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2011年11月27日 (日)

主題 <どのように歩んで神を喜ばせるか>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一4章(2011年11月30日)

今日のみことば「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」 (1)

私たちは、神を大いに喜ばせることができるのです。私たちの歩みによって神さまを微笑ませられるのです。神さまが満足なさるのです。
いったい、そういうことを本気で考えたことがあったでしょうか。いつもびくびくと神様に叱られはしないかと恐れてこなかったでしょうか。
どんな生き方が神を喜ばせるでしょう。 第1に、聖い生き方です。(3~8節) 聖い生き方とは、神様のために自分を捧げるのです。むずかしいことではありません。神を知らぬ異邦人には難しく、いや不可能です。でもあなたは、神を知り、救われているので、自分を思いきって「神さま、私を使ってください。」と祈ってください。不思議に罪の力から自由になるのです。
第2に、兄弟愛の生き方です(9~10節) 互いに愛し合うことは、人からでなく神から学ぶのです。(マタイ22章)
第3に、落ち着いた生活です(11~12節) パウロはキリスト者としての仕事への取り組み方について、一般の人へのあかし、自分の生活のため労働を重んじたのです。
 神を喜ばせる生き方は、パウロから学び(1)、神から学ぶ(9)。具体的なことをこの箇所からじっくり考えて見よう。
<祈り>主よ。このような者を滅びの中から救い出して、神様を喜ばせるよ うに召してくださったことを深く感謝します。

主題 <あなたがたと私>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一3章(2011年11月29日)

今日のみことば「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。」(6)

 人は交わりによって育てられる。健やかな交わりは健やかな人を造り上げる。病む交わりは、病む人を育て上げる。健康的な交わりを学ぼう。
 キリストの信仰によって強められ、励まされる(2節)なら、大きな動揺があっても動かない(3節)のです。
キリスト者にとって師でもあるパウロ先生の苦難は大きなつまずきの材料であったろう。そのために信じていた人々の中に、信仰の後退があるのではないのかとものすごく心配したのです。 できるかぎり信仰の成長のために、信仰の不足を補いたいと切に願ってさえいたパウロの心配は牧者の心です。
 それですから、愛弟子テモテを遣わした結果、教会の人たちの信仰と愛が以前より増している姿を見て、何と言っているでしょうか(7~10節)。 あのパウロ先生さえ心配でたまらぬことがあり、信者の揺るがない歩みに小躍りしている姿を見るときに、人は交わりによって生きるのだなと思う。
あなたの今の信仰の歩みは、あなた一人の人生では決してない。今もあなたのために祈っている人がここにいるのですから。
<祈り>天の父なる神さま。主にあるあの兄弟の信仰の不足がありますなら、なんとかして熱心に補いたいと祈ります。私を愛の教会の交わりに常にとどまらせてください。ア-メン 

主題 <母がその子を養い育てるように>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一2章(2011年11月28日)

今日のみことば「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」(7)
 偉大な使徒パウロがテサロニケに福音を宣教し、素晴らしい教会を生み出し(使徒17章)、育ててきた事実と動機と方法を語ります。
 福音の事実と福音に根ざした動機と福音による方法を思い出して、牧師と信徒の強いつながり改めて再確認し、信仰の中心を見失うことないように勧めるのである。私たちは当初の信仰をしばしば見失って、周辺のことに心を奪われやすいのです。
 このようにして、パウロは牧者と信徒の中に見られやすい困難を見事に克服している。多少ギクシャクした問題や関係の中から、かえって本来のキリスト教会の原点を見据えるように導き、これから語ろうとする大切なメッセージを明らかにし、それが捨てられてしまわぬようにと配慮したのです。
 6節には「使徒として権威を主張することもできたのですが」と、ちゃんと自分がどういう者か明らかにする。そのような権威を使徒としての立場で押し付けずに、母がその子を養育し、自分のいのちまでも与えたいほどの愛を注いできたのです。父が自分の子に対するような教育の仕方のように、教会員を育て上げていったのです。
 この働きの動機さえ神様がご存じであるという。神様の栄光のために費やされる努力、愛、涙、祈り、牧会、何という崇高なのであろうか。そして伝道と牧会と祈りが、少しも妨げとならず、祝福を分け合うのです。
 パウロがテサロニケの信者たちをどんなに喜び、たえず感謝していることか(13節)。15節は「神に喜ばれず」にいる人について語る。一方、誉れともなり、喜びとなる(19、20節)ように分けるものは何だろう。13節にその答えがある。
 パウロのメッセ-ジを聞いたとき、人間の言葉として聞かなかった事です。第2は、「事実どおりに神の言葉として受け入れてくれたからです。」という。なぜか。1つはパウロを受け入れたゆえです。パウロを受け入れることは神を受け入れることに通じる。2つ目は、神の使信を受け入れてゆくので、神の恵みの働きが生活の中に実を結んできているのです。人から語られているみことばが、神の言葉として受け入れられる。人の心の柔らかさ、敬虔さ、信仰深さこそ喜ばれるカギなのである。

