聖書をたのしく読もう Feed

2011年12月24日 (土)

主題 <神に望みを置くように>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 6章(2011年12月10日)

今日のみことば「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(17節)

 この章ではさらに、奴隷、富める人などへの警告を記します。私たち一人一人は、神が置かれた立場を出来る限りに生かせるように信仰を働かせるのです。生活、ものの考え方、動機を敬虔に生きることです。すでに教えてきた敬虔を修行する(文語訳4;7)が最も重要なカギとなってきます。
 敬虔に生きることがないと、少しばかりの立場や知識、富の豊かさが高慢な罪に陥いらせたり、自己主張の手段にさせるのです。
 17節にあるとおり「たよりにならない富に望みを置かないように」と諭しています。ある人々は少しでも人の上に立ちたい、支配したい誘惑に陥っています。そうした富は、頼りにならないと言うのです。
中に、敬虔を利得の手段にしている信者もいます(5節)。この高慢を乗り越えるためには、神への信仰のみです。
しかも神は、私たちのすべての物を豊かに与えて楽しませてくださるお方なのです。この方に信頼し、希望を置くように勧めています。
 この望みは18節にあるとおり、現在の自分の信仰と人生の重要な基礎であり、未来に置かれている素晴らしい現実なのです。
 聖書に出会うことがなければ、こうした不動の希望と謙遜な敬虔を決して身に着けることが出来なかったでしょう。
この聖書に生きることがこれほど素晴らしい日々への導きとなることに驚きを持って読み進みましょう。毎日、聖書を深く読み、神と交わるデボーションが、知らず知らずに生活をかたち造るのです。励みましょう。

主題 <信仰の良い行ない> 

聖書箇所 テモテへの手紙第一 5章(2011年12月 9日)

今日のみことば「良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」
(10節)

 教会は、神が隣在される地上に遣わされている神の機関です。ですから、神の代理をさせていただくと考えていいでしょう。この世界は神を拒否しているので、神がお建てになっている教会を通して神に出会えるのです。もちろん、自然も第二の聖書といわれ、神の栄光を現わしていますから、神を知ることは出来ます。(詩篇19篇・ローマ書1章18節)
 教会におけるすべての営みは、神が望まれる道を歩もうと努めているのです。そこで若い牧会者のテモテに、年配の信徒に対して、婦人に対して、やもめに対して、どのような指導をするべきかを教えました。この原則は今も、大切にされなくてはなりません。
 17節から記されている長老は、現代の牧師です。牧師の大切な仕事は、みことばを正しく、いのちにみちて語らなくてはなりません。生きた神のことばを取り次ぐのです。聖書への知識だけではなく、信仰が深く根付いていなくてはなりません。
 もうひとつは、教育をすることです。神を愛し、神に従う教育をして主に喜ばれる聖徒に形造るのです。この牧会の奉仕は大きな犠牲が必要です。自分と家族が主に仕えるだけではなく、教会員が成長するために仕えることには、いのちをかけなくては出来ません。牧者は常にこの生き方に徹するのです。
 そうした者には、すばらしい報いが用意されるのです。信徒たちから尊敬と必要のすべてが備えられるからです。それだけに、祈り深く、自らを整える努力を傾けなくてはなりません。
 そして今日も、牧師たちのために祈っていただきたい。

主題 <信徒の模範をめざそう>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 4章(2011年12月 8日)

今日のみことば「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。(12節)
クリスチャンである私たちは、教会や社会にいて人々の目標ともなり、模範となっているのです。この世にあって地の塩、世の光なのです。山の上にある町が隠れることが出来ないように、キリスト教信仰者は喜ばれもし、避難も甘んじて受けなくてはなりません。
でも、人から軽んじられる、軽く見られないように出来るのです。かえって、5つの生き方で、暗い世の光となり、灯台となっているのです。
ことばで真実を語り、人々の信頼を勝ち取る牧師になり、役員になり、聖徒になるのです。
1-5節には、偽りの牧師や信徒たちがいたのです。キリスト教の純粋な信仰を曲げて、まことしやかな教えで人々を堕落させていました。
信仰の深く正しい訓練は、敬虔によって訓練されることです。敬虔とは神に従う生活を第一として生まれてきます。
これは祈りと教会生活の中で、具体的に身に着けなくてはなりません。7-8節にあるように、いのちにいたる敬虔は大きな利益をもたらすのです。
12節で、年が若いからといって人に軽んじられないように生きるのです。
・ことばにも、信仰の態度があふれるようにしたい。
・態度にも、信仰者の落ち着きと平和があふれていたい。
・愛にも、いつまでも残る愛の生活に注ぎたい。
・信仰にも、神への信頼を一貫して進みたい。
・純潔にも信者の模範になりなさい。
こうして敬虔な生涯は、すばらしい実を結ぶのです。

