2012年3月20日 (火)

主題 <罪に堕ちた人間> 

聖書箇所 創世記 3章      (2012年 2月22日)

今日のみことば「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(8)

3章では、人間(女)が蛇(サタン)の巧みな問答による会話の中で罪を犯していく姿が描かれている。
特に、エバが蛇(サタン)に「神のようになる」(5)とのことばは非常に魅力的な誘惑となったことが良く分かる。主イエスも公生涯に入られる前に40日間荒野における誘惑を受けられたが、その時もサタンはことば巧みに魅力的なこと事を見せては誘惑してきた。時代を越えて、サタンは人間の深みの欲望を引き出すようなささやき声をもって語ってくることに注意しなくてはならない。
エバとアダムは罪を犯した結果は、一言で言えば「神のかたち」の崩壊であったということが出来る。
第一に、神との交わりの断絶であった(8)。本来、神のかたちに似せて造られた人間は神との交わりを持つ存在として創造されたはずであったが、神に背を向けていくようになってしまった。
第二に、人間関係の崩壊である(12)。エバとアダムとの間に、罪を犯させた責任のなすり合いをしていく姿に見られるように、責任転嫁、自らの正当性の主張は自己保身ということだけでなく、決定的な独善的な人間関係の崩壊となってしまった。
第三に、被造世界との関係の崩壊である(17)。土地はのろわれ、人にとって働くことは苦役となり、ついには地のちりに帰るという死ななくてはならなくなってしまった。
人間が罪を犯し堕落してしまったこの恐ろしさを自覚しなくてはならない。私たちのうちにある罪の現実を自覚しているだろうか。

主題 <人の創造> 

聖書箇所 創世記 2章      (2012年 2月21日)

今日のみことば「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(7)

 創世記2章では、人間の創造に焦点が向けられている。天地万物の創造の御業は人間の創造でクライマックスを迎えるように書き記され、神の視点はたった一人の人間の創造に向けられているように、今も一人の人間、魂に深く関心を表わされるお方であることを思い起こさせてくださるよううである。
 神の創造の御業において、人間の創造は特別であった。1章27節「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とあったように、人間だけが神のかたちに似せられて造られたという点で他の被造物とはまるで違う特別な存在として創造されている。
 その人間の創造について、さらに2章7節「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」と言われ、「いのちの息」が吹き込まれて生きる者となったと言われている。この「息」という言葉は、聖書の他の箇所では「霊」と訳されている。つまり、人間はこの息(霊)を持つ存在であり、これは主である神に起因していることを明確に語られている。そういう意味では他の被造物に比べて人間は神にあって生きる存在であると言うことが出来るであろう。
 神は人間にこの被造世界を治めていくように命じられ、これを行う者として創造された(1:28)はずが、いつしか人間自らが神のように命令の主体となって、人間の思うがままの支配権を行使するようになり、現代はその極みに達してしまった時代にあるとも言えるだろう。
 改めて、本来の人間の創造のすばらしさとその尊い使命を確認していかなくてはならない。生きる者とされたことも目的を改めてみことばから確認したいと思います。

主題 <神の創造の御業> 

聖書箇所 創世記 1章      (2012年 2月20日)

今日のみことば「そのとき、神が、「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神は、この光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(3~4)

 創世記1章は天地万物の創造の御業が語られている。すべての創造の御業は神のことばにはじまっている。この神の創造について以下の事を覚えたい。
 第一に、神のことばの力である。神の一声によって万物は創造された。この神のみことばは、今、聖書として書き記され、私たちはまさに、神のみことばに触れさせて頂いているということは何にも増して驚くべきことであるということを確認したい。
 第二に、神は光を創造され、やみに区別を与えられたということである。神の創造のはじめが「光」であったということは、非常に象徴的である。「光」について言えば、ヨハネ8章12節「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」とあり、新約聖書では「光」は主イエスを指しており、ヨハネ1章5節「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」とも言われ、やみを一掃される光のように主イエスが輝き、勝利を与えられる方として言われていることを考える時、神の創造のはじめはあらゆることに対する神の支配、そして、神の導きの中に被造物はあるということを覚えなくてはならない。
 現代社会に生きる私たちは、この世のやみを見て恐ろしさを覚えることがあるが、しかし、光を備えられたという事実を覚え、神の導きに希望をおく者とさせて頂きたい。そして、詩篇119篇105節「あなたのみことばは、わたしの足のともしび、私の道の光です。」との告白のように、主のみことばの導きを求めていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <預言のことばを封じない>

