2012年3月20日 (火)

主題 <アブラハムの最初の取得した土地>

聖書箇所 創世記 23章    (2012年 3月13日)

今日のみことば「アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。」(16)

 アブラハムと共に長年連れ添った妻サラが127歳の地上の生涯を終えて、ヘブロンで死んだ。アブラハムはサラのために「嘆き、泣いた。」(2)。最愛の妻を亡くしたアブラハムにとって悲しみは大きかったが、妻の葬るために、最大限のことをしようとする。
 アブラハムはその土地の人ヘテ人に妻サラを葬るための土地を求め、エフロンの所有するマクペラのほら穴を紹介される。エフロンはアブラハムにそのほら穴のある土地を銀400シュケルの値段で取引を申し出た。銀400シュケルは法外な値段だったと言える。しかし、アブラハムは言い値通りに支払いをし、妻サラを葬った。
 神さまはかつて約束の地カナンを与えられると約束されていた。結果的に、この土地がアブラハムがカナン地域に初めて所有した土地となる。その土地は、カナン地域の中のわずかのわずかで、墓として埋葬するための土地であった。それも法外な値段での取引で所有するというものだった。
 この行動は、最愛の妻のために最大限できることとしてのアブラハムの行動であると共に、神さまがやがて約束の地カナンを与えて下さるというための第一歩の所有地として支払ったものとしては決して惜しむお金ではないというアブラハムの心境がそこにあったと思われる。
 神さまの約束を信じ歩むことに、財産や労力を惜しむことはないようにと教えてくれているのではないだろうか。主のために最大限ささげ仕えていくという歩みを今日も一歩前進させて頂きたいと思います。

主題 <試練の中で主に従う信仰>

聖書箇所 創世記 22章   (2012年 3月 12日)

今日のみことば「アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。」(8)

 アブラハムの人生の中で人生最大の試練が書かれている。それは念願の子孫として与えられた一人息子のイサクを全焼のいけにえとしてささげよというものでした(2)。
 アブラハムにとって理解に苦しんだ命令であったと思うし、今日の私たちも同じ立場にたったら悩むことであろうと思う。理不尽に思えることには、かつてソドムとゴモラをさばこうとされた時でさえ、アブラハム執拗なまでにとりなしをしたことがあった。今回も、アブラハムは主に訴えかけても良かったように思われるが、しかし、アブラハムはイサクを連れてモリヤの地を目指した。
 道中、イサクは全焼のいけにえとしてささげる羊はどこにあるのかと父アブラハムに問う。アブラハムは、「神ご自身が備えてくださるのだ。」と答えている(8)。主の命令はイサクをささげることであることを知っていたアブラハムにとって苦しい返答であったように思う。しかし、このことばが、実際に主の備えられた羊を見出すに至っている(13)。
 新改訳聖書の8節の脚注に「備えて」は直訳では「見つける」ということばであることが記されている。言い換えれば、主の備えを、主のなされる御業、主の御心を見出すというニュアンスがあるということができる。つまり、アブラハムはイサクに苦し紛れに言った言葉と言うよりも、むしろ、理解に苦しむ試練の中にも、主の働きと御心を見出すことが出来るはずであるという信仰をもって言ったことばであったと取ることが出来るのです。私たちも試練の中で神の御心を見出すことが出来るように祈りましょう。

主題 <神の背後にある御手>

聖書箇所 創世記 21章    (2012年 3月11日)

今日のみことば「「そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。」 (27)

