2012年2月 2日 (木)

主題 <患難の時代の聖徒たち> 

聖書箇所ヨハネの黙示録7章1~17節(2012年 2月 2日)

今日のみことば「それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」 (4)

 7章には4つのテーマがあり、第6と第7の封印の間、すなわち終末の時代がかい間見られます。キリスト者への希望の姿を描いています。
1、神の忍耐(1~3節)
神は四方にみ使いを置き、患難のすべてをコントロールしていらっしゃることです。また神のしもべに対して、額に印を押してしまうまで害を与えないように配慮しています。
2、残される神の民(4~8節)
ありとあらゆる民族から救われるべき完全な民が満ちるのです。私たちもまた神の選びの中に置かれていることを深く感動をもって感謝したいと思います。
3、小羊こそ救い主(9~17節)
天にいるおびただしい神の弟子たちが、御座にいます小羊に向かって、力の限り賛美しているのです。大声で、とは全力を尽くしている姿でしょう。ところであなたの大声をだす場はどこでしょう。全力を尽くして主をほめたたえたいものです。
4、白い衣を着ているクリスチャン(13~17節)
どんな患難をものりこえる聖徒たちがいます。彼らは行いからではなく、主の恵みの泉からいのちの水を飲んだ人々でした。

主題 <7つの封印が解かれる> 

聖書箇所ヨハネの黙示録6章1~17節(2012年 2月 1日)

今日のみことば「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。」(9)

だれも解くことができないとヨハネは号泣するが、ただひとりほふられた小羊なるキリストが終末の歴史を開封できるのです。主を弱々しく考えている人はいないだろうか。主こそ、まさに歴史の主なのです。主こそ真の神なのです。
聖書では、7つという数が完全な意味をもっています。封印も7つありますが、本書は6つまで開かれます。封印が神の終末の世界の歴史の展開される経過を示して完全な計画が遂行されるという意味です。
この解釈については、長い教会の歴史から説明を試みる立場の人もありますが、やはり終末の出来事として考えたほうが妥当でしょう。
この箇所の白い馬、赤い馬なども霊的な真理を表し、患難時代におけるこの世の支配者をさしているようです。
小羊なる主イエス様が、第6の封印を解く(12~17節)とき、大きな天変地異があって、それは想像を絶するほどのことが起こるのです。このときに、地上で権力をふるっていた地上の王たちが岩間に隠れ込むときが来ます。そして、「御座にある方のみ顔と小羊の怒りとから私たちをかくまってくれ」と言うようになるというのです。
神の御顔、それはキリスト者にとってかけがえのない慕うべき臨在なのですが、神を信じない者にとってそれは恐ろしい存在となるのです。小羊の怒りとは珍しい表現です。あの柔和なロバの子に乗ってエルサレム入城した主が怒られるのです。この怒りほど恐ろしく、本物の終末における審判なのです。

主題 <ほふられた小羊に栄光が集まる>

聖書箇所ヨハネの黙示録5章1~14節(2012年 1月31日)

今日のみことば「彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富みと、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」」(12)
天に一つの巻き物があります。御座に座っている方の手の中にある封印された書こそ、世界の歴史に関わる、いや近未来に直結した預言書なのです。封印されているこの書をひもとくに値する者はだれもいません。このゆえにヨハネは激しく泣いたのです。しばしば、自分こそこの封印を解くにふさわしいと沢山の人物が登場しました。政治的指導者、宗教のカリスマ性をもった偽キリストや預言者たちは自らをそう語り、仰がれた人も多かったのです。封印を解ける人とは、神の世界の歴史を遂行する方であり、神のご計画を導かれる方です。ここに、ユダ族からでたダビデの根(5節)、ほふられたと見える小羊が立っていた(6節)といわれています。主イエスこそこの世界の歴史の封印を解き進めるお方である、というのです。この小羊がみ座にすわる方から巻き物を受け取られ(7節)、ついに主にあって歴史が動き始めたのです。
 ところで、この時に、金の鉢に入った香りが天に上ってきたことが8節に記されています。「この香とは聖徒たちの祈りである」。神が歴史を動かされようとしている時に、聖徒たちの祈りが、神のご計画の中に入ってくるのです。この祈りが地上の神の裁きの中に加えられるのです。
御座の回りにいる大群衆は、数え切れません。万の幾万倍、千の幾千倍の人であり、小羊の尊い血によってその衣を白くされ、栄光の御国に移された人々のことです。
彼らは大声で賛美をささげます。救われた喜びと感動があふれて、力限り大声で歌います。全身全霊を上げて神をほめたたえるのです。日毎の私たちの賛美もまた、こうでありたいものです。
「ほふられた小羊は力と富みと知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるのにふさわしい方です。」ほふられた主は、釘打たれ、真っ赤な血を流し、恥ずかしめを耐えて遂に死なれ、本当に受難の中に生涯を終えたのです。
この恥ずべきお方を、この世の人々は愚かと思い、無駄な死と思うでしょう。しかし、救われた私たちにとって、主の犠牲の血潮は尊い神の愛です。
ほふられた主こそ、ありとあらゆるもの、力も、栄誉も、賛美も、受けるのにふさわしい方です。今日この方に向かって、私たちのすべてをもって賛美をささげましょう。