2011年11月23日 (水)

主題 <信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐> 

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一 1章(2011年11月27日)

今日のみことば

 テサロニケ前書は、キリストの使徒パウロの初めて書き残された書簡であるとともに、新約聖書の最初の書物である。この書は、パウロが第二次伝道旅行で生み出されたテサロニケの教会に、ギリシャのコリントへ行ってから幾つかの問題を耳にして書いた手紙です。
 一つはキリストの再臨が近いので働かなくていい(4~11)とか、死んだ者は再臨にあずかれないので悲嘆にくれている人(4章13~)などへの解答も与えている。
 初めてテサロニケに行き伝道したのは、言葉だけによったのではない(5節)のであり、力と聖霊と強い確信によってなされたと語る。そして、福音を証しするのにどのようにふるまったことがよく覚えられていた。こうした中ではっきりと主を受け入れた教会員たちは内側から変えられ、その素晴らしい証しはヨ-ロッパの東部に響き渡ったのです。
 それゆえに、異邦人が神を信じたので、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐の素晴らしい3つの実を結んだのです。
信仰は、働くことで実を結び、眠ってしまうと枯れてしまう。
愛は、心のうちにしまっておくのではなく、労苦を伴ってはじめて意味があるのです。望みは、現実の状況の中で押しつぶされないで、忍耐して結実を待つのです。
 私たちの内なる実はどうでしょうか。
<祈り>主よ。あなたを信じて以来、実を結び広がり続けるキリスト者にしてください。ア-メン。

主題 <祈り支え合う交わり>

聖書箇所 コロサイ人への手紙 4章(2011年11月26日)

今日のみことば「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(2)

パウロはコロサイ教会の信徒たちにこの手紙を終えるにあたり、祈りの要請をしています。それはパウロ自身が祈りをもって宣教活動にあたっていた中で、最も重要なことであることを自らの経験としても学び、それをコロサイ教会の人々にも同様に教え勧めるたのでした。
 5節「機会を十分に生かして用いなさい」との勧めを今日の私たちもしっかり受け止めていきたいと思います。これは文字通り、与えられている時間、チャンスをいつどのような時にも無駄にすることなく用いるようにという勧めです。このことを福音宣教の拡大のために祈って欲しいという文脈の中で語られています。祈りから始まり、私たちの振る舞い、行動のともなった証しを用いて今日も福音は伝えられていくことを覚えていきたいと思います。
コロサイ人への手紙の最後のパウロのあいさつの部分では、投獄されているパウロをはじめ、共に労している同僚者などの消息の情報を交換しています。パウロは自分の消息を伝えるためにテキコを派遣しています。伝達者を通して大きな励ましをえるために派遣しました。アリスタルコ(10)はパウロと共に投獄されていたテサロニケ人でしたが、彼がコロサイ教会の信徒たちに挨拶をおくっています。このことは人種の越えて、主にある交わりが大きな励ましになることを示しているととらえることができると思います。
今、私たちも、海外に遣わされている宣教師をはじめ、人種を越えて福音が伝えられ、働きがなされている中に、いくつかの祈祷課題があるのを覚えます。今日、私たちも祈りの課題を共有し、情報交換が継続されていく中で、広く交わりを深め、支え合うことが出来るように祈っていきたいと思います。

主題 <新しい人として生きる> 

聖書箇所 コロサイ人への手紙 3章(2011年11月25日)

今日のみことば「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至らせるのです。」(10)