主題 <教会の牧師のための祈り>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 3章(2011年12月 7日)

今日のみことば「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。(1節)
 「監督の職につきたいと思うなら、すばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です(1節)。教会という聖なる御国の奉仕にあずかることは、素晴らしいことです。
 15項目を上げて、教会の監督の在り方を教えています。3:2「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、3:3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。」
3:5 自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。
ことに後半の3つについては詳しく説明がつけられています。
 自分の家庭をよく治められ、自分の子供を威厳をもって従わせている人です。家庭の中を治められない人は教会を導くことができません。
 クリスチャンになって間もないときは、高慢になりやすい。高慢はサタンの姿であり、滅びに先立つものです。
 教会の外の人にも良い評判の人であることです。信仰が周囲へのあかしとして認められることは、サタンの罠にかからないためにも必要です。
牧師がこの様に歩むことができるように、とりなしの祈りが必要です。
教会役員のための祈りも大切です。8-9節の執事は牧師を助けるつとめ、役員のことと理解できます。ここにもいくつかの項目をあげた在り方が記されています。
 婦人執事については、ことばの点においてことに自制するように教え、子供と家庭を良く治めるひとであることを求めています。
 これらの在り方はいずれも忠実な教会生活をめざすことによって、実現してゆきます。牧師の指導や助言を大切にしつつ互いに励まし合う必要があり、小さな努力が必要となります。
 執事の務めを立派に果たした人は良い報いを受け(マタイ25:21)、信仰に対するより強い確信を握るようになるのです。

主題 <願い、祈り、とりなし、感謝> 

聖書箇所 テモテへの手紙第一 2章(2011年12月 6日)

今日のみことば「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1節)
祈りについて学びます。「まず初めに、このことを勧めます」(1節)とテモテがなすべきこと、そして私たちがなすべき第一のこと、それは祈りであります。祈りこそキリストのなされた救いがすべての人に及ぶ最初の仕事、第一の仕事なのです。このとりなしの祈りこそ、主の使命と重ね合わされたとおとい職務です。
 祈りの第一は、神がすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるように、救われることを願うことです。
 第二は、王たち高い地位の人々のため祈る必要があります。彼らは神から与えられた国家の方針、政治、経済、軍事、教育、福祉など国民生活のすべてに関わる責任を持っています。キリスト者が威厳を持った一生、平和な一生、静かな一生を送るためです。与えられた祈りの責任を果たさずに、国家の問題を裁くのみではいけません。
8節には「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と教える。ここに男性と女性それぞれ違ったことを命じているように見受けられます。男性は祈り、女性はしとやかに聞くようにと。しかし、9節に「同じ様に女も」とありますので、この章全体が祈りに貫かれていると見ていいのです。
 男性への祈りの勧めですが、怒ったり、言い争ったりしないことです。男性はすぐに怒りやすく、議論に頭脳と精神を没頭しやすく、その後で祈ることができなくなることが多いのです。しかし、それでは救われることができないのです。(15節と対比)
 積極的にはどこででも、きよい手を上げて祈る。手を清めることは旧約にも勧められています。女性の陥りやすい弱点は祈ることよりも、外面を飾ること、衣服のことに心が向かいやすい。また勝ち気な女性は、男勝りに議論に時間を費やして、祈りが後回しになってしまうのです。
 女性特有の穏やかな性質を、祈りによってより美しく整えることを勧められています。背後に謙虚な祈りのある人を、神様は救ってくださる。

主題 <この命令は愛を目標としています>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 1章(2011年12月 5日)

