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2011年11月

2011年11月23日 (水)

主題 <本体はキリスト>

聖書箇所 コロサイ人への手紙 2章(2011年11月24日)

今日のみことば「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(17)

 パウロはコロサイ教会の信徒たちに、今おかれている状況について知らせ、共に共有して欲しいと願っています。今日、身近にいる家族、友人など人と人が理解し合い、共有することが難しい時代であると言われています。まして、パウロは投獄され、離れたまだ直接に会うことのなかったコロサイ教会の信徒たちと豊かな交わりを築くことは困難なことと思われます。しかし、パウロは「霊においてはあなたがたといっしょにいて」(5)と言い、時と場所に制限されない交わりを持っていたと言えます。信仰者の交わりはこのような交わりでなくてはならないと思うのです。そして、この交わりはキリストにあってはじまり、その信仰に合って豊かなものとなります。今日の教会が霊的な交わりによって成長していけるように祈っていきたいと思います。
また、パウロはコロサイ教会の信徒たちに「だましごとの哲学」「この世に属する幼稚な教え」といった教えは、当時のヘレニズム文化の中にあったユダヤ教をさしており、はしばしば哲学と自称していました。パウロはこれらに注意を促しつつ、キリストにある者とされていることを強調して教えていきました。特に、「キリストの割礼」(11)と言って、キリストにあってバプテスマを受けたことの恵みを確認しました。バプテスマについて、十字架になぞられながら、罪に死に、神からの怒り、責めを無効にされることを確認するように教えました。
 さらに、コロサイ教会の信徒たちに影響を与えていた教えについてパウロは具体的に触れて警告を与えた。16節に言われていることは禁欲的な生活の勧めと律法主義的な敬虔への勧めであったと思われるが、これらはキリスト教信仰に付随して行うことがより信仰を完成へと導くと考えた教えでした。18節で言われていることは、キリスト教信仰以外に霊的な志向を持つことがより信仰深いと考えた教えであったことが伺えます。いずれもキリスト以外のものに寄り頼むという人間の価値観、この世の価値観に縛られていたことからくる教えであったことが分かります。パウロは信心深くあるということが、本来のキリストの福音からそれていってしまうという危険性を指摘したのでした。
私たちもこの世の価値観に捕われずキリストのみの信仰を全うしましょう。

主題 <主の福音のために奮闘する者に> 

聖書箇所 コロサイ人への手紙 1章(2011年11月23日)

今日のみことば「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」 (29)

 パウロは獄中からコロサイ教会の信徒たちのことを覚えてこの手紙を書きました。パウロ自身はコロサイ教会の人々に会っていないが、彼らについてエパフラス(7)やコリント教会のことを聞く機会があり(3~8)、パウロはコロサイ教会の信徒たちをキリスト者として評価(7~8)しています。
 そして、コロサイ教会の信徒たちが、さらに真の知識に満ち(9)、神の御心にかなうキリスト者として歩むよう(10)にととりなしの祈りをささげました。この、真の知識、神の御心にそうには、正しい福音の理解、みことばに学ぶことが必要でした。実は、コロサイ教会の信徒たちは間違った教えの脅威にさらされていく中で、福音の真理のことばにとどまり続けていく歩みをしていくところにその解決の鍵があることを教えました。
また、パウロはコロサイ教会の信徒たちに万物は御子イエス・キリストにあって成り立っているということを教えていきました。そして、「御子はそのからだである教会のかしらです。」(18)と言い、つまりは教会に集う一人一人はイエス・キリストに属していることを確認しています。また、キリストに属しているということは、キリストの十字架による罪の赦し、神との和解を得ているということであり、この救いの恵みを確認し、さらに信仰にあって歩むように勧めました。
パウロ自身は投獄されるという困難な状況にあることを訴えながら(コロサイ2:1)、それでも主の教会と福音の宣教のために日夜祈り、労していることをコロサイ教会の信徒たちに伝えています。そして、教会の建て上げのために奮闘していることをパウロは「キリストの苦しみの欠けたところを満たすために」(1:24)と表現しました。これは、キリストの十字架における御苦しみが不十分なので、人間の苦しみをもって補わなくてはならないということではない。パウロはキリストの十字架の贖いの御業は全うされたが、このキリストの十字架による救いを教会が宣教していく使命を負っており、その宣教と教会の形成のためにささげていく生涯にこそ大いなる祝福が備えられていることを伝えたのでした。
私たちも宣教の恵みを共に覚える者となり祈る者とならせて頂きましょう。

