2011年11月23日 (水)

主題 <共に約束にあずかる者として> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 3章(2011年11月15日)

今日のみことば「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6)

 パウロは、当時、彼はとらわれの身でした。パウロは自らを「あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」と言っている(1)。それは、異邦人に福音を宣べ伝えることこそが、自分の使命であることを、言い表したものである。以前、彼がキリスト者たちを迫害していた頃ならば、決して思いもしなかったことであろうが、その使命を啓示によって知らされた(3)。それは、ダマスコ途上での復活の主との出会いに始まる(使徒9章参照)、神の特別な扱いを指している。
 神の救いのご計画はイスラエルに留まるのではなく、異邦人も、ともに約束にあずかる共同相続人になるとパウロは理解している(6)。パウロがこの福音に仕える者とされた根拠は、彼自身の内の何かによるのではなく、「神の力の働き」と「神の恵みの賜物」であるという(7)。そこには自分の努力や血統による誇りなどはなく、ただ、「すべての聖徒たちで一番小さな私」が(8)、「神の永遠のご計画」に沿ったものであり、このために召されたという確信をもって仕えていることを感謝しつつ告白していました。
パウロが牢獄に入っていることは、エペソの人々を落胆させるものであったようであるが(13)、しかしパウロは、投獄されていることがむしろ神の栄光をあわらしていくことになると希望をもって、エペソの教会の人々をも励ましたのでした。
14~21節は、パウロの祈りであり、この祈りはパウロのおかれている状況からの訴えでもあり、エペソの教会の人々に対するとりなしの祈りでもありました。その中心的な祈りは、神の御力によって強め、主の素晴らしを理解する力が増され、なお一層に主に栄光を帰していくことが出来るようにと言う祈りでした。
現代にあって、私たちはパウロの福音理解に立って、教会の宣教の在り方を改めて確認していきたいと思う。また、パウロはこの福音のために、それまでのキャリアーに執着するのではなく、一人の仕え人として召され、この福音宣教に従事していたパウロの謙虚さにも学ぶものでありたい。

主題 <神の和解の恵み>

聖書箇所 エペソ人への手紙 2章(2011年11月14日)

今日のみことば「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(14~16)

 1~10節では、パウロは、救われていない人間の状態と、その人間に対する神のあわれみと恵みを語っている。
パウロはかつてのエペソの教会の人々がどのような状態から救われたかについて改めて語っていく。かつては、死んでいた者であって(1)、空中の権威を持つ支配者に従って歩み(2)、肉と心の望むままを行なっていたために、神の御怒りを受けるのが当然の状態であった(3)。
しかし神のあわれみは、ご白身の御子を世に遣わされ、御子の十字架のあがないによって救いを完成された。パウロはこの救いのみわざを語る際に、二度までも神の「恵み」によると語り、恵みを強調している(5、8)。また、救われた者をご自身の作品とするばかりではなく、よい行いをもあらかじめ備えてくださったと教えている(10)。
 11~22節でパウロは、エベソの人々に与えられた和解について語る。
 まず、パウロは、異邦人であるエペソの人々は、神の約束の契約の観点から言えば無割礼の者であり、神もない除外されていた(11~12)。
 しかし、パウロが明らかにするのは、キリスト・イエスにあって、今はイスラエルと異邦人との間にあった隔ての壁は取り払われ、さらには、キリストの十字架は、神と人との間に和解をもたらしたということを強調して語りました。(13~16)
 パウロはこの和解の御業の証人としてイスラエル人、エペソ人のキリストにある交わり、教会の交わりがその恵みを明らかにしていることを語りました。異邦人も神の民とされたこと、また彼らが全体として、キリスト・イエスを礎石として、使徒と預言者を土台とする、主にある聖なる宮となったということを改めて教えられたのでした。(19-22)。

主題 <約束の聖霊の証印> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 1章 (2011年11月13日)

今日のみことば「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(13)

 使徒パウロはこのエペソ人への手紙を書いた時は囚人となっていました(3:1)。パウロはカイザリヤからローマへと送られ、ローマで軟禁生活を余儀なくされます。おそらくこの手紙はローマの獄中にあって書き送られたものと言われ、パウロの獄中書簡とも呼ばれています。
 パウロが書き送ったこの手紙の主題は一言で言えば、神による新しい共同体、教会について主眼をおいて書かれていると言えます。
福音はユダヤ人をはじめ、異邦人へも宣べ伝えられ、各地に主の教会が建て上げられていきました。しかし、それと共に迫害も増していきました。この手紙を書いているパウロ自身が囚人として扱われなくてはならい事態ともなっていました。
このような状況の中にあっても、この手紙にもあらわされているパウロは御国を受け継ぐ者とされていることに確信を覚え(11、14、18)、喜びをもってエペソの教会を励ましています。
特に注目したいことは、13節に「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」と言い、「証印を押されている」という表現には少し、その時代の背景が伺えます。当時、囚人や奴隷の立場にあったものは、体に焼き印などの印を付けられるということがありました。その印が社会的な立場、あるいはその人の身分を示していくものとなっていました。しかし、パウロはこのような社会の価値観、身分、地位などによらない、神(聖霊)の証印こそが重要で、この証印が神の贖いの故に御国を受け継ぐ者とされている印であり、この証印を受けた者たちの群れである教会を力強く証ししたのでした。
神の召しによって御国を受け継ぐ光栄を見て、なお、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23)と語り、主の教会こそがあらゆる迫害の中にも前進していくことができることをエペソの教会の人々に語り励ましたのでした。今日も主の満たし、導きにあって歩みたいと願います。

