし、罪を指摘されたカインは慌てて主の守りを求めていく(13~14)。そのようなカインに対して、神はエデンの東に住まわせられるようにされた。私は、聖書を何度読んでもこの箇所を読むたびに、神のあわれみの深さを感じさせられる。
 「神のかかち」の崩壊してしまっている人間は、その人間関係を歪め、人を傷つけていく恐ろしさを持っていることを証明している出来事だったと言える。しかし、そのような人間の罪の現実に際しても神のあわれみは尽きていない。そして、後に、この罪の解決のために御子イエスを遣わして下さり、解決を与えて下さった福音のすばらしさを一層感謝する者とならせて頂きたいと思います。