今日のみことば「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(5節)
 使徒パウロは、テモテを「信仰による真実のわが子」と呼び、本当の父子のように一緒に主に仕えたテモテへ手紙を書き、牧会を指導したのです。独身だったパウロにとって、テモテの存在はどんなに慰めを得たことでしょうか。
 まず、エペソの教会に持ち上がったのは、教理上の誤った問題であり、その対応です。律法をどう読み、どう理解し、どう生きるか、ということは大事な問題です。教会の中には、自分が律法の教師として名誉ある立場を誇ろうとして、強く自己を主張していた人物がいたのです。
 高慢は信仰の世界でもうごめいており、わき道にそれて無益な議論に走ることになります。今も、私たちの周囲にも見られます。神学の方面でも、何か特別な知識を誇る愚が聞こえてくる。神学は清い心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛を目標としなくてはなりません。神学は神様を学ぶものですから、愛がない人に神はわからないのです(Ⅰヨハネ4:8)。まずこの信仰の中心である神の言葉を学ぶ信仰の目標をしっかりと定めましょう。
 そしてパウロ自身の救いのあかしをするのです。16節には、「そのような私があわれみを受けたのはイエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」
 ここにパウロは深い神のあわれみをあかししています。これほど罪深い者をあわれんで下さった神様に、誉れと栄えが世々に限りなくあれと、賛美をささげているのです。17節を繰り返し読んでみて下さい。たった一人のパウロの救いについて、こんな賛美をささげているのです。
 見本であって、今後信じようとしている人のための先立ちであったと言います。私たちが神を信じて救われたこともまた、周囲の人へのモデルなのです。パウロは自分の内にある本当に深い罪の汚れを知り、主イエス・キリストの十字架によるゆるしを体験したのです。罪の深さをより知る人ほど謙遜な人はいません。キリストの恵みは、主にある信仰と愛とともに、ますます、満ちあふれるようになりました。(14節)

2011年11月27日 (日)

主題 <締まりのない歩み方ではなく>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第二3章(2011年12月 4日)

今日のみことば「こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。」(12~13)

パウロはテサロニケ教会の人々に、キリストの再臨について再度教えられた後に、キリスト者としてふさわしい歩みについて語り始めます。パウロは大きく2つのことを勧めました。
一つは、あらゆる悪い状況であっても、神の愛とキリストの忍耐をもって歩み、主のみをしえを実行する歩みであるように勧めました。(4~5)。
二つ目に、締まりのない歩み方をするのではなく、働きつつ、善を行なうように勧められました(6~13)。パウロは、「締まりのない歩み方」という言葉を繰り返し言っていますが、この時、確かにテサロニケ教会の人々の中に、仕事をやめて、日々、怠惰な生活を送っていた人々がいたため戒める必要がありました。
 パウロは、日々、怠惰な生活を送っている人々に対して、ただ手紙によって戒めただけでなく、パウロがテサロニケにいた時、すでに自らの働きによって糧を得ていたことを思い出すようにと言いました(7~8)。
今日の時代も怠惰に生きてしまうことは簡単なことかもしれません。もしかしたら日常的な歩みこそが意識的に、積極的になされなくては継続できないものがあるのではないでしょうか。パウロは12~13節に勧められている歩みは、特別なことではありませんが、ひたむきな日々の営みがどんなに重要であるかを教えてくれているように思います。
パウロがキリスト者としての歩みの模範を示していたように、今日、私たちの歩みが模範、証となる歩みとなるように祈っていきましょう。

主題 <主のみことばに堅く立って歩む>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第二2章(2011年12月 3日)

今日のみことば「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(15)

パウロが第一の手紙を送って以降、再度、テサロニケ教会において、キリ
ストの再臨についての議論が起こり、中にはキリストの再臨がもうすでにあったように語る者たちも出てきました(2:2)。そして、そのように言う者たちの中には働くことをやめ、怠惰な生活をおくる者が出てきました(3章参考)。
 そこで、パウロは決して心を騒がせることがないようにと(2)、そして、主の再臨の前には、背教、不法の人(滅びの人)が現れることを示されました(3)。  
特に、不法の人(滅びの人)が誰という特定はないが、この者が現れると、神に反する働きが行なわれることを教えられ、注意深くあるように教えられました。(4~10)。
 また、主の再臨についての憶測的な議論するばかりでなく、パウロはテサロニケ教会の人々に、すでにキリストの福音によって救われているという確かさと希望を確認するように語りました。そして、どのような時にも、パウロが書き送った手紙、つまりはことばに堅く立つようにと勧められました(15)。
パウロが言う「私たちのことば」こそ、パウロが主から教えられたことばであり、今日で言う主のみことは、聖書の言葉をさして言われたことでした。私たちは、しばしば、この世の価値観、経験則的なことばで語ることがあるかと思います。それは場合によっては途方もない議論に終わってしまうことがあります。しかし、私たちが語るべきことば、基準とすべきことばは聖書のみことばであること、これを土台としていくべきことを確認したいと思います。
私たちは、今日も、主のみことばに信頼をおいて、主を待ち望む者として歩ませて頂きと思います。

