2011年11月 3日 (木)

主題 <弱さを誇ること 2>

聖書箇所 コリント人への手紙第二12章(2011年11月 5日)

今日のみことば「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9)

 パウロはある体験を通して、弱さを「恵み」という新しい視点から見直すようになっていたこが伺えます。主に仕える彼に、弱さは、なくてはならないものとなっていました。
パウロは第三の天(パラダイス)まで引き上げられるという(2)、特殊な体験をしたことが語られています。それは、人の言葉ですべてを説明できない神秘的な体験だった。それは「主の幻と啓示」でした。普通、特殊な素晴らしい体験をすると、だれかに話したいと思うのではないでしょうか。しかし、パウロはこの体験を心にしまっていました。使徒の働きにも、パウロの他の書簡にも、この体験のことは書かれていない。なぜパウロはこのことについて、積極的に語らなかったのだろうか。
素晴らしい体験をすると、その体験を誇るようになり、さらには体験した自分を誇るようになる傾向が人にはある。パラダイスを垣間見たことは、あまりにも素晴らしい啓示だったので(7)、パウロといえども高ぶる危険があったと考えられたと思われるのです。このような特別な経験を語れば、周囲の人もその人を過大評価し、高ぶりを助長することもあり得ました(6)。そこで神は高ぶりから守るために、パウロの肉体に一つのとげを与えられた(7)。そのとげが何であったかわからないが、彼の肉体に相当な痛みを与え、生活と宣教活動を制限するものであった。とげから来る痛みと不自由は、パウロを高ぶりから守る役割を果たしたと言えます。
主がとげを取り除いてくださるように祈り求めたパウロに、主から意外な答えが返ってきた。それは、神の恵みは今のままで充分であること。キリストの力は弱さのうちに完全に現れるというものであった。主の答えは、弱さを見る新しい視点を与えた。弱さは神に仕える妨げではなく、キリストの力にあずからせるものであった。これは、第三の天まで引き上げられることに優るとも劣らない、新しい理解だったのでした。

主題 <弱さを誇ること 1>

聖書箇所 コリント人への手紙第二11章(2011年11月 4日)

今日のみことば「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30)

 この世は強さと力を称賛し、追い求め、誇ります。しかし、キリスト者は強さや力の対極にある弱さを、新しい視点から見ることを教えられることによって、弱さを誇る者とされているということをさらにパウロは展開して語りました。
22~23節で、コリントの教会の人々が育ちやユダヤ人としての血統、また立場などを誇り、自慢していたことに触れています。パウロもそのようなものを誇ろうとすれば、充分に誇ることができました。彼は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、きっすいのヘブル人でありました。しかし、パウロはそのようなものを誇ることは愚かであると言いました(21)。
また、偽使徒たちは自らをキリストのしもべであると主張したようであるが、パウロは「私は彼ら以上にそうなのです」と語っています(23)。パウロは、キリストのしもべであるしるしとは、キリストとその福音のために受ける苦しみであると考えていたようである。パウロは福音のために何と多くの苦難に遭ったことだろう。投獄、むち打ちの刑、死に直面したこと、様々な難など、私たちは圧倒される。パウロは、偽使徒たちとは比較にならないほどの苦難を、経験したのである。
このような外からくる苦難のほかに、パウロには諸教会への「心づかい」があった(28)。この世にある教会は絶えず試みられ、敵の攻撃にさらされている。弱さが露呈し、つまずきが起こることもある。諸教会の必要を目の当たりにしながら、パウロは自らの弱さを自覚したことだろう。しかし、彼は自分の弱さを誇ることを学んだ。弱さが、パウロを、キリストと結びつけてキリストのしもべとし(23)、弱さが彼を、キリストの教会と結びつけていることを知ったのである(28、29)。
苦しみの中にある弱さを消極的にとられるのではなく、むしろパウロの経験したように、キリストに結び合わせられるめぐみとして積極的に受け止め、弱さを誇ることができたら感謝ではないでしょうか。

主題 <誇る者は主にあって誇りなさい>

聖書箇所 コリント人への手紙第二10章(2011年11月 3日)

今日のみことば「誇る者は、主にあって誇りなさい。」(17)

