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2011年12月24日 (土)

主題 <イエスから目を離さないで>

聖書箇所 へブル人への手紙 12章(2011年12月30日)

今日のみことば「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(2)

11章では、旧約聖書の時代に、神が語られたことを聞いて、地上では旅人また寄留者として走り続け、神から賞賛された、多くの証人たちがいたことが紹介されていました。私たちも、一切の妨げとなるものや、不信仰の罪を捨て、忍耐をもって走り続けるべきである(1)。また、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座され、今は、万物の完成の時を待っておられる主イエスから目を離さないで歩むことが強く求められています(2、3)。
ユダヤ人キリスト者たちも苦難に会い、激しい戦いを経験したが、人々の反抗という罪と戦って、殉教の死を遂げるようなことは、まだありませんでした(4)。しかし、どのような苦難であれ、それは、神の愛の懲らしめによるものであり、神は、ご自分の子として扱っておられること。そして、苦難は、神の子として、また神の民としてふさわしくなるための訓練なのであることを教えられました(4-8)。
神の民がこの世で生きていくときに、罪人たちの反抗は避けられない。しかし、神が、神ご自身に反抗している罪人に対して、神の方から語られ、平和の関係を作り出すために、御子を与えてくださったことを覚えつつ、神の民は、すべての人との平和の関係を追い求めるべきである。また、神のみこころを行い、聖められることを追い求めるべきである(14)。そのために、神がお語りくださったみことばを、ますますしっかり心に留めて、神の恵みによる救いから落ちることがないようにしなければならない(15-17)。
今私たちは、御子イエス・キリストによって、恐れることなく、大胆に神の御前に出ることができるようになった。そして、すでに天に召された、旧・新約時代の神の民が住み、揺り動かされることのない永遠の御国が来るのを待っている(18~24)。
 私たちも、この終わりのときに、キリストによって、特にその救いの働きによって、語り続けておられる神を拒まないように注意し、揺り動かされることのない永遠の御国をめざして、神に仕えいきたい(25-29)。

主題 <信仰に歩んだ人々> 

聖書箇所 へブル人への手紙 11章(2011年12月29日)

今日のみことば「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」 (17)

 11章では、信仰をもって歩んだ聖徒たちがいかに歩み、その歩みが賞賛されています。
1~3節では、神が語られたことを信じる信仰によって、私たちは、「望んでいる事がら」を保証され、「目に見えないもの」、つまりまだ目で見ていないものを確信するのであることを教えています。旧約聖書の時代の神の民は、そのような預言者たち、広い意味で、神のことばを預かり、それを語った者たちを通して、神が語られたことを信じる信仰によって賞賛されました(2)。
このように歩んで先人たちが紹介されています。それはイスラエルの歴史でもありました。一人一人の歩みは多くのことを教えてくれています。今日はその中で注目したいのは、アブラハムです。
神は、アブラハムを「大いなる国民」とすると約束されました(創世記12:2)。しかし、彼には子がなく、妻のサラは不妊の女であったが、神は、その約束を果たされ、子をお与えになりました。ところが、神は、その約束の子、イサクを全焼のいけにえとしてささげるようにと、アブラハムにお命じになります。それは、アブラハムにとって大きな試みでした。しかし、彼は、神を信頼して神のことばに従い、ひとり子イサクをささげたのである(創世記22章)。イサクもヤコブもヨセフも、同じように、神が語られたことを最後まで信じて、その信仰によって賞賛されました(20-22)。
アブラハムの人生を見ていくとき、その信仰にはじまり、試みの中にも、信仰に生き抜き、その人生を全うしたと言えるでしょう。そして、アブラハムに続く子孫を得て、さらなる多くの数々の民につながっていることは祝福の広がりを示し、今は、私たちにも及んでいる恵みをあかししてくれていると言えるでしょう。
私たちもこれから後の人々に続く、信仰のあかしをもて歩むことができたらと願います。

主題 <確信をもって堪え忍ぶ>

聖書箇所 へブル人への手紙 10章(2011年12月28日)

今日のみことば「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」(35)