主題 <主にあって栄光を受ける歩み>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第二1章(2011年12月 2日)

今日のみことば「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」(12)

 パウロはテサロニケにて迫害が起こり、わずか3週間足らずの宣教期間で離れなくてはなりませんでした。パウロはテサロニケの人々を案じて、テモテを派遣したが、そこにはテサロニケ教会が設立しされ、多くの信徒の模範となっていたということを聞き大いに喜んだ。
テサロニケの教会が働きを進めていくようになっていたが、パウロはまたさらに教えるべきことがあったのでテサロニケ人への手紙第一を書き送ったのでした。
 それからそう時間を経ずして、テサロニケ人への手紙第二が書き送られることとなります。そこには、キリストの再臨について、さらには怠惰な生活から離れることなどについて再度教える必要が生じたという理由もありましたが、まだキリスト者として歩み始った信徒たち、設立して間もないテサロニケ教会を案じて、パウロはテサロニケから離れていても、テサロニケ教会の人々が正しい信仰に歩むことが出来るようにと常に牧会的配慮をもって関わろうとしていたと言えるのではないかと思います。
 テサロニケ人への手紙第二1章全体を通して、パウロの励まし、祈りについて見ることが出来ます。
そこには、どのような時にも神の国のために生き歩むことの幸いについて知ることを教えられました。(5)
また、主の日には主の栄光が現わされ、テサロニケ教会の人々が感嘆の的となると言われ、困難な中にも信仰を全うする歩みとなるように強く勧めました(12)。
 この地上における歩みにあって、困難な中にも、信仰的迫害を受けることがあっても、主に忠実に仕える者として、その信仰の歩みを全とうすることができるように祈りつつ、神の国に希望をおいて歩むことが出来るように祈りましょう。

主題 <主の日は盗人のように来る>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一5章(2011年12月 1日)

今日のみことば「いつも喜んでいなさい。」(16)

 主が再びこの世界に来られるということを自覚するべきなのは、「いつか」という問題で、今日を生きる決定的なあり方を形造る。
 主の再臨を考えない一般の人にとって、「平和だ。安全だ。」といっているときに突如として滅びが襲いかかります。妊婦が出産近くまではごく変わりない生活ですが、陣痛が突然やってくる。しかも、再臨を考えないので、人生全体が暗やみに閉ざされ(4)、酒に紛らわせて苦しみを逃れるべく酔う(7)のです。
 私たちは、第一に再臨は絶対に確実であること、第二に突如として来るのでいつもここに望みをおいて生きられること、第三に救いに予定されていること(9)をしっかりと自分のものにしなければなりません。
 こうして、目覚めているときでも眠っているときでも、主と共に生きることになる。地上の歩みも、天にあげられし後も同じ生き方です。これが光の子供の生き方です。
 Ⅰテサロニケの手紙の最後のテキストは、1節としておろそかに出来ない教えがちりばめられ、きょうの主題を、どこを主たるみことばにしてよいのか迷ってしまうほどである。
 きょうは16節の、有名な聖句に目をとめて全体について考えて見よう。この常に喜ぶ生き方は主にあって、神様があなた(あなたがたというけれども)に直接的に望まれた歩みです。喜べという勧めはいろいろの機会に出会うけれども、「いつも」となると困ってしまう。人間的に喜べることもたくさんあるけれども、どんな時にも、と求められると、実際に立ち往生してしまう。いつも喜べるのだろうか。気分爽快な日だけでなく、ずぶぬれになって泣きながら家に飛び込む日だってあるのです。でも、この句はいつもあなたの前に立ち続けている。石碑なら、立ち去ればすむかも知れない。でも今日一日もこの句が常に、心に叩いて離れない。
 23~25節に、その『いつも』という課題にそえるための秘密が隠されているように思う。平和の神がそのことを完全にしてくださるのです。祈りによって出来るのです。