主題 <天での光景と長老たちの礼拝> 

聖書箇所ヨハネの黙示録4章1~11節(2012年 1月30日)

今日のみことば「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」」(1)

4章は地上の教会に見られるあらゆる教会の姿に対比するように、天上にある教会、すなわち天のみ国の素晴らしさを啓示しています。
 「天に一つの開いた門があった」(1節)とあります。天への開かれた門は3:7の主イエス様が見せてくださるものであり、救われたすべての者に見ることを許された特権であります。天にみ座があり、そこに座する神様がおられたのです。周囲にある宝石などによって示されている光輝く栄光のみ座があり、24人の長老たちが礼拝をささげているのです。4つの生き物が、神のみ業をほめたたえるのです。神が「聖なる方」であることを3回繰り返すことは、神が完全であることを意味するでしょう。そしてイエス様を3つの点でほめたたえます。
1) 神である主 
2) 万物の支配者 
3)昔いまし、今いまし、後に来られる方
24人の長老たちもひれ伏して礼拝します。実に旧約と新約の世界が一つに解け合い、主イエス・キリストへの最大級の礼拝が日毎にささげられているのです。

主題 <熱心になって悔い改めなさい>

聖書箇所ヨハネの黙示録3章14~22節(2012年 1月29日)

今日のみことば「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(19)

教会には、叱責のない教会もあれば、この教会のように賞賛されないで非難されてばかりいる教会もあります。しかし、だからといってこの教会は神の愛から見放されていたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」と勧められているからです。
ラオデキヤの教会には、迫害もなく、偶像礼拝や不品行の罪もありませんでした。むしろ彼らは平和と繁栄のゆえに、自己満足におちいり、なまぬるい信仰になってしまったのです。つめたくも、熱くもないことは、キリストに対し反対もしないし信仰と従順に徹していたわけでもないことです。いたずらに無関心と不徹底で信仰生活を送ることは、主は喜ばれないのです。
いいかげんなどっちつかずの信仰は、なまぬるいものであり、主はそういう者を口から吐き出そうといわれます。我慢することができないというのです。
今、悔い改めましょう。主の愛による配慮を思って。

主題<聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方> 

聖書箇所ヨハネの黙示録3章7~13節(2012年 1月28日)

今日のみことば「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」(7)

 ただ一つ、非難されない教会です。兄弟愛という素晴らしい名前を持つ町に立てられたこの教会は、海外宣教の燃えた教会の模範とされてもいます。
キリストは聖なる方、真実な方といわれます。聖とは、しばしば誤って理解しやすい言葉で、単なる道徳的な完全ということよりも、むしろ被造物(主として人間)を神のものとして区別してゆく神の性質であります。そこに人間をはるかに超越した神の存在と共に、人間と関わられる神の働きを見ます。神の真実とは、アーメンと対応する言葉であり、神ご自身の御言葉を成就することを意味するのです。
神は、決して人間の力を頼りにしたり、偽ったりなさらずに、神の語られたことを実現されるのです。
ルカの福音書1章45節「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」というマリヤの信仰告白には、神の真実をかける確信が記されています。マリヤもエリサベツも共に、ご自分を偽ることができない神の御言葉を信じて祝福を受けたのです。
信じる人には、神の御国は開かれています。神の語られた言葉を信じる人になりましょう。天国のカギが主の中にあるのですから。

主題 <目をさましなさい>

聖書箇所 ヨハネの黙示録3章1~6節 (2012年 1月27日)