聖書箇所ヨハネの黙示録22章6~21節(2012年 2月19日)

今日のみことば「また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」 (10)

神のご計画とその成就のすべてが、全聖書に啓示されています。ことに黙示録は「すぐに起こるべきこと」が示され、「見よ。わたしはすぐに来る。」(6~7)ことが予告されているのです。神のなさることは、時として人間には不可解のように思われます。ですから聖書もわかりにくい書であります。
 だからといって、人々の気に入るように作りかえて、その時代時代に変更していたなら、きっと聖書は今頃存在していなかったに違いない。時代は気ままに動きます。その時代に生きる、人間が動きやすい、振り回されやすいものだからです。
 しかし神のことばは不動であり、碑に刻まれた文字のように立ち続けます。時代にそぐわぬようにみえた神のことばがある日、光を放ち、輝きはじめ、語り出すのです。天と地が崩れ去る日が来たときも、神のことばは生きており、一点一画も落ちない。
 この聖書に付け加えても、削除してもいけない。それは神のみ業に対して人間が付け加えることであり、人の知恵が神の働きを制限することだからです。
 聖書の預言のことばを封じてはいけない(10)のです。まだ今開かれるときでないと勝手に判断して、神の時を人が決められると高ぶる人を神は嫌われます。ことに、「時が近づいているからである」(10)。人々の悪さは甚だしくなり、良い人は一層清くなっている今の時を、私たちはしっかり見据えて生きよう。
<祈り>主よ。終わりの時が近づいています。みことばを大切に生きられるように。

主題<もはや夜がない> 

聖書箇所ヨハネの黙示録22章1~5節(2012年 2月18日)

今日のみことば「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(5)

 夜、それは暗黒と不安と孤独の象徴でしょう。新しい御国は「もはや夜がない」のです。
 御使いはヨハネにすばらしい新天新地を見せました。ヨハネは小躍りするようにして、つぶさに見たことを書き記します。それは後代の私たちへの希望と力と喜びのためでした。今聖書を読み終える最後の章において、どれほどヨハネに感謝し、また主イエス様に感謝したらよいでしょう。
 聖書の長い長い啓示もみなここにたどり着くための歴史でした。私たちの人生も、その長い歩みも、苦難の数々も、行き着く永遠の住まいは天の御国です。あの嵐吹き、地震えるような終末の激しい出来事も、このすばらしい都の中央を流れる命の川とその岸辺に実る命の木の実を食したときに癒されるのです。
 激しかった呪いが一切見られません。都の中央に神と子羊がいます。人間社会の中心には権力者が幅を利かせ、弱者を痛め尽くしていたのとくらべて、何という平和でしょう。人々はみな神に仕え、神のみ顔を見ているのです。平和と愛の神のみ顔をいつも見ているのです。主のみ顔を見て満ち足りているのです(詩篇)。
 神が光であって神の光が照りわたっているところには、回転のかげりさえない(ヤコブ1:17)。灯火の光も太陽の光さえも、もはや必要がないのです。彼等は永遠に王であると言われるように、神を信じた者が世界を治め、神の統治に生きるのです。そこは乱れも、争いもない世界です。
<祈り>主よ。御国のすばらしさを黙想しつつ、今日を歩ませてください。

主題 <新しい天と新しい地>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 21章 (2012年 2月17日)

今日のみことば「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(1)