テトスの報告によって、大多数のコリントの信者たちは悔い改め、パウロを支持するようになっていました。しかしまだ少数ではあったが、パウロの使徒としての権威を認めず、コリント教会を支配しようとしている人たちがいました。彼らの非難は、パウロは使徒として弱々しい、人間的な打算や考えによって行動している、最初の十二使徒ではないのでキリストに属する使徒ではない、というも批判でした(1、2、7、10)。
このような非難がコリントの教会に悪影響を与えると考えていたパウロは、再び自らの使徒性と主張していきます。パウロはキリストの使徒として召されたことを確信し(7)、主の教会を立てる権威を授けられていると主張する(8)。また、パウロはこの世の「思弁と神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」と戦う霊的な戦いの中にあったことに触れて、この戦いは、「肉に従って」、「肉のもの(武器)によって」戦うのではなく、神の力による戦いをしていくことを語っていきました(3-6)。
パウロは批判者たちと自分を同列において優劣を競う、知恵のない愚かな比較をするのではなく(12)、神がパウロを使徒として召し、彼にコリント宣教をゆだね、教会を建てる働きをゆだねられていることこそ、パウロの正当な誇りでありました(13)。
パウロはあらゆる非難されることばの中にも、忠実に主の教会の建てあげのために労してこられたのは、主からの確かな召しにあったことがよく分かります。そして、それはどんなに弱い中にあっても、しっかりとした土台であったということができます。
パウロは自らの学識など誇れるものはたくさんあったかもしれません。しかし、むしろ自らの罪深さ、弱さを告白し、そのような者を救い、今は福音宣教のために召して下さったことを主にあって誇っている姿に、キリスト者としての誇り、その意味を示してくださっているのではないでしょうか。

主題 <神は喜んで与える人を愛してくださる> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 9章(2011年11月 2日)

今日のみことば「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」 (7)

マケドニア地方の教会にあっていち早く、エルサレムの貧しい聖徒のために献金を始めたコリント教会は、諸教会に良い影響を与えました(2)。そのような中で具体的に献金をささげていく上で重要なことを確認するように勧めました。
パウロは献金を、種蒔きと刈り取りにたとえて教えられました。種蒔きと収穫は、世界中で見られる営みである。ここでは、蒔くこととは献金することであり、刈り取りとは神が霊的祝福を与え、物質的必要をも満たしてくださることとして教えられました(8)。種を蒔かなければ、刈り取ることはない。一般的に多く蒔けば多く刈り取り、少し蒔けば少し刈り取ることになるが、これは献金にも適用できる原則として示されました。
また、献金は「強いられて」するものではないことを教えられました。献金は各自が「心で決めたとおりに」するもので、外から強制されるものではない。献金は自発的に「自ら進んで」するものである(8:2)。パウロはコリント教会に献金することを命令していたわけではありませんでした(8:8)。彼らが進んで始めたことを成し遂げるようにと、励まして勧めています。時として献金を献げていくときに奨励する人の働きが必要なことがあり、具体的な祈りと共に励ましていくことが重要であることを教えてくれています。
また、献金はいやいやながらささげたり、「惜しみながら」するものではないことを教えられました(5)。献金するときに、私たちの心にある、神への感謝と喜びを確認することはたいせつなことである。
また、献金は「義の実」(10)と言われている。種を蒔く人は、収穫したものの中から、次に蒔く種を充分確保することができる。同様に神は、献金という行為をを祝福して、さらに豊かな感謝と善行へと導き、ささげる者の義の実を増やしてくださるのである。
 改めて、私たちも主に献げる献金について確認したいと思います。

主題 <惜しみなく施す富> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 8章(2011年11月 1日)

今日のみことば「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(2)

私たちは交わりにおいて、自分が受けることだけを求めて、与えることを忘れてしまうということがないだろうか。
マケドニヤの教会は、激しい試練による苦難と極度の貧困状態にあった(2)。彼らが援助を求めても不思議ではない状態であったとも言えます。しかし、彼らはエルサレムの聖徒たちの困窮を耳にした時、彼らを支える交わりに加わりたいと熱心に願ったことが(4)、パウロによって指摘され非常に賞賛している。そして、彼ら自身の乏しさをかえりみず、あふれる喜びをもって、惜しみなく自ら進んで力以上の援助金をささげた(2、3)。この行為は、彼らの神への献身から出ていたことが触れられている(5)。このように行動をいち早く起こしたのがコリント教会でした。
しかし、この具体的に始った支援が何かの理由で滞っていたようである。そこでパウロは、マケドニヤの諸教会のことを紹介して、コリントの兄弟たちが、エルサレム教会への献金をし遂げるように勧めている。彼らがもう一度初心に返って、この恵みのわざを完了することは、彼らの益になることでもありました(10)。また、困窮している教会を助けることは、私たちを富ませるために、あえて貧しくなってこの世に来られたキリストの恵みを受け、証しする教会にとってふさわしいことであることを語り勧めました(9)。
きょう援助を受ける教会が、明日は援助する教会になり、きょう援助する教会が、明日は援助を受けることになるかもしれない。いずれにしても、互いに支え合い、交わりが築き上げられることが、今日の時代にも問われているのではないでしょうか。