 1~18節では、かつて律法に従って行ってきた儀式は、後にこられるものの影であったこと、つまりは御子キリストはただ一度ささげられ、今、私たちにも及ぶ有効な犠牲となられた方であることが語られています。
19~31節では、キリストの十字架に焦点が向けられていきます。私たちは、ご自身をいけにえとして十字架上にささげてくださった御子イエス・キリストによって、神との交わりが回復され、一人一人が直接、いつでも神に近づき、神との交わりを持ちつつ生きることができるようになりました(19-21)。それゆえ私たちは、キリストによって罪がきよめられ、私たちに有罪を宣告して神に近づくことを妨げる良心もきよめられ、神との交わりのうちに生きることができるようになったのだから、また、そのことを象徴する水のバプテスマを受けたのであるから、全き信仰をもって、真心から、神との交わりを持ちつつ生きるべきである(25)。迫害にあっても動揺しないで、希望をしっかりと告白し、一緒に集まり、キリストの再臨の日が近づいているの見て、互いに勧め合い、注意し合い、励まし合って、ますます愛と善行を促すべきであることが勧められています(23-25)。
 32~35節では、私たちに残されている財産があることが示されています。
御子イエス・キリストを信じた後、迫害を受けて苦難に会いながら激しい戦いに耐えた、初めのころを、思い起こすべきであること(32)。そして、キリストを信じる信仰のために、人々の目の前で、そしりと苦しみを受けた者もあれば、そのような目に会った人々と、苦しみを共にした者もいたこと(33)。彼らは、信仰のために獄に捕らえられている人々を、食べ物や他の必要なものを持って見舞い、また、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍んだと示されている(34)。そのように生きたのは、いつまでも残る財産を持っているという確信であり、投げ捨ててはならなことを強く勧めました(35)。
36-39節では、神の民として神のみこころを行い、やがてキリストと共に、いつまでも残る財産を手に入れるために必要なのは忍耐であると教えました(36)。私たちもこの忍耐の必要を覚え、歩ませて頂きたいと思います。

主題 <御子キリストのなされた御業を覚えて>

聖書箇所 へブル人への手紙 9章(2011年12月27日)

今日のみことば「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(26)

 1~10節では、かつての幕屋における礼拝、大祭司の務めに関して記されている。7節は、以前は、神のご臨在の前に近づくことができるのは、一年に一回、一人の人に限られていたことを示している。そこで、罪の赦しのために神が定められた贖罪のための儀式がとり行われたのであるがを完全なものではなかった(9)。
 しかし今は、神はキリストの十字架によって新しい秩序を立てて、私たちの罪を赦し、良心をきよめる道を開いて下さった。旧約の時代にあがないのために神が命じられた聖なる儀式が指し示していた永遠のあがないを、キリストは、ご自身の身をもって実現されたのである (12)。
旧約の場合と新約の場合との間に共通なのは、いけにえ、死、そして血とその血によるきよめが契約の中心にあるということである。しかし、人々は、そこにも示されていた神の聖さを知り、罪を悔い改め、また神のあわれみと愛に頼ることができたが、神の民の多くがすべてを形式的に厳格に律法を守ることによる自己義認に変えてしまっていた。しかし今、私たちは、キリストの十字架の血によるきよめとあがないによって、またキリストの恵みにより私たちに渡された永遠の資産(15)によって生きることができる。この違いと恵みを改めて覚えたい。
旧約時代の儀式的な律法は、さまざまな細かい規定から成っていた。それらは、一つの、より大きな真理を示していた。それを直接実現させることはできなかった。キリストだけが至聖所つまり天そのものに入られて(24)、人間の罪のためのただの一度のいけにえとしてご自身をささげることによって(26)、身をもってその真理を実現することがおできになったお方である。
 そして、天におられる主は再び来られるお方であり(28)、私たちの救いのために来られる方である。かつて、主の降誕を待ち望んだ民がいたように、今日、私たちもこの主を待ち望む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <天におられる真の大祭司キリスト>

聖書箇所 へブル人への手紙 8章 (2011年12月26日)

今日のみことば「すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」(1~2)

 8章には、天の幕屋で仕えておられる、大祭司である御子イエス・キリストによって、新しい契約が実現されたということが記されている。
キリストは、人々の罪のために、ただ一度ご自身をささげられた後、天におられる父なる神の御座の右に着座されたお方であり、人間が作った地上の幕屋ではなく、神が設けられた、天の真実の幕屋で仕えておられる大祭司である(1-3)。レビ系の祭司たちは、天の実物の幕屋の写しと影である、地上の幕屋に仕えているのであって、それらは、キリストがまことの大祭司として立てられるまでの、一時的なものにしかすぎませんでした(4、5)。
キリストは、大祭司として、レビ系の祭司たちよりもさらにすぐれた務めを得られた。それは彼が、さらにすぐれた約束(10-12)に基づいて制定された、さらにすぐれた契約(新しい契約)の、仲介者だからである(6)。
 神がイスラエルの民をエジプトの地から導き出した日に、イスラエルの民と結んだ契約には欠けがあり、完全なものではなかったので、神は預言者エレミヤによって、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、新しい契約を結ぶと約束しておられた(7-12)。そして、キリストの、大祭司としての働きによって、罪の赦しが完全なものとなり(12)、人々は、感謝をもって律法を受け入れ、神のみこころを行う心を与えられ、真に神の民として歩むようになるのである(10)。また、そのような歩みの中で、神の民一人一人が、個人的に、神を知るようになるのである(11)。
 新たに完全な契約の成就を成し遂げられ、今は天にあって真の大祭司として立っておられるキリストを知り、感謝して歩む者とならせて頂きたいと願います。