 3章1~4節では、キリストにある者に与えられる新しい人生の目的について語られています。私たちは、地上にありながら天に属する者として、神の栄光を待ち望む者として歩んでいくように勧められています。そのために必要なのが、古い人を捨てること、かつての悪しき習慣、価値観を捨てて、罪を悔い改めて(3:5~9)、新しい人を着る、つまりはキリストにあって神のかたちにふさわしく整えられていくことを求めていく歩みをしていくこと、キリストにあってきよめられていく歩みをしていくように勧めました。(ローマ6:11~12、7:6など参照)。
さらに、パウロはキリストにあって歩む新しい人の歩みの特徴について語りました。第一に、新しい人の交わりは人種、地位による区別、差別のない交わりでなくてはならないことを教えました。人間が中心の交わりは他との比較に終始しやすいのですが、キリスト、神を中心とした交わりは神が愛された人という視点をもった交わりとなります。第二に、豊かな品性と赦し合い受け入れあう交わりでなくてはならないことを教えました。キリストのうちに見られた品性と十字架にて表された姿に学ぶことから始めていくように示されました。第三に、新しい戒めとして愛を中心とした交わりとなるように勧めました。すべてのことにおいて愛にまさることはないことを覚え、私たちの交わりも豊かなものとなるように祈っていきたいと思います。
最後に、15~17節にて、パウロは神を礼拝するという歩みという視点から教えています。第一に、キリストの平和が心を支配するように勧めています。この平和は積極的な意味で求められ、あらゆる場合に平和を持続していくことを言っており、これは礼拝者の土台であることを教えています。第二にキリストのことばを心に住まわせるように勧めています。絶えずみことばに聞き、そのみことばが心の内にとどまるように、聖霊の働きの中で導かれていく重要性を教えています。第三に、キリストの御名によって行うように勧めています。交わり、祈りなど何事においても主の御名によって交わりを築き、御名によって祈るということの重要性を教えています。私たちが主を礼拝するにふさわしく整えられていけるように祈りましょう。

主題 <本体はキリスト>

聖書箇所 コロサイ人への手紙 2章(2011年11月24日)

今日のみことば「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(17)

 パウロはコロサイ教会の信徒たちに、今おかれている状況について知らせ、共に共有して欲しいと願っています。今日、身近にいる家族、友人など人と人が理解し合い、共有することが難しい時代であると言われています。まして、パウロは投獄され、離れたまだ直接に会うことのなかったコロサイ教会の信徒たちと豊かな交わりを築くことは困難なことと思われます。しかし、パウロは「霊においてはあなたがたといっしょにいて」(5)と言い、時と場所に制限されない交わりを持っていたと言えます。信仰者の交わりはこのような交わりでなくてはならないと思うのです。そして、この交わりはキリストにあってはじまり、その信仰に合って豊かなものとなります。今日の教会が霊的な交わりによって成長していけるように祈っていきたいと思います。
また、パウロはコロサイ教会の信徒たちに「だましごとの哲学」「この世に属する幼稚な教え」といった教えは、当時のヘレニズム文化の中にあったユダヤ教をさしており、はしばしば哲学と自称していました。パウロはこれらに注意を促しつつ、キリストにある者とされていることを強調して教えていきました。特に、「キリストの割礼」(11)と言って、キリストにあってバプテスマを受けたことの恵みを確認しました。バプテスマについて、十字架になぞられながら、罪に死に、神からの怒り、責めを無効にされることを確認するように教えました。
 さらに、コロサイ教会の信徒たちに影響を与えていた教えについてパウロは具体的に触れて警告を与えた。16節に言われていることは禁欲的な生活の勧めと律法主義的な敬虔への勧めであったと思われるが、これらはキリスト教信仰に付随して行うことがより信仰を完成へと導くと考えた教えでした。18節で言われていることは、キリスト教信仰以外に霊的な志向を持つことがより信仰深いと考えた教えであったことが伺えます。いずれもキリスト以外のものに寄り頼むという人間の価値観、この世の価値観に縛られていたことからくる教えであったことが分かります。パウロは信心深くあるということが、本来のキリストの福音からそれていってしまうという危険性を指摘したのでした。
私たちもこの世の価値観に捕われずキリストのみの信仰を全うしましょう。

主題 <主の福音のために奮闘する者に> 

聖書箇所 コロサイ人への手紙 1章(2011年11月23日)

今日のみことば「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」 (29)