21章にて、アブラハムに神の約束の通りに、待望のイサクが与えられた。この時、百歳を迎えていたが、神のなされることに不可能はなく、現実のものとなった。
 しかし、ここで一つの問題が出てくる。それは、先に女奴隷ハガルを通して与えられたイシュマエルについてであった。このことはアブラハムの悩みとなった(11)。悩みの中で、出した結論は、ハガルとイシュマエルを追放することとした。一見、冷たい扱いと思えるが、「はしための子も、わたしの国民としよう。」(13)との主の約束を基に送り出すこととしている。確かに、荒野をさまようこととなったハガル、イシュマエル親子に神は顧みられ、定住地と井戸を与えられたのだった。
 さらに、21章後半ではアビメレク王が再び出てくる。アブラハムはゲラル地域にあって豊かになり、アビメレク王は平和協定を結ぶ必要を覚えて出てきた。かつて、自分の身分を偽ってゲラルの地に入ったアブラハムは、アビメレク王に並ぶほどの影響力を持つほどに力を増していたということになる。確かに、主がアブラハムを祝福されてきた結果と言えよう。
 イシュマエルのこと、アビメレク王のことについて、それぞれアブラハムにといって重大な課題であったと言える。しかし、神は、それらのことをご存知で、一つ一つ最善に導かれていく。ここに神の見えざる御手が働かれていたことを認めざるを得ない。
 神は今も働かれており、最善を導いてくださるお方であることを覚えたいと思います。 

主題<繰り返される失敗> 

聖書箇所 創世記 20章    (2012年 3月10日)

今日のみことば「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。」(17)
 ソドムとゴモラの出来事の後、アブラハムはゲラルの地に滞在した。そこでアブラハムはエジプトにいた時と同じように妻サラを妹と偽った。かつて身の安全のための一策を計じた時と同じことをくり返し行ってしまった。このことはエジプトにいた時と同じように、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れることとなった。
 しかし、今回はかつてのエジプトのパロを痛めつけるということではなく、神は直接アビメレクに夢の中で語られた。アブラハムにサラが妻であることを問い正し、真実を知ったアビメレクはその非を償いを徹底的にしている(14~16)。アビメレクは権力者でありながらも、決して、高慢に私利私欲に生きた王ではなかったようである。それ故か、神は被害をもたらされるのではなく、真実を知らせることで止められたのかもしれない。
 いずれにしてもアブラハムはゲラルの地でも、身の保身から神に信頼することが出来ずに同じ失敗を繰り返してしまったということが明らかにされている。アブラハムは知らない異国の地にあって、人におもねる弱さがあったと言える。人間の弱さはなかなか変わらないという面がることを示していると言える。遅れながらもアブラハムは神の前に悔い改めて祈った(17)。
 しかし、驚くべきことは、神はアブラハムの度重なる失敗にも関わらず、神は介入され、導かれようとされている。アブラハムとの契約の故に、そのあわれみに満ちた計らい、熱心さに驚かされる。同じ様な失敗をくり返しながらも、決して見捨てないと言われる神に、私たちは改めて信頼する者ではなくてはならないことを教えてくれている。

主題 <振り返らずに歩む信仰>

聖書箇所 創世記 19章    (2012年 3月 9日)

今日のみことば「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」(26)

 アブラハムのとりなしの祈りがあったが、ソドムとゴモラへのさばきは現実のものとなる。
 ソドムの門のところに座っていたロトは二人の御使いを見るなりひれ伏して拝み、自分の家に泊まるように願い求めた。このことを見た町の者たちはロトの家に押しかけ、「彼らをよく知りたい。」(5)とやってきた。これは単に好奇心でやってきたというよりは、性的な関心から詰めかけてきたと理解できる。英語で「ソドミー」(男色)という言葉はこのことが由来とされている程である。ソドムは性的な混乱、暴力に満ちていた町であったと言える。ロト家族は御使いたちを守ろうとして、町の人々からの暴力にさらされ危機にさらされてしまう。しかし、この御使いたちによって、町を脱出するように促され、ロト一家はツォアルへ逃れていく。
 そして、いよいよソドムとゴモラの町に硫黄の火が下り、一瞬のうちに町は滅び失せてしまった。この時、ロトの後ろにいたロトの妻は振り返ったので、塩の柱になってしまった。これまで、長く住んでいた町であったということもあって後ろ髪が引かれるものがあったと思われる。ロト自身も町を出るように言われた時もためらっている(16)。でも、主に導かれて決断したならば、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進んでいくこと、この時に信仰が本当に必要であることを思わされる。
 パウロは「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)と言っている。神を信じ歩む者は今の暮らし向きに目を留めるのではなく、神の栄冠に目を留めて歩む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <アブラハムのとりなしの祈り> 

