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2014年6月16日 (月)

主題 <今も神の目が注がれている>

聖書箇所  詩篇 53篇      (2013年8月 5日)

今日のみことば「神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」(2)

 1節に「愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。」とあり、この地上における実際の生活においてあたかも神はいないかのように生きている者の存在が多くいることが嘆かれている。ウェストミンスター小教理問答の第47問にモーセの十戒の「第一戒では、何が禁じられていますか。」との問いに、その答えは「第一戒が禁じている事は、まことの神を否定するか、神はまた私たちの神として礼拝せず栄光をあらわさないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他のものにでもささげることです。」とあり、明確に、神はいないという無神論を非難しています。また、聖書の神は真の神ではないと言う者や神にのみ栄光を帰し礼拝をささげるべきであるが他の偶像に向けてしまうことを、無神論と同等に非難しています。今日も、キリスト者である私たちも無神論者のような主張はないにしても、私たちがささげている礼拝が真の神にのみ向けられ、栄光を帰していく礼拝となっているか、その礼拝における本質が問われているのではないでしょうか。
 2節に「神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」とあり、今日もこの地上に主の目が注がれていることを厳粛に受け止めていかなくてはならないと思います。今日、神はいないというような無神論者がいる中にあっても、真の神のみに礼拝をささげる姿をもって、主に栄光を帰して仕える者としての証をたてて歩み続けていく者でありと思います。

2014年6月15日 (日)

主題 <神の恵みに拠り頼む者の幸い>

聖書箇所  詩篇  52章     (2013年8月 4日)

今日のみことば「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」 (8)  

 詩篇52篇の表題に書かれている出来事はサムエル記第一の22章に記されている。エドム人ドエグはダビデがノブのアヒメレクのところに来たことをサウル王に伝えたが、アヒメレクがダビデと共謀しているかのごとく、事実とは異なる報告をサウル王にした。ドエグのような悪意に満ちた吹聴するのを聞いて、この詩篇が歌われていることを覚え見ていくとき、2節に「欺く者よ。おまえの舌は破滅を図っている。」と歌っているダビデのことばに改めて注視させられるものがある。ダビデはドエグの悪意に満ちた主張に対して、ダビデやアヒメレクの正当性を訴えるよりも、まず語る舌をもって欺く者があらゆる破壊をもたらすという恐ろしさを指摘している。ヤコブの手紙3章8節には「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」とあり、今日の私たちも語ることばに細心の注意を払わなければならない弱さを認めなくてはならない。
 しかし、ダビデは「神の恵みは、いつも、あるのだ。」(1)と告白し、欺く者のことばによって神の恵みは無効にさせられるのでも、消し去られることもない、今、まさに神の恵みはあり続けているのだと強く訴えている。ダビデはこの時、人の悪意に満ちたことばの数々により逃亡生活を余儀なくされていた。しかし、決して希望を失っていなかった。神に信頼し歩む者にある恵みをいつも意識し歩んでいたことをこの詩篇は今日の私たちに教え示してくれている。私たちも人の悪意のことばに翻弄されるのではなく、神にのみ信頼する者でありたい。

主題 <悔い改めの賛美> 

聖書箇所  詩篇 51篇      (2013年8月 3日)

今日のみことば「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 」(17)

私たちは罪を犯しても、なかなか全面的に罪を認めにくい。自分の立場やプライドが邪魔をして、神の前に人の前に、心を裸にし、自分の心の中のありったけを出すことが難しい。
ダビデは、自分か王であることを忘れ、神の前に一人の罪人として泣き崩れ、あわれみを請い求めている(1、2)。ダビデは「神よ」と呼びかけており(1、10、14)、二十回も「あなた」「あなた」と言って、徹底して神に告白している。
悔改めとは、神に背を向けて罪を犯していた者が、再び向きを神に向けて、神のところに帰ることである。ダビデは、根っから罪深い、自分ではどうしようもなく汚れた者であるということを、心底から自覚し、自分の心にある罪を告白している(3-5)。そして、人目には隠れているが、自分に、人に、神に対して邪悪な思いを抱く部分を、ヒソプをもってきよめてください、私をあなたの前に砕いてくださいと、ひたすら懇願している(7~9)。
あの天地創造の御力をもって、再び私の心を造り変えてください、神様の決して変わらない、御霊の力によって私をきよめ、新しい心をもう一度くださいと切実に求めている(10-13)。これこそ赦されないほどの大きな罪を犯した人の、切なる叫びである。そして、悔い改めが、神に導きを求めていく渇きとなり、賛美へと変わっていくことがこの詩篇には表されている。
悔い改めは自らの醜さ、欠け、弱さを示される時で、この時ほど神から遠く離れた者であるということを強く自覚させられるが、実はこのような時こそ、われらの神はそば近くに臨んでくださるお方であることを覚えたいと思います(17)。

主題 <感謝のいけにを主にささげよ>

聖書箇所  詩篇 50篇      (2013年8月 2日)

今日のみことば「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」(23)

 私たちはしばしば、天の父なる神を、自分の心の叫びを聞いてくださる「愛なるお方」としてだけ崇めがちであるが、アサフはまことに、全能なる天の神こそ審判者であり、神の義をもってさばかれるお方であると歌っている。
 聖書は主のさばきがあることを断言している。私たちは、天の父が、慈しみ深い愛なる神であると同時に、罪を厳しく罰せられる審判者であることを知り、みことばによって深く心を探られ、ますます主を恐れ、主を崇める者とならなくてはならない(1-6)。父なる神は次のようなお方である。
 第一に、主は、いつも語りかけてくださる(7)。私たちは、主は祈っても応えてくださらないと、主に文句を言いがちだが、実は主は、私たちに語りたいと願い、絶えずみことばを通して語りかけてくださっている。問題は私たちがいつも、本当に主の語りかけ、主のみことばに、耳を傾けようとしているかどうかということである。
 第二に、主が求められるのは、決していけにえが多いとか少ないとかではない。求めておられるのは感謝のいけにえをささげ、誓いをいと高き方に果たし、主の御前に常に感謝と悔改めをもって、ご自身を礼拝することである(7-14)。さらに、天の父なる神が、信じる私たちに本当に求めているのは、主を呼び求めることである。その時、主は必ず応えてくださる(15)。主を求める者を主は祝福してくださり、また「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう」と言われている(23)。
 私たちはまずどのような時にも主を恐れる者として、主に感謝をささげるものとなりましょう。

主題 <代価を払って下さる神> 

聖書箇所  詩篇 49篇      (2013年8月 1日)

今日のみことば「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」(15)

 この詩篇には、私たちが聞くべき「知恵」のことばが語られている。私たちは物質中心の世界、すなわち、物や富がすべてを解決するように思われる現実の中に生きている。しかし、それらによっても解決できないことがある。人の死の前には、富も、栄誉も無力なのである(16、17)
7~8節に、「買い戻すことはできない」、「自分の身のしろ金」、「たましいの贖いしろ」とあり、これらをだれも神に支払うことはできない。すなわち、神が私たちの罪に対して死罪の宣告をされるときに、私たちの持ち物をすべて売り払っても、「身のしろ金」とはならない。すなわち富は、罪から来る報酬としての死(ローマ6:23)を免れ、永遠のいのちを得る、身のしろ金とはならないのである。
 主イエスは、「愚かな農夫」のたとえを話された(ルカ12:13~21)。彼は、豊作であった穀物を大きな倉にしまいこんで、それで「安心」と思った。しかし、その夜、彼のたましいが「取り去られる」と宣告された。そのとき、彼が用意した物は、何の役にも立たなかった。「しかし、神は…買い戻される」(15)と言われており、人にはできないことを、神はしてくださった。一般的に、借金を支払うことのできない者にとっての解決は、その借金をだれかに肩代わりしてもらうか、帳消しにしてもらうことである。
 神は、御子(主イエス)の十字架により、御子を贖いの代価として、私たちを買い戻された。今、私たちは、御子の十字架によって、「神が私を受け入れて」(15)くださったことをこの詩篇は感謝を持って賛美している。私たちも今日、主の贖いを覚え感謝をささげましょう。

主題 <神の御前に思い巡らす恵み>

聖書箇所  詩篇 48篇      (2013年7月31日)

今日のみことば「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」(9)

 詩篇48篇は神の都エルサレムをしたがえる聖なる山シオンを見渡して、神の見守りのうちにある幸い、神が堅く据えられる都のうちにある幸いが歌われている。
 1~8節にて、シオンの山々を見渡し、その都エルサレムにて神が賛美され、礼拝される所として示されている。礼拝する宮殿は見事なものであったが、重要なことは「神は、その神殿で、ご自身をやぐらとして示された」(3)とあり、荘厳なる神殿の姿ではなく、そこに臨在される神を覚えていくことである。しばしば、今日の礼拝においても、私事に追われ、雑務と思われることが頭から離れることができず、心ここにあらずのような心持ちとなっていないだろうか。今も私たちのそば近くにご臨在くださる神を見上げることなく過ごしてしまうことがないだろうかと問われているように思います。
 9節に「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」とあり、詩人は神の宮において、なお神の恵みに思いを巡らしていったことが言われています。礼拝をささげていくということは、単に儀式的な形式に意味があるのではなく、むしろ神の臨在に触れ、これまでの神の導きと恵みを覚え、神のみこころに思いを巡らしていくことに大きな意味があるのです。
今日、私たちは多忙な日常生活を送っています。そのような毎日だからこそ、神の御前に静まり、神ご自身を思うときを持つこと、神の御思いにこころを合わせていく営みが重要であることを覚えたいと思います。

主題 <賛美の勧め>

聖書箇所  詩篇 47篇      (2013年7月30日)
 
今日のみことば「まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。」(10)

 この詩篇は新年の歌として、イスラエルの民により、祭りを告げる角笛の前に、7回繰り返して歌われた。詩の内容は、神への賛美の勧めであり、招きである。
1節に「すべての国々の民よ」とあり、神への賛美は、あらゆる国々の民に呼びかけられている。神への賛美には、イスラエルの民だけではなく、全世界の人々が招かれている。そして特に、「神の民として集められた」信仰者に(9)、賛美が呼びかけられている(コロサイ3:16参照)。
また、「手をたたけ。喜びの声」「角笛の音」(1、5)などのように、賛美の表現、手段や方法は多様である。ここでは、手や声、また角笛などの楽器も用いられている。また、賛美の表現、方法には、それぞれの国民性や文化的背景も深くかかわっている。ただ「巧みな歌」で賛美すべきである(7)。そのためには、互いに訓練される必要もある。賛美の内容を理解していないなら、単なる音声、騒音、雑音でしかないのかもしれない。また、単に私たちの感情を高揚させ、集いを盛り上げる手段のためであるなら、それは「賛美」とは異なるものと言わなければならない。
また、「まことに神は全地の王」(7、2)とあり、神は、王、国々の支配者、王の王、主の主であられる。すべての国々の民に賛美が呼びかけられているのは、神が賛美を受けられるにふさわしいお方だからである。
私たちの賛美が主に向けられたものであり、主にささげられるものでなくてはならないことを覚え、感謝し、主を賛美する一日を過ごしていきましょう。

主題 <やめよ。わたしこそ神であることを知れ>

聖書箇所  詩篇 46篇      (2013年7月29日)

今日のみことば「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(10)

 詩篇46篇の全体は神こそが信仰者にとっての避け所であり、力の源であり、苦しむときの助けであることを確信し、告白している。それゆえに、なにが起こっても恐れることはないと高らかに告白し賛美している。
 4~7節では神の都エルサレムについて語られ、その都の中心に神が共におられたゆえに揺るがされることがなかったことが語られている。かつてイスラエルの歴史を振り返るとき、多くの国々から攻められ危機的な状況に立たされてきたことがあったが、たびたび神によって守られてきた。一度は捕囚となり荒廃するが、神の約束と導きにより神を礼拝する神殿、城壁の再建により再び国は復興されていった。神が共にある都はあらゆる場合の最後の避け所であることを歴史が証明している。
 主を信じ、主に仕えるしもべの姿として告白されている次のみことばに注目したい。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(10)とあり、今日、信仰者である私たちは神がどのようなお方であるかを知り、神のなさった御業に目を向けていくことが重要である。
 私たちは速やかな解決を求めて、自らの判断、行動を起こしていくことが多いのではないだろうか。しばし今起こっている問題、課題があるならば尚の事、主の前に静まり、祈るところから始めなくてはならないのではないだろうか。すべてをご存知であり、導いて下さる主の前に静まり、導きを求めて行くことを優先した生き方となるように祈りたいと思います。

主題 <花嫁の姿のように>

聖書箇所  詩篇  45章     (2013年7月28日)

今日のみことば「喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿にはいって行く。」 (15)  

 詩篇45篇の表題は「コラの子たちのマスキール。愛の歌」とあり、その内容は王の結婚に際しての祝福の歌である。そして、この詩篇は王である神と花嫁であるイスラエルの民との関係になぞられ、それはさらに今日、キリストと教会との霊的な関係にもなぞられる重要な意味が含まれている詩篇となっている。
 詩篇45篇2~9節では、花婿となる王について語られ、その麗しい姿が称えられている。特に6節に「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」とあり、これはヘブル人への手紙1章8~9節に引用され、ヘブル人への手紙では神の御子についての預言の内容として引用されている。ダビデの子孫として来られるメシヤ(キリスト)によって神の支配と祝福があることを示している。
 それに対して、10~15節では花嫁となる娘の姿について語られている。特に10~11節では、花嫁に対して「忘れよ」、「ひれ伏せ」との命令が続いている。妻が誰よりも夫を愛すること、従っていくように、今日、花婿なる御子に対して花嫁である教会、信仰者たちがキリストを愛し仕えていくことの重要性について教えている(エペソ人への手紙5章24~25節参照)。
 花婿なるキリストに対して花嫁である教会、そこに集う信仰者たちはやがて結婚式の祝宴のように、天の御国における祝福に満ちた祝宴が備えられているという恵みを覚えて、待ち望む者でありと願います。

主題 <逆境の中での祈り> 

聖書箇所  詩篇 44篇      (2013年7月27日)

今日のみことば「立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。」(26)

 この詩篇の背景に戦いに大敗したことが伺える。どうしてそんなことになったのか、この詩篇作者は理解することができない。過去において、神は彼らを助け、また守られたのに、なぜ、神は今、彼らを捨てられたのだろうか。
 私たちはみな、実生活において数々の挫折を経験し、それがどんなものか知っている。自分自身や自分の家族の計画でも、教会やその他の組織の計画でも、うまくいかなくなって、初めからやり直すことになる。その計画が小さいものであるなら、肩をすくめるだけで、またほかの方法を準備することができる。しかし、計画が大きく狂うと、イスラエル人と同じように、途方にくれる状態になることもある。しかし、このような状況に中に、主の導きを確信得ることが出来たら幸いである(17)。
 作者は何の答も持っていない。しかし彼は、全く正直に神の前に心を注ぎ出して、「目をさましてください。いつまでも拒まないでください」と神に訴えている。神の愛は決して衰えることがないことを彼は知っている(26)。そして、その愛がいくらかでも働き出すのを見たいと思・つている。
 私たちは、逆流に会う時、どう反応するのか。この作者と同じように、自分の痛みと失望を正直に神の前に注ぎ出すことができるだろうか。私たちは神の恵みを信じて、祈り続けていく者とならせて頂きたいと願います。