「また私は、見た」(1)という。
ヨハネは、長い神様の審判の歴史の展開に続いて、ついに新しい天と新しい地を見たのです。この新天新地は、聖なる都と呼ばれ、新しいエルサレムとも表現されているすばらしい世界です。
 第1に、この新天新地は天から下ってくるものです。この新天新地は地上からわき出たもの、人間の生み出したものではありません。神様が設計し、神様が用意された御国です。地上のものでは類推できないほどのものです。
 第2に、古いもの、罪、悪、汚れたものは過ぎ去ったことの宣言です。海(1)は悪の出てくる場という意味でしょう。神は「すべてを新しくする」方です。8節、27節にある罪人は、入ることができない。しかし主への信仰を持つ者は、いっさいの罪と罪過から救われ、御国の民の特権を得ることになります。勝利を得る者とは主イエス・キリストを神の子と信じる人です。
 第3に、永遠に神の幕屋が人とともにあり、神が人とともに住み、主を信じる者は神による豊かな慰めを受けつつ、至福の中に生きるのです。悲しみ、苦しみ、涙がない御国である。
 すばらしい神のつくられた天国への希望を、いつも見続けていたい。
<祈り>主よ。いつも御国をのぞみ見て、歩ませてください。

主題 <千年王国と悪魔の滅び>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 20章(2012年 2月16日)

今日のみことば「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(6)

千年王国の預言が記されている。この期間、サタンは底しれぬ所に閉じこめられ、 封印されてしまい、人々を惑わすことができません。
 この千年の間は、殉教した人々や群像を拝まなかった人々、サタンの刻印を押されなかった人々が生き返るのです。この人々は、13:16~17にある、サタンに従って経済的な特権を手にして貪った人々と違って、おわりまで忠実に耐え忍んだ人々(2:10)であって、命の冠をいただいた人々です。
 この第1の復活にあずかることのできる者は幸いな人(16)で、もはや第2の死は何の力も持っていないのです。
 千年王国後の一時期、サタンは解放され、最後の戦いにおもむき、ついに火の池に投げ込まれます。サタンはにせ預言者とともに、永遠に昼も夜も苦しみを受けることになります。
 また、死んだ人々が神のみ座に立ち、一人一人の行いに応じた裁きがなされます。地上において行ったすべての行為が、数々の書物に記録されています。
 やがての日に、恥ずかしい多くの罪と失敗が明るみに出されます。
 しかし、子羊の命の書に名の記された者は、このときに第2の死から救われます。永遠の御国に安息するのです。
<祈り>主よ。戦いの多いこの世に、あなたへの信仰によって勝利させてください。

主題 <子羊の宴会に招かれた者は幸い> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録 19章(2012年 2月15日)

今日のみことば「御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。」(9)

人間は、正しいよい人間関係を持つことによって幸福になり、悪い者との関係によって破滅に向かっていくのです。結婚による祝福された幸せに反して、悪い交わりが大きな恥をもたらすことをも見るのです。
 天にある御国に召された兄弟たちの大群衆の賛美は、ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わるすばらしいものです。
 その賛美の中に、神への賛美と悪魔とその手下たちへの報復をアーメン(正しい)と告白しています。この地上のきわまった悪は、人間が裁くことではありません(ローマ12:19「報復はわたしのすること」)。けれども必ず神は生きておられ、正しい審判が行われることを、今覚えましょう。
 一方、主キリストと主を信じた弟子との関係は、花婿と花嫁のようにすばらしい幸福な結婚生活に当てはめられています。すばらしい純白な装いをもって、子羊なるキリストの前に立つのです。
 終末の悲劇の裁きに目を奪われがちな私たちに、最も聖なる婚宴への招きを見ることは、大きな慰めであり、驚きです。
 エペソ書5章の夫と妻の結婚がキリストと教会の姿です。地上の夫婦は、いつもこうして天の御国をモデルにしながら、幸いな歩みをすることができます。
<祈り>主よ。御国の婚礼に向けて、清められた歩みをさせてください。

主題 <わが民よ。この女から離れなさい> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録 18章 (2012年 2月14日)