聖書箇所 創世記 18章    (2012年 3月 8日)

今日のみことば「彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」」(32)
  18~19章にはソドムとゴモラへの神のさばき、ロト家族に焦点が向けられている。今日は、特に18章22節以降にあるアブラハムのとりなしの祈りについて考えたいと思う。
 アブラハムのところに立ち寄られた神の人たちはソドムとゴモラへさばきを下すために下されていったが、アブラハムは「まだ主の前に立っていた。」(22)とある。アブラハムは少数の正しい者がいるのに、町全体を悪として滅ぼされるのかと主に問われるために、主の前から離れなかった。そして、アブラハムは主と問答するように、ソドムとゴモラへのさばきについて、正しい者たちが50人、45人、40人、30人、20人、10人と執拗なまでに主にとりなしていく姿が記されている。ソドムとゴモラの町にはロト家族がいたこともあって、アブラハムはさばきを考え直してもらいたいと願い求めていくが、実際のところ、ロトとその妻、そして二人の娘以外に正しい者を見つけることができず滅ぼされていくことになる。そして、ロト家族も背後にこのようなアブラハムのとりなしの祈りがあったことは知らない。
 今日の箇所で覚えたいことは、まず知られないところにあってとりなしの祈りがささげられていることは重要なことであるということを覚えたい。実は、今日、あなたのためにとりなし祈ってくださっている人があるかもしれないし、あなたは誰かのためにとりなし祈ることができるということを覚えたい。そして、神はわずが少数という信仰者であっても、そこに存在しているならば顧みて下さるあわれみ深いお方がおられることを覚え、失望せずに祈る者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の契約に応答する>

聖書箇所 創世記 17章    (2012年 3月 7日)

今日のみことば「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」(5)

 神はアブラムにかつて約束された契約(12章)に基づき、さらに具体的に契約される。それは「子孫がおびただしく増やし」、「カナンの全土を・・・永遠の所有として与える。」(6-8)というものだった。そのため、アブラムとの名前がアブラハム(多くの国民の父という意味)に変えられるように言われた(5)。
 そして、待ち望んでいたアブラハムの子孫について、妻サラから生まれる男の子イサクが与えられるとの約束がなされた。アブラハムにとって信じがたいことで、すでに与えられていたイシュマエルを祝福してくださいと求めるほどに(18)、信じがたいことであった。
 これらの契約が示される中、神は割礼をほどこすように命じられた。割礼は男性の包皮を切り捨てることであるが、これはいのちを継承していくということに、絶えず神の祝福であることを覚えていくため、契約は継続性を示していくしるしとして行うように言われたことであった。アブラハム、そしてイシュマエルもすぐに命いじられた通り、割礼をほどこしたのだった。
 神の契約に基づいて、人間の側での応答として、割礼をほどこすということがはじめてなされた。そして、このことは聖書のうちに見る原則となっていることを思わされる。神は契約され、その応答を求められるというのは、今、キリストの十字架によって神のあわれみと赦しが示されていることに、信仰をもって応答していくということになぞられる。神のなされることは、いつの用意周到で、最善であり、恵みが先行している。私たちは、この神を信じ応答し、いつの時にも神に従う者でありたいと願います。

主題 <神の時、神の方法がある> 

聖書箇所 創世記 16章    (2012年 3月 6日)

