2011年11月 3日 (木)

主題 <神を愛する知識によって> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 8章(2011年10月16日)

今日のみことば「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1)

この章のパウロの言葉も、心を探る名言である。知識は私たちにとってはどんなに魅力的でありましょう。人の知らないことを知っている、学歴と学識がある、というだけで人々の尊敬のまなざしを受けられるのです。
知識は、それがほんとうに優れているなら、知るべきことさえ知るべきことさえ知っていないことがわかってくる者であり、いっそう謙虚になってゆくのである。ほんとうに知識は、人を生かし、社会を変え、生活を変えて行くものである。ところが、しばしば多くの知識が、その人をして高慢に陥らせる場合が多い。
なぜだろうか。あなたの周囲で、多くの知識を持ちつつ、謙遜な人がいるだろうか。その人はなぜ謙遜なのだろうか。
その反対に、愛は人の徳を立てる人である。愛が増し加わる中で、だんだん高慢になってゆく人がいるだろうか。愛があるので、人を倒してゆくような人がいるだろうか。
「8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」なんという洞察だろうか。
「8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」神を愛することこそ、知識の中の知識です。

主題 <主に属する自由人>

聖書箇所 コリント人への手紙第一 7章(2011年10月15日)

今日のみことば「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」(22)

すべての人は、誰かのために生きるように造られております。だから、そういう性質を持っているのではないかと思います。ただその目的が見えなくなり、的外れとなってせっかくの人生が台無しになっている人々がいるのである。
ヨハネの福音書8章で「罪を犯す者は罪の奴隷である」とユダヤ人に主は語られている。聞いていたユダヤ人たちは、私たちはだれの奴隷にもなったことがないと反論している。自分の本当の状態がわからなかったのである。
ここではさらにもっと高いレベルの生活信条を描いております。奴隷でクリスチャンになった人々はたくさんいたようである。ところが彼らが奴隷解放を叫んでいないし、社会の改革を直接にはになっていない。しかし、彼らの生活は奴隷でありつつ、自由人のように生きる精神を持っていたのである。
また反対に、自由人たちもまたたくさんクリスチャンになったのである。彼らは自分たちの自由を神の栄光のためにささげることを決心する。自分のために生きないで、神の奴隷のようにささげて生きるのである。こうして教会は、社会機構を直接変えていないようで、内面からの革命をし遂げたのである。さてあなたはどうですか。

主題 <訴え合うのではなく> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 6章(2011年10月14日)

今日のみことば「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」(7)

この聖句には、ほんとうに驚かされてしまう。この世に生きるクリスチャンが、この世からのむごい取り扱いを受けたときの心得を通して、現実の乗り越え方を教えている。
 これは一つの賢明な方法であり、私たちを訴える人々の事柄に心を動かさないと言う道なのである。訴える人に対して、自己の正当性を主張しても、この世的な人には通用しないし、かえって噛みついてきて傷が深くなるのである。これまでの敬虔な生き方に大きな傷を与えてしまいます。
 だから、訴え合うことをしないで、主が歩まれた道をたどる決心をすることである。主が歩まれた道は、この世的な人から正しく評価されたわけではない。それどころか正しい方をつるし上げ、十字架につけていったのである。
こういう世的な世界にいて、この世界から高く評価されたらたまったものではない、と考えるべきなのである。曲がれるよこしまな世界から称賛を期待することから解放されよう。
 むしろ誤解の中に身を置き、訴えを甘んじて受ける覚悟が大事なのである。主は的外れな訴え、裁判の中でむしろ王者のようなゆとり、平和を持っていた。
 不正な取り扱いに甘んじる生き方は、消極的なように思えて、王者の生活なのです。互いに訴え合っていたら、敗北だと教えます。キリスト者の恵みの生活をまなびとりたい。

主題 <高慢の罪> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 5章(2011年10月13日)

今日のみことば「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」(6)

人間の罪は、どこに最後に現れるものでしょうか。それは高慢という場所に現れるのです。高慢はサタンが用いる最良の場所なのであり、キリスト者にとっては、最大に危険な場所です。しばしばその誘惑に負けて、滅びの大穴に落ち込む人物がどんなに多いことだろう。
 使徒がコリント教会に驚くほどの罪が行われていながら、自分たちは相当なものだと誇っていたのであり、高慢な心だったのです。それどころか使徒よりも自分たちの方が優れていると思っていたのです。この教会を牧会しているパウロの耳を貸そうともしていなかったのである。
 このような事態は、悲しむべきことですが、時折見られる現象である。その小さなパン種が粉全体をものすごくふくらませ、教会のうちに罪が蔓延するようになってしまう。彼が手紙を出したのはこの痛みのゆえである。
自分の高慢な罪を謙遜に認めることはむずかしい。ことに立場のある、経験のある人ほど困難がともなう。けれども、「5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。」とすすめられているうちに、一日も早く悔い改めたいものである。
 いつも新しい粉のかたまりでいたい。恵みに輝くたましいを保持して行きたい。神の大きな恵みをうちに宿しつつ、一つの目当てに進みたい。

主題 <愛と寛容をもって> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 4章(2011年10月12日)

今日のみことば「あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。」 (21)

 パウロはよほどコリントの教会については悩んでいたのであろう。言葉のはしばしに、そのうめきが聞こえてくる。こういう叫びを聞くと、何かを深くうなずくのである。
 コリント教会員の中で、ある人は、パウロをさばいていたのである。パウロを使徒として認めないと主張している人がいた。
彼らは、自分がまるで王さまになったかのようにふるまい、パウロはコリントまでは来はしない、とタカをくくっていた。思い上がっていたのである(18-19)。
 こうした教会員も、使徒にとっては愛する存在であった。彼らの心根をなんとかして変えて上げたい。そうしないと、せっかくの人生が台無しになってしまうのだ。だから、彼らを変えるために、教会戒規を執行しなければならない。高慢になっている彼らを愛するゆえに訓練をするのです。
 このためになおもパウロは、愛と寛容をもってゆこうと決心している。何という優しさであろうか。
ところで、私たちの主は、再びこの世に来られるときの心も同じである。さばきのむちではなく、愛と赦しを携えて来たいと望んでおられるはずです。主の愛と忍耐を使徒の祈りと励まし、苦悩の中に垣間見る思いがする。
私たちの祈りや信じる生き方が、失望と弱さに置かれている周囲の方に神の温かさと恵みを携えるものでありたいですね。

主題 <福音の土台の上に> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 3章(2011年10月11日)

今日のみことば「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」(10)

信仰生活への大きな問いかけがなされております。パウロは、神から与えられた霊的な賜物をもって教会を建て上げ、コリント伝道も励んできました。しかし、その重要な福音による土台の上に立て上げるのは各自の責任であると言っています。
信仰者になったので、自動的に優れたクリスチャンになるのではありません。コリント教会のように、霊的な問題を抱えた教会もあるのです。ことにここでは、派閥が生まれていたことを取り上げております。自分のグループを集めたり、派閥というのは、聖書的な姿ではありません。いや神が嫌われるやり方である。自分の方に仲間を引き込み、自分が得意になっている。こうした人は、自己の目的を果たそうとする自己中心的な信仰生活であって、救われる以前のただの人のようだと言います。
教会生活によって培われる霊的な安息や柔和、愛や喜びは、心を主に明け渡し、神の御霊によって実現されるのです。知者になりたいと思ったなら、愚者になりきれと言う。
私たちは、神の神殿であり、神が喜んで住まう場所を日々に整えることができるのです。やがて各自の歩みははっきりとされてゆきます。その歩みが火によって試されるのです。火とは最終的には神の前に立ち、最終的な審判を受けるのです。地上では試練の中で持っているものが何であるかを吟味されるのです。

主題 <神を知ること> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 2章(2011年10月10日)

今日のみことば「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」」(9)

この世が人間的な知恵や知識で神を知ることができないとパウロは力説する。なぜなら、人間は罪人だから、自己を絶対としやすい。そして神の真理を受け入れられない。神はひとり子を与えて、人間の苦悩の原因である罪を処罰されました。この神の側からもたらされた救いである十字架の愛を、完全な救いを拒否する。
 神は今日の聖句にあるように、神が備えてくださったものが、どのように素晴らしいものであるかをはっきりと刻むことができます。暗唱して、永久保存版にいいのではないでしょうか。
 ずいぶん以前でしたが、この聖句を台湾宣教師の寺田先生に差し上げたことがありました。まもなく、台湾伝道に必要とされていた自動車を不思議なように備えられたと手紙をいただきました。
 私たちの信仰さえ,神からの支えによる力であると記されている(4)。この神による豊かな救いの冨を知ることができるのは信じる者のみです。信じるとは、「神を愛する者」のことです。神を愛し、神に信頼して歩む者には、<目が見る>びっくりする事柄を超えている。<耳が聞く>さらに大きな出来事です。<心に思い浮かぶこと>は想像を超えているのです。
 神を愛する者、神のなさる恵みとはそのように偉大なものだったのです。

主題 <キリストは神の力、神の知恵>

聖書箇所 コリント人への手紙第一 1章(2011年10月 9日)

今日のみことば「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(24)

 コリントはアテネと並んで当時のギリシャの中心でした。パウロがエペソで牧会している間にコリント教会のことを心配して書いたのです。教会は、どこでも、いつも成長途上にあります。はじめてパウロが開拓伝道をし、大きな教会となりましたが、この教会が整えられたキリスト教会となるために多くの問題が克服される必要があったのです。私たちは、時折、教会のことを思うときに、今現在の状況を憂いたり、不満を持ちやすいですが、教会の主はキリストであることを覚えましょう。
 この教会には、分派や近親相姦、信者間の訴訟、結婚、偶像に関する考え方、霊の賜物の問題、貧しい人々への援助、復活信仰を否定する者たちがいたのです。
 こうした問題は、現代の教会にも起こりうることですから、遠い国の昔の出来事ではないのです。こうした問題の中で使徒パウロは、絶えず祈りとみことばによって訓戒し、導き続けたのです。
 いつの時代も自分の知恵をほこり、支配したがる存在がいます。しかし、ほんとうに目を留めなくてはならないのは、どんな人物でも、ユダヤ人の5000年の知恵でも、ギリシャの哲学の知識でもありません。キリストこそ、召された者にとっての神の力であり、神の知恵なのです。
 「神はこの世の知恵を愚かにされた」(20)と言われている。それはこの世の知恵では神を知ることができないからです。神とその力を知ることなくして一切は無益となるのです。どれほど人々を感心させ、動機づけ、成功したように見えて、神の世界では盲目なのです。
神の世界の中心は、十字架です。この十字架のことばは救われる私たちの力です。罪のゆるしと神の御国に生きることは、だれも誇らせないのです(26-31)。

主題 <豊かな交わり>

聖書箇所 ローマ人への手紙 16章(2011年10月 8日)

今日のみことば「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。」(16)

 パウロは最後に、ローマ教会の信徒たちのことを覚えてあいさつを送っている。
最初にフィベについて紹介し推薦している。この人はコリントの近くのケンクレヤという港町にある教会の女性執事で、この手紙をフィベに託してローマ教会に届ける役目をまかせたと思われる。フィベはパウロを良く助けてくれたことが紹介されている。
プリスカとアクラ(3)についてあいさつを送っている。彼らはパウロを助け、伝道者アポロを助け、多くの人々に仕えていた人でした(使徒18:24-27参照)。
アンドロニコとユニアス(7)はパウロと共に投獄された経験を持つ人として紹介されている。また、ペルシス(12)も非常に労苦した人として紹介されている。このようにパウロのみならず主の福音宣教に参与し、困難の中を歩んで人々が他にもいたことが分かる。
このあいさつを贈る人々について、パウロは33人以上の人の名前をあげて、その他、具体的な名前はあがってきてはいないが、名前をあげてあいさつを送った人々と共にいる兄弟姉妹をも覚えて挨拶をおくっています。これだけの人々のことをパウロは知っていたということは、まだ一度も訪ねていなかったローマ教会の信徒のことを覚えて祈り、人々の消息を連絡し合い交わりが持たれていたということは実に驚かされます。今日、通信網も発達した時代に生きている私たちは、これほど多くの人々の名前をあげて覚えていくという豊かな交わりをしているだろうかと考えさせられます。
最後に、パウロはこの豊かな交わりが築き上げられていることに対し分裂をもたらそうとする人に注意するように言われました(17)。分裂をもたらす人について、主イエスに仕えるということではなく、自分の欲に仕えている(18)と言われている。交わりは主イエスにあってのものであることを改めて覚えたいと思います。

主題 <福音宣教のビジョン> 

聖書箇所 ローマ人への手紙15章 (2011年10月 7日)

今日のみことば「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(16)

12章からキリスト者としての実践について具体的に教えてきたが、この15章はそのまとめのような章である。
1~3節は、人の弱さを担うことの重要性について、それはキリストご自身にも見られたことであったと教えられています。キリストは、自分を喜ばせることを求めないで、人々の罪や弱さを担ってくださった方であることを確認したい。5~7節では、キリストにふさわしく同じ思いを持つように教えられています。さまざまな違いを理解し、受け入れ合い、共に一致していくことが重要であることを確認しました。パウロは以上のことをまとめにように確認して、なお一層聖霊の力によって前進していくことを願っていました(13)。
 15章後半は、これまでのパウロ自身の福音宣教の旅を振り返り、これまでの働きに主に任じられて労してきたことに誇りをもって行ってきたことに触れ(17)、さらにはこれからのビジョンをローマ教会の信徒たちと分かち合うように書き送っています。
 16節に「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」とパウロは語り、まさにパウロの働きは異邦人の救いのために労し続けてきたことが分かります。このようなスピリットに燃えて働いてきたパウロによって、多くの教会が建て上げられてきました。私たちの福音伝道教団の教会が建て上げられてくるに至る最初の宣教師バーネット師もこの聖書のみことばに導かれて日本へと来られたと聞いています。主の福音宣教の召しに応えて労して下さったバーネット師の働きに改めて感謝したいと思います。
 この福音宣教のバトンを今度は私たちが受け継ぎ、この地に福音を伝えていく者とならせて頂きたいと思います。