主題 <平和の神が共に> 

聖書箇所 ピリピ人への手紙 4章(2011年11月22日)

今日のみことば「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(9)

 平和の神がいつも私たちと共にいて下さる。なんという素晴らしい世界に生かされていることだろう。まことに社会の変化はめまぐるしく激しい。絶えず、災害や人間的な脅威にさらされています。
 パウロはキリストの福音を宣べ伝えた結果、投獄されました。しかし、どのような境遇にあっても、それが貧しい中にも、冨の中でも、卑屈にならず、高慢にならず、神の恵みをたたえつつ今日を生きよう。
 では、どのようにこの平和のうちに生きられるでしょうか。それは神のことばを語った神のしもべであるパウロから教えられたことに生きることなのです。
 神のことばを学ぶ時間がどれほど重要なことがわかるでしょう。
 神の使徒から受け取る恵みはどれほどでしょうか。聖餐(カリス)を恵みと聖書は教えます。
 神のことばを聞くことから信仰が始まり、完成された信仰に至るのです。
 神のことばが使徒の中に息づく姿をピリピの教会員は見たといいます。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
クリスチャンがいる所でも毎日、難しい問題の直面するものです(2-3節)。だからこそ、絶えず福音の光で見直して生きることが大事になってきます。

主題 <キリストのゆえに損と思うようになった> 

聖書箇所 ピリピ人への手紙 3章(2011年11月21日)

今日のみことば「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」(7)

 私たちは損をすることか得をすることに関心があります。何かの行動を起こそうとするときにとても敏感です。パウロも、かつては生涯をかけてクリスチャンを迫害することが絶対に得であると考えていました。しかし、イエス・キリストに出会ってから、まったく価値観が変ったのです。
 この大きな変化は、神を知り、永遠の世界を知って起こるのです。19節に、「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」と明瞭に記されています。
 信仰をせっかく志しながら、途中にある小さな障害物つまずき、永遠のすばらしい宝を捨てる人が何と多いことでしょうか。この地上の事柄に心を奪われてはなりません。この世の成功や金銭、名誉については神は必要なら与えられます。
 私たちのほんとうの『国籍は天にある』(21節)のですから、このことをしっかりと心に刻み、人生計算、人生設計、人生目標を日々に喜んで生きなくてはなりません。
 主イエス・キリストのすばらしさを知っているゆえに、この栄冠を受けることを信じて、上に召してくださったお方を喜ばせよう。

主題 <志を立てさせ、事を行なわせてくださる> 

聖書箇所 ピリピ人への手紙 2章 (2011年11月20日)

今日のみことば「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(13)
 私たちの信仰の究極の目標は、主イエス・キリストです。
そこで、日々の目標は、このキリストに似る生活を志しましょう。そこに、キリストの励ましと愛と御霊の交わりがあるときに、一致をすることが出来るのです。
 何事でも自己中心や虚栄からするのではなく、遜る生活です。そして周囲の人々が自分よりも優れた存在だと心から認めて生きるのです。
 なんと、この姿勢は主なるイエス・キリストの姿勢であり、徹底して仕える生活をされたからです。その徹底さには、ほんとうに驚かされてしまいます。十字架の死にまでも従い抜かれたのです。
 この徹底した謙遜ないやしくされる生き方を神は高く、いや高く称賛されているのです。
この信仰を生活の志として徹底するのです。そして神はこの志を行わせてくださるのです。
 特に、自分自身の救いの達成に努力すると教えます。救いは自分の努力して行うものではないのですが、日々に成長する霊的な輝きを現わさなければなりません。こうしてどの時代の人々に見られても、曲がった時代の中でも、傷のない神の子どもらしくなり、世の光として輝くのです。
 こうして福音のためにいのちをかける聖徒たちの中に、エパフロデトがいます。彼がこの素晴らしい書簡を携えて教会へ届けたのです。
 主にあって労した事柄は、決して無駄になることはなく、暗い時代、罪の時代にあって、神の志に生きる聖徒を捜しています。今日は、一つの決心をし、主の召された使命に全力を尽くそうではないですか。

主題 <キリストのすばらしさが現わされることを求める>

聖書箇所 ピリピ人への手紙 1章 (2011年11月19日)

今日のみことば「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」(20)