主題 <新しい創造>

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 6章(2011年11月12日)

今日のみことば「しかし、主は、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(15)

 生まれ育ったユダヤ教の世界でもぬきんでて熱心なパウロは、これまで割礼こそアブラハムの祝福を相続する唯一の生き方でした。しかし、すばらしいキリストの救いの全内容を悟り、これまで生涯をかけて歩んできたユダヤ教の律法から自由とされ、新しい創造の日々を歩むのです。
 パウロから見ると、割礼を受けるとか受けないと言うことがさして重要なことではないのです。
 だから、自分の行いが人よりも立派であるとか、劣れると言った評価から自由になれるのです。
 ただし、主にあって善を行うことが自分自身が刈り入れることになることを教えています。善を行う時に、失望が伴うのです。しかし、第一に、外見を意識せずに行うことが出来ます。それは、自分自身の新しい創造の仕事に携わる意識の革命があるからです。
 そこで、善をことに信仰のある人々に対して行うのです。それは信仰者を励ますつとめなのです。教会員に対して互いに善を行って祝福を互いに分け合いましょう。
 外見だけを意識する割礼を強調する人々よりも、自己を十字架につけて純粋に主を求めるクリスチャンこそ、アブラハムの祝福を示す機会を与えられるのです。
 大事なことが新しい創造、霊的な変化です。この世での成功や評価は空虚なことです。

主題 <自由を得させるために>

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 5章(2011年11月11日)

今日のみことば「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(1)

 キリストの十字架がもたらした大きな福音は、自由を与えられたと言うことです。自由がない過去の生活は、奴隷状態であると4章後半で述べられていました。神の国を相続できないだけでなく、せっかく与えられたこの地上の歩みが、奴隷根性のような貧しい歩みになるからです。
 13節では、福音の醍醐味が記されています。第一に、自由を得るために神から召される(コール)のです。第二に、肉の働く機会をしなくていいのです。第三に、愛をもって使える自由なのです。
 この歩みは御霊によって歩む生活です(16)。御霊に導かれた生活から、22-23節にある素晴らしい実を結ぶことになります。
 一方、肉的な生涯は、19節~21節に記される恥ずかしい結末なのです。
 キリストにつく者、キリストに明け渡す者は、自分の肉を十字架につけることが重要なのです(24)。信仰によって決断しましょう。また再びこの霊的高嶺から滑り落ちたときは、いつでも神のあわれみを信じて、恵みの座につくものでありたい。

主題 <「アバ、父。」と呼ぶ>

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 4章(2011年11月10日)

今日のみことば「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(4)

 キリストの犠牲がもたらした想像を超える事実を記しています。かつては神なく、望みない罪人でした。その人々を支配していた者は、律法であり、律法に照らせば罪と不安と悲しみのみでした。神から裁かれることを恐れるのみでした。
 ただ、相続する者は、成人になって受け取るとパウロは言います。成人するまでの幼い時代の導く光が律法でした。この時代には、律法により、規則規則に振り回されていました。神を知らなかった時代はそうした生き方を繰返していました。
 しかし、キリストが来て、罪の贖いを成し遂げ、神の子どもとして生まれ変わり、聖霊に導かれて、神の律法を外見の形式ではなく、心からの愛をもって行えるものになりました。
 その象徴的な信仰の内容が、6節にある神を「アバ父」と呼べる特権です。これまで、神の前に罪意識があり、裁かれ、自分が祝福を受けるに価しないと思っていました。ところが、キリストが来られて、神への道を開きました。ヨハネの福音書14章6節にあるとおりです。
 神を恐れないで、「アバ父」と呼べる幸いを今日心に刻みましょう。何という安息、喜び、希望でしょうか。祈りの生活は楽しく、教会生活こそすべてに勝る幸福です。みんなで一緒に、神を父と仰ぐ交わりがあるのです。

主題 <イエス・キリストに対する信仰によって> 

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 3章(2011年11月 9日)

今日のみことば「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」 (22)