 パウロは獄中からコロサイ教会の信徒たちのことを覚えてこの手紙を書きました。パウロ自身はコロサイ教会の人々に会っていないが、彼らについてエパフラス(7)やコリント教会のことを聞く機会があり(3~8)、パウロはコロサイ教会の信徒たちをキリスト者として評価(7~8)しています。
 そして、コロサイ教会の信徒たちが、さらに真の知識に満ち(9)、神の御心にかなうキリスト者として歩むよう(10)にととりなしの祈りをささげました。この、真の知識、神の御心にそうには、正しい福音の理解、みことばに学ぶことが必要でした。実は、コロサイ教会の信徒たちは間違った教えの脅威にさらされていく中で、福音の真理のことばにとどまり続けていく歩みをしていくところにその解決の鍵があることを教えました。
また、パウロはコロサイ教会の信徒たちに万物は御子イエス・キリストにあって成り立っているということを教えていきました。そして、「御子はそのからだである教会のかしらです。」(18)と言い、つまりは教会に集う一人一人はイエス・キリストに属していることを確認しています。また、キリストに属しているということは、キリストの十字架による罪の赦し、神との和解を得ているということであり、この救いの恵みを確認し、さらに信仰にあって歩むように勧めました。
パウロ自身は投獄されるという困難な状況にあることを訴えながら(コロサイ2:1)、それでも主の教会と福音の宣教のために日夜祈り、労していることをコロサイ教会の信徒たちに伝えています。そして、教会の建て上げのために奮闘していることをパウロは「キリストの苦しみの欠けたところを満たすために」(1:24)と表現しました。これは、キリストの十字架における御苦しみが不十分なので、人間の苦しみをもって補わなくてはならないということではない。パウロはキリストの十字架の贖いの御業は全うされたが、このキリストの十字架による救いを教会が宣教していく使命を負っており、その宣教と教会の形成のためにささげていく生涯にこそ大いなる祝福が備えられていることを伝えたのでした。
私たちも宣教の恵みを共に覚える者となり祈る者とならせて頂きましょう。

主題 <平和の神が共に> 

聖書箇所 ピリピ人への手紙 4章(2011年11月22日)

今日のみことば「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(9)

 平和の神がいつも私たちと共にいて下さる。なんという素晴らしい世界に生かされていることだろう。まことに社会の変化はめまぐるしく激しい。絶えず、災害や人間的な脅威にさらされています。
 パウロはキリストの福音を宣べ伝えた結果、投獄されました。しかし、どのような境遇にあっても、それが貧しい中にも、冨の中でも、卑屈にならず、高慢にならず、神の恵みをたたえつつ今日を生きよう。
 では、どのようにこの平和のうちに生きられるでしょうか。それは神のことばを語った神のしもべであるパウロから教えられたことに生きることなのです。
 神のことばを学ぶ時間がどれほど重要なことがわかるでしょう。
 神の使徒から受け取る恵みはどれほどでしょうか。聖餐(カリス)を恵みと聖書は教えます。
 神のことばを聞くことから信仰が始まり、完成された信仰に至るのです。
 神のことばが使徒の中に息づく姿をピリピの教会員は見たといいます。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
クリスチャンがいる所でも毎日、難しい問題の直面するものです(2-3節)。だからこそ、絶えず福音の光で見直して生きることが大事になってきます。

主題 <キリストのゆえに損と思うようになった> 

聖書箇所 ピリピ人への手紙 3章(2011年11月21日)

今日のみことば「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」(7)

 私たちは損をすることか得をすることに関心があります。何かの行動を起こそうとするときにとても敏感です。パウロも、かつては生涯をかけてクリスチャンを迫害することが絶対に得であると考えていました。しかし、イエス・キリストに出会ってから、まったく価値観が変ったのです。
 この大きな変化は、神を知り、永遠の世界を知って起こるのです。19節に、「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」と明瞭に記されています。
 信仰をせっかく志しながら、途中にある小さな障害物つまずき、永遠のすばらしい宝を捨てる人が何と多いことでしょうか。この地上の事柄に心を奪われてはなりません。この世の成功や金銭、名誉については神は必要なら与えられます。
 私たちのほんとうの『国籍は天にある』(21節)のですから、このことをしっかりと心に刻み、人生計算、人生設計、人生目標を日々に喜んで生きなくてはなりません。
 主イエス・キリストのすばらしさを知っているゆえに、この栄冠を受けることを信じて、上に召してくださったお方を喜ばせよう。