 ピリピ人への手紙は、使徒パウロが獄中からピリピ教会へ送った書簡です(1;12-18)。福音宣教に生涯をかけたパウロは、「いつも喜んでいなさい」と獄中から励ましています。その秘訣は「主にあって」なのです。
私の人生のすべては、キリストのすばらしさが現わされさえすれば、十分であり、感謝であり、結局は、御国の完成にまで導いてくださるのだと確信します。
ですから今、置かれている獄中生活が、周囲に与えている影響を考えています。事実、パウロをこの時とばかりに使徒を否定し、拒否する教会員がいたのです。ところがこのことでさえ、キリストが宣べ伝えられるので、感謝にあふれるのです。
どういう場合であっても、大胆に福音に生きることは主の喜ばれることです。目先の事柄に心を奪われないように大胆に、
しかし、19節にあるように、互いのクリスチャンの奉仕と支え、祈りの援護が必要なのです。こうして一人パウロのみが聖徒になるのではなく、互いの祈りが聖徒を作り上げるのです。
パウロは、私の身によってキリストがあがめられること、キリストが知られることこそを切に願っているのです。私たちの日々の願望は何だったでしょうか。人と比較して優位に立つことや欲望を満足させることに終始してはいなかったでしょうか。
キリストの福音にふさわしい生活とはまさにこのスピリットなのです。

主題 <主に仕えるように> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 6章 (2011年11月18日)

今日のみことば「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」(6)

 六章前半では、親子関係と奴隷と主人の関係が扱われている。
 パウロは「子どもたちよ」と呼びかけている。この手紙は、多くの教会宛ての手紙と同様に、教会の中で朗読されたようである。子どもたちも、すでに礼拝や交わりの中で、その手紙を聞く者としてそこにいたということが伺える。また、それは同時に親子関係を考えて行くときに、主の教会にある交わり、神の御前にあって神の家族としての交わりにあって親子関係を考えていくことが重要であることを示しているようにも思う。
子どもたちに、「主にあって両親に従いなさい。」(1)と勧められました。「主にあって」とは、キリストに対して求められるような従順を求めているのである。
 次に、父への呼びかけが続いている。「子どもをおこらせてはいけません。」(4)とは、甘やかすこととは違う。パウロは、子どもたちが落ち着いた心で、主の教えに耳を傾けることができるように、父親は心を配ることが大切だと語っている。
最後にパウロは、奴隷とその主人の関係に言及している。当時の社会では、奴隷は社会の最下層の存在であり、主人は奴隷を生かすも殺すも自由にできた。しかしパウロは、奴隷の身分にあるキリスト者に対して慰めのことばを語るよりも、「キリストに従うように」(5)、「キリストのしもべとして、心から」(6)、「人にではなく、主に仕えるように」(7)、主人に従いなさいと命じている。
 主人に対する命令は、「奴隷に対して同じようにふるまいなさい」というものであった(9)。パウロは奴隷制度を否定しませんでした。しかし、「奴隷に対して同じようにふるまう。」(9)ということは、一人の人間として同等に、同じ様に関わりあうことを勧めているということは、単なる主人と奴隷と言う関係を無力な関係にしようとしていたともとれる。
いずれにしても、主にあることから、親子関係、主人と奴隷の関係を考えていく視点があったことが良く分かるのである。
今日、私たちも主にあって仕えるように、それはキリストのうちにみられた姿であり模範であったことを覚えて、良き関係を築き上げていくことが出来るように祈ろう。

主題 <夫たちよ。妻たちよ。>

聖書箇所 エペソ人への手紙 5章 (2011年11月17日)

今日のみことば「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」(33)

 パウロは5章22節から6章9節で、キリスト者の社会での在り方について指導し、特に、人間関係について言及しました。この点に焦点を絞って2日間にわたって見ていきたいと思う。
まず、はじめに夫婦の在り方について言われている。夫婦関係が人間関係の基礎となるものだからであるとパウロは指摘していると思われる。
妻に対しては、「主に従うように」(22)夫への従順が求められる。パウロはその根拠として、「夫は妻のかしらであるから」と言っている(23)。しかし、ここで注目しておくべきことはこの命令は、「キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように」と補うように言われており(23)、このことは頭なるキリストと夫になぞられ、夫の側の大きな責任がまずあることを示している。
パウロは、夫たちに呼びかけて、キリストが教会を愛し、ご自身をささげられたように(25)、また、自分自身のからだのように(28)、妻を愛するようにと命じている。
キリストが教会を愛された目的は「教会をきよめて聖なるものとするためであり……教会を、ご自分の前に立たせるため」と言われている(26、27)。夫が妻を愛する目的も同様に、妻がきよめられ、妻を神の御前に立たせることにあることが分かる。しかし、妻だけが一方的にきよめられ、成長していくということではなく、夫が妻を愛するという日々の歩みということから考えるならば、夫と妻が共に主の御前に成長していくことが求められているということであると言えよう。そして、夫の妻への愛の模範として、キリストの教会への愛が挙げられている。そして、「自分のからだのように」という点は、妻に対する身体的にも精神的にも、その状態を知り、その最善を願うことを含んで愛することを勧めていると言える。
このようなキリストと教会との関係と愛になぞって、夫婦関係が豊かに築かれていくことが、結果として、このように対しても証しとなり、ついには神に栄光を帰していくものとなることを教えられたのでした。夫婦関係を見直す時にこそキリストのことばに聞き続けていくことが大切である。