主題 <大祭司キリスト>

聖書箇所 へブル人への手紙 7章 (2011年12月25日)

今日のみことば「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(27)

メルキゼデクのことは、創世記14章17~20節に簡潔に語られているだけであるが、詩篇では110篇4節に、そして新約聖書では、今読んでいるヘブル人への手紙にその名が出ている。驚くべきことに、神の御子イエスについての重要な事実を教えるのに、イスラエルのレビ族の出ではない祭司としてのメルキゼデクのことが用いられているのである。
 御子イエスはメルキゼデクのような大祭司である。そこで、その二人の間の類似点を確認したい。
 まず、「義の王」 (2)という意味のメルキゼデクという名前は、イエスを見事に言い表している。主は全く罪のないお方であり、正しいお方だったからである。次に、「平和の王」(2)という称号がある。メシヤは「平和の君」と呼ばれ(イザヤ9:6)、イエスご自身は弟子たちに、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」 (ヨハネ14:27)と言われた。
 メルキゼデクの系図の記録がない(3)という事実は、その存在に「永遠的な」感じを与えている。
また、メルキゼデクとイエスがレビ族と対比されている。本来ならば、祭司職はレビ族から立てられたが、メルキゼデクはその系図の記録がないように言われているように、御子イエスはユダ族から出た者として言われ(14)、メルキゼデクのように、イエスはレビ族とは関係のない方として立てられた方として言われている。それは、従来の様な祭司職に就く方ではない方として暗に紹介している。主は神の特別な祭司である御子であった。
 御子イエスは、私たちの必要を唯一応えてくださる大祭司である(26)。それは、私たちの罪のためにただ一度ご自身をささげてくださったからである(27)。
 神との間に立たれとりなしてくださる真の大祭司キリストにあって、その罪の赦しに感謝し、希望をもって歩ませて頂きたいと思います。

主題 <約束のものを相続する信仰>

聖書箇所 へブル人への手紙 6章 (2011年12月24日)

今日のみことば「それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」(12)

1~8節では、キリスト者としての成熟を目ざすように勧めている。悔改めと信仰、復活とさばきなどの「キリストについての初歩の教え」をよく理解したうえで、それを土台として、日々の神との交わりのうちに神に従って生活をし、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人となり、霊的な成熟を目ざして進むべきであった(1~3)。そのためには、神によってメルキゼデクの位に等しい大祭司と宣言された、御子のことをよく理解すべきであった。しかし、キリストを否定し、キリストを十字架にかけたユダヤ人と同じように、キリストをもう一度十字架にかけて、恥辱を与えることに等しいことは、もう一度悔改めに立ち返らせることは困難であると警告を与えている(4~6)。
9~12節では、信仰と忍耐によって約束のものを相続することができるようにと励ましている。信仰から離れ、キリストを否定するのではなく、キリストによって神との交わりのうちに、聖徒たち(教会)に仕え、神のために愛を示していくようになることを願っていた(10)。
13~15節では約束のものを得るために、その模範としてアブラハムについて語られている。神は、アブラハムを大いなる国民(神の民)とすると約束された(創世記12:1~2)。そのときアブラハムには子がなく、妻のサラは不妊の女であったが、約束通りイサクをお与えになった。アブラハムは、信仰と忍耐の連続の後に、約束のものを得ることとなったのである(15)。
16~20節では、アブラハムの信仰に触れ、神の約束の確かさを示し覚えるように勧めている。人間は、自分よりすぐれた者をさして誓い、約束に対する疑いや不安を取り除き、約束の確かさを保証する。しかし、神は、神以上にすぐれたお方は存在しないので、ご自分をさして誓われた(16、17)。これ以上にまさる確証はないのである。
 今日、私たちも御子キリストを信じ、愛し、仕え、御子にある真の希望に満ち、歩むことができるように祈ろう。

主題 <とりなしをされる御子>

聖書箇所 へブル人への手紙 5章 (2011年12月23日)

今日のみことば「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(7)