キリストが私たちのためにのろわれた者となってくださった(13)と記されています。こののろわれた者となることが、どれほど困難な事実かを改めて知らなくてはなりません。
 しかし、ローマ人への手紙11章32節と同様に、この箇所でも、聖書の神髄がはっきりと記されている。内容は、神のあわれみに焦点が当てられたローマ人への手紙に比べ、ガラテヤ人への手紙では、信仰に光が当てられています。
 この信仰が、約束されていた聖霊を受ける方法であることを述べています。アブラハムも約束を信じて受け取りました。
 ほんとうの信仰が明瞭になるまでの間、律法は人々を神に連れて行く働きをしていました。そして、イエス・キリストの十字架が現わされて、律法の役割は終えることとなりました。
 キリストの十字架のバプテスマを受けた者は、キリストを身に着ているのです(27)。このようにキリストの救いが来たことによって、信仰を持って受け取ることこそ今日のなすべき働きです。
 信じる者に、聖霊を満たし、主のかたちが見られてくるのです。

主題 <キリストが私のうちに生きておられる> 

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 2章(2011年11月 8日)

今日のみことば「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(20)

神の律法に生きることが人間としての正しいあり方ですから、この律法に生きなくてはならないと考えます。神の前における熱心とは、この律法主義に傾斜しやすいのです。しかもユダヤ教の世界であるエルサレムから来たキリスト教に熟知していない人々が信仰を支配しようとします。
 この律法主義の執拗なまでに攻撃的な生き方は、クリスチャンにとっても絶えず問われているのです。神の前に熱心に歩もうとするほど、律法に支配されて生きやすいのです。祈りや奉仕において、肉的に仕上げてゆこうと思いがちです。
 自己を十字架につけて、キリストが私の中で生きてくださる事こそ、勝利と安息のたましいの持ち主となる。心の中に、この平和を持たずには、十分に主を喜ばせることはできません。
 私がこの世に生きるのは、この私を愛してくださった方への愛の動機以外にありません。
 律法によって律法に死ぬ(19)という不思議なことばに心を留めたい。神の律法に照らし、全く行い得ない。この事実を認めることです。ここから、キリストが生きてくださる秘訣がはっきりとしてくるのです。

主題 <救われた福音> 

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 1章(2011年11月 7日)

今日のみことば「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」(6)

この手紙は、使徒のパウロの初期の頃と思われます。自己紹介も、率直で、内容も率直です。ガラテヤはパウロがアンテオケ教会から送り出されてはじめに宣教した地域です。次々と素晴らしい信仰に導かれて来たのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じるのみで救われたのです。この大きな神の愛に感動し、あふれる喜びは、目が不自由であったパウロのためなら目をえぐり出してさえ与えたいと思ったほどだったのです(4;15)。
ところがその教会にいたユダヤ主義者たちが、律法を土台としなくてはアブラハムの祝福を受けることができないと教えていたのです。
パウロは、救われた大きな喜びを見失ったかに見える信徒たちに対して、歯に衣を着せないほどの熱い思いを持って福音そのものを熱心に語ります。ところどころ激した表現も見られます。純粋なキリスト教信仰を、曲げて律法的な生き方の枠にはめてゆこうとする誘惑はいろいろあります。
福音と律法の問題について学ぶ場所です。律法はあるべき神の命令を明瞭にします。しかし、人間はこれを完全に行うことが出来ないのです。そこで、イエス・キリストが神の義を完全に行われ、信じる者を義としてくださるのです。
救われた福音のいのちを、他の教えに決して流れてはなりません。神のこの立場と永遠の生命、義とされた信仰を握りしめましょう。

2011年11月 3日 (木)

主題 <完全な者となりなさい> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二13章(2011年11月 6日)

今日のみことば「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」(11)

 パウロは三度目のコリント訪問を前にして、一つのことを心に決めていました。もしまだ罪を犯している者かおり、証人によってそれが確認されたならば、いわゆる戒規を、容赦なく執行しようという決意でした。戒規の目的は、罪を犯している人が、その罪を悔い改めて神に立ち返り、信仰の道を歩むように励ますことにある。パウロはこれまで、罪を犯している人たちに警告してきたが、彼らはパウロの警告をキリストからの警告として真剣に受け取っていなかった。そこで今度は、キリストの警告である証拠として、処罰を断行することを前もって述べている。
私たちには自らの吟味が必要である。人から指摘される前に、各自が自分自身の心と歩みを振り返って、罪がないか、主のみこころからはずれていることはないかを点検することは、キリスト者の義務である。キリストを内に宿している人は、そうすることができるはずである。自己吟味こそ、聖化の道をたどるために不可欠である。
パウロはキリスト者の目標を明らかにしている。積極的な表現をすれば、「完全な者となる」ことであり(9、11)、消極的な表現をすれば「どんな悪をも行なわない」ことである(7)。キリスト者はすべてにおいて、神のみこころにかなう、正しい行ないをするように召されている。パウロは、彼らがこの目標に向かって歩むことによって、彼が彼らに厳しい処置をとる必要がないことを願っていた。この目標に向かって歩むとき、愛と平和の神が共にいてくださると約束されている。
 コリント人への手紙第二を見てきた中で、改めてパウロがコリント教会の信徒たちを愛し、時には厳しく訓戒してきたが、このパウロの関わり方のうちに練られたキリスト者の姿を見たように思うのです。私たちもキリストにあって、「完全な者」になりなさいとのみことば応答する者、従う者とならせて頂きたいと思います。