主題 <一致を求めて> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 4章 (2011年11月16日)

今日のみことば「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」 (16)

 パウロは、4章以降においては、教会の具体的な歩みについて教えられました。
 パウロは、召しにふさわしく歩むように勧められました(1)。その召しにふさわしい歩みとして、一致の重要性について教えられました。主の十字架によって、ユダヤ人と異邦人が一つにされた今、異邦人である彼らの間に分裂やいさかいがなく、一致することを勧めました。
今日も互いに一致するということは難しいことが多々ある。家族、友人という身近な関係のうちに、少人数ならまだしも、人が多くなれば一致することが難しいことがある。それは、人間的な価値観、考え方で一致を見ようとするならば、難しいばかりなのである。そして、人の世は一致より混乱を極めているとしか言いようもない状況があるのではないだろか。
確かに、パウロは教会の中に一致するという課題があり、教会に集人々の多様性について語る。そして、それぞれの賜物、働き、使命には異なるものがるが(7~11)、これらの違いは教会を建て上げていく上で必要な違いであり、これらの違いこそがむしろキリストの和解の恵みの豊かさを、教会の交わりの豊かさを示すものとして、積極的に一致に向かうように勧めました。からだ、御霊、そして召しのもたらした望み。また主、信仰、そしてバプテスマ。そして父なる神。キリストのからだである教会。バプテスマは、唯一の救いに対する信仰の告白である。これら列挙されていることがらは、今後一致が期待されているものというのではなく、神の約束のゆえに、すでにひとつとされているものであることを確認するように言いました。
 それぞれの働きや使命は異なるが、その目的はキリストのからだとして、そのみわざを十二分に現すことにあることを教えられました。これらの違うを結び合わせる結び目が必要であること。それは愛によって建て上げられていく必要があることを教えられました。
 私たちも主の教会の建て上げのために一致して祈りましょう。

主題 <共に約束にあずかる者として> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 3章(2011年11月15日)

今日のみことば「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6)

 パウロは、当時、彼はとらわれの身でした。パウロは自らを「あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」と言っている(1)。それは、異邦人に福音を宣べ伝えることこそが、自分の使命であることを、言い表したものである。以前、彼がキリスト者たちを迫害していた頃ならば、決して思いもしなかったことであろうが、その使命を啓示によって知らされた(3)。それは、ダマスコ途上での復活の主との出会いに始まる(使徒9章参照)、神の特別な扱いを指している。
 神の救いのご計画はイスラエルに留まるのではなく、異邦人も、ともに約束にあずかる共同相続人になるとパウロは理解している(6)。パウロがこの福音に仕える者とされた根拠は、彼自身の内の何かによるのではなく、「神の力の働き」と「神の恵みの賜物」であるという(7)。そこには自分の努力や血統による誇りなどはなく、ただ、「すべての聖徒たちで一番小さな私」が(8)、「神の永遠のご計画」に沿ったものであり、このために召されたという確信をもって仕えていることを感謝しつつ告白していました。
パウロが牢獄に入っていることは、エペソの人々を落胆させるものであったようであるが(13)、しかしパウロは、投獄されていることがむしろ神の栄光をあわらしていくことになると希望をもって、エペソの教会の人々をも励ましたのでした。
14~21節は、パウロの祈りであり、この祈りはパウロのおかれている状況からの訴えでもあり、エペソの教会の人々に対するとりなしの祈りでもありました。その中心的な祈りは、神の御力によって強め、主の素晴らしを理解する力が増され、なお一層に主に栄光を帰していくことが出来るようにと言う祈りでした。
現代にあって、私たちはパウロの福音理解に立って、教会の宣教の在り方を改めて確認していきたいと思う。また、パウロはこの福音のために、それまでのキャリアーに執着するのではなく、一人の仕え人として召され、この福音宣教に従事していたパウロの謙虚さにも学ぶものでありたい。