今日のみことば「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」(2)

サルデスの教会は、表面的には立派だったのかも知れません。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」といわれるのです。そこには、自分は大丈夫だ、みんなも大丈夫だという見方が定着していたのです。けれども、実際は死んでいたのである。不思議な近づきかたですが、驚かされます。
「目を覚ましなさい」と呼びかけています。目を覚ます、とは眠りについた者が、覚醒して新しい歩みをすることであり、信仰の炎を燃え立たせることです。自分が死んでいるほどであると知って、悔い改めるのです。その時はじめて、他の人々を生かせる働きが始まるのです。
自分の歩みに気付かない、そのことを預言者は「白髪が生えてきているのに気付かない」愚かさにたとえています。自分の真実に目をそらし、適当にお茶を濁すような生活は、決して自分を建て上げないし、他の人を建て上げることができないのです。
悔い改める、そこに緊急な姿勢が見て取れます。主がいつ来られるか、終末がいつであるかを問わないで悔い改めるのです。その熱心を主が求めておられます。

主題 <ほかの重荷を負わせない>

聖書箇所ヨハネの黙示録2章18~29節(2012年 1月26日)

今日のみことば「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」 (24)

 主は、表面的な、また全体的な評価ばかりではなく、一人ひとりの行いに目を留め、その人にふさわしい仕方で対応してくださいます。主は、その姿をそれぞれの教会のようすに従い、姿を変えて表されているのです。テアテラの教会には、『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子」であります。その主が、わたしは知っている。あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を、と。
私たちのすべてを主は知っておられます。すべての長所を、よき行いを知っている。そして欠点も、問題も。けれど十ぱひとからげのように、評価がなされない。教会に属する私たちもまた、主は一人をご覧になっておられる。
問題が全体としてあったとしても、少数なきよく、誠実な歩みをしている人がいるのです。主はそのことをしっかりと語る。そしてそんな人には、ほかの重荷を負わせることをしないという。ほかの重荷、余分な心労を与えないのである。このことは、ひたすらに信仰の道を歩めばいいのである。「あの人はどうですか?」とたづねたペテロのような質問や戸惑いはいいのである。単純に、主に従う、主を信じる、主を愛する、その道でいい。

主題 <あなたには少しばかり非難すべきことがある> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録2章12~17節(2012年 1月25日)

今日のみことば「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」(14)

私たちは、人の忠告を快く受け入れられないことが多い。忠告した人間をうとんじたり、反旗をひるがえしたりする。だが、神からの忠告は大切に聞かなくてはいけません。また、使徒のヨハネの説教にも耳を貸す必要があります。
神は知っているのです。サタンの激しい攻撃にも、そして仲間であった兄弟が殉教しても、信仰を捨てなかったのです。そんな素晴らしい面を持ちつつも、非難されるところがあったのです。
素晴らしい面があるので、よしとされるのではなく、だからこそ熱心になって悔い改めるのです。こうして忠告を聞き入れることによって、いっそう聖徒らしく整えられ、終末の時代にふさわしく待ち望む者に変えられて行きます。
非難を、忠告をしっかりと聞けた、そこにこのペルガモの教会の素晴らしさを思う。なぜなら聖書に残されていることは、そのことのあかしであろう。
2:17「 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」

主題 <わたしはあなたを知っている> 

聖書箇所ヨハネの黙示録2章8~11節(2012年 1月24日)

今日のみことば「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。」(8-9)

今日は、神は私たちを知っておられる、ということを想起しましょう。
スミルナにある教会は、当時20万人の人口があり、そのうち三分の一がクリスチャンであった町です。聖書の中ではこの箇所だけです。主は、1章18節にでてくる姿を見せて、励ましを与えるのである。死んだが生きている、という主の復活を想起させてくれる。
信仰ゆえの苦難も、神は知っておられる。しばしば試練に立つと、自分が見捨てられてしまったかのような気分になるものです。だが、神は知っている。信仰生活ゆえの貧しさも、神にあって貧しくないことを知っている。そして受けようとしている苦しみさえも知り抜いておられる。
2:10「 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
この地上で、肥え太り、豊かになり、成功をおさめることが人生の目的ではない。死に打ち勝ち、天の御国に入り、主と一緒に栄光を共にするのです。だから、試練をわたしと一緒に歩もう、そんな思いがするのです。