主題 <共に約束にあずかる者として>
聖書箇所 エペソ人への手紙 3章(2011年11月15日)
今日のみことば「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6)
パウロは、当時、彼はとらわれの身でした。パウロは自らを「あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」と言っている(1)。それは、異邦人に福音を宣べ伝えることこそが、自分の使命であることを、言い表したものである。以前、彼がキリスト者たちを迫害していた頃ならば、決して思いもしなかったことであろうが、その使命を啓示によって知らされた(3)。それは、ダマスコ途上での復活の主との出会いに始まる(使徒9章参照)、神の特別な扱いを指している。
神の救いのご計画はイスラエルに留まるのではなく、異邦人も、ともに約束にあずかる共同相続人になるとパウロは理解している(6)。パウロがこの福音に仕える者とされた根拠は、彼自身の内の何かによるのではなく、「神の力の働き」と「神の恵みの賜物」であるという(7)。そこには自分の努力や血統による誇りなどはなく、ただ、「すべての聖徒たちで一番小さな私」が(8)、「神の永遠のご計画」に沿ったものであり、このために召されたという確信をもって仕えていることを感謝しつつ告白していました。
パウロが牢獄に入っていることは、エペソの人々を落胆させるものであったようであるが(13)、しかしパウロは、投獄されていることがむしろ神の栄光をあわらしていくことになると希望をもって、エペソの教会の人々をも励ましたのでした。
14~21節は、パウロの祈りであり、この祈りはパウロのおかれている状況からの訴えでもあり、エペソの教会の人々に対するとりなしの祈りでもありました。その中心的な祈りは、神の御力によって強め、主の素晴らしを理解する力が増され、なお一層に主に栄光を帰していくことが出来るようにと言う祈りでした。
現代にあって、私たちはパウロの福音理解に立って、教会の宣教の在り方を改めて確認していきたいと思う。また、パウロはこの福音のために、それまでのキャリアーに執着するのではなく、一人の仕え人として召され、この福音宣教に従事していたパウロの謙虚さにも学ぶものでありたい。