今日のみことば「ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。」(16)
 アブラムの次の世代の子孫が与えられなかった中、妻のサライはエジプト人の女奴隷ハガルによって与えられる子どもを自分たちの子ども、子孫として育てていこうとアブラムに提案する。そして、アブラムは妻サライの提案に対して、「自分の身から出た者が継ぐ」ということであるならば、神の約束の成就であると考え、この提案を受け入れたのだった。
 そして、ハガルはアブラムの子を身ごもった。この時からハガルはサライを見下すようになり、サライはハガルをいじめるようになり、ついにハガルは追い出されてしまった。ここに、人間的な解決を求めていった中におこった悲劇を見る思いがする。時に最善と思われたことが、問題となってしまうことがある。
 追われたハガルに対して、神は11~12節で言われているように、与えられる子どもを祝福されると言われ、あわれみを示された。さらなる悲惨なこととならないように神は介入され守られたのだった。
 アブラムは子孫を持つということのために、ハガルの胎を借りるということをしたことは、身勝手なことであったと言わざるを得ない。結果的に、アブラム、サライ夫婦にとってもこの後、問題の種となっていくことになった。何よりも子孫を与えられると約束されたのは神であったが、アブラムは人間的な手段で神が与えられると言われたことを成就しようとしたとも言える行動であった。それは目的が正しければ、手段は問わないという考えに通じるように思わされる。
 私たちは神がなされることがあると信じ、また、神がなされる時があり、神のなさる方法があるということをわきまえなくてはならない。
 いつの時にも、私たちは神のみこころを覚えて、待ち望む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の約束を信じる信仰> 

聖書箇所 創世記 15章    (2012年 3月 5日)

今日のみことば「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6)
  ケドルラオメルの軍を破り、ロト一家を救出したアブラハムはソドムの王から戦利品の財産を受け取るように言われた時、「アブラムを富ませたのは私だ。」と言わせないために、戦利品の財産を受け取らなかった。アブラムを祝福されるのは主なる神のみであることを明確にする告白であった。
 このような出来事の後に、主はアブラムに、「あなたの受ける報いは非常に大きい。」(1)と言われるが、アブラムは「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。」と言い、アブラムは随分の年齢を重ねてきたが、その子孫が与えられていないことを訴え、主からの祝福とは何かを問われた。
 そのようなアブラムに対して、神は「あなたの身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(4)と言われ、さらに「さあ、天を見上げなさい。」(5)と言われ、天の無数の星々を見せて「あなたの子孫はこのようになる」(5)と約束された。
 アブラムはこの一連の神の約束のことばを信じた(6)。この約束がいつ実現するかははっきりと示された訳ではなかった。しかし、それは確実な約束とアブラムは信じたのであった。実は、このようなアブラムの神に対する信じる信仰の姿勢こそが重要であり、神を信じるということはまさにこのアブラムの姿勢に学ばなくてはならない。神は、アブラムのこの全幅なる信頼、確信こそが、「彼の義と道認められた。」と言われている。
 私たちもなかなか祈っていても実現しないという中で焦り、不安に思っていることはないだろうか。実現することを待ち望む中にも、着実に神の働きがなされていることを覚えることができるように、信仰をもっとて待ち望むことができるように祈ろう。

主題 <富ませてくださるのは神のみ>

聖書箇所 創世記 14章     (2012年 3月 4日)

今日のみことば「しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」 (22~23)

 アブラムはロトと分かれて後、マムレの樫の木のところに住んでいた。そこへ、ソドムの地で紛争があって逃げてきた者から、紛争の状況とロトがケドルラオメルの軍隊によって巻き込まれ、財産を奪われ、拘束されていることを聞いた(12)。
 このことを知ったアブラムは親類の者318人と共にロトの救出に出て行った。そして、アブラム一行たちはケドルラオメルの軍隊に勝利して、ロトやその家族たちの救出に成功した(16)。
 勝利をおさめ帰ってきたアブラムに対して、シャレムの王メルキゼデクはアブラムを祝福する(19~20)。しかし、それはアブラムへの賛辞のようで、しかし「神に誉れあれ。」と言われているところに、アブラムの信じる神による勝利であり、神をほめたたえていた。
 ソドムの王はアブラムに戦利品の財産を自分で取るように言われるが、アブラムはその申し出を断る。それは、自分を富ませるのは神であるということを明確に示すためであった。
 アブラムの一連の行動は大胆なものであったと言える。戦うべき時に戦い、その戦いは神にあっての戦いとして戦い、その勝利は神に栄光を帰していくというものでした。シャレム(平和)の王メルキゼデク(義の王)の前に、アブラムは戦利品の十分の一をささげた。これは神にささげるという行為としてアブラムがとった行動でした。戦いの勝敗以上に、注目したいのは神のための戦いがあり、その戦いの勝利は神に帰していくことが重要であることを、現代に生きる私たちも覚えたい。