今日のみことば「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」(4)
天からの声が聞こえますか(4節)。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」という天の声です。朝日新聞の一面に「天声人語」という欄がありますが、本当の天声は聖書にあります。天の声とは、私たちの幸いのためのメッセージです。
 「わが民よ。」と呼びかけられている私たちは、神に選ばれ愛されていることをよく啓示しています。聖書を朗読し、心に留める人は幸い(1:3)なのは、神から受け入れられており、決して見捨てられないことを知っているからです。 「わが民よ。」「私の愛するものよ、さあ顔を見せておくれ、声を聞かせておくれ」と語りかけます(雅歌2章)。
 「この女から離れなさい」という。この女は魅力的な存在です。ありとあらゆる快楽があり、しかも豊富な資金力によって金持ちになれるのです。
 快楽と富という2つの魔力によって、どんなに多くの人は人生を台無しにし、一番大切な愛を忘れたり、悪を行うことを正当化したりします。
 罪のそうくつのようなバビロン、それは大きな魅力あふれた都市でした。そこには音楽が、芸術があり、あらゆる技術があり、収穫物をこなす臼がありました。このバビロンはいったい何をさすのでしょう。実際にあった都市というよりも罪に誘うこの世のことでしょう。
 主イエス様も公の奉仕に立たれるときに、荒野でサタンの攻撃を受けました。サタンはこの世の栄華を見せて、私を拝めば全部あげようとうそぶくのです。それは夢、幻にすぎません(マタイ4:9)。
 日本も世界一繁栄した国になったと錯覚した瞬間に、大不況になり、うめいております。資金の増加や株の収益は、あぶく銭だったのです。バブルがはじけた銀行も企業も、そして国民もみな空しさを今、味わっております。
 「金銭を愛することがすべての悪の根である」(Ⅰテモテ6:6~10)。「しかし神の人よ。あなたはこれらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」(同6:11)とすすめられている。すべての国々の民がトリックにだまされている時に、私たちは目をさまし、聖書に生き、恵みによって生きよう。

主題 <宗教的権力の堕落> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録 17章(2012年 2月13日)

今日のみことば「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」(1)
「ここに来なさい。裁きを見せましょう。」(1)とある。主は私たちに大切な終末と神の裁判を啓示されて、今を正しく生きるように導いてくださいます。
大淫婦とある女は、宗教的堕落をした象徴とされます。宗教が地の王たちと不品行を行うとは、政治と絡んでこの世の政治を操り、権益を得ようとすることです。外面的な飾り、形をこれみよがしに見せつけます。
それはキリスト教会の歴史にも見られるものであり、中世の暗黒時代、ローマ皇帝の支配権を得ています。また今日も大組織をもって人々をブドウ酒で酔わせてしまう。終末の大混乱はこうした形で人々の心を蝕んでいくのです。
獣については、緋色のどぎつい派手な色調であり、血に飢え、貧欲な、飽くことをしらない怪物です。この獣について昔いたが今いない、やがて底知れぬ地から上ってくるといいます。これが当時暴君ネロが死んだ後にネロの再来が現れる意味でもあります。しかし、こうした激しい迫害の中でこそ、キリスト教は破竹の勢いで成長したのです。
偽宗教団体が滅び行く姿を見るに、聖書の成就を見て驚くほどです。
第1に、獣は子羊と戦うが勝てない(14)。子羊は王の王、主の主ですから迫害のただ中でも決して悲鳴を上げなくてよいのです。 キリストに頼りきるときに、どんな苦しみも一時的なものにすぎなくなってくる。彼と 共にいるものは召された選ばれた忠実なものであるという。召されたもの、すなわち教会こそ最後的な勝利を収めるのです。
第2に、獣は淫婦を滅ぼしてしまう(16)。淫婦、すなわち宗教的に堕落した集団は、政治的な力を持って世界を支配しようとするが、結局目的に届かず滅ぼされるのです。彼等二組は真の結婚ではなく、不品行、すなわち利害が一致しなくなると互いにかみ合い、殺し合うようになる。悪魔は巧妙に人々をだまし、結局人々を滅ぼしていく。
第3に、神のみことばの成就までの間、悪のあがく働きが許されている(17)。神のみ心の中にある預言ことごとく成就するまでの間、クリスチャンが多くの試練に直 面するときです。今忍耐を働かせて、神のみ心の時まで祈り、教会生活を全うしよう。