主題 <神のみこころに添った悲しみ> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 7章(2011年10月31日)

今日のみことば「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(10)

パウロはマケドニヤに着いた時、パウロの心は安らぎがなく、戦いと恐れでいっぱいで、気落ちしていました(5、6)。その理由は、テトスがまだコリントから帰ってきていないことと、テトスに託したコリント教会への手紙をコリントの人たちがどのように受け止めたか、わからなかったからでした。しばらくして、テトスは朗報を持ってマケドニヤにるパウロのもとへ帰ってきて、テトスの報告を聞いて、パウロの不安は一瞬にして解消し、彼は神から深い慰めを受けたのでした(6、7)。パウロはこの慰めを受けたことをコリント教会の信徒たちに親しみをこめて、パウロは以上に喜んで報告している。神は今も、気落ちした者を慰めてくださるお方であることを改めて覚えたい。
テトスがパウロに伝えた報告によると、コリントの人々はパウロが涙を流しながら書いた厳しい訓戒の手紙を読んで、最初は悲しんだけれども、その後に、自分たちの過ちを認めて悔い改めたというものでした。コリント教会の中にあったさまざまな問題は人々との争い、分派へと発展する程の混乱となり、教会のうちにある罪を露呈する程の悲しみとなりました。パウロはその悲しみを「神のみこころに添った悲しみ」と呼んでいる(10)。そのような悲しみは、救いにいたる悔改めを生じさせ、そして、その悔改めは教会に熱心を起こさせ、教会から罪を取り除かせ働きとなったことを見ました。コリントの教会に起こった悔改めは、パウロにとって何よりの喜びとなった。神のみこころからはずれたために活力を失った教会の霊的再生と刷新は、いつも神の民が罪を悲しむことから始まり、悔い改めることによって実現するということを覚えたいと思います。
最後に、パウロが神の慰めを受けるために、テトスは大切な役割を果たしたことに注目したい。神の慰めは往々にして忠実な神のしもべたちを通してもたらされるものである。テトスはパウロの誇りでした(14)。
私たちも教会における交わりにあって、忠実に仕え、神のみこころに添う歩みをさせて頂けるように祈ろう。

主題 <今は恵みの時、今は救いの日です> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 6章(2011年10月30日)

今日のみことば「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2)

 パウロはこれまで、自分の置かれてきた状況、神さまに取り扱われてきたことごとを率直に語ってきましたが、この6章以降はコリント教会の信徒の方々に勧めをしていきます。
 1節「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」と勧めました。「神の恵みをむだに受けないように」という表現は、一見、コリントの教会の信徒たちに対して皮肉にも、失礼にも聞こえる表現であったかもしれませんが、しかし、パウロが伝えたかったことは、何よりも今キリストにあって救われているこの恵みを自覚し、この福音にふさわしく生きるように勧めたかったからでした。12節に「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」と指摘されているように、コリント教会内にあった問題は、キリストの福音以外に、異教やさまなざな習慣を取り入れていくというものであり、それを主張し、さばきあい、本来のキリストの福音そのものを変えてしまうようなまでに愚かな論争がありました(15)。
 パウロは改めてキリストにある救いの恵みを確認し、キリストにあって生きるというキリスト者の根本的姿勢を確認するように勧めました。それが「神の恵みをむだに受けないように」という勧めであったのです。キリストの贖いはすべての人のためになされた御業であり、この恵みは多くの人と共に分かち合われるものであることを今日に私たちも覚えたいと思います。この救いの恵みを私の隣人と共に分かち合うことができるように、共に「恵みの時、今は救いの日です。」と言うことができる歩みとなることができるように祈っていきたいと思います。

主題 <キリストのうちにあるなら>

聖書箇所 コリント人への手紙第二 5章(2011年10月29日)

今日のみことば「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(17)

 パウロはこの地上において歩む中で、「天にある永遠の家」(1)と言っているように、天の御国を見上げて希望をもって歩んでいりたことが伺えます。パウロはその御国につながっている「その保証として御霊を下さいました。」(5)と言い、さらなる確信が与えられて歩んでいたことが分かります。さらには、「確かに、私たちは見ゆるところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(7)と言い、このことばはパウロ自身の確信の伴った告白でもあり、さらにはコリント教会の信徒たちに訓戒するように勧められたことばでもありました。このようなパウロの姿勢に、今日の私たちも学ばなくてはならない面が多くあるのではないでしょうか。そして、パウロがそうであったように、苦しみの時にこそ、天の御国を見上げ、信仰によって前進していくことが出来るように祈っていきたいと思います。
 パウロは5章の後半で、キリストのものとされ、キリストにあって生きることの恵みを思い振り返るように語っています。かつてのパウロは律法に精通し、自分は神の選びと救いにあずかっている者という自覚があったが、しかし、それはいつしか人間的な標準(16)で救済を理解するという、むしろ本当の救いには至らないことに気づかされていき、それは復活の主にお会いしてから、さらには御霊なる神の働きによって真理が示されていく中で、キリストの贖いこそが罪の赦し、真の神との和解をもたらされることを確信に至りました。今、パウロはこのキリストの和解の使者として召され、この福音に仕える者とされたことを改めて確認するように語っています(20~21)。
 キリストにあって生きる者の姿はパウロが言っているように、すべては「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(17)という一言に尽きるのではないでしょうか。今からも新たな歩みを備えてくださる主に感謝し筒歩ませて頂きたいと思います。

主題 <土の器の中の測り知れない力>

聖書箇所 コリント人への手紙第二 4章(2011年10月28日)

今日のみことば「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(7)

 パウロは2章に続き、自己推薦をしている。パウロは福音宣教により教会が建て上げられていく、この中に御霊の働きがなされ、人々がキリストにあって造り変えられていくという働きを見ることを語り、このために召されていることをパウロは自己推薦しました。パウロはその働きに召された者であることを「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」(5)と言いました。
 7節以降では、この福音に仕えるパウロは弱い、もろい存在であること「土の器」のような者であることを語り始めます。主に仕える働きはさまざま苦難を経験することがあることに触れますが、しかし、それを悲観的には受け止めていなかったことが分かります(8~12)。苦難に遭うと、多くの人は戸惑い恐れ、主に従うことから後退していってしまうことがありますが、苦難を、キリストの素晴らしさを知る機会とする人は、これにまさる幸いであることを覚えたい。まさにパウロはその幸いを見続けてきた人だったと言えよう。パウロは、土の器にすぎないような私たちであるが、そのうちには神の栄光を見る知識に満たされた、測り知れない力が与えられている(6~7)と言い励ましを与えている。
 だから、パウロは「勇気を失わない」(1、16)と2度も言い、全幅の信頼を神に置き続けました。16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と言われています。パウロはからだの衰えを感じ、それは私たちも同様で、外なる人は衰えていく者である。しかし、これに反比例して内なる人は日々新たにされていくことがパウロを支えていたのである。主との交わりを深め、成長し、キリストに似せられていくまで変えられていく。これにまさる祝福はないことを覚え、今日も一歩前進させて頂きたいと思います。

主題 <御霊の働き>

聖書箇所 コリント人への手紙第二 3章(2011年10月27日)

今日のみことば「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(18)

3章では、パウロの自己推薦について書き始められています。当時、パウロに推薦状がなかったということで、パウロを非難した人がいたようである(1)。しかし、パウロは「私たちの推薦状はあなたがたです。」(2)と言いました。つまりは、コリントの地に福音を語り、そのことによって形成されたコリント教会が自分を推薦していると言いました。パウロによる福音宣教の結実として教会が建て上げられたことがその証拠であると示したのでした。
 そして、パウロは御霊の務め、働き(8、18)について語り出しました。栄光ある御霊の務めとは、キリストの救いの福音を伝える働きを指し、かつて律法には栄光はあったが(7)、律法では人を罪に定め、死に導くのみで、救うことができなかった。しかし、福音は御霊によって人を救いに導き、義とし、生かしてくださった。この御霊の務めにパウロは召されていることを示されました(5)。さらに、律法は、人の心にかかったおおいを取りのけることはできなかった。この心のおおいが取り除かれるとは、人が御霊によって新しく生まれることで(ヨハネの福音書3:3参照)、御霊によって生まれた人は御霊にあって、「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」とあるように、造り変えられていくことであることを教えられました。
 私たちは主を信じ、神の子とされる特権を頂いているが、しかし、なお神の子にふさわしくない一面ももっている。そのような私たちは、絶えず、御霊の働きの中で、取り扱われ主と同じ姿にまで変えられていく必要がある。この歩みが聖化の歩みであり、日々の歩みの中にある恵みの営みでもあることを覚えたいと思います。