 5章では、御子(キリスト)について、その役目、働きについて語られている。それは、御子がメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたということが記されている。
旧約の大祭司はみな、民の罪のためにささげ物といけにえとをささげるために、民の中から選ばれ、人々に代わるものとして任命を受けた(1~3)。また、大祭司となる名誉を自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けました(4)。祭司職、とりわけ大祭司はイスラエルの民にとって特別な働きを担われる方でした。
御子も、大祭司となる栄誉を自分で得られたのではない。御子キリストは、創世記14章17~18節に登場するメルキゼデクのように、支配者(王)であると同時に大祭司でもある栄誉を、神から与えられた方として証言されている(5~6)。また、キリストは、神であられるのに、人となられ、人々に変わって十字架の死にまでも神のみこころに従い、御子を信じるすべての人々に対して、永遠の救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司と宣言された方として言われています(7~10)。
御子は、このように大祭司ということも特別でありますが、御子についてはさらに、メルキゼデクの暗いに等しい大祭司であるということは、御子にのみ、他に比べることのできないお方であり、この方は天おいても、地においても唯一、すべてのさばかれる権威を持たれたお方であるということを覚えなくてはならない。そして、御子は従順に従われ、その敬虔さによりとりなしが聞き届けられました(7)。このとりなしがなくして、今日の私たちにも救いがなかったということを覚えなくてはならない。

主題 <信仰とみことば> 

聖書箇所 へブル人への手紙 4章 (2011年12月22日)

今日のみことば「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」 (2)

 1~10節には、神の安息について語られている。イスラエルの民が、四十年間の荒野での生活を経て、ヨシュアと共に約束の地に入り、安住を許された(ヨシュア21:43~45)。しかし、それは後に与えられる真の安住、神の与えて下さる安息の前味に過ぎず、ヨシュアも、イスラエルの民も、まだ、神の安息に入ることはできなかった(6~10)。
 天地万物の創造のわざを完成したときに、神は、創造のわざを休まれ、安息に入られた(創世2:1~3)。その後、人間は罪によって神との交わりを絶たれ、神の安息に入ることができない者となってしまった。しかし、神が語られたことを信じて神との交わりが回復され、神の民とされた人々は、やがて、万物が完成する新しい天と新しい地において、神の安息に入ることができるのである(1~5)。
 この神との交わりを回復させられていくのに重要なのは信仰なのである(2)。そして、これはいつの時代においても問われているのである。私たちは、信仰によって、神の安息に入るよう力を尽くして努め、落後する者が、一人もいないようにしなければならない (11)。
 そして、信じることにおいて、もう一つ重要なのは神のみことばである。荒野を旅したイスラエルの民も主のみことばを聞きつつも、忠実に、従順に聞き従わなかったことが荒野の40年の旅となりました。どうように、みことばをどのように聞き続けていくが問われるのである。神のことばは生きていて、力があり、最も鋭い両刃の剣よりも鋭く、私たちの心の奥深くまで切り込み、心のいろいろな考えやはかりごとを明らかにする。神の前で隠しとおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されている。私たちはこの神に対して、神が語られたことにどのように応答したかを弁明しなければならない(12、13)。
 私たちは、信仰の耳をもってみことばに聞き、主に従う者とならせて頂きたいと願います。

主題 <不信仰な心にならないように>

聖書箇所 へブル人への手紙 3章 (2011年12月21日)

今日のみことば「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」(12)

 ヘブル人への手紙は、その書簡の名前が示すように、ユダヤ人へと宛てられた手紙である。それ故に、ユダヤ人の歴史をよく知っているという前提があり。この3章ではユダヤ人、イスラエルの歴史に触れて語られている。そして、その歴史を見ていくのは、イスラエルの民の神に対する忠実さ、従順さに焦点が当てられています。
イスラエルの人々は、エジプトの奴隷状態から逃れたことを初め喜んだが、荒野の生活は苦しく、きびしいものになると、うめきとつぶやきとがんこな不従順が、彼らの神に対して取った態度でした(7-9)。
かつてのイスラエルの民の不従順に触れて、今、生きるユダヤ人キリスト者に対して、信仰から離れることなく、その信仰を全うするように勧めました。
そして、その信仰にあって歩むことについて、重要なのは、しっかりと主のみことばに聞き、従ったときのことを覚えていくということでした。7節、15節に「きょう」と繰り返して出てくる言葉は重要である。荒野にあって歩んだイスラエルの民は、確かに、主の御声に聞き従い、エジプトを脱出し歩み始めた。そこのは、信仰の旅路の出発点であったことを示している。その信仰をもって出発した旅は、やはり信仰を全うすることによって、旅は成功するのである。
12節「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」との注意は、単なる警告ではなく、神の民として歩む者にとってのこの地上を歩む、信仰を全うしていくための秘訣でもあるのである。
私たちも、いつも絶えず、不従順な心、不信仰な心が真に行ける神からは慣れさせてしまう要因であるということに注意深く、霊的に眼覚めた心をもって、歩むことが出来